『イニシエーション・ラブ』 きっちり褒めよう
【ネタバレ注意】
これはきちんと褒めないといけないな。映画『イニシエーション・ラブ』を観てそう思った。
宣伝に煽られて映画を観に行くと、拍子抜けすることや失望することがある。
この映画も、
最後の5分
全てが覆る。
あなたは必ず
2回観る。
なんて惹句で煽り立てているけれど、宣伝と作品の中身は別物だ。2回観なくたって構わない。
この映画が何を仕掛けて何を実現したか、それを考えたとき、これは褒めるべき映画だと思った。
コロンブスの卵の逸話がある。知ってしまえば「なーんだ」と思うことも、知ったから云えるのであって、最初にやってみせるのは難しいという話だ。
ミステリ小説ならアガサ・クリスティの『アクロイド殺害事件』やエラリー・クイーンの『Yの悲劇』。いずれもミステリの名作とされるが、いま初めて読む人がどれほど衝撃を受けるかは判らない。先人の成果を踏まえた数多の作品が世に送り出されているから、当の作品は読んでいなくても、その発展型となる作品でエッセンスを味わってしまったかもしれない。あるいは時代の変遷が、当時は衝撃だったことを今の常識にしているかもしれない。
けれども、それをもってして名作と称えられる栄誉が損なわれるものではないだろう。前例のない中で、その時代にその作品を世に送り出す。これを難しくないと感じるのなら、それは後知恵というものだ。
同様に『イニシエーション・ラブ』も高く評価されるべき作品だ。
映像化不可能といわれた原作小説を不可能たらしめている肝の部分を改変せずに映像化した。これはたいしたものである。
映像化が不可能といわれたのは、原作が小説ならではの特性に依存しているからだ。
映画と小説の大きな違いは、映像の有無である。対象を視覚で認識できるかどうかだ。
小説には視覚的な情報がないから、作者は文章を用いて読者の頭の中にイメージを作り出さねばならない。たとえばヒロインが美女であることを伝えるために、ある作家は鼻すじが通っていることや目がパッチリしていること等を細かく描写するかもしれない。別の作家はヒロインの雰囲気や仕草を描写することで、読者に美しいイメージを喚起するかもしれない。また別の作家は他の登場人物のセリフを借りてヒロインの美しさを伝えるかもしれない。
いずれにしろ作家なりの工夫を凝らす必要があるが、映画であれば話は早い。美しい女優を起用して、観客に見せればいいのだから。もちろん、女優の美しさを引き出す監督の演出力、美しさが映える照明技術、美しく撮る撮影技術等々が要求されるが、ちゃんと見せればヒロインの美しさは一瞬で観客に伝わる。
しかも、小説は一人称でも三人称でも書けるのに、映画は基本的に三人称だ。映画というメディアがスクリーンに映る役者を客席から眺める形式である以上、観客は小説の読者ほどには主人公と一体になれない(主観映像で構成されたPOV(Point of View Shot)方式の作品もあるにはあるが、全編この方式で通すとかなり特殊な印象を与えるので、あまり幅広く用いられてはいない)。
このような小説と映画の違いは、それぞれ異なる面白さを提供してくれる。
優れた作品であればあるほど小説ならでは、映画ならではの面白さが研ぎ澄まされ、代替不能になっていく。
「映像化不可能」という言葉は、ときに映画にするには大予算を要するとか、現在の映像技術では真に迫った映像を見せられない場合にも使われるが、そんな課題はいずれ時間とカネが解決する。本当に「映像化不可能」な小説とは、核心的アイデアが小説の特性――視覚で認識できないことや一人称で進行すること等――を活かしたものなのだ。
特にミステリ小説には、読者が視覚で認識できないことを逆手にとった傑作が多い。犯人の姿形を見せなくて済む小説は、ミステリに向いているのだろう。
かつて綾辻行人氏の許に『十角館の殺人』の映像化の申し入れがあったという。綾辻氏は許可したものの、どうやって映像化するのか不思議に思っていたところ、案の定この企画は流れてしまったそうだ。
本作の原作小説も、まさに小説ならではの優れたアイデアに支えられている。映像化不可能、誰もがそう感じたに違いない。
にもかかわらず、そのアイデアを*そのまま*映画で実現したのだから、映画『イニシエーション・ラブ』は途方もない作品だ。私は寡聞にして同じアイデアを採用した映画を知らない。
原作者乾くるみ氏は、発表した小説が映像化不可能と云われる中で、映画ならではの実現方法を考えていた。公式サイトに氏の言葉が紹介されている。
---
仕掛けの性質上、実写での映像化は無理だろうと発表当時は言われたものですが、わたしには映画化可能なアイデアがありました。これは早いもの勝ちのアイデアなのでぜひ実現させてほしいと思っていたことを、今回の映画化にあたって提案し、部分的に採用していただきました。
小説とはまた違った形で、映画には映画の文法というのがあります。そのお約束を逆手に取って、どんでん返しを成立させてこそ、この原作を映像化する意味があるというものです。(略)映画ならではの騙しのテクニックを用いた先駆的作品として、映画史に残るのではないかと自負しております。
---
観客の中には、映画の途中で仕掛けに気づいた人がいるかもしれない。
だが、気づいたからといって映画の価値が減じるものではない。それは判りやすさのチューニングの問題だ。
小説ならページをめくって気になる箇所に戻れるが、映画は結末に向けて一方的に進行してしまう。だから映画は小説以上にヒントを露骨に提示し、印象に残るようにしなければならない。本作も大衆向けの商業映画として申し分ないようにチューニングされているから、劇中にはヒントが露骨に散りばめられている。途中で気づく人が出るのは承知の上だろう。
加えて最後にはすべてを説明する「おさらいタイム」まである。これも、受け手が前の描写に戻って確かめられない映画だからこその配慮だ。
このように親切に判りやすくチューニングしなければ、多くの観客が置いてけぼりを食ってしまったに違いない。
小説ではここまでする必要はないだろうが、映画だからやらねばならない。ここにも小説と映画の違いを乗り越えるための工夫がある。
今後、同様の映画が作られたとしても、本作の先駆的作品としての地位が揺らぐことはないだろう。
『イニシエーション・ラブ』 [あ行]
監督/堤幸彦
出演/森田甘路(かんろ) 松田翔太 前田敦子 木村文乃 三浦貴大 前野朋哉 森岡龍 山西惇 木梨憲武 片岡鶴太郎 手塚理美
日本公開/2015年5月23日
ジャンル/[ロマンス] [ミステリー]
これはきちんと褒めないといけないな。映画『イニシエーション・ラブ』を観てそう思った。
宣伝に煽られて映画を観に行くと、拍子抜けすることや失望することがある。
この映画も、
最後の5分
全てが覆る。
あなたは必ず
2回観る。
なんて惹句で煽り立てているけれど、宣伝と作品の中身は別物だ。2回観なくたって構わない。
この映画が何を仕掛けて何を実現したか、それを考えたとき、これは褒めるべき映画だと思った。
コロンブスの卵の逸話がある。知ってしまえば「なーんだ」と思うことも、知ったから云えるのであって、最初にやってみせるのは難しいという話だ。
ミステリ小説ならアガサ・クリスティの『アクロイド殺害事件』やエラリー・クイーンの『Yの悲劇』。いずれもミステリの名作とされるが、いま初めて読む人がどれほど衝撃を受けるかは判らない。先人の成果を踏まえた数多の作品が世に送り出されているから、当の作品は読んでいなくても、その発展型となる作品でエッセンスを味わってしまったかもしれない。あるいは時代の変遷が、当時は衝撃だったことを今の常識にしているかもしれない。
けれども、それをもってして名作と称えられる栄誉が損なわれるものではないだろう。前例のない中で、その時代にその作品を世に送り出す。これを難しくないと感じるのなら、それは後知恵というものだ。
同様に『イニシエーション・ラブ』も高く評価されるべき作品だ。
映像化不可能といわれた原作小説を不可能たらしめている肝の部分を改変せずに映像化した。これはたいしたものである。
映像化が不可能といわれたのは、原作が小説ならではの特性に依存しているからだ。
映画と小説の大きな違いは、映像の有無である。対象を視覚で認識できるかどうかだ。
小説には視覚的な情報がないから、作者は文章を用いて読者の頭の中にイメージを作り出さねばならない。たとえばヒロインが美女であることを伝えるために、ある作家は鼻すじが通っていることや目がパッチリしていること等を細かく描写するかもしれない。別の作家はヒロインの雰囲気や仕草を描写することで、読者に美しいイメージを喚起するかもしれない。また別の作家は他の登場人物のセリフを借りてヒロインの美しさを伝えるかもしれない。
いずれにしろ作家なりの工夫を凝らす必要があるが、映画であれば話は早い。美しい女優を起用して、観客に見せればいいのだから。もちろん、女優の美しさを引き出す監督の演出力、美しさが映える照明技術、美しく撮る撮影技術等々が要求されるが、ちゃんと見せればヒロインの美しさは一瞬で観客に伝わる。
しかも、小説は一人称でも三人称でも書けるのに、映画は基本的に三人称だ。映画というメディアがスクリーンに映る役者を客席から眺める形式である以上、観客は小説の読者ほどには主人公と一体になれない(主観映像で構成されたPOV(Point of View Shot)方式の作品もあるにはあるが、全編この方式で通すとかなり特殊な印象を与えるので、あまり幅広く用いられてはいない)。
このような小説と映画の違いは、それぞれ異なる面白さを提供してくれる。
優れた作品であればあるほど小説ならでは、映画ならではの面白さが研ぎ澄まされ、代替不能になっていく。
「映像化不可能」という言葉は、ときに映画にするには大予算を要するとか、現在の映像技術では真に迫った映像を見せられない場合にも使われるが、そんな課題はいずれ時間とカネが解決する。本当に「映像化不可能」な小説とは、核心的アイデアが小説の特性――視覚で認識できないことや一人称で進行すること等――を活かしたものなのだ。
特にミステリ小説には、読者が視覚で認識できないことを逆手にとった傑作が多い。犯人の姿形を見せなくて済む小説は、ミステリに向いているのだろう。
かつて綾辻行人氏の許に『十角館の殺人』の映像化の申し入れがあったという。綾辻氏は許可したものの、どうやって映像化するのか不思議に思っていたところ、案の定この企画は流れてしまったそうだ。
本作の原作小説も、まさに小説ならではの優れたアイデアに支えられている。映像化不可能、誰もがそう感じたに違いない。
にもかかわらず、そのアイデアを*そのまま*映画で実現したのだから、映画『イニシエーション・ラブ』は途方もない作品だ。私は寡聞にして同じアイデアを採用した映画を知らない。
原作者乾くるみ氏は、発表した小説が映像化不可能と云われる中で、映画ならではの実現方法を考えていた。公式サイトに氏の言葉が紹介されている。
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仕掛けの性質上、実写での映像化は無理だろうと発表当時は言われたものですが、わたしには映画化可能なアイデアがありました。これは早いもの勝ちのアイデアなのでぜひ実現させてほしいと思っていたことを、今回の映画化にあたって提案し、部分的に採用していただきました。
小説とはまた違った形で、映画には映画の文法というのがあります。そのお約束を逆手に取って、どんでん返しを成立させてこそ、この原作を映像化する意味があるというものです。(略)映画ならではの騙しのテクニックを用いた先駆的作品として、映画史に残るのではないかと自負しております。
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観客の中には、映画の途中で仕掛けに気づいた人がいるかもしれない。
だが、気づいたからといって映画の価値が減じるものではない。それは判りやすさのチューニングの問題だ。
小説ならページをめくって気になる箇所に戻れるが、映画は結末に向けて一方的に進行してしまう。だから映画は小説以上にヒントを露骨に提示し、印象に残るようにしなければならない。本作も大衆向けの商業映画として申し分ないようにチューニングされているから、劇中にはヒントが露骨に散りばめられている。途中で気づく人が出るのは承知の上だろう。
加えて最後にはすべてを説明する「おさらいタイム」まである。これも、受け手が前の描写に戻って確かめられない映画だからこその配慮だ。
このように親切に判りやすくチューニングしなければ、多くの観客が置いてけぼりを食ってしまったに違いない。
小説ではここまでする必要はないだろうが、映画だからやらねばならない。ここにも小説と映画の違いを乗り越えるための工夫がある。
今後、同様の映画が作られたとしても、本作の先駆的作品としての地位が揺らぐことはないだろう。
『イニシエーション・ラブ』 [あ行]
監督/堤幸彦
出演/森田甘路(かんろ) 松田翔太 前田敦子 木村文乃 三浦貴大 前野朋哉 森岡龍 山西惇 木梨憲武 片岡鶴太郎 手塚理美
日本公開/2015年5月23日
ジャンル/[ロマンス] [ミステリー]
【theme : ミステリー・サスペンス】
【genre : 映画】