『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』は二兎を追う

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) グッとくる題名だ。
 『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。原題は"Birdman: Or (The Unexpected Virtue of Ignorance)"。
 映画監督に限らない。創作に携わる人は誰もが「予期せぬ奇跡」を目指していよう。それをもたらすのが無知であることに気づいている人も多い。しかし、それはなかなか手に入らない。だからこそ奇跡なのだ。
 そんな創作にまつわる葛藤を見事に描写したのがこの映画だ。

 映画と演劇はまったく異なるものだが、敢えて比べるなら私は演劇の方がより魅力的に感じる。
 役者と観客が空間を共有できる演劇は格別だ。笑い声や拍手で観客の想いを伝えられるし、スタンディングオベーションで満足感を表明することもできる。そこは役者と観客で作り上げる特別な世界だ。生演奏や生出演で成り立つ舞台作品は、その場所に、その瞬間にしか存在しない。どんなにリハーサルを積んだとしても、はじめてみなければ何が起こるか判らない。同じものは二度と目撃できないのだ。映画にはない一体感と臨場感だ。

 本作の劇中、リンゼイ・ダンカン演じる演劇評論家が主人公の準備している芝居をぼろかすにこき下ろす。ハリウッドスターが脚色・演出・主演する舞台など、観なくても失敗作だと決めつける。
 本作は、こんなマゾヒスティックな場面でいっぱいだ。ハリウッドスターが作る舞台劇というシチュエーションを通して、映画と映画人を批判する。特に「無知がもたらす予期せぬ奇跡」の対極にあるハリウッドの娯楽映画を揶揄している。
 ピクサーのアニメーション映画が、幾つかの決まりごとに基づいているのはよく知られている。毎年様々な作品が生み出されているけれど、どれも一定のパターンをなぞっているのだ。本作がちらちら指し示すアメコミ原作のスーパーヒーロー映画も「無知がもたらす予期せぬ奇跡」とは正反対の、蓄積したノウハウに従い入念にマーケティングされたものである。

 これが芸術か?
 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は問いかける。
 そして演劇とは似て異なる、映画ならではの「予期せぬ奇跡」を起こそうと試みる。
 本作は観客にとって予期せぬものの連続だ。まるで一幕物の劇を思わせる、長回しのようなカメラワーク。VFXを駆使した、妄想と現実がないまぜのあり得ない光景。劇伴かと思いきや路上のドラマーが奏でている音楽。ここには、目を奪われ、心躍り、ニヤリとしてしまう楽しさが溢れている。

 多くの映画監督が「無知がもたらす予期せぬ奇跡」を起こす上で肝と考えるのがキャスティングだ。
 黒澤明監督は日米合作の超大作『トラ・トラ・トラ!』に「プロの俳優」を使うことを好まず、大量の素人をキャスティングした。どこかの演劇学校や他の監督の下で身に付けたメソッドだのノウハウだのを持ち込まれたくなかったのだろう。何百人もの人間に命令する司令官の役には、日頃から何百人もの人間に命令している会社社長を起用し、海軍軍人の役には元海軍軍人たちを起用した。みずから率いる集団の命運をかけて何百人もの人間に命令する経験など、職業俳優は持っていない。司令官役には、普段からそういうことをしている人間の態度、生き様を求めたのだ。

 黒澤明は語っている。
 「今度の映画は軍艦とか飛行機とか航空母艦とかが画面に主役で出てくる。だからそういうものの存在感に対応するような人間を使って、記録映画的な映像を作らなきゃならない。役者に芝居されちゃだめなんだ。出てきただけで山本五十六のような人、出てきただけで日本海軍の軍人のような人をキャスティングしないとだめだから、プロの役者を使わなかったんだ。」(『異説・黒沢明』)

 この黒澤の企みが、豪華キャストの『史上最大の作戦』の成功を再現するつもりだった20世紀フォックスに、スポンサー料欲しさに企業家に大役を提供したのだと受け取られたのは残念だ。
 『トラ・トラ・トラ!』が頓挫した以降も、黒澤明監督は無知がもたらす予期せぬ奇跡――手垢まみれの演技法に染まっていないからこそできる想定外の演技を求めた。『影武者』(1980年)のオーディションを告知する大々的な新聞広告は驚きだった。

 大々的なオーディションよりも巧い手を考えたのが大島渚監督だ。大島監督は、映画業界に近いところにいるのに俳優ではない人たちを起用した。『戦場のメリークリスマス』(1983年)では漫才師のビートたけし、ミュージシャンの坂本龍一、デヴィッド・ボウイらを起用し、遺作となった『御法度』(1999年)ではビートたけしに加えて漫才師のトミーズ雅、落語家の桂ざこば、映画監督の崔洋一、新人の松田龍平らを起用している。
 漫才師のビートたけしを起用するなんて話題性重視のキャスティングと思われたが、ビートたけしは『戦場のメリークリスマス』をきっかけに映画との関係を深め、「世界のキタノ」と称されるようになっていくのだから大島渚監督の慧眼には恐れ入る。

 コメディアンや映画監督は黒澤明監督も起用した。『まあだだよ』(1993年)の所ジョージ、『夢』(1990年)のマーティン・スコセッシは印象的だ。映画監督のマーティン・スコセッシがあてがわれたのは画家ゴッホの役であり、演技の巧拙よりも創作に情熱を傾ける態度や生き様そのものが重要だったのだろう。[*]

 アレハンドロ・ホドロフスキーが『DUNE』を撮るに当たって芸術家のサルバドール・ダリやロックミュージシャンのミック・ジャガーをキャスティングしたのも、演技の経験や巧拙なんてどうでもいいからだ。ホドロフスキーが求めたのは本物の存在感、本物の過激さだ。

 当ブログでたびたび黒澤明監督との共通点を指摘してきた宮崎駿監督も、「プロの演技」を敬遠する。
 私は「プロの声優」のテンションの高い作り声が苦手なのだが、「プロの声優」の起用が少ないスタジオジブリの作品は安心して観に行ける。
 けれども宮崎駿監督はさらに上を求める。「プロの声優」を起用しないだけでなく、できることなら「プロの役者」も起用しない。面白いことに『崖の上のポニョ』(2008年)で所ジョージを起用したり、『風立ちぬ』(2013年)で飛行機作りに情熱を傾ける主人公に映画監督の庵野秀明を起用したりと、黒澤明そっくりのキャスティングを行っている。黒澤映画と宮崎アニメの両方に主要キャストとして出演したのは、所ジョージさんぐらいではないだろうか。

 宮崎監督は、『ジブリの森とポニョの海 宮崎駿と「崖の上のポニョ」』所収のインタビューでこう述べている。
 「全部の登場人物をきちんとした役者で固めなきゃいけないとは思っていません。ぴったりくれば誰でもいいんです。たとえば、水没した町に浮かぶ船に乗っている青年は、いわゆる素人の方が演じています。最初はプロの役者さんにお願いしたんですが、ダメだったんです。それで出版部の若い父親にやってもらいました。それが、みごとに的中したんです。」
 たしかにあの青年の声には演技の良し悪しを超えた確固たる存在感があった。名もない素人の起用なんて興行的にはマイナスだろうに、それでも監督は若い父親の存在感を欲したのだろう。

 興行的なことを云ったら、所ジョージや庵野秀明の声を聞きたくて観客が押しかけるはずもない。『となりのトトロ』の糸井重里しかり。一人でも多くの「人気声優」を押し込んだ方が客ウケするだろうが、監督の思いはそんなところにはない。

 こうした映画監督の心情を、木下惠介監督は次のように述べている。
 「今までになかった何かを今度の映画に出したい。演出がうまいとか、脚本がいいとか、俳優がうまくやっているとか、そういうことにはあきたりない……今までの手慣れた勉強してきた方法ではその感じが出ない」(「映画ファン」1953年7月号、『異才の人 木下惠介 弱い男たちの美しさを中心に』より再引用)


Ost: Birdman これを一言で表せば、まさしく「無知がもたらす予期せぬ奇跡」ということだろう。
 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督が本作で仕掛けるのは、映画なのか実話なのか、虚構なのか現実なのか、観客を惑わすようなメタ構造だ。

 かつてスーパーヒーロー、バードマンを演じて人気を博したものの、その後ヒット作に恵まれないハリウッドスターのリーガン・トムソン。彼はみずから脚色・演出・主演するブロードウェイの舞台に役者としての再起をかけている。
 これだけでも映画と劇中劇の二重構造で、映画と演劇という異なる芸術を対比した作品になるわけだが、そこにかつてスーパーヒーロー、バットマンを演じて人気を博したものの、その後の代表作というとちょっと思い浮かばないマイケル・キートンをキャスティングした。しかもマイケル・キートンは、みずから監督・主演した『クリミナル・サイト~運命の暗殺者~』(2009年)が大ゴケして評価もいまいち。制作総指揮を務めた3本の映画は評価も成績も散々で、米国ではまともに劇場公開もされていないあり様だ。その追いつめられ方は劇中のリーガン・トムソンの比ではない。

 そんなキートンの傷口に塩を塗るような役をオファーするのだから、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は傑物だ。キートン演じるリーガン・トムソンに、同じバットマン役者でありながら監督としても脚本家としても俳優としてもプロデューサーとしても成功しているジョージ・クルーニーへの妬みを口にさせるなど皮肉が効きすぎている。
 イニャリトゥ監督は「脚本を書き終えたとき、マイケルしかいないと思ったよ」と語っているが、それはそうだろう。イニャリトゥ監督に会ったキートンが、「からかってるのか?」と尋ねたのも無理はない。

 マイケル・キートンは優れた「プロの俳優」だが、同時にこのキャスティングには、何百人もの人間に命令する役を日頃から何百人もに命令している会社社長に割り当てるようなリアリティがある。
 観客は追いつめられたリーガン・トムソンのセリフに、追いつめられたマイケル・キートンを重ねるだろうし、リーガン・トムソンの焦った表情にマイケル・キートンの焦りを見るだろう。観客がマイケル・キートンの経歴を知らなくたっていいのだ。この表情やこの口調はマイケル・キートンでしか出せないものなのだ。

 加えて、劇中劇の出演者としてリーガンの演出を台無しにする俳優マイク役にエドワード・ノートンときたもんだ。
 マイクは優れた俳優だし知名度もあるが、リーガンの脚本や演出にケチをつけ、舞台をすっちゃかめっちゃか引っかき回す。
 エドワード・ノートンもまたスーパーヒーローのハルク役を射止めながら、「大勢のキャストとのアンサンブルが大切な『アベンジャーズ』には、協調性のある役者が必要だ」と云われて降ろされた過去を持つ。
 マイケル・キートン同様に、劇中のマイクの一挙手一投足が現実のエドワード・ノートンの振る舞いなんじゃないかと観客をハラハラさせる。マイクが演出家や他の俳優と衝突するたびに、『インクレディブル・ハルク』の撮影現場もこうだったんじゃないかとドキドキする。いやいや観客が彼の経歴を知らなくたっていいのだ。この表情やこの口調は彼の人生経験がなければ出せないのだ。

 これはあの、忘れられた往年の大女優に忘れられた往年の大女優を演じさせ、完璧主義が高じて干されてしまった往年の名監督に往年の名監督を演じさせた残酷な名作『サンセット大通り』を彷彿とさせる大胆な作品だ。
 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は、ベテラン俳優に当人そっくりの役を演じさせることで、ベテラン俳優の演技と本人の存在感という二兎を追い、二兎とも得たのだ。


[*] 『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』の劇中、舞台に立つ意欲をなくした主人公をプロデューサーが「マーティン・スコセッシが次回作の出演者を求めて観に来てるぞ」と云って励ます。それはプロデューサーの口から出まかせなのだが……と思いきや、観客の中にマーティン・スコセッシがカメオ出演しているそうだ。
 なんだって誰も彼もマーティン・スコセッシを出演させたがるのだろう。


バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』  [は行]
監督・制作・脚本/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本/ニコラス・ヒアコボーネ、アレクサンダー・ディネラリス・Jr、アルマンド・ボー
出演/マイケル・キートン ザック・ガリフィアナキス エドワード・ノートン アンドレア・ライズブロー エイミー・ライアン エマ・ストーン ナオミ・ワッツ リンゼイ・ダンカン
日本公開/2015年4月10日
ジャンル/[コメディ] [ドラマ]
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【theme : アメリカ映画
【genre : 映画

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