『KANO 1931海の向こうの甲子園』は親日映画なの?

凄いものを観てしまった。
それが『KANO 1931海の向こうの甲子園』を観た正直な感想だ。ウェイ・ダーション(魏徳聖)が監督した『セデック・バレ』を観てからずっと期待し続けてきた本作は、期待を裏切らないどころか、期待を遥かに上回る作品だった。
上映時間は185分と長めだが、アニメ『エースをねらえ!』を一気に観たり、マンガ『柔道部物語』を一気に読むような話だから、185分でも長いとは感じない。面白さと感動が目一杯つまった、充実した映画なのだ。
しかも、判りやすくてストレートなドラマでありながら、現在の台湾ならではの深い考察もうかがえる。
爽やかな青春映画として楽しむのもよし、燃えるスポーツ映画として楽しむのもよし、師弟愛や夫婦愛に涙するもよし、その志の高さに共感し、台湾と世界の未来に思いを馳せるのもよい。観客それぞれが、それぞれに受け止められる懐の深さに驚いた。
■圧倒的に後れを取っているところ
台湾映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』は、甲子園を目指す野球少年たちの2年にわたる物語だ。
1929年、台湾南部。一度も勝ったことのない嘉義(かぎ)農林学校野球部に、松山商業を甲子園優勝に導いた名監督近藤兵太郎(ひょうたろう)がやってくる。野球といえば台湾北部の日本人チームばかりが活躍していた頃に、近藤監督は蕃人(ばんじん: 台湾原住民)、漢人(漢族系住民)、日本人からなる三民族混成チームを鍛え上げ、みんなで夢を実現していく。
実話に基づくこの映画を作るに当たって、ウェイ・ダーションは脚本とプロデュースに回り、少年野球の経験のあるマー・ジーシアン(馬志翔)を監督に抜擢。高校、大学の野球選手を中心に野球経験者をキャスティングし、本格的な野球映画を作り上げた。
ウェイ・ダーションといえば、長編監督デビュー作『海角七号/君想う、国境の南』で日台のラブストーリーを描き、日本人を驚かせた人物だ。
70年前、東アジアには日本列島から朝鮮半島、台湾にまたがる帝国があった。「帝国」とは複数の国、地域を統治する国家のことだ。帝国は崩壊し、日本と台湾は別々の国になったが、ウェイ・ダーションは今でも人の心は繋がっていることを『海角七号/君想う、国境の南』の男女の恋を通して描いてみせた。
続く監督作『セデック・バレ』では一転し、大日本帝国の圧政に対して徹底的に戦う台湾原住民を描いた。帝国軍対原住民の戦いは凄惨を極め、双方の残虐さは目を覆うほどだった。
表面的な印象はまったく異なる両作だが、一貫するのは過去・現在・未来における日本との関係を重視する姿勢だ。
『KANO 1931海の向こうの甲子園』のパンフレットを読んだら、金原由佳氏が『セデック・バレ』について「日本公開時には一部から「反日的」という声があがり、大きい展開にならなかった側面がある」と書いていたので驚いた。『セデック・バレ』は、反日どころか親日的ともいわれる映画なのに。反日呼ばわりした人は、映画をちゃんと観ていないのだろう。
抗日事件を描いた『セデック・バレ』が親日的な理由については、以前の記事をお読みいただきたい。
一作目で日台間のラブストーリーを描き、二作目で日台の激戦(正確には台湾原住民の戦いであり、漢人は傍観者を決め込んでいた)を描いたウェイ・ダーションのことだから、三作目では振り子が大きく戻ってまた日本との連帯・親愛を前面に出した映画を撮るに違いない。そう予感していたところに登場したのが、三民族が協力して甲子園を目指すこの清々しい映画だった。その題材選びのセンスには脱帽するばかりだ。
本作が日本で封切られたのは、ちょうど一ヶ月前に公開のディズニーアニメ『ベイマックス』が大ヒットしている最中だった。
『ベイマックス』が持つ多くの素晴らしさのうち、その政治的正しさ(political correctness)に感心した観客も多かったと思う。政治的正しさとは、差別や偏見を含まず、公平であることだ。
かつて、女性は王子様に選ばれて、彼に寄りかかるのがハッピーエンドという作品を量産していたディズニーは、激しい批判にさらされて、徐々に自立した女性を描くようになった。王子様の存在感を低下させていった。その変化は緩やかなものだったが、大ヒット作『アナと雪の女王』の話題性につられて1950年代の『シンデレラ』や『眠れる森の美女』の世界から一足飛びに『アナ雪』に接した観客は驚いたことだろう。
『ベイマックス』もその延長線にあり、アジア系の少年を主人公に据えて、黒人、白人をバランスよく配置したチームが活躍する。『ベイマックス』の原作マンガは日本が舞台なので、そちらでは黒人や白人がぞろぞろ出てくることはないが、それでも人種・民族のバランスには気を使っている。映画でマンガ好きな白人として描かれたフレッドは、原作ではアイヌの設定なのだ。
このことを知ったとき、私はやられたと思った。
米国に負けず劣らずスーパーヒーローを輩出している日本だが、圧倒的に後れを取っている部分がある。現実世界の多様性を作品に反映することだ。毎年たくさんの新ヒーロー、新チームが誕生しているのだから、アイヌや在日コリアン、華人華僑等のヒーローもドンドン出てくればいいと思うのに、なかなかそうはいかないようだ。
作品は少なからず世相を映すものだから、現実世界の多様性を作品に反映できないのは、日本社会が多様性にきちんと目を向けていないからだろう。

『ベイマックス』を観てからそんなことを考えていた私は、『KANO 1931海の向こうの甲子園』を観てガツンと殴られたようだった。
台湾原住民と漢人と日本人が一緒になってチームワークを発揮する、私が観てみたい作品がそこにあったからだ。
しかも映画を観ているあいだは、誰が何人かなんてよく判らない。みんなが清々しく、笑顔でプレーする描写の連続に、人種も民族も関係なかった。
映画の中盤、三民族混成チームが勝てるわけないと日本人紳士から揶揄される場面がある。その言葉に近藤監督は激怒する。「蕃人は足が速い。漢人は打撃が強い。日本人は守備に長けている。こんな理想的なチームはどこにもない。必ず最強のチームになる!」近藤はそう反論する。
ここにはダイバーシティ経営に注力する現代の企業にもヒントになることがたくさんある。
たとえばダイバーシティ(人材多様性)のあり方だ。
ダイバーシティには能力・職歴・経験などの「タスク型の多様性」と、性別・出身国・年齢などの「目に見える属性」からなる「デモグラフィー型の多様性」があるという。組織は「タスク型の多様性」を必要としているのに、女性を増やしたり外国人を増やす施策が「デモグラフィー型の多様性」をもたらしてしまうことがある。
「デモグラフィー型の多様性」が組織に与えるマイナスの効果を、入山章栄氏はソーシャル・カテゴリー理論から次のように説明する。
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同理論によると、組織のメンバーに目に見える属性の違いがあった場合、メンバーそれぞれに、「自分と同じ属性のメンバー」と「それ以外」を分類する心理作用が働き、同じ属性を持ったメンバー同士の交流のみが深まってしまうのです。そうなると、いつの間にか、男性は男性だけ、女性は女性だけ、あるいは外国人は外国人だけで固まり、「男性vs女性」「日本人vs外国人」といった軋轢が生まれ、組織のパフォーマンスを停滞させてしまうのです。
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これを解消する方法として同氏が注目するのが、フォルトライン(組織の断層)理論だ。
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たとえば、日本人男性が30人いる組織に「30代の女性」が5人入っても、同じ属性を持つ彼女たちだけが固まってしまい、日本人男性との間に「断層」が形成され、タスク型の多様性が実現しません。そうではなく、50代、20代、外国人、といった多様な「デモグラフィー次元」で女性を加えると、先ほどのように一元的なグループ分けが不可能になるため、断層効果が弱まり、組織のコミュニケーションがスムーズに進むのです。
さらに男性側も年齢の幅を広げ、さらに外国人も加えれば、断層がなくなり、「組織内組織」が生まれにくくなります。このように、デモグラフィー型の多様性を進めるなら、中途半端ではなく、複数次元で徹底的に行うべきなのです。
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嘉農(かのう)野球部の場合は、三民族の混成であることが肝だったかもしれない。日本人と漢人、あるいは日本人と台湾原住民だけだったら、チームがふたてに分かれて軋轢が生じたかもしれない。たった11人のチームに三つの民族(台湾原住民からはアミ族、プユマ族が参加したことを考えれば、さらに多様な構成だ)が入り混じったことが、断層効果を弱めたのだろう。
そこに近藤監督が「甲子園」という共通の目標――しかも誰にとっても高い目標を設定したことで、全員のベクトルを一致させた。
複数の民族が一つの目標に向かって力を合わせる。チームメイトに民族は関係ない。
本作はそこが徹底できているから、純粋に野球の試合が面白い。試合を盛り上げるのは好プレーの応酬であって、民族問題ではないからだ。
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本作が描くのは、日本人監督に率いられた嘉農野球部の活躍ばかりではない。
当時世界最大だった烏山頭(うさんとう)ダムと地球の直径より長い水路網からなる大規模な灌漑施設・嘉南大シュウ(かなんたいしゅう)の工事や、噴水池を建設する様子が随所に織り込まれ、学校の授業では日本人教師の口から台湾の自然環境や灌漑施設建設の重要性が語られる。農業振興に努める日本人教師から、子供たちは精神的な強さを学ぶ。
併せて、灌漑施設の建設を指揮し、「嘉南大シュウの父」と呼ばれる水利技術者八田與一(はった よいち)も魅力たっぷりに描かれる。八田を演じる大沢たかおさんが、最高に輝いて見える。
これらの描写は、嘉農野球部が勝ち進む姿にシンクロするとともに、台湾が日本の統治下で発展したことを示している。
それどころか、映画は野球部のパレードそっちのけで嘉南大シュウの完成を取り上げており、日本人監督に率いられて強くなった嘉農野球部そのものが、なんだか日本統治の恩恵を強調するための仕掛けのようにも見えるのだ。
本作に対して、台湾の一部識者から媚日(日本に媚びている)映画と批判が出たのも、なるほどと思う。
映画を制作したウェイ・ダーションとしては、日本の統治に徹底抗戦する『セデック・バレ』を発表した後だからバランスが取れると踏んだのかもしれない。長年にわたり『セデック・バレ』を準備してきたウェイ・ダーションにしてみれば、『海角七号/君想う、国境の南』や本作は天秤の片側なのだろう。
だから『セデック・バレ』が反日映画ではないように、『KANO 1931海の向こうの甲子園』は親日(媚日)映画というわけではない。
映画がヒットするには、作品の出来ばかりでなく、作品を受け入れる下地が大衆にあるか否かも関わるだろう。
興行収入が1億台湾ドルを超えれば大ヒットといわれる台湾で、本作は3億台湾ドル(約10億円)以上を叩き出した。
台湾での封切りは2014年2月27日。そこから3ヶ月ものロングランになったが、この時期は「ひまわり学運」、すなわち立法院を占拠した学生運動の時期にピタリと重なる。
3月18日、台湾(中華民国)と大陸(中華人民共和国)が結ぶ「海峡両岸サービス貿易協定」に反対する学生たちが立法院(国会)に進入し、政府・与党が譲歩するまで24日間にわたって占拠し続けた。
2008年に中華民国総統に就任したマー・インチウ(馬英九)は親中政策を打ち出し、着々と中国に接近していた。サービス貿易協定が批准されれば、台湾企業が中国資本に乗っ取られ、中小小売店の息の根が止められて、台湾は「中国の経済植民地」になるのではないか、と懸念されたという。また、マー・インチウ政権は文化・精神面での脱日本化・親中国化を図り、高校の国語、社会科の教科書にある日本や中国に関する記述を変えて、台湾が中国の一部であると強調させる教科書要綱に改訂したという。
「ひまわり学運」は、このような政府の動きの中で起きた。世論も学生を支持し、全国から集まる支援物資が長期に及ぶ占拠を支えた。
この時期、台湾の人々は親中国化に反対する学生運動を応援するとともに、中国(大陸)とは異なるところに文化的精神的ルーツを求める映画に足を運んでいたわけだ。
立法院の占拠が終わっても、ほとぼりは冷めなかった。2014年6月、中華人民共和国の建国以来はじめて台湾を訪問した中国閣僚は、抗議デモで追い返された。同年9月25日には本作を見逃した人のために台湾映画史上初のアンコール上映が行われ、11月29日の統一地方選挙では与党・国民党が惨敗した。こうして並べると、すべてが一つの流れのように見えてくる。
だから本作が日本統治下での台湾の発展や、日本人チームとの激戦を描いても、あぶり出すのは台湾人のことなのだ。
映画の構造は『セデック・バレ』と同じである。
嘉農の弱小野球部は猛特訓を経て強くなるが、それでも日本人チームは強敵だ。どうにか勝っても、もっと強いチームが現れる。巨大な甲子園球場や灌漑設備を作り上げる日本の技術、文化の力も素晴らしい。だが、日本の強さ、凄さを繰り返し強調することで浮かび上がるのは、その日本に一歩も引けを取らない、否、日本勢をも震撼させる嘉農野球部、台湾勢の凄まじさだ。
映画の前半でこそ日本人の監督にしごかれる球児たちだが、やがて判断に悩む監督に意見を申し出るようになり、みんなでチームを引っ張っていく。日本人監督によって台湾のチームが甲子園に行ったのではない。台湾の若者たちが日本人監督を甲子園に連れて行くのだ。

抗日事件を題材にした『セデック・バレ』が、日本をおとしめるのではなく台湾人の何たるかを描いたように、本作もまた日本を持ち上げるのではなく、台湾人とは何かを考察する映画である。
「なぜ、台湾で『KANO』がこんなに話題になったのか」福島香織氏は問う。「答えを先にいってしまうと、この映画の中で描かれる台湾アイデンティティというものが、今の台湾人にもっとも問われているテーマだからだろう。」
「ひまわり学運」を取材した福島氏は、運動のレポートに続く記事『映画「KANO」と台湾アイデンティティ』で、次のように述べている。
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この大ヒットと批判は、今の台湾の状況を反映しているのだと思う。今の台湾人の中でも、自らのアイデンティティを原住民、漢人、そして日本統治時代の影響の融合によって形成されてきたものであると考えるグループと、台湾人のアイデンティティの根っこは中華民族意識にあるとするグループにおおむね分かれている。
(略)
日本統治から国民党独裁時代の白色テロの記憶を持つ老人たちが徐々に減っていき、政策的に中華民族回帰が喧伝される中で、台湾アイデンティティの定義も揺らいでいる。国際情勢から言っても、台湾の社会・経済の実態から言っても、独立の目がなくなり、流れに身を任せていれば、ほぼ間違いなく中国に併呑されると予測される中で、台湾人がそれぞれ自分の立ち位置を確認したい気持ちが募っているのではないかと思う。それが、「KANO」など魏徳聖映画がヒットする背景であり、またそのヒットを批判する論調の盛り上がりではないかと推測するのだが、どうだろう。
(略)
「KANO」の中で「パパイヤは根っこに釘を打ち込むと、もう自分は死ぬと思って、最後の力を振り絞って大きな甘い実をつける」という挿話が何度も出てくる。もうだめだという危機感による必死さが大きな果実を実らせ、希望を次世代に託す、という例えだ。この挿話がまさしく今の台湾の気持ちにあっている気がする。
台湾のアイデンティティの根っこに刺さり痛みを与えている釘が日本統治の過去なのか、中国併呑の未来なのか。(略)いずれにしても、その痛みの危機感の中で、自力で民主化を遂げ小さくも豊かな「国」を形成してきたのが台湾であり、これからもその苦悩が台湾らしさの本質かもしれない。
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当の台湾ですら媚日との批判が出た本作だから、『セデック・バレ』を「反日的」と勘違いする人がいる日本では、今度は日本が持ち上げられたと思われるかもしれない。たしかに日本への親しみが込められた映画ではあるけれど、あまりそこに注目されるのは作り手の本意ではあるまい。
マー・ジーシアン監督は来日時のインタビューで「作品のテーマは『野球の物語』であることに尽きる。背景には日本の統治があったが、魏さん(ウェイ・ダーション)が言う通り、当時の日本を美化しているわけではない。ただ悪く描いていないだけ」と強調したそうだ。
パンフレット収録の金原由佳氏の記事で、ウェイ・ダーションの言葉が紹介されている。
「なぜ、日本統治下にあった台湾の記憶を美化するような映画を作ったのですか」と質問された彼は、こう断言したという。
「僕が嘉農に興味を持ったのは、『セデック・バレ』で描いた霧社事件の翌年に、嘉農が甲子園で準優勝した事実でした。たった1年で、一方に台湾の近代史上最も凄惨な出来事が起き、一方に最も輝かしい栄光が起きていた。この差は何だったのか? それを考える中で、霧社事件は現地の日本人警察官たちの上からの目線が原住民たちの怒りに火を付けたと知り、逆に近藤監督は常に選手たちに同じ目線で接したと聞きました。つまり、僕が映画で描きたかったのは、台湾と日本の政治的な歴史や背景ではなく、人が人を動かすときの目線なんです。」
彼はNHKのインタビューに答えて、原住民族の誇りを踏みにじった日本人警察官と、民族で差別しない近藤監督が同じ時代にいたと知って驚いたとも述べている。
民族で差別しないこと、上からではなく同じ目線で接すること。それは過去の日本だけでなく現代の日本人も真摯に受け止めるべき言葉だろう。
ウェイ・ダーションのメッセージは、国を超えて時代を超えて普遍的だ。それはもしかしたら、中国大陸へも向けられているのかもしれない。
多民族が混在するからこそ理想的なチームなんだ。私たちは今こそ近藤兵太郎に学びたい。

監督/マー・ジーシアン 脚本/ウェイ・ダーション、チェン・チャウェイ
制作/ウェイ・ダーション 日本語セリフ手直し/林海象
出演/永瀬正敏 坂井真紀 ツァオ・ヨウニン 大沢たかお 吉岡そんれい 伊川東吾
日本公開/2015年1月24日
ジャンル/[ドラマ] [スポーツ]
