『インターステラー』 スピルバーグ版とのラストの違い

 【ネタバレ注意】

 運動の第3法則: 前へ進むためには何かを後へ置いていかなければならない。

 ラザロ計画――それはクリストファー・ノーラン監督の傑作『インターステラー』で描かれるプロジェクトの名前だ。そのネーミングには、複数の意味が込められているに違いない。

 そんなにSFが好きなのか!
 私は、地球からの脱出を図る計画の名がラザロ(Lazarus missions)であることに、クリストファー・ノーランのSF志向を感じてニヤリとした。
 ラザロ、英語風に読めばラザルスは、ロバート・A・ハインラインの幾つかのSF小説に登場する人物の名だ。おそらくハインラインが創造した中でもっとも有名なキャラクターだ。
 前向きで柔軟で行動的な彼が最初に登場したのは、移民宇宙船で地球を脱出し、安住の星を目指す物語『地球脱出』(別題『メトセラの子ら』)のリーダーとしてだ。この小説は『宇宙戦艦ヤマト』の元ネタとしても知られている。

 もちろんラザロ計画のプランA――居住不能になった地球を捨てて人類が他の星へ移住するプラン――だけでなく、プランBもラザロにちなむだろう。
 『インターステラー』に登場するブランド教授は、プランAが実現できないときに備えて、人類の受精卵だけを異星に運ぶプランBも立案していた。プランBは地球での人類の死滅を意味し、異星での種の復活を期待するものだ。
 このようにいったん絶滅したように見えながら再出現した生物を、古生物学ではラザロ分類群と呼ぶ。

■土星でなければならなかった

 そもそもラザロとは……という話は後にして、クリストファー・ノーランの志向について触れておきたい。
 ノーランは本作を「思索を巡らせるフィクション」だと述べている。「人類の将来を考える機会になる。宇宙人に出会う『未知との遭遇』で描かれたように、将来起こりうる状況について思索する。人類が宇宙に飛び出さざるを得ない状況になった時、我々は何を考えるのか、ということだ。」
 SF(サイエンス・フィクション)がスペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)とも呼ばれたことを思えば、これはまさにノーランのSF宣言だ。

 クリストファー・ノーランがとりわけ愛を捧げ、挑戦しているのが『2001年宇宙の旅』だ。
 スタンリー・キューブリックがSF作家のアーサー・C・クラークと練り上げたこの名作映画と同様に、『インターステラー(星から星へ)』は宇宙進出と、知的生命体とのファースト・コンタクト、そして人類の進化をテーマにしている。
 科学考証を重視したリアルな作風、少数の乗組員による太陽系内の旅、謎の存在が設置した「門」を通っての超空間の旅、高次元の存在となる主人公等々、本作と『2001年宇宙の旅』との類似はいちいち挙げるまでもない。

 グッと来たのは、ジョン・リスゴーをキャスティングしたことだ。
 ノーラン監督作品に6回目の出演となる常連役者マイケル・ケインや、『ダークナイト ライジング』からの連投となるアン・ハサウェイや、『ダラス・バイヤーズクラブ』のアカデミー賞主演男優賞も記憶に新しいマシュー・マコノヒーや、『ヘルプ ~心がつなぐストーリー~』の白痴美人から『ゼロ・ダーク・サーティ』の凄腕分析官まで何でもござれのジェシカ・チャステインも素晴らしいし、10歳のマーフィーを演じたマッケンジー・フォイの存在感にも唸らされたが、何といっても心躍るのはジョン・リスゴーの出演だ。彼こそは『2001年宇宙の旅』の宇宙船ディスカバリー号の設計者ウォルター・カーナウ博士として『2010年』に出演した人物なのだから。

 しかも、本作の宇宙船エンデュアランス(試練)号の目指す先が土星とはふるっている。
 映画『2001年宇宙の旅』のディスカバリー号は木星を目指すが、企画段階の目的地は土星だった(アーサー・C・クラークの小説版では構想どおり土星に到達している)。『2001年宇宙の旅』が発表された1968年当時の特撮技術では土星の輪を表現できなかったので、木星に変更されたのだ(当時はまだ木星の輪が発見されていなかった)。
 スタンリー・キューブリック監督が諦めた土星の旅を、あえて本作のプロットに持ってくるところ、クリストファー・ノーランの気合は半端ではない。

 クリストファー・ノーランはこう述べている。
 「制作中、『2001年』は終始、意識していた。私が体験したように、映画館で子供たちに宇宙を旅してほしいと思った。」
 クリストファー・ノーランが企んだのは、単に観客を宇宙映画で楽しませることだけではない。若い頃に観た『2001年宇宙の旅』のようなSF映画を甦らせるとともに、アポロが月に到達し、対立する米ソ両大国が宇宙で握手した有人宇宙飛行の時代の大志を現代に甦らせたかったのだ。
 「私が育ったのは、どんな子供にとっても宇宙飛行士になることが最高の目標だった時代だ。でもここ20年で、そんな風潮はすっかり消え失せてしまった。その間に科学技術の大きな変化があったんだ。」

 ノーラン監督は町山智浩氏に次のように語ったという。
 「アポロ計画とかやっていて、人類が宇宙を夢見ていた時代が大好きなんだよ!」
 「いま、科学技術は本当に進んだけれども、スマホとかネットとかコンピュータとか、そっちの方ばっかりじゃないか。進んでいる科学技術は。それ、内向きだろう。あまりにも。本当にみんな下を見て、スマホをずっとやってるじゃないか。黙って。どうしたんだよ!?これで人類、どうなるんだよ!?」
 「心の内側にばっかり入っていくばっかりじゃ、先には進めないよ、人間!」
 「人間、内側とか下とかばっかり見てないで、外を見ろよ!外に出ろよ!」
 「上を見ろ!空を見ろ!星を見ろ!宇宙を見ろ!」
 「そうしなければ人類は進化しないじゃないか。スマホやっていたって進化しないだろ、人類は。宇宙へ出ろよ!」

 本作の世界では、宇宙に、そして宇宙旅行を支えるテクノロジーに背を向けるようにして、人類の月面着陸はなかったと子供たちに教えている。まるで(微生物の増殖を防ぐ)食品添加物は危険だと主張して、無添加の(食中毒のリスクのある)食品を子供に食べさせるようなものだ。

 たかが映画の話、と笑ってはいられない。アポロ計画陰謀論に取りつかれ、月面着陸は捏造だったと主張する人は現実にいる。月面着陸の映像は、アーサー・C・クラークの脚本に基づいてスタジオで撮影されたものだと主張する者もいる。
 ここでアーサー・C・クラークの名前が出てくるのは、彼がリアリティに満ちた映画『2001年宇宙の旅』に関わったからだろう。さらには、スタンリー・キューブリック監督が月面着陸を撮影したとするエイプリルフールの番組を真に受けた人もいるらしい。
 科学技術にネガティブな人々の滑稽さを描く上で、本作が他ならぬアポロ計画陰謀論を取り上げたのは、陰謀論の背景に『2001年宇宙の旅』があまりにも良くできていたことがあるからだろう。こんな映画を作れるなら全世界を騙す映像だって捏造できるに違いない、そう思わせるだけのリアリティが『2001年宇宙の旅』にはあった。
 本作のアポロ計画陰謀論は、クリストファー・ノーランからスタンリー・キューブリックへの最大級の賛辞である。

 このように本作は、科学と技術へのポジティブな思いを前面に出している。
 環境の悪化も描かれるが、科学技術のせいとはされていない。本作で人類が直面する危機は、1930年代の米国で起きたダストボウルの再現だ。日本が満州事変や日中戦争に浮かれていた頃、米国では広大な農地が放棄され、砂嵐の発生源と化していた。ダストボウルのために国土の大半が土埃に覆われ、ますます耕作不能になっていった。当時の困窮極まる農民の暮らしをジョン・スタインベックは『怒りの葡萄』に著し、ジョン・フォードはそれを映画化してアカデミー賞の監督賞を受賞した。
 『インターステラー』の冒頭で砂嵐の猛威を語るのは、実際に1930年代のダストボウルを経験した人々だ。このシーンは、ケン・バーンズ監督のドキュメンタリー『The Dust Bowl』(2012年)から流用したものである。

 本作では科学に後ろ向きな人々の生活の苦しさが強調される一方で、重力の秘密を解明したマーフィーの喜びようが印象的だ。
 「ユリイカ!」
 あまりの嬉しさに彼女は叫ぶ。
 「判った!」を意味するこの言葉は、アルキメデスが浮力の原理を発見したときに叫んだといわれる。入浴中だったアルキメデスは、嬉しくて裸で街に飛び出したという。このセリフほど、紀元前3世紀の偉人から今へと続く科学の発達の素晴らしさを象徴するものはないだろう。

■なぜ主人公は農民なのか

 だが、本作が描くのは科学技術ばかりではない。
 ラザロ計画のネーミングが意味するもう一つのものは宗教だ。
 劇中で説明されるように、ラザロとは新約聖書中の人物を指す。ラザロは病のために死んでしまうが、イエスが呼びかけると甦って墓から出てくる。絶滅したはずなのに再出現した生物をラザロ分類群と呼ぶのは、このことに由来する。

 ラザロだけに留まらず、本作は聖書からの引用でいっぱいだ。
 移住可能な星を探す主人公クーパーたちは、そこを聖書の「約束の地」カナンになぞらえる。カナンを目指す旅といえば、モーセに導かれた人々がエジプトを脱出してカナンに向かう旧約聖書の「出エジプト記」が思い浮かぶ。
 そして、ダストボウルで住めなくなった土地を後にして「乳と蜜の流れる地」カリフォルニアを目指す農民の物語『怒りの葡萄』が、「出エジプト記」をモチーフにしていたことを考えれば、同様にダストボウルで住めなくなった地球を後にして「約束の地」を目指す農民の映画『インターステラー』が『怒りの葡萄』のSF版であることに、いや「出エジプト記」のSF版であることに気づくのだ。
 ブランド教授がラザロ計画の結末を知ることなく世を去るのも、『怒りの葡萄』で祖父が道半ばにして亡くなるところから、いや、モーセが約束の地を目の前にして亡くなるところから来るのだろう。してみるとクーパーは、多くの者がカナン行きに尻込みする中、カナンの素晴らしさを説き、モーセの後を継いでカナンを制したヨシュアに当たるだろうか。アメリアは忍耐強いカレブかもしれない。

 『インターステラー』はSF的にも、宗教的にも読み解くことができる。
 クーパーが家を出て「幽霊」が示す地点に向かうのは、クリストファー・ノーランが影響を受けた作品として挙げている『未知との遭遇』で、主人公が何者かに導かれて山に向かうシチュエーションを彷彿とさせる。『未知との遭遇』でメッセージを発していたのは異星人だが、本作の「幽霊」の正体は高次元空間(tesseract)に出現したクーパー自身だった。『2001年宇宙の旅』のボーマン船長がスターチャイルドに進化しながら何もしないで終わるのに対し(進化そのものが映画のクライマックスだから仕方ないが)、高次元の存在となったクーパーはその利点を活かして三次元世界の人間に干渉しはじめる。
 このようにメッセージの出どころをSF的に説明しているものの、クーパーの背後には彼を導いた五次元生命体がおり、その正体はようとして知れない。クーパーはそれを遠未来の人類だと推察し、自分が過去の人間に干渉しているように、さらなる高次元から自分に干渉しているのだろうと考えるが、映画はこの超越者について詳しく語らないまま幕を閉じる。

 何者かのメッセージに導かれながら、その正体を語らぬまま幕を閉じる映画といえば、ケヴィン・コスナー主演のヒット作『フィールド・オブ・ドリームス』(1989年)が思い浮かぶ。町山智浩氏が指摘するように、両作にはトウモロコシ畑や野球場や(死に別れた)父との和解を望む子供といった多くの共通点が見られる(不勉強な私なんぞは本作のトウモロコシ畑から『フィールド・オブ・ドリームス』しか思い浮かばなかった)。『インターステラー』と違って、『フィールド・オブ・ドリームス』では天の声の正体をまったく考察しないが、キリスト教やキリスト教系の信者が多い米国では、天の声の正体を探るまでもないのだろう。
 本作もまた、多くの米国民と同じように信仰心をもって見れば、天の啓示に導かれた男の物語である。劇中に散りばめられた聖書からの引用や「出エジプト記」を下敷きにしたストーリーは、遠い宇宙を目指すことが神の意に沿うのだと語っている。

 そもそも本作は、信仰に基づかなければ克服できない矛盾をはらんでいる。
 主人公たちは宇宙へ移民するプランAを推進すべく人生をかける。だが、どんなに大きな移民船を建造しても、全人類を乗せるのは不可能だ。船に乗れる人と乗れない人が生じるのは避けられない。登場人物は人類という種全体について言及しながら、助けられる範囲のことは口にしない。
 このことは、最後の審判ですべての人間が裁かれ、神に忠実だった人間のみが救われるというキリスト教やイスラム教の教えを根底に置けば解消する。救われる人間は、同じ神を信奉する者だけなのだ。
 何もクリストファー・ノーランが選民思想に凝り固まっているとは思わない。キリスト教的な文化がじんわりとにじみ出たのだろう。


 これまで見てきたように『インターステラー』は科学を称揚する映画だが、同時に宗教性を強く帯びている。
 科学と宗教、これは同時に志向できるものなのだろうか。
 そのことを示すのが、劇中で主人公が口にする「運動の第3法則」だ。

 「前へ進むためには何かを後へ置いていかなければならない。」

 これはニュートン力学の基本となる3法則の一つ、作用・反作用の法則だ。中学校で学ぶから誰でも知っているだろうが、運動の法則をこれほどロマンチックに表現した言葉を私は知らない。このセリフを聞けただけで感無量である。
 運動の3法則を発表したアイザック・ニュートンは自然科学者と紹介されることもあるけれど、彼が神学者であったことを忘れてはなるまい。運動の3法則を掲載した1687年の『プリンキピア』の序文に、ニュートンは「本書の目的は神が天地創造された意図をさぐることである」と書いている。

 近代科学はキリスト教から生まれたといわれる。
 宇宙が神に創造されたなら、そこには完璧な秩序があるはずだ。自然には規則性があり、宇宙には法則があるに違いない。人間が知らないだけで、神の定めた普遍的な法則がきっとある。その信念に突き動かされた神学者たちは、実験と観測を重ねて法則を発見していった。強い信仰があるからこそ、"神学者"ニュートンは近代科学の基礎を築けた。
 そして今も科学者は、「科学者が物理法則と呼んでいるものは、本質的には宗教で神と呼ばれているものと同一なのではないか」と思いを巡らす。

 SFもまたしかり。
 長山靖生氏は『日本SF精神史』にSFの定義を「科学的空想を加えることで改変された現実を描いたものとしたい。この『科学』のなかに、自然科学だけでなく、社会科学や人文科学(言語実験など)も含めるなら、およそ今日、SFと認識されている傾向のほとんどすべてをフォローできるだろう」と書いている。
 この科学の裏に宗教があれば、SFとて宗教の影響を免れない。
 私の友人はアーサー・C・クラークの本を指して「新興宗教の聖典みたいだ」と感想を漏らした。なるほどクラークの代表作たる『2001年宇宙の旅』や『幼年期の終り』には、人類を見守る超越的存在や、超越者に導かれて次のステージへ昇っていく人類が描かれている。既存の宗教には与せずとも、宗教に期待される要素がふんだんに盛り込まれているように見える。
 『エンダーのゲーム』の原作者オースン・スコット・カードのように、熱心なモルモン教徒であり、モルモン教をモチーフにした作品を執筆しているSF作家もいる。

 超越的存在を「神」と呼ぶのに抵抗があれば、インテリジェント・デザイナーと呼んでも何と呼んでも構わない。『魔法少女まどか☆マギカ』の記事で述べたように、呼び方を変えても同じことだ。
 日本のSF読者のあいだには宗教的なものへの拒否反応があるというけれど、教団の活動や教義に対する拒否反応だろう。超越的存在を夢想することまで拒否しているとは思えない。
 本作の「五次元生命体」とは、「神」の存在を期待する気持ちをSFっぽく表現したものに過ぎないが、そのひと工夫でSFファンの抵抗感は和らいだはずだ。
 『インターステラー』は科学志向の優れたSFであり、同時に宗教的な作品なのだ。その両方を押さえているから、すんなり心に入ってくるのかもしれない。

               

■「すべての手がかりがピタリとはまって、信じられないほど感動したのです」

 さて、本作の"クリストファー・ノーランらしさ"を考える上では、スティーヴン・スピルバーグ版との違いに注目するのがいいだろう。

 本作は当初スティーヴン・スピルバーグが監督する予定だった。
 そのときの構想では、クーパーの視点だけで物語が進行し、地球側の描写はなかった。天才科学者マン博士もクーパーの娘も登場せず、描かれるのはもっぱらクーパーとヒロインのアメリアとの関係だった。クーパーたち米国チームだけでなく中国も宇宙へ乗り出しており、クーパーたちが目的の星に到達する30年前には中国の基地ができていた。異星人やら悪のロボットやらに遭遇したのち、クーパーが地球に帰還してみると、出発から200年が経過し、すでに全人類が地球を去った後だった……。
 これはこれで『A.I.』のスピルバーグらしい、冒険と哀愁に満ちた映画になったことだろう。

 スピルバーグの降板によって監督に就任したクリストファー・ノーランは、ジョナサン・ノーランが書いていた脚本に自身のオリジナルアイデアを付け加えた。
 完成した作品を観れば、ずいぶん変えたものだと思う。
 最大の違いは父娘の物語になったことだ。本作のプロデューサー、エマ・トーマスとのあいだに四人の子供がいるノーランは、作品に親子関係を持ち込んだ。本作に涙を禁じ得ないのは、普通はできないこと――成長し、最期を迎える我が子との交流が描かれるからだろう。

 本作の撮影は秘密裡に遂行され、題名を伏せて『Flora's Letter(フローラの手紙)』というコードネームで呼ばれた。フローラとはノーランの子供の名だ。
 主人公の娘を演じたジェシカ・チャステインは、一人の少女に出会って、本作がクリストファー・ノーランのごく私的な作品であることに気づいたという。
 「少女はとても恥ずかしがり屋で可愛かった。私が近付くと名前を教えてくれました。彼女はクリスの娘だったのです。すべての手がかりがピタリとはまって、私は信じられないほど感動しました。『インターステラー』は彼の娘への手紙だったのです。」


 だが、このような感動作にすることは、必ずしも"クリストファー・ノーランらしさ"ではない。
 真の特徴は自己愛に生きるマン博士を創造したことにある。
 クリストファー・ノーランの作品が衝撃的なのは、人々が信じたがる口当たりの良い面と、人々が目を逸らす嫌な面の両方を視野に入れ、そのギャップを娯楽作の中で描き切ってみせるからだ。
 彼は『ダークナイト』で人と人との信頼やヒロイズムを高らかに謳い、多くの観客を感動させた。ところが続編『ダークナイト ライジング』では前作で描いたものを無残にも打ち砕き、暴走する民衆の怖さ、愚かさを描いて暗澹たる気分にさせた。どちらも人間の本性に根差した姿であることを、ノーランは知っているのだ。本作ではクーパーの娘と息子がそれぞれ人間の英知と愚かさを代表する。

 ノーラン監督は、劇中でアメリアに愛の強さと、愛こそ高次元に到達できる力であると語らせた。ことあるごとに、クーパーが娘を思う気持ちを強調し、愛を抱いた人間の行動力を称えた。けれども同時にマン博士の自己愛を描き、愛が極めて狭量であることを示す。ブランド教授の欺瞞を通して、しょせん人類という種全体のことを考えられる者などおらず、本人や家族のことで動機付けるしかないのだと明かす。
 クーパーは全人類の命運を託されてるにもかかわらず、娘のことしか考えてないではないかと指摘される。

 そうなのだ。宮崎駿氏は「半径3m以内に 大切なものは ぜんぶある」と述べたが、これはすなわち半径3mより外のものが大切とは思えないということだ。
 とうぜんだろう。家族に対する愛と同じ想いを、知らない他人に注ぐことはできない。どんなに博愛の精神を発揮しても、我が子への愛には敵わない。愛とは独善なのだ。

 それだけに愛は強い。どんな犠牲も厭わない、力強さに溢れている。
 だからこそ、愛があれば困難に打ち勝てる。ときに不可能事をも可能にする。
 人類を救うほどの難事業を行うには、強烈な愛が必要だ。全人類を愛することなどできなくても!

 一見矛盾するようだが、本作を観れば腹に落ちる。
 愛する者を救う過程で他の者をも救うのだ。愛が強ければ強いほど、一緒に救われる者も多くなる。そんなロジックだけが、真の偉業をなさせるのではないだろうか。


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監督・制作・脚本/クリストファー・ノーラン
脚本/ジョナサン・ノーラン
出演/マシュー・マコノヒー アン・ハサウェイ ジェシカ・チャステイン マイケル・ケイン マッケンジー・フォイ マット・デイモン エレン・バースティン ジョン・リスゴー ティモシー・シャラメ デヴィッド・オイェロウォ ビル・アーウィン
日本公開/2014年11月22日
ジャンル/[SF] [ドラマ]
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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画
【genre : 映画

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