『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』 フォックスと取引した理由

映画 ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス ポスター 42x30cm Guardians of the Galaxy Vol. 2 ピーター クイル スター ロード クリス プラット ガモーラ ドラックス ベビー グルート ヴィン ディーゼル ロケット ブラッドリー クーパー ガーディアンズ オブ ギャラクシー 【ネタバレ注意】

 最高の映画だった!
 前作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』と同じくジェームズ・ガンが監督も脚本も務めるから、期待は否が応にも高まったが、なにせ前作は面白すぎる。あんなに面白くできるのかと危ぶんでいたら、さすがジェームズ・ガン監督、やってくれた。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』は最高の上に最高の映画だった。

 スピーディーな展開に、豊かなイマジネーション。アクションシーンになると寝るのが常の私ですら、まったく目を離せない痛快アクション。笑いあり笑いあり、笑いの上に涙もあって、カツ丼に海老天とウナギとビフテキを乗っけたような満足感だ。可愛い外見と口の悪さのミスマッチが魅力だったアライグマのロケットに加え、可愛らしいベビー・グルートまで登場するのだからキャラクター物としても鉄板だ。
 本来なら派手なアクションやサスペンスで観客の目を引くべきオープニングに、ベビー・グルートの珍騒動を持ってくるところに自信のほどがうかがわれる。


■ジェームズ・ガンは判ってる

 私が何より感激したのは、ジェームズ・ガン監督の「判ってる感」だ。
 作品をつくる人は――とりわけあるジャンルの作品をつくる人は、先行するたくさんの作品に接して、そのジャンルに惚れ込んだから携わっているのだと思う。そんな中でも、ジェームズ・ガン監督は飛び抜けている。この手の作品の真髄が「判ってる」し、受け手が観たいものを深いレベルで「判ってる」。おそらく監督本人が最高の観客であり、観客が求めているのは何か、どんなものに喜ぶか、どんなときに満足できないかを、観客目線で「判ってる」のだ。

 前作の記事「『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』 スペースオペラへようこそ」の中で、私は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を『スター・ウォーズ』以来の「『スター・ウォーズ』のような映画」と称えたが、今こそよく判った。本シリーズはジョージ・ルーカスがスター・ウォーズ・シリーズを作って以来の、判ってる人がこだわって作った映画なのだ。いや、判ってる人やこだわりを持っている人は他にもいるだろうから云い直そう。判ってる人がこだわって作り、成功した映画なのだ

 何を判っているかって?
 宇宙モノのSFを、スペースオペラをだ。

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス 特別版パンフレット 日本の元号が昭和だった頃、映画評論家のどなたかが書いておられたように思う(石上三登志氏だったかもしれない)。
 評論家氏が日本の特撮映画の撮影現場を訪れると、スタジオに宇宙のセットが組まれていた。特撮といえばミニチュアのセットを作り、ピアノ線で吊るした宇宙船を撮影していた時代のことだ。電気で星が光るようにした宇宙のセットの前で、スタッフは誇らしげだったという。「この星はただ光るだけじゃありません。またたくことができるんです。」
 このときの評論家氏の絶望的な気持ちは想像にかたくない。星のまたたきは空気中の光の屈折が起こすイタズラだから、空気のない宇宙空間で星がまたたくことはないのだ。
 宇宙に空気がないことを知らないと、あるいは星がまたたく仕組みを知らないと、夜空を見上げたときに目に入るものがそのまま宇宙で起きていると思ってしまうのかもしれない。いくら美術スタッフがこだわって仕事をしても、判っていなければこんな悲劇(喜劇)が起きてしまう。

 21世紀になって、さすがに宇宙で星がまたたく映画は見かけなくなったが、「判ってるんだろうか」「もっとこだわってほしいな」と感じることはときどきある。
 必ずしも科学的な正確さを求めているわけではない。不自然に感じさせなかったり、不自然さに目をつぶりたくなるほど面白ければいいのだ。そこまでやってくれれば、少なくとも私は満足だ。
 だから、ちゃんと考えて、こだわった作品に出会うと、とても晴れやかな気持ちになる。心配や不安が解消され、観ているうちに心が洗われていく。


 前作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』はとても楽しい映画だったが、主人公スター・ロードが宇宙船に乗りもせず、マスクをしただけで宇宙飛行することに面食らった人もいると思う。『宇宙からのメッセージ』(1978年)の宇宙ボタルを捕まえるシーンや、『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』(1980年)の小惑星の洞窟のシーンのように、登場人物が宇宙服を着ずに(あるいは観客には認識できない不思議な方法で)宇宙船の外に出る映画があるけれど、スター・ロードの宇宙飛行も同じように見えたのだ。

 本作では、登場人物が透明な宇宙服を装着するシーンや、宇宙服なしで船外に放り出されて死亡するシーンが挿入された。それらがあることで、作り手がちゃんと判っていることが伝わってきた。前作にモヤモヤした観客も、本作の後であればスッキリした気持ちで前作を見返すことができるだろう。
 中盤に宇宙服がないと死ぬシーンを挿入したのは、終盤におけるヨンドゥの決意を観客に実感させるためでもあろう。観客の中にも、宇宙服を着なければ危険であることを知らない人がいるかもしれない。作り手のこんな心遣いが嬉しい。

 本作では、大規模な宇宙戦が起きても操縦士は遠隔地にいて死なないが、そのような描写は2010年代に激化した遠隔操作の無人機による攻撃を反映させたというよりも、ジョージ・ルーカスが心がけた「人が死なない戦闘シーン」を受け継いだものと見るべきだろう。
 ジェームズ・ガンはよく判ってる。


コスベイビー 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』[サイズS] ベビー・グルート(おすわり版)■宇宙人が奇妙キテレツである意義

 本作の楽しさは、多種多様な種族が登場することにもある。前作同様ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー(銀河の守護者)[*1]のメンバーがバラエティに富むのはもとより、青い肌のヨンドゥが率いる宇宙海賊ラヴェジャーズや全身金色のソブリン人たちが入り乱れて、賑やかなことこの上ない。

 宇宙を舞台にしたSFに様々な形態の宇宙人が登場することには、一つ大事な意義がある。突拍子もない姿形だが知的な生物を目にすることで、地球人同士の肌の色の違いや目鼻立ちの違いなどは些細なものだと思えてくることだ。だから、異星人がわんさか登場するスペースオペラでは、彼らの姿は地球人にとって奇妙キテレツであることが望ましい。
 そう考えていた私には、二本脚で直立歩行し、目が二つ、口が一つの地球人型生物(ヒューマノイド)ばかりが活躍するのは物足りない……と思いながら観ていたら、そんな観客の気持ちを見透かすように、後半になって"生きる惑星"エゴが登場してくれた。

 エゴは月ほどの大きさで、虚空にポッカリ浮かぶ孤独な星だ。だが、それは自我を持ち、星全体が一つの生き物でもある。何百万年もの長い時間を経て、知性を発達させた星なのだ。

 やっぱり宇宙を舞台にしたSFには、こういう生き物が出てきて欲しい。
 地球人には生物と思えないような、「常識」を超越した存在。数十年の寿命しか持たない地球人には到底及びもつかない知性。そういうものと遭遇するかもしれない宇宙の底なしの恐ろしさを感じさせるところに、宇宙モノの魅力の一端があると思う。
 だからSF小説やSFマンガには、エゴのような奇妙な生物が多々登場する。作家たちは想像力の限りを尽くし、受け手の思いもよらない生物を考え出す。

 ところが映画となると、宇宙人でありながら地球人のようなヒューマノイドが非常に多い。異星で進化したはずなのに、体形も目鼻立ちも地球人と変わらず、地球人のように考え、地球人のように行動する生物にあふれている。ときには、地球とは違う生態系や知性のあり方を提示する映画もあるけれど、ほとんどの作品は現代人が扮装だけ変えて現代とは違う世の中を演じてみせるコスチューム・プレイの変形でしかない。

 それゆえ、派手な衣装のスーパーヒーローが活躍するマーベルの映画に、"生きる惑星"が登場したのは嬉しい驚きだった。"生きる惑星"は、『惑星ソラリス』の知性ある海や『スター・トレック』(1979年の劇場版第一作)の雲状の天体ヴィージャーにも劣らない、異様な存在だ。
 人智を超えた未知の生命との邂逅という深遠なテーマを忍ばせながら、軽快な話運びと胸のすくアクションで楽しませてくれる本作には舌を巻かざるを得ない。

 マーベルのマンガには神のような存在がたくさん登場するのに、映画では『ファンタスティック・フォー:銀河の危機』に宇宙魔神ギャラクタスが少し出たくらいなのが寂しかったが、エゴが登場することで、ようやく映画がマンガの自由奔放さに近づいたようだ。


ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス オーサム・ミックス・VOL.2(オリジナル・サウンドトラック) Soundtrack■映画オリジナルの設定にしたわけ

 本作の主人公、スター・ロードことピーター・クィルは、星間帝国の皇帝ジェイソンを父に持つ高貴な血筋だ。地球に不時着したジェイソンが地球人の女性メレディスと恋に落ち、二人のあいだに生まれたのがピーターだ。
 この原作の設定を、ジェームズ・ガン監督は完全に捨て去った。しかも、あろうことかマイティ・ソーの宿敵エゴをピーター・クィルの父にした。ガン監督の構想を聞かされたマーベルのお歴々が「それはリスキーだ」と云ったのも無理はない。

 "生きる惑星"エゴの登場は、SFとして充実するだけではない。作家たるジェームズ・ガン監督の強烈な個性のほとばしりでもある。

 実は、ジェームズ・ガン監督に対して、ディズニー/マーベルはエゴを映画に出すことはできないと伝えていたそうだ。彼らはエゴを映画にする権利を持っていなかった。エゴに関する権利は、『ファンタスティック・フォー』とともに20世紀フォックスに握られていたのだ。
 ピーター・クィルの父はエゴを置いて他にないと固執するジェームズ・ガン監督は、20世紀フォックスと談判し、本作にエゴを出すことに成功した(引き換えに20世紀フォックスは、『デッドプール』でのネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッドの能力に関する創作の自由を得た)。

 こうまでしてガン監督が出したかったエゴなのに、エゴに関する設定も原作とは異なっている。
 原作のエゴは、惑星表面に巨大な顔が浮かび上がったキャラクターだけれど、映画では表面の顔はほとんど無視され、もっぱら惑星中心の巨大な脳がクローズアップされている。エゴの誕生の経緯も、まず宇宙に脳だけが出現し、脳がまわりの原子を操作することで惑星状の物体になったと説明される。つまり、映画のエゴは"生きる惑星"というよりも、惑星のような外殻をまとった巨大な脳なのだ(偶発的に知性が生じる「ボルツマン脳」と呼ばれるものかもしれない)。

 頻繁に出てくる脳の映像に、既視感を覚える人もいるだろう。これはジェームズ・ガン監督がかつて作った低予算映画『スーパー!』の繰り返しだ。


 低予算映画でデビューした監督が大きな予算を手にしたときに、(意識してかどうかはともかく)改めて低予算時代のイメージを形にするのは珍しくない。
 デヴィッド・リンチ監督は、低予算映画『イレイザー・ヘッド』で描いた月のイメージや奇形の誕生というモチーフを、大予算の大作映画『砂の惑星』で再現した。『イレイザー・ヘッド』の次の『エレファント・マン』で商業映画も撮れることを証明したリンチは、その次の『砂の惑星』で大きな予算を手にするや、『イレイザー・ヘッド』でやったことを嬉々として繰り返した。原作小説のファンは、映画『砂の惑星』に映し出される不可解なイメージショットに困惑したことだろう。
 ジェームズ・ガン監督も『スーパー!』に続く長編映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を成功させると、次の本作で『スーパー!』に立ち返ったようだ。

 そもそもジェームズ・ガン監督は、前作の時点で主人公ピーター・クィルの出生地を、自身が生まれ育ったミズーリ州にしている。そしてピーター・クィルを、1970年生まれの監督が少年期に聴きまくったであろうヒット曲が大好きな男にして、さらに本作では1980年代の少年ならはまったに違いないパックマンが好きであることも示した。すなわちピーターは、ミズーリで少年時代を過ごした監督の分身でもあるのだ。
 加えて、ピーターの仲間であるロケットや海賊仲間だったクラグリンには監督の弟ショーン・ガンを起用し(ロケットの声を演じたのはブラッドリー・クーパーだが)、ミズーリの街で怪物に遭遇する老夫婦には監督の両親を配している。
 宇宙を股にかけた大冒険が描かれる一方で、本作はジェームズ・ガンのとても個人的な映画といえる。

スーパー! スペシャル・エディション [Blu-ray] ジェームズ・ガン監督のオリジナル作品『スーパー!』は、マンガ狂の中年男性が、神の啓示を受けてスーパーヒーローになり、悪と戦う話だった。もっとも、神の啓示を受けたと思っているのは本人だけで、スーパーパワーを身につけたわけでもなんでもない。スーパーヒーローもどきの派手なマスクをかぶった彼は、レンチを手にすると、悪党だと決めつけた相手に後ろから殴りかかり、血まみれになるまで滅多打ちにした。
 スーパーパワーがないだけで、やっているのはマンガの中のスーパーヒーローと同じようなことなのに、それは狂気にしか見えなかった。スーパーヒーローの行為が冷静に見ればただの暴力でしかないことや、善悪の判断が独善的すぎることを皮肉ったこの映画は、痛烈な風刺と同時にマンガやスーパーヒーローへの深い愛情が感じられて、スーパーヒーロー好きにはとても切ない作品だった。


 『スーパー!』の主人公が啓示を受けるシーンで映し出されたのも脳髄だった。
 主人公の頭から脳がむき出しになり、神(のようなもの)の指が触れる。これにより、主人公はスーパーヒーローとして立ち上がる(あるいは狂気に囚われる)ことになる。

 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』でも、神を称する巨大な脳エゴが主人公ピーターに力と啓示を与える。ピーターはスーパーパワーを得て、いかにもマーベル的なスーパーヒーローと化し、なすべこと――みずからも神の一部となり、世界を吸収する――を悟る。
 エゴ(ego)は、日本語では「自我」「自己」と訳される。肥大化した自我は、独立した他者の存在を否定するようになり、振る舞いが暴力的になる。ここで描かれるものは、まさに『スーパー!』のテーマに等しい。

 ただし、肥大化した自我――脳――の命ずるままに暴力を振るった『スーパー!』の主人公に比べて、本作のピーターはいくぶん成長している。彼は、自我の肥大化とスーパーヒーロー気取りの危うさに気づき、肥大化した自我――エゴ――に抵抗する。エゴによってもたらされたスーパーパワーは、エゴを倒したら消えてしまう。それでもピーターはエゴと戦い、結果、スーパーパワーを失う。つまり、スーパーヒーローであることをやめたのだ(少なくとも、神ではない普通の人間のままでいることを選んだ)。いったんはスーパーヒーローになった彼だが、スーパーヒーローからただのヒーローになったのである。

 『スーパー!』でマンガ狂いの中年男の悲哀を描いたジェームズ・ガン監督は、遂にアメコミの総本山マーベルにおいてスーパーヒーローから脱却する映画を撮った。「スーパー」がない「ヒーロー」にだって、主人公は務まることを――マンガの主人公ではなく、人生の主人公が務まることを――示したのだ。

 大切にするべきなのは、母との平凡な暮らしだった。親しい友人や家族に囲まれた日常だった。
 それがスーパーヒーロー(のマンガ)の虜になっていた男の結論だった。


 ヨンドゥの葬送の場面に涙が止まらないのは、そのことに気づいた主人公が、その瞬間に大切な「父」を失い、仲間たちと見送らなければならないからだ。

 8年間の結婚生活に終止符を打った後でガン監督が発表した『スーパー!』。その中で、妻に逃げられた主人公が行き着く先は孤独だった。フィクションに埋没し、妄想と願望をないまぜにして乱暴に振る舞う主人公の許には、誰も残らなかった。

 本作の主人公には、まだ仲間たちがいてくれる。家族と呼べるほど親しい者たちがいる。
 ジェームズ・ガン監督は語る。「前作は、アクの強いメンバーがファミリーとして結束するまでの話だった。そこで今回は"ファミリーでいること"を描くことにした。実際、家族になることよりも、その関係を維持することの方がずっと難しいからね。」[*2]
 自我の暴走を抑え込んだ男は、もう大切なものを失わない。


[*1] 本来はガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー(Guardians of the Galaxy)だが、本稿では映画の邦題に合わせてガーディアンズ・オブ・ギャラクシーと表記する。

[*2] 月刊シネコンウォーカー(No.137/2017年5月6日発行)


映画 ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス ポスター 42x30cm Guardians of the Galaxy Vol. 2 ピーター クイル スター ロード クリス プラット ガモーラ ドラックス ベビー グルート ヴィン ディーゼル ロケット ブラッドリー クーパー ガーディアンズ オブ ギャラクシーガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』  [か行]
監督・脚本/ジェームズ・ガン
出演/クリス・プラット ゾーイ・サルダナ デイヴ・バウティスタ マイケル・ルーカー ショーン・ガン ブラッドリー・クーパー ヴィン・ディーゼル カート・ラッセル カレン・ギラン ポム・クレメンティエフ エリザベス・デビッキ シルヴェスター・スタローン ミシェル・ヨー クリス・サリヴァン
日本公開/2017年5月12日
ジャンル/[アクション] [アドベンチャー] [ヒーロー] [SF]
ブログパーツ このエントリーをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録

【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画
【genre : 映画

tag : ジェームズ・ガン クリス・プラット ゾーイ・サルダナ デイヴ・バウティスタ マイケル・ルーカー ショーン・ガン ブラッドリー・クーパー ヴィン・ディーゼル カート・ラッセル カレン・ギラン

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』 スペースオペラへようこそ

 常々不思議に思っていた。
 なぜ『スター・ウォーズ』のフォロワーが登場しないのかと。

 ――などと書くと、たくさんあるじゃないかとお叱りを受けそうだ。
 たしかに『スター・ウォーズ』の影響は絶大で、1977年の公開以降、『スター・ウォーズ』の流れを汲む映画は多い。いちいち数え上げたら切りがない。
 だがほとんどの場合、『スター・ウォーズ』で考案された手法やイメージの真似に過ぎないように思う。『スター・ウォーズ』と同じ路線、同じ傾向の作品はどれだけあるだろうか。

 もちろん、『スター・ウォーズ』の公開直後には同傾向の作品が続々作られた。
 日本では『惑星大戦争』(1977年)と『宇宙からのメッセージ』(1978年)が公開され、テレビでも『スターウルフ』(1978年)が放映された。イタリア・アメリカ合作で『スタークラッシュ』(1978年)が作られたり、米国でテレビドラマ『宇宙空母ギャラクティカ』(1978年)が放映されたりした。

 だが、『宇宙の7人』が公開された1980年頃には沈静化していたように思う。1984年に『スター・ファイター』が公開されたときは、「まだこういう映画が作られるんだ」と感じたものだ。
 日本には宇宙戦艦ヤマトシリーズ(1983年に『完結編』公開)や『SPACE ADVENTURE コブラ』(1982年)をはじめとする宇宙物のアニメがあったから飢餓感は満たされたが、『スター・ウォーズ』のような実写映画がとれほどあったかというとちょっと思い出せない。

 「『スター・ウォーズ』のような」という形容が何を指しているかを説明する必要があるだろう。
 宇宙を舞台にした映画ならスタートレックシリーズがあるじゃないか、異星人・異星生物と戦う映画なら『スターシップ・トゥルーパーズ』や『エンダーのゲーム』があるじゃないか、と云う人もいるかもしれない。
 けれども、私が「『スター・ウォーズ』のような作品」として期待しているのはスペースオペラだ。

 スペースオペラの語義は一定ではないから、人によって理解が異なるかもしれない。
 私のスペースオペラ像は、野田昌宏大元帥の著書『SF英雄群像』や『スペース・オペラの書き方―宇宙SF冒険大活劇への試み』で形作られた。おおよそ次の要素のうち、複数を有する作品だ。

 ・胸のすく痛快な勧善懲悪物
 ・光線銃を手にした早撃ちガンマン
 ・新兵器を発明する天才科学者
 ・宇宙海賊などの悪漢たち
 ・次々に襲ってくるベム
 ・(衣服を身にまとう因襲から解放された)美女
 ・宇宙を舞台にした、宇宙艦隊や戦闘艇による派手なドンパチ

 ひらたく云えば、昔の西部劇(ホースオペラ)を宇宙に展開したような物語だ。
 『スタートレック』も『スターシップ・トゥルーパーズ』も『エンダーのゲーム』も、これらを売りにした作品ではない(スタートレックのファンは、これらを売り物にしていないことに誇りを持っておられるかもしれない)。
 ジョージ・ルーカスが映画化を夢見た『フラッシュ・ゴードン』ですらスペースオペラではなく、惑星冒険物あるいは「剣と惑星」物に分類されるだろう。『スター・ウォーズ』は『フラッシュ・ゴードン』を下敷きの一つにするものの、主人公が修行して高次元の能力を獲得することや、宇宙を二分する大戦争や、その背後に存在する善悪二元論的な世界観は、『フラッシュ・ゴードン』よりもスペースオペラの金字塔といわれるE・E・スミスの名著レンズマンシリーズに近い。

 2014年9月6日に英テレグラフ紙が発表した「宇宙映画ベスト40」というリストがある。
 「これが宇宙映画?」「これがベスト?」と疑問を抱かなくもないけれど、ここに挙げられた40本を見ればスペースオペラ映画のお寒い状況が伝わってくる。1位が『2001年宇宙の旅』なのはともかく、2位以降を見渡しても前述した要素を含む作品はほとんどない。近年の作品で該当しそうなのは、J・J・エイブラムス監督がリブートした『スター・トレック』(2009年)くらいだろうか(スペースオペラに含めるとスタートレックファンに叱られそうだが)。
 『スター・ウォーズ』の大ヒットにもかかわらず、その根強い人気にもかかわらず、スペースオペラは質・量ともに寂しい限りなのだ。

 皮肉なことに、『スター・ウォーズ』のフォロワーとして人々を楽しませた「『スター・ウォーズ』のような作品」は、『スター・ウォーズ』そのものの続編だ。『スター・ウォーズ』の新作のニュースが流れるたびに、多くの人が一喜一憂してきた。
 「『スター・ウォーズ』のような作品」は、『スター・ウォーズ』シリーズだけがあれば充分なのだろうか。
 宇宙海賊ではなくテロリストと戦い、主人公が光線銃ではなく普通の銃を撃つアクション映画なら、引きも切らずに生産されているのに。

 そんな状況で登場したのが『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』だ。銃器の扱いに精通した主人公や、天才科学者のアライグマや、(露出は少ないが)異星の美女らが大活躍する痛快作だ。死と破壊をもたらす悪の軍団に、宇宙盗賊団や正規軍が入り乱れ、派手なドンパチも欠かさない。
 いやー、待ってました!これぞスペースオペラの醍醐味だ。
 前述したスペースオペラの要素を、こんなにも見事に押さえてくれた映画は珍しい。『グリーン・ランタン』や『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』もいくつかの要素は押さえていたが、これぞ真打と云えるだろう。

 しかも一人のスーパーヒーローが活躍するのではなく、チームを組んで戦うところが、スペースオペラの代表作の一つキャプテン・フューチャーシリーズそのままで嬉しい。
 スーパーヒーローの映画がスペースオペラになりにくい理由には、主人公の強さが尋常ではないことが挙げられるだろう。スペースオペラなら艦隊戦やドッグファイトが見どころなのに、マーベルのスーパーヒーローたちは素手で(せいぜい槌で)敵を全滅させてしまう。それはスーパーヒーローだからとうぜんのことではあるが、素手で全滅させられるような敵しか出せないという作劇上の弱みでもある。
 ハルクが戦闘機を操縦したりクルマを疾走させるところなど、誰も見たくはないだろう。だが、それを避けている限り、手で殴ったり足で走ったりする映画しか作れない。[*1]
 その点、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー[*2]は、メンバーの一人ひとりはたいして強くない。特に主人公は、本作を見る限りちょっと身体能力が高いだけの人間だ。
 だからこそ、宇宙艇を操ったり、銃器を振り回す映画にできる。アクション映画が地上でやっていることを、宇宙で展開できるのだ。


 チームで戦うヒーローというコンセプトは珍しいものではない。
 もともと一人で戦っていたヒーローたちが集結するアベンジャーズが、歴代ライダーが集まった『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』のようなものだとするならば、チームでの活躍を前提にしたガーディアンズ・オブ・ギャラクシーはスーパー戦隊シリーズに相当しよう。

 現在のヒーローチームの源流の一つは、1933年に発表された「ブロンズの男」こと『ドック・サヴェジ』だろう。科学者であり冒険家でもあるドックは、5人の仲間≪ファビュラス・ファイブ≫とともに難事件の数々に挑んだ。このパルプフィクションのヒーローは大人気を博し、シリーズはなんと181編も執筆された。
 このスタイルをスペースオペラに持ち込んだのが、1940年にはじまったキャプテン・フューチャーシリーズだ。科学者にして冒険家(こればっか)のキャプテン・フューチャーと3人の仲間≪フューチャーメン≫が、太陽系を股にかけて活躍する小説だ。

 時代が下って1961年、アメコミにもヒーローチーム『ファンタスティック・フォー』がお目見えした。天才科学者ミスター・ファンタスティックをリーダーとする4人組の超能力者は、異星や未来や異次元からの敵と戦った。
 『南総里見八犬伝』や歌舞伎の『白浪五人男』があった日本でも、1963年に吉田竜夫氏のマンガ『少年忍者部隊 月光』の連載がはじまり、1964年にはテレビドラマ『忍者部隊月光』になって、放映期間は3年近くに及んだ。この後、1972年にテレビアニメ『科学忍者隊ガッチャマン』、1975年には『スパイ大作戦』の影響を受けたスパイアクション『秘密戦隊ゴレンジャー』が誕生し、現在のスーパー戦隊シリーズに続くことになる。

 ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーのマンガ初登場は1969年だから、再びスペースオペラが盛り上がった頃である。
 1920年代、30年代に量産されたスペースオペラは、60年代にまた書かれるようになっていた。巨匠E・E・スミスが久しぶりに新作を発表し、キャプテン・フューチャーシリーズの作者エドモンド・ハミルトンは新たなシリーズ『スターウルフ』を執筆した(スペースオペラかどうかはともかく、テレビでは宇宙物のスタートレック一作目『宇宙大作戦』や『宇宙家族ロビンソン』が放映されていた)。1973年になれば、グレゴリイ・カーンことE・C・キャブがキャプテン・ケネディシリーズに着手する。そんな時期にガーディアンズ・オブ・ギャラクシーは誕生した。
 ファンタスティック・フォーがアメコミに持ち込んだヒーローチームのコンセプトと、60年代に再興したスペースオペラ。二つの流れが合体したのがガーディアンズ・オブ・ギャラクシーだといえよう。

 映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の元になるのは、2008年に結成された新生ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの方だ。初代チームのヨンドゥが、主人公の育ての親として登場するのは粋な計らいだ。
 ちなみに2008年は、スター・ウォーズ新三部作(~2005年)の完結後、『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』(2008年)が公開されたときだから、マーベルがスペースオペラに取り組む下地は充分である。


 本作が面白いのは、作品の裏に100年になんなんとするスペースオペラの歴史がうかがえるからだ。
 本作にはいささか盛り込み過ぎのきらいがある。『スター・ウォーズ/新たなる希望』の舞台となる惑星タトゥイーン、デス・スター、ヤヴィンが示すように、映画1本が舞台にする世界は三つくらいが一般的なのに、本作は惑星モラグ、ノバ帝国の首都ザンダー星、刑務所キルン、古代種族の頭部、移動要塞ダークアスターと五つもの世界を駆け巡る。並みの映画なら説明不足で消化不良を起こすところだが、そうならないのが本作の魅力だ。劇中のちょっとしたことにも、その背後に数多のスペースオペラが垣間見えて、懐かしさが押し寄せる。
 そもそも1940年代に書かれたキャプテン・フューチャーシリーズがすでにスペースオペラの集大成たる作品なのだから、その要素を取り入れた本作に接すると、気持ちは瞬時に1940年代へ、さらには20~30年代のスペースオペラ全盛期に飛んでいく。

 もちろん、過去のスペースオペラを知らなければ楽しめないわけではない。知らなければ、スペースオペラの歴史の蓄積がもたらした上澄みの美味しいところから味わえるのだから、なお幸せだ。
 『キャプテン・フューチャー』の誕生から七十余年を経て、映画も遂にここまで来た。

 注目すべきは、ジェームズ・ガン監督の手綱さばきの巧さだろう。
 『スーパー!』ではヒーロー物のネガティブな面をこれでもかと暴き出したガン監督が、本作では憑き物が落ちたようにヒーロー物のポジティブな面を楽しんで撮っている。
 順序が逆だったらこうはいくまい。ヒーロー物が持つ傲慢さ、幼稚さ、狂気と暴力性を『スーパー!』で吐き出して、シニカルな眼差しで検証し終えたからこそ、今回これほど能天気に突き抜けた作品を撮れたに違いない。

 それでもシニカルな視点は随所に感じられる。
 一体全体、ラスボスとの最終決戦で踊りだすヒーローなんて、これまでにいただろうか。
 ハンサムなクリス・プラットが演じるから観客は笑って見ているが、ガン監督の心の眼には『スーパー!』の中年男フランク・ダルボが映っていたのではないだろうか。あの不細工で、小太りで、みっともない男が、宇宙の危機だというのに踊っている。『スーパー!』でシニカルな想いを吐き出してなかったら、そういう皮肉をやってしまったかもしれない。
 そこをギリギリで踏みとどまり、誰もが楽しめる痛快スペースオペラの範疇に収めてみせたガン監督の手腕の冴えに喝采を送りたい。


[*1] この点を巧く処理した作品として『ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国』(2010年)がある。ウルトラマンにかこつけてスペースオペラに挑戦したこの映画は、主人公が普通の人間と戦艦並みの巨大ヒーローを行き来するウルトラシリーズの特徴を活かして、スーパーヒーロー物とスペースオペラを両立させていた。

[*2] 本来はガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー(Guardians of the Galaxy)だが、本稿では映画の邦題に合わせてガーディアンズ・オブ・ギャラクシーと表記する。


ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』  [か行]
監督・脚本/ジェームズ・ガン  脚本/ニコール・パールマン
出演/クリス・プラット ゾーイ・サルダナ デイヴ・バウティスタ ヴィン・ディーゼル ブラッドリー・クーパー ジャイモン・フンスー ジョン・C・ライリー グレン・クローズ ベニチオ・デル・トロ リー・ペイス マイケル・ルーカー カレン・ギラン
日本公開/2014年9月13日
ジャンル/[アクション] [アドベンチャー] [ヒーロー] [SF]
ブログパーツ このエントリーをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録

【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画
【genre : 映画

tag : ジェームズ・ガン クリス・プラット ゾーイ・サルダナ デイヴ・バウティスタ ヴィン・ディーゼル ブラッドリー・クーパー ジャイモン・フンスー ジョン・C・ライリー グレン・クローズ ベニチオ・デル・トロ

最新の記事
記事への登場ランキング
クリックすると本ブログ内の関連記事に飛びます
カテゴリ: 「全記事一覧」以外はノイズが交じりますm(_ _)m
月別に表示
リンク
スポンサード リンク
キーワードで検索 (表示されない場合はもう一度試してください)
プロフィール

Author:ナドレック

よく読まれる記事
スポンサード リンク
コメントありがとう
トラックバックありがとう
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

これまでの訪問者数
携帯からアクセス (QRコード)
QRコード
RSSリンクの表示