『太秦ライムライト』 斬られ役が生き残る方法

 「どこかで誰かが見ていてくれる…」って、本当だろうか?

 この言葉は映画『太秦ライムライト』の惹句としてポスターに書かれている。劇中のセリフにもある。主演した福本清三さんの著書の題名でもある。
 どこかで誰かが見ていてくれる。本作はその思いに貫かれているが、本当にそうなのだろうか。

 『太秦ライムライト』は、55年の長きにわたり時代劇の斬られ役を務め、「5万回斬られた男」の異名を持つ福本清三さんを主演に迎え、福本さん自身を彷彿とさせる名もない斬られ役の生き様を描いた作品だ。
 本作がモチーフにするのは、チャールズ・チャップリンが老いた道化師を演じた『ライムライト』。本作冒頭には『ライムライト』と同じように、「ライムライトの魔力 若者の登場に老人は消える」の文字が浮かぶ。ライムライト(石灰灯)とは昔の舞台照明のこと。転じて名声を意味する。
 文言が静かに消えた後、映画はいきなり侍同士の対決シーンに変わる。閃く刃、キーンと響く鋼の音。映画はもうクライマックスだ。やがて一方の侍がバッサリ斬られ、我らが福本清三が倒れ伏す。
 うーん、痺れる。カッコいい!

 だが、カッコよくなるのはこれからだ。
 映画は主人公――福本清三さん演じる香美山(かみやま)清一の日常を淡々と描写する。
 朝、撮影所の貼紙でその日の出演作を確かめる香美山。自分でメイクし、カツラを付ける香美山。今日も今日とて斬り殺される香美山。木刀を手に、一人で殺陣の稽古をする香美山。普段着に戻り、撮影所を後にする香美山。畳敷きの部屋にポツンと独り、質素な食事をとる香美山……。
 50年以上斬られ役を演じてきた香美山のキャリアは、福本さん本人の歩みと大いに重なる。

 福本さんにはご家族がいるし、落合賢監督が「香美山と福本さんは、共通点の方が少ないくらい全く違う」と云うように、テレビやラジオで気さくに話すところなど無口無表情の香美山とは違うけれど、孤高の武士のような香美山の人物像は、福本さんが演じてきた浪人者が現代に実在したらこんな生き方をしたのではないかと思わせて、福本清三さんしか演じられない役になっている。
 主演俳優を引き立たせる斬られ役。カメラは主演俳優を正面から撮るため、斬られ役は背中しか映らない。一瞬のちには斬られて、フレームの外へ消えていく。その一瞬のために毎日コツコツ殺陣の練習を繰り返す。
 斬られ役にスポットライトが当たったりはしないけれど、芸を極めるとはこういうことを指すのだろう。名人達人と呼ばれる人は、きっとこんな努力を積み重ねてきたに違いない。本作を観ると、そんな気がしてくる。

 とはいえ時代劇は斜陽である。42年続いたテレビドラマ『水戸黄門』ですら、2011年に終了した。かつて100人以上が在籍した殺陣技術集団・東映剣会(つるぎかい)も今や十数人を残すのみ。
 そんな現実を踏まえ、映画はたった十数人の斬られ役さえもが、一人欠け、二人欠け、減っていく模様を映し出す。ある者はチャンスを期待して東京に行き、ある者は廃業してラーメン屋になる。
 それが正解なのかもしれない。斜陽産業にしがみついても、どうにもならないのかもしれない。

 劇中、長く続いた時代劇ドラマを潰して、新感覚のアクション時代劇をはじめるプロデューサーや監督がまるで悪者のように描かれるが、現実には彼らのやり方こそ正しいはずだ。ジリ貧の番組を続けるより、アイドルの起用や新鮮なアクションで新しい客層を開拓する。そうやって時代劇の息を吹き返そうとする方が、先細りのまま同じことを繰り返すより健全なはずだ。
 なのに、本作を観る私たちは昔ながらの斬られ役に肩入れし、番組を潰すプロデューサーに反感を覚える。
 香美山の一徹な姿に、私たちはなぜこうまで惹かれるのか。

 イラン人のエッテハディー・サイードレザ氏は、特定の分野を頑張るのが日本人の特徴だと指摘する。
 幅広い分野に少しずつ関心を持つイラン人には、特定の趣味というものがない。そんな彼らには、日本人が一つの趣味やスポーツに熱心に取り組み、「将来、それを仕事にできるのでは」と思えるほど必死になるのが興味深いようだ。

 私はこの日本人の特徴が、強固な身分制の下、職業選択の限られた江戸時代に培われたのではないかと考えている。
 代々加賀藩の経理を務めた猪山家を描く『武士の家計簿』や、代々加賀藩の御料理人を務めた舟木家を描く『武士の献立』に見られるように、江戸時代は家ごとに職業が固定され、生まれたときからその職業をまっとうするように育てられた。幼い頃から脇目も振らず家職にいそしみ、立派に継いでまた次の代に渡していく。才能ある者に平等にチャンスを与える試験制度がなかった時代だ。
 そのような家では、家職以外のことに入れ込んだり、新しいことをはじめるなんてとんでもなかったろう。ただひたすらに一つのことに打ち込み、その仕事を勤め上げるのが良しとされたに違いない。
 これを美徳とする感覚が、今の日本にも脈々と受け継がれてるのではないだろうか。それが変化の激しい時代に通用するかは判らないが。ややもすれば、変化する世界の方を悪いと考えてしまうおそれもあるが。


 ともあれ、多くの観客には昔気質の香美山がカッコよく見えるに違いない。
 その彼が新人女優の伊賀さつきに語るのが、「どこかで誰かが見ていてくれる」というセリフだ。
 他の仕事に就こうなどと考えず、脇目も振らずやっていくには、「どこかで誰かが見ていてくれる」と自分に云い聞かせるしかないかもしれない。そう信じて打ち込まなければ、何ごとも上達しないのかもしれない。
 劇中、さつきは香美山に師事して殺陣を身につけることで、女優としてのチャンスを掴んでいく。香美山の言葉どおり、さつきが立ち回りもできることを見ていてくれる人がいたからだ。
 一方で香美山は、映画やテレビに出ることができず、仕事がなくなっていく。このあたりの展開は『ライムライト』や『アーティスト』と同様だ。

 本作が巧いのは、「どこかで誰かが見ていてくれる」という言葉に二重の意味を持たせた点だ。
 香美山がさつきにこの言葉を語ったとき、それは仕事上の意味だった。さつきの地道な努力はきっと報われる、そういう意味で語られた言葉だった。
 ところがその後の展開は、この言葉が香美山にも当てはまることを示す。寡黙な香美山を慕い続けるさつきこそ、香美山を見ていてくれる人だった。
 男性諸氏にはこの上ないファンタジーだ。昔ながらの美徳に従い、頑固一徹に仕事に打ち込んでいれば、たいへんな美女が慕ってくれるのだから。
 けれども、これが浮ついた展開に感じられないのは、福本清三さんが演じるからだろう。実際に斬られ役を続け、一瞬の登場ながら印象的な立ち回りでファンを獲得してきた福本さんの存在感が、撮影所のファンタジーに説得力を与えている。香美山とさつきの間を、恋愛関係ではなく師弟関係として描いたのもミソである。

 『太秦ライムライト』のクライマックスは、香美山とさつきが共演する大立ち回りだ。
 久しぶりの大型時代劇に撮影所は活気づく。
 劇中で詳しい経緯は語られないが、大型時代劇の企画が持ち上がったのは伊賀さつきの人気に乗じたからだろう。スターになったさつきの主演映画として、立ち回りができることを活かした時代劇が企画されるのは自然な流れだ。
 そして映画は大立ち回りで盛り上がりながら、斜陽産業にしがみついてきた斬られ役たちに花を持たせる。それはオマージュとかノスタルジーではなく、現実的な一つの解だ。

 経営用語に「残存者利益」というものがある。
 「先行者利益」という言葉はよく耳にするだろう。他社に先駆けて市場に参入することで、手にする利益である。まだ競合他社がないうちにブランドを確立し、ノウハウを蓄積して後発企業に差をつける。先行者利益を得るために、各社は新製品・新サービスの開発に余念がない。
 対する残存者利益とは、最後まで残った者が手にする利益のことだ。

 先発企業が儲けるのを目にしたライバルたちは乗り遅れまいと続々と市場に参入し、市場はあっという間に過当競争になる。新規参入企業を吸収できるほど市場が拡大しているうちはいいが、いずれ市場は飽和状態になる。それどころか市場が縮小に転じることすらある。そうなるとますます競争は激しくなり、体力がない企業は脱落してしまう。体力があっても、将来性のない市場に残って深手を負うより、早々に撤退することを選ぶ場合もある。ビデオデッキ市場やフィルム写真市場のように、最盛期の盛り上がりが嘘のように縮小してしまい、企業が撤退した例は多い。
 それでも歯を食いしばって市場に残り続けるとどうなるか。
 意外や、いつまでも生き残れたりするのである。

 残存者利益を得た企業の代表例が、レコード針のナガオカだ。
 かつて音楽メディアといえばレコードが主流だったが、コンパクトディスク(CD)の登場によりレコードはさっぱり売れなくなった。レコードプレーヤーもレコード針も不要になってしまった。
 ところが、レコード市場は縮小しても、ゼロにはならなかった。
 CDの規格が検討された頃、20キロヘルツ以上の高周波音は人間に聞こえないと思われていたため、CDでは22.05キロヘルツ以上の高音がカットされてしまった。そのため、高音まで含んだ豊かな音楽を味わいたい愛好家は、CDが普及した後もレコードを聴き続けた。
 必然的にレコードプレーヤーもレコード針も完全にはなくならなかった。特にレコード針は使えば使うほど劣化する消耗品だから、需要が途切れることはない。ナガオカは愛好家たちにレコード針を売り続けた。
 もはや競合する他社はほとんどおらず、市場が小さいために今さら新規参入する企業もない。ナガオカは市場に踏みとどまったおかげで、確固たる地位を手に入れたのだ。

 時代劇も同じだ。
 時代劇の数は減ったけれど、ゼロにはならない。100人以上の斬られ役は必要なくても、十数人には需要がある。
 ナガオカがCDに満足できない愛好家に選ばれるだけの技術を持っていたように、殺陣の研鑽を積んできた彼らには他者が取って代われないものがある。
 本作でも、主演の大物俳優が斬られ役を指名する場面がある。義理や人情ではない。斬る演技と斬られる演技がきちんと噛み合って芝居は成立する。主演俳優の斬る演技に付いてこられる斬られ役がいなければ、困るのは主演俳優だ。プロだから相手を選ぶのだ。
 「どこかで誰かが見ていてくれる…」どころの話ではない。斬られ役が十数人にまで減ってしまったこんにち、確かな技術と経験を有する彼らは時代劇になくてはならない存在なのだ。仕事が先細りする中で腐ることなく、研鑽を怠ることなく、踏みとどまった彼らだからこそ手に入れられた利益がここにある。

 「どこかで誰かが見ていてくれる…」という言葉には、どことなく受け身の印象がある。自分を発見し、注目する役割を他人に期待している感じがある。
 しかし、本作を観れば、この言葉が謙遜だと判るだろう。それは、たゆみなく努力し、替えのきかない技術を身につけて、誰にも無視できないほどの実力を備えた者だけに許されるセリフなのだ。
 そんな孤高の剣士だから、たまらなくカッコいいのだ。


太秦ライムライト [DVD]太秦ライムライト』  [あ行]
監督/落合賢  脚本/大野裕之
出演/福本清三 山本千尋 合田雅吏 本田博太郎 萬田久子 松方弘樹 峰蘭太郎 木下通博 柴田善行 小林稔侍 中島貞夫
日本公開/2014年7月12日
ジャンル/[ドラマ]
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【theme : 邦画
【genre : 映画

tag : 落合賢 福本清三 山本千尋 合田雅吏 本田博太郎 萬田久子 松方弘樹 峰蘭太郎 木下通博 柴田善行

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