『アクト・オブ・キリング』 こんな映画観たことない!

アクト・オブ・キリング オリジナル全長版 お、面白かった。インドネシアの大虐殺を取り上げたドキュメンタリーというから重苦しい映画だろうと覚悟して臨んだが、案に相違して『アクト・オブ・キリング』はとても面白い映画だった。
 虐殺者の所業を面白がってると勘違いされてはいけないから、興味深いと表現する方がよいかもしれない。ともかく166分ものオリジナル全長版がまったく苦にならない、刺激に満ちた映画だった。

 山形国際ドキュメンタリー映画祭2013で『殺人という行為』の題で公開された『アクト・オブ・キリング』は、1965年9月30日の軍事クーデター未遂事件(9・30事件)に端を発する大虐殺を追った作品だ。
 公式サイトによれば、米国のジョシュア・オッペンハイマー監督は人権団体の依頼で虐殺の被害者を取材していたが、当局から被害者への接触を禁止されたため、対象を加害者に変更したという。
 悲惨な事件のドキュメンタリーといえば、被害者側の証言から事件の深刻さを浮き彫りにするのが定番だと思っていたので、加害者の一方的な云い分だけで構成される本作はとても新鮮だった。

 9・30事件の政治的、歴史的背景や、本作のジャーナリズムとしての特徴については、福島香織氏の記事『インドネシアの華人虐殺930事件 「アクト・オブ・キリング」が語るもの』に詳しい。

 後に大統領となるスハルト少将の下で虐殺に走ったのは、プレマンと呼ばれるヤクザ者だ。
 犠牲者300万人ともいわれる大虐殺を行った彼らは、国民的英雄である。今は裕福に暮らしている彼らの一人アンワル・コンゴは、可愛い孫に囲まれながらアヒルの世話をする気のいい爺さんだ。
 フリーマン(自由人)を語源とするプレマンは、殺しも焼き討ちもためらわず、非合法な賭博を運営したり、商店からみかじめ料を取り立てたりしながら、街の治安を守っている。少なくとも彼らは、自分たちは治安を守っていると主張している。

 この点、日本のヤクザにそっくりだから、日本人にも判りやすいだろう。
 日本でも、ヤクザが司法・警察の及ばない地域のもめごとを解決して、治安維持に貢献していた時代がある。ヤクザの清水次郎長や国定忠治や座頭市は、庶民にとってヒーローだった。
 司法・警察制度が整い、ヤクザに頼らなくてももめごとを解決できる現在では時代遅れの存在だが、憎まれ者を裁判もなしに殺害して金を取る『必殺仕事人』が人気を集める様子をみると、今だに司法・警察によらない私刑のニーズはあるのかもしれない。警察こそ「日本最大の暴力団」と呼ばれているのはともかくとして。

 プレマンたちを大虐殺の加害者と見るのも、私たちが外国の観客だからだ。
 当人たちは悪を倒した英雄のつもりでいる。彼らが殺したのは共産党関係者とされた人々だった。当時、共産主義者は国家を転覆させる悪党とみなされた。

 作中、久しぶりに集まったプレマンたちが昔の殺しっぷりを語り合う光景は、まるで歴代の仮面ライダーが集結して悪との戦いを回想するような感じだ。
 プレマンのリーダーだったアンワル・コンゴは、「はじめは殴り殺してたんだけど、血がたくさん出て掃除がたいへんなんだよ。そこで針金を首に巻いて絞め殺すことにしたのさ。これだと汚れないからいいんだ。」と殺し方の工夫を自慢する。それは仮面ライダーが「耐熱怪人ゴースターはライダーキックが効かない強敵だったけれど、1号と2号が協力したライダーダブルキックなら粉微塵だったな。」と談笑するようなものである。

 余談だが、仮面ライダーの敵ショッカーは、首領の下で世界を統一するため、各地にアジトを作ってテロを行う結社である。世界革命を標榜する共産主義組織のカリカチュアライズとしか思えない。
 対する仮面ライダーは、 平和のためでもなく正義のためでもなく、人間の自由のために戦っている。結果的に国民国家を護持する彼らは、西側自由主義陣営の先鋒に見える。
 『仮面ライダー』の作り手の意図はともかくとして、このような構図を当てはめてみれば、プレマンが共産主義者退治を悪びれるどころか自慢するのは判らないでもない。

 人間が集団として認識できるのはせいぜい200~300人程度だという。1965年当時、1億人以上が住んでいたインドネシアで、全国民を同胞として愛せるはずもない。
 ましてやロバーズ・ケイブ実験等が示すように、人間はささいな違いから世界を「俺たち」と「奴ら」に色分けして争ってしまうものだ。
 国が違う、地域が違う、学校が違う、クラスが違う、信じるものが違う。少しでも違っていれば、「奴ら」は「俺たち」じゃない。打ち負かすべき相手である。打ち負かす行為は「俺たち」の中では善いことだ。打ち負かされた「奴ら」にとっては悪いことかもしれないが。
 本作を観れば、善とか悪とか、正とか邪なんて区別に意味がないことが判る。「奴ら」を打ち負かして「俺たち」が生き残る――それは地球上の多くの生き物がやっている普通の生の営みだから。その言動に善だの悪だのラベルを貼れるものではない。
 ジョシュア・オッペンハイマー監督は何とかプレマンから後悔や謝罪や反省の言葉を引き出そうと試みるが、とうぜん彼らはそんなことを口にしない。


Born Free--Original Motion Picture Score CD, Limited Edition, Soundtrack ところが、オッペンハイマー監督のあるアプローチが興味深い効果を上げていく。
 アクト・オブ・キリング(殺人の演技)の題名どおり、オッペンハイマー監督はプレマンたちに大虐殺の様子の再現を依頼する。プレマンたちは大喜びで再現ドラマを演じはじめる。ドキュメンタリーなのに「やらせ」を仕向けた監督には脱帽だ。
 プレマンたちはメイクしたりリハーサルを繰り返し、自分たちの「偉業」を伝える映画作りにのめり込んでいく。
 こうして本作は壮大な「やらせ」現場のメイキングと化していくのだ。

 もともとアンワル・コンゴは映画のチケットを売るダフ屋だったそうだが、プレマンたちが映画好きで映画作りに熱心なのも日本のヤクザと符合して面白い。
 ヤクザ出身の映画人といえば千本組の組員だった大映社長永田雅一が有名だが、その千本組の組長笹井末三郎はマキノトーキー製作所(後の松竹京都撮影所)の理事でもあった。
 町山智浩氏は日本の映画・ヤクザ事情について次のように述べている。
---
Vシネとかそういうの撮ってる人たちっていうのは、実は暴力団関係の人が多いんですよ。
(略)
昔からヤクザの人は映画界にいるんですけど。ただ、彼ら金儲けしようとして来てるんじゃないんですよ。本っ当に映画が好きなんですよ!すっごい詳しいんですよ。映画関係に入ってるヤクザの人と話をすると。お前、何にもしらねーな!って言われるんですよ。
(略)
ヤクザになる人たちって、ロマンチストが多いから、映画とか好きなんですよ。だからお金儲けると、『じゃあなにかやろう。映画撮ろうじゃねーか!』って言って映画撮るんですよ。本当に。具体的に名前は出せませんが!
(略)
三池崇史監督も、そういった映画を撮ったことがあるんですけども。みんな、やってるわけですけど(笑)。そういうものなんです。
---

 そして町山氏はヤクザが映画を作る物語『地獄でなぜ悪い』を絶賛するのだが、たしかに『地獄でなぜ悪い』は面白いのだが、それを云ったら『アクト・オブ・キリング』の面白さは尋常ではない。
 なにしろ本当のヤクザ者が登場して、実際の武勇伝をみずから演じるのだから。「鉈で首を切るとだな、ゴボゴボとか云ってくずおれて、首だけになりながら目がこっちを見てるんだ。」なんて切った当人が話すのだから、フィクションの映画は形無しだ。

 しかもみんなキャラが立っている。
 シドニー・ポワチエが好きだというアンワル・コンゴはもとより、劇団員の経験もある太っちょのヘルマン・コトは女装までして大熱演だ。
 アンワルの隣に住むスルヨノは、大虐殺の実録映画を撮ると聞いて黙っていられなくなった人だ。彼は当時継父を殺された遺族なのだ。みずからプレマンに殺される役を買って出るものの、ボロ泣きして何も喋れなくなってしまう。

 本作は、国民に共産主義の恐怖を植え付けるために作られたプロパガンダ映画も紹介する。
 すべての小中高生はこの映画を観させられ、共産主義者の残酷さと、共産主義者を打ち負かさなければならないことを刷り込まれたという。
 プレマンたちは映画が好きなだけではなく、洗脳の道具として映画が有用なことを知っているから、プレマンを賛美する映画を作りたがるのだ。映画というメディアの恐ろしさをうかがわせるエピソードである(このエピソードはオリジナル全長版のみに収録)。

 こうして繰り返し拷問と殺人を再現していたアンワル・コンゴに、ある変化が訪れる。
 ヘルマン・コトと交代して被害者を演じていた彼が、もうできないと云い出すのだ。あれほど楽しげに殺人を語っていた彼が、ひどく辛そうになっている。
 この変化を捉えたのが、本作の最大の成果だろう。

 私は岡本茂樹著『反省させると犯罪者になります』を思い出していた。
 累犯者の更生支援をする岡本氏は、犯罪者に「反省しろ」「相手の気持ちになって考えろ」と云っても無駄だという。自分が悪いと思っていないのに、すぐに反省したり、相手の気持ちになれたりするはずがない。せいぜい反省文の書き方が巧くなるだけだ。
 必要なのは、自分の云い分を語らせること。被害者に対する気持ちや自分の思いを語り尽くして、はじめて相手のことを考えられるようになるという。
 本作が追い続けたアンワル・コンゴと、岡本氏が接する受刑者とではいささか状況が異なるけれど、過去の殺人について思う存分語らせて、再現ドラマまで演じさせ、被害者の言葉や表情や細かい仕草まで思い出させたことが、40年間反省することのなかったアンワル・コンゴに変化をもたらしたのかもしれない。

 そのとき彼は悟ったのだろう。
 「俺たち」が殺した「奴ら」は、「俺たち」と変わらぬ人間ではないかと。
 殺された「奴ら」は「俺たち」とは違う者のはずだったから、「奴ら」を始末した「俺たち」は英雄であり、勝利が誇らしかった。
 しかし「奴ら」と「俺たち」に境界がなかったら、「奴ら」も「俺たち」も同じ人間なんだとしたら、自分がやったことは何なのか。

 忌むべき行為に対して「吐き気を覚える」という表現があるけれど、これが文学上のレトリックではなく、あるとき人間は本当に吐かずにいられなくなってしまうことを私たちは目にする。
 こんな映画は観たことない。


 もっとも、インドネシアの事情は複雑だ。
 本作が描くようにプレマンを組織化したパンチャシラ青年団は権勢を誇っているし、2014年7月の大統領選では民主化路線の候補と軍事独裁的な流れを汲む候補が接戦となって、民主化を望まない国民が多いことを印象付けた。これからもプレマンは英雄であり続けるのだろう。

 予告編には「密かに行われた100万人規模の大虐殺」の文字が躍るけれど、プレマンは虐殺を隠さなかった。
 にもかかわらず、この虐殺が大きく取り上げられてこなかったことについて、福島香織氏は次のように述べている。
---
「アクト・オブ・キリング」という映画のすごさは、「インドネシアの大虐殺を告発し、虐殺者とインドネシア政府を糾弾する」といった薄っぺらな人道主義がテーマになっていないことだ。
(略)
930事件最大の受益者で勝利者が米国はじめ西側自由主義陣営であるから、この大虐殺事件が国際社会で糾弾されるともなく容認されてきた。ポルポトの虐殺が国際社会で語り継がれるのは共産主義が敗者だからである。虐殺者が英雄になることは、インドネシアだけの現象でも、中国だけの理でもない。虐殺が肯定され、虐殺者が英雄になる仕組み、国際政治が容認すれば虐殺も正義の戦争となる、そこが真に恐ろしいのだと気付かせる構成になっている。
---

 西側自由主義陣営には日本も含まれている。
 スハルトのためにインドネシアを追われたデヴィ夫人は、日本がスハルトを支援し、虐殺者たちに資金を提供していたことに憤る。

 最後の最後に観客が驚くのは、エンドクレジットだ。
 多くの映画と同様にスタッフの名前がだらだら続くかと思いきや、ほとんどのスタッフや協力者がANONYMOUS(匿名)になっている。彼らに危険が及ぶのを避けるための措置なのだ。
 匿名にしたことについて、監督が公式サイトに言葉を寄せている。
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この栄誉ある"匿名"という名は、インドネシアの物語に世間の注目を集めようと絶えず働いた素晴らしい人々を指し示している。彼らの勇気なしでは、この映画はただのアイディアや希望のままで終わっていたはずである。
(略)
プロジェクトを実現させるための多大な献身に、深い感謝の意を表したい。
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 いつか、この人たちが名前を明かせる日は来るだろうか。
 映画の衝撃に言葉もないまま、私は映画館を後にした。


アクト・オブ・キリング オリジナル全長版アクト・オブ・キリング』  [あ行]
監督/ジョシュア・オッペンハイマー
共同監督/クリスティーヌ・シン、匿名
劇場公開版(121分)日本公開/2014年4月12日
オリジナル全長版(166分)日本公開/2014年8月9日
ジャンル/[ドキュメンタリー]
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【genre : 映画

tag : ジョシュア・オッペンハイマー クリスティーヌ・シン

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