『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』 封印解いてベッカンコの巻
【ネタバレ注意】
『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』を観ようと思ったのは、籠谷千穂氏のツイートが目に留まったからだ。
『ドラえもん』がラヴクラフト!?
どういうことか確かめようと足を運んだ私は、本作のあまりの面白さに驚愕した。
かき氷をたくさん食べたいのび太がドラえもんと氷山に行ってかき氷を食べまくり、さらに友だちを連れてきて楽しく遊ぶ、という序盤の流れは、原作マンガの『大氷山の小さな家』の流用だ。そこで、10万年前から氷漬けになっていたリングを見つけたのび太たちは、リングの出所を探るべく南極へ赴く。ここから物語はH・P・ラヴクラフトの怪奇小説『狂気の山脈にて』にスライドし、太古の昔に飛来した異星人の遺跡に遭遇したり、遺跡に残る怪物に襲われたりする。
本作におけるラヴクラフト作品との類似や、『遊星からの物体X』からの引用等については、籠谷千穂氏がご自身のブログで掘り下げた記事を書いておられる。
怪奇小説が元ネタとはいえ、決してホラー色が濃厚な映画ではない。テンポの良いストーリー運びの中に、友情と親愛と夢がいっぱい詰まった痛快無比の冒険活劇だ。
私の隣の席に座った小さな男の子は、予告編のときからちょっと映像が暗くなるたびに「怖い、怖い」と母親にしがみついていたが、本作がはじまると食い入るようにスクリーンを見つめていた。幼児だって片時も目を離せない、楽しく面白い作品なのだ。
■大長編SF冒険マンガと日常的短編SFマンガの交代
本作を観て、私はとても羨ましく感じた。ドラえもん映画は、今もこんなにも面白い。
オーパーツを巡る異境の冒険、タイムトラベルと異星人、超科学・新発明を駆使して戦う仲間たち……。これらはどれも『サイボーグ009』のお株だったはずなのに、と009ファンの私は思った。便利なひみつ道具を次々取り出すドラえもんと、ひみつ道具を各人各様に装備したのび太たちは、まるで発明家ギルモア博士と兵器を内蔵したゼロゼロナンバーサイボーグたちに見えた。
『サイボーグ009』が死の商人ブラックゴーストとの戦いにひと区切りつけ、タイムトラベラーや異星人を相手にしたり、オーパーツに導かれて異境を探検したのは、1968年の「移民編」から1979年に終了した「海底ピラミッド編」までのことだ。この間、二度のテレビシリーズが制作され、1980年の年末にはオーパーツや古代遺跡や異星人や宇宙探検がてんこ盛りの映画『サイボーグ009 超銀河伝説』が公開された。東映史上初の、アニメーションの正月映画だった。この頃までは、この手のマンガ・アニメを代表するのは間違いなく『サイボーグ009』だった。
けれども、1979年からはじまった『少年サンデー』と『少年ビッグコミック』での連載の途中から、『サイボーグ009』は人情話になっていった。サイボーグ戦士たちの日常の出来事を拾い上げた短編がもっぱら描かれるようになったのだ。この後、何度もテレビアニメや劇場用アニメ等が作られたけれど、痛快無比の冒険活劇とはいかなかった。サイボーグ戦士たちの日常を題材に、彼らの心の襞を丁寧に描写した作品群を経た後では、あっけらかんとしたストーリーが馴染まなかったのかもしれない。すでに『サイボーグ009 超銀河伝説』でも、009の浮気問題や004との友情のグダグダが挿入され、痛快無比とはいえなかった。
『サイボーグ009』の変化と軌を一にするように、『ドラえもん』も新たな領域へ踏み出していた。ただしそれは、『サイボーグ009』とは正反対の方向だ。
日常的な出来事に少し不思議な要素を織り交ぜた一話完結の短編ばかりだった『ドラえもん』は、1980年に『大長編ドラえもん』と題してマンガ『のび太の恐竜』が発表され、合わせて同タイトルの劇場用長編アニメーション映画が公開された。この作品を嚆矢として、以降毎年のように長編映画の公開が続き、ドラえもんたちは宇宙へ太古へ海底へと縦横無尽に活躍するようになった。
そして2017年の長編映画第37作『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』に至るわけだが、その元気に溢れた面白さは圧巻だった。『サイボーグ009』の「移民編」から「海底ピラミッド編」までを濃縮したようなストーリーに、土管に腰かけてコッペパンを頬張り、新幹線の屋根に飛び乗ってはしゃいでいた頃の009の天真爛漫さを盛り付けたような楽しさだった。そのうえ、ドラえもんたちが先端にドリルのついた氷底探検車に乗って南極の氷を掘り進む様子は、『サイボーグ009』の「地下帝国ヨミ編」でドルフィン号が地底を探検するところにそっくりだし、氷底の古代都市でのび太を襲うペンギンの石像のデザインは地下帝国ヨミの鳥型の魔神像を思わせた。
これだ。私が観たかったのはこんなアニメだったのだ。
『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』は、人間ドラマとしても大いに見応えがある。
映画の中盤では偽ドラえもんが出現し、のび太たちを混乱に陥れる。スネ夫やジャイアンは偽者と覚しきドラえもんを警戒し、氷漬けにしてしまおうと相談する。何の危害も加えられていないにもかかわらず。複数出現したドラえもんのどちらを攻撃するか相談するスネ夫とジャイアンは、あたかも誰をいじめるか標的を選ぶかのようだった。
それを止めさせたのが、のび太の"誰もいじめない"という選択だ。スネ夫やジャイアンに同調していれば無難だろうに、あえて立ち塞がったのび太の凛々しさに胸が熱くなる。終盤の危機的状況で、未来ののび太に希望を託す(『STAND BY ME ドラえもん』を彷彿とさせる)展開は、中盤でのこのやり取りがあるから生きてくるのだ。
映像面でもニヤリとさせられることが多い。
封印を解かれて蘇った巨大な怪物ブリザーガを目にして、多くの観客が宮崎駿監督の『もののけ姫』のディダラボッチに似ていると感じるだろう。加えて、口から冷凍ビームを吐き散らし、ドラえもんたちを襲う凶暴さは、『風の谷のナウシカ』の巨神兵のようでもある。
巨神兵にディダラボッチ――つまりは宮崎アニメの源流であるポール・グリモー監督の『やぶにらみの暴君』(後の『王様と幸運の鳥』『王と鳥』)の巨大ロボットの再来なのだ。王国の高度な科学技術の象徴でありながら、王様の城も街も破壊し、遂には王様自身を破滅させてしまう巨大ロボットの発展形を、ここにもまた見ることができる。
竜に変化したブリザーガを凍結させるクライマックスに至っては、天才アニメーター金田伊功氏が参加した『幻魔大戦』(1983年)のクライマックス、巨大な竜を凍結させて倒すところを思わせて楽しい。
■世界史の大きな謎
怪物ブリザーガと、ブリザーガを生み出したヒョーガヒョーガ星について考えると、本作の作り手の科学技術や文明に対する見方が窺えて興味深い。
はるかな昔、古代ヒョーガヒョーガ人は数多の星を訪れ、その星の生態系を作り変えるほどの高度な文明を持っていた。ブリザーガとは、古代ヒョーガヒョーガ人が創造した巨人族で、惑星全体を凍結させる能力を備えている。古代ヒョーガヒョーガ人は宇宙のあちこちにブリザーガを放ち、ターゲットとなる惑星に全球凍結(スノーボールアース)現象を起こすことで、生物の爆発的な進化を促していたのだ。
やがて高度なヒョーガヒョーガ文明は失われてしまい、のび太たちが出会った頃のヒョーガヒョーガ人は古代人が残した遺跡を発掘して技術を学ぶあり様だった。それでも超光速航行を駆使して星々を巡るくらいの文明は有していたが、誤って起動させたブリザーガを止められず、ヒョーガヒョーガ星全体の凍結を招いてしまう。ヒョーガヒョーガ人のヒャッコイ博士と少女カーラは、凍りついた故郷を元に戻す方法を探して、10万光年の彼方から地球に残る遺跡を調べに来ていたのだ。
劇中では明示されないが、南極大陸に古代ヒョーガヒョーガ人の遺跡があったことや、地球でも七億年前や六億年前にスノーボールアース現象が起きて生物が爆発的に進化したことを考えれば、地球の生物を進化させたのも古代ヒョーガヒョーガ人なのかもしれない。ヒョーガヒョーガ人と地球人は瓜二つだから、地球人はかつて地球を訪れたヒョーガヒョーガ人の末裔かもしれない。その記憶が失われてしまうほど壊滅的な出来事が、地球のヒョーガヒョーガ人に起きたのだろう。
ヒョーガヒョーガ人はパオパオに「ユカタン」と名付けるくらいだから、ユカタン半島周辺に栄えたマヤ文明はヒョーガヒョーガ文明の系譜に連なるに違いない。
想像を絶する科学力を誇った古代ヒョーガヒョーガ人でさえ文明を維持できず、今またヒョーガヒョーガ人はブリザーガを暴走させて故郷の星を住めなくしてしまった。これらの描写は、みずから破滅を招きかねない"人類への警鐘"であり、科学技術の扱いに慎重さを求めるものだ。同様のことは『風の谷のナウシカ』の「火の七日間」や、『未来少年コナン』の超磁力兵器による最終戦争等、過去多くの作品で語られてきた。これだけなら、いささかありきたりな印象を与える。
だが、人類を破滅させる技術文明との対比として、たとえば『風の谷のナウシカ』ではナウシカたちの風の谷、『未来少年コナン』では人々が農業や漁業で生活するハイハーバーという一種の理想郷が描かれるのに対し、本作のヒョーガヒョーガ人はそのような安住の地を持たない。彼らが故郷の星を温暖な世界に回復させるしかないことは、本作をひと味違うものにしている。
『風の谷のナウシカ』や『未来少年コナン』における過去の災厄はある種のリセット願望であり、(逆説的ながら)科学技術が後退した理想郷の創出に役立つものになっている。
それに引きかえ、本作のヒョーガヒョーガ人は全球凍結という大災厄を乗り越えるために技術を渇望している。本作には、科学技術の扱いに求められる慎重さと同時に、科学技術を失うみじめさが漂っている。そしてヒョーガヒョーガ人の悲惨な状況に対比されるのは、科学技術が後退した理想郷ではなく、ドラえもんのひみつ道具の楽しさやのび太たちの元気な活躍であり、それはすなわち21世紀や22世紀の地球文明――現代や少し未来の私たち――なのだ。
超光速航行を駆使できるヒョーガヒョーガ人は21世紀の地球人よりも高度な技術を手にしているはずなのだが、にもかかわらずみじめさが漂うのは、その技術を開発したのが彼らではなく、彼らはあくまで古代人の遺したものを発掘しているだけだからだ。
先人が優れたものを持っていたと考えて、先人がいたところを探し続けるヒョーガヒョーガ人と、みずから進歩させた科学技術で危機を乗り越え、活躍する地球人。
この構図を前にして、私はユヴァル・ノア・ハラリの著書『サピエンス全史』を思い出していた。
この本で人類の7万年の歴史を著したハラリはこう語る。
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世界史の大きな謎の一つに、「なぜ近代以前は後進地域だった西ヨーロッパが、近代以後、世界を支配するようになったのか」というものがあります。
(略)
西ヨーロッパは近代以前、巨大な帝国の中心地だったこともなければ、経済の中心地だったこともありませんでした。西ヨーロッパから広まっていった世界宗教もありません。
(略)
中世後期や近代初期の時点では、中国の技術力と経済力は、西ヨーロッパに優る面もありました。
(略)
経済力についていえば、当時の中国は西ヨーロッパより上でした。中国にくらべれば、スペインもポルトガルもオランダもイングランドも小国でした。
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強大な明帝国や清帝国、オスマン帝国を差し置いて西ヨーロッパ諸国が世界を支配するようになったのは、ヨーロッパ人が「変わった人たち」だったからだとハラリは云う。西ヨーロッパの人々は、「未知の領域を探検し、その領域を征服したら、飽くことなく次の未知の領域をめざす」という精神の持ち主だった。「地平線の先に何があるのかは誰も知らない。だから探検しに行こう。そうすれば、何らかの知識を得ることができ、その知識は自分の力になるはずだ。」
他の地域の人たちは、既知の領域を支配することに力を注いだ。中国の王朝はスペインよりはるかに強大であったにもかかわらず、アメリカ大陸に艦隊を送ろうとはしなかった。ヨーロッパ各国がアメリカ大陸に遠征部隊を派遣していたというのに、ヨーロッパ人の冒険家からアメリカ大陸の存在を教えられても、中国は艦隊を出さなかった。学問や思想においても先人に学ぶのが常で(春秋時代の孔子が数百年前の周の時代を理想としたように)、未知の領域を探求しようとはしなかった。ただ、西ヨーロッパの人々だけが、「既知の領域の外に出て、未知の領域を調べれば、新しい自然法則や新しい知識を得ることができ、その知識は自分たちの力になる」と考えた。
このような精神構造の差が何をもたらしたかは周知のとおりだ。後進地域だった西ヨーロッパは世界のあらゆる地域を抜いて、科学においても国力においても支配的勢力となった。ときには弊害もあったけれど、今では「探検と征服」というこの精神構造を世界の人々が共有し、自然科学でも経済の世界でもみんなが未知の領域の探求に挑んでいる。天然痘の根絶や、ポリオ撲滅に向けた前進は、こうした努力の賜物だろう。
『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』が楽しくて面白くて元気いっぱいに感じられるのは、未知の領域を目指す意欲と探求心に溢れているからだ。科学技術の使い方を誤ったヒョーガヒョーガ人の自省や苦悩もさることながら、本作から強く伝わってくるのはのび太たち――地球人たち――の前向きなバイタリティーなのだ。
最後にヒョーガヒョーガ星を救う兆しが見えるのも、これまでリングの発掘を重視していたヒャッコイ博士が、みずからリングを研究し、そのメカニズムの解明に取り組もうとするからである。
■封印を解かれたもの
前述のようにH・P・ラヴクラフトの怪奇小説をベースとする本作は、太古の昔から甦った怪物たちと死闘を繰り広げるスリラーでもある。
しかし、過去から甦ったのは怪物だけではない。
ヒョーガヒョーガ星からやってきたヒャッコイ博士と少女カーラは、パオパオと呼ばれるゾウに似た動物にまたがっている(本作のパオパオは、南極の冒険に相応しくフサフサの体毛に覆われて、ゾウよりマンモスに近い)。パオパオとは、云わずと知れた『ジャングル黒べえ』の人気キャラクターだ。いつも黒べえを乗せて走り回っていた。
ヒャッコイ博士は色白の老人だが、外出するときは黒べえそっくりのサバイバルスーツを身につける。黒べえのどんぐりまなこがゴーグル、分厚い唇がマスク、長い髪が防寒フードといった趣で、スーツを着てパオパオに乗った博士はジャングル黒べえそのものだ。博士と行動を共にする赤い髪のカーラは、黒べえの弟・赤べえに相当するだろう。
『ジャングル黒べえ』が好きだった私は、映画館のスクリーンいっぱいに黒べえと赤べえ(みたいな少女)とパオパオが走り回ることに感激した。
『ジャングル黒べえ』は1973年3月から同年9月まで放映されたテレビアニメ及びその原作マンガである。アフリカからやってきた魔法使いの黒べえと弟・赤べえ、そしてアフリカの珍獣たちが巻き起こす騒動が描かれた。藤子不二雄原作といっても、もともとのキャラクター原案は宮崎駿氏で、当初は人間の家に住み着いたコロポックルの物語として構想されたという。
『エースをねらえ!』の前番組だった『ジャングル黒べえ』は、演出を出崎統氏、作画監督を椛島義夫、北原健雄、杉野昭夫の三氏が務め、音楽を三沢郷氏が担当するという、大ブームを巻き起こした『エースをねらえ!』と同じ布陣で制作された痛快ギャグアニメだった。
とても面白い作品なのだが、1980年代末に封印され、マンガもアニメも長年にわたり日の目を見ることがなかった。黒人をマンガチックにデフォルメした黒べえは、当時猛威を振るった黒人差別糾弾の攻撃にさらされるおそれから(実際に糾弾されたわけでもないのに)、マンガの刊行もテレビアニメの再放送もパッケージ化も自粛してしまったのだという。『ジャングル黒べえ』がようやくパッケージ化されるのは、封印から四半世紀以上を経た2015年末のことである。
パッケージ販売ですらこれほどの時間を要した『ジャングル黒べえ』だから、黒べえの新作アニメを作るのは極めて困難に感じられただろう。
『ジャングル黒べえ』の自粛に先立つ1980年、『サイボーグ009 超銀河伝説』の黒人キャラクター008のデザインが米国人スタッフ、ジェフ・シーガルにより問題視された。これでは米国に輸出できないだろうという。そのため、008は原作者自身の手によりデフォルメを控えたデザインに改められた。以降、『サイボーグ009』のアニメ化の際はデフォルメを控えたデザインが踏襲されている(近年では、白人の鼻の大きさを誇張した002のデザインも改められている)。
『サイボーグ009』の場合はデフォルメを控えたデザインに変更しても作品世界は成り立つが、ギャグマンガの『ジャングル黒べえ』がデフォルメをやめたら別物になってしまう。『ジャングル黒べえ』を現代に甦らせるのは、南極の氷に閉じ込められた怪物の封印を解くよりたいへんなことだったはずだ。
それだけに、本作に黒べえと赤べえを模したキャラクターを登場させ、主要な登場人物としてストーリーを牽引させたことに敬服した。画面の端っこに映っていたり、その他大勢に紛れて顔を出したりに比べると大きな前進だ。
しかも、ヒャッコイ博士は肌が白くて目がグリーンの、典型的な白人らしいデザインだ。それがサバイバルスーツを着ると黒人のギャグキャラクター黒べえの姿になる。スーツを脱ぐとまた白人の姿に戻る。キャラクターの魅力に人種なんて関係ないと云わんばかりのこの設定には、人種差別呼ばわりして作品を葬ろうとする動きへの抗議が込められていよう。
これは、『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』と同時期に公開されたハリウッド映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』と同様の仕掛けである。
『ゴースト・イン・ザ・シェル』は白人俳優スカーレット・ヨハンソンが日本人の主人公を演じることで、白人の活躍を期待した観客をものの見事に裏切るとともに、アジア人の役を白人俳優が奪ったと勘違いした観客に冷や水を浴びせる映画だった。一人の俳優が日本人と白人を同時に演じるという、SFならではの意表を突いた作品だ(詳しくは杉本穂高氏のコラム「実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』 少佐はなぜ白人なのか? “ホワイトウォッシュ”問題を超える配役の真の意味」を参照されたい)。
考えてみれば、地球の温暖化が心配されるご時世に地球を寒冷化の危機から救おうとする本作は、「ベッカンコー!」の呪文で何でも引っくり返す黒べえらしい展開である。
ドラミちゃんが怪しげな占いにはまるのも、怪奇小説の世界へのいざないだけでなく、魔法を使う『ジャングル黒べえ』への導入としての意味もあるのだろう。
とはいえ、劇中で氷山ができるメカニズムを解説するなど、しっかりした科学的知見が示される本作において、ドラミちゃんの占いはやけに浮いている。
氷難の相があるというドラミちゃんの言葉どおり、ドラえもんたち一行は氷の世界でたいへんな苦労をする。けれども、彼らの活躍のおかげで地球は凍結を免れ、すでに凍結したヒョーガヒョーガ星も回復の糸口が見つかる。
はたして、ドラミちゃんの占いは当たったのか外れたのか。役立ったのか無意味だったのか。それは観客の判断に委ねられていよう。
『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』 [あ行]
監督・脚本・絵コンテ・演出/高橋敦史
出演/水田わさび 大原めぐみ かかずゆみ 木村昴 関智一 釘宮理恵 浪川大輔 千秋 三石琴乃 松本保典
日本公開/2017年3月4日
ジャンル/[SF] [ファンタジー] [アドベンチャー] [ファミリー]
『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』を観ようと思ったのは、籠谷千穂氏のツイートが目に留まったからだ。
本日「映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」を鑑賞。まさか「狂気山脈では?」と前々から思っていたら本当に狂気山脈だったのでラヴクラフティアンは是非観に行って下さい。もう今年はドラえもん映画じゃなくてドラクラフト映画、もしくはラヴえもん映画。 #ドラえもん #狂気山脈 pic.twitter.com/XHKxsDxPb7
— Chiho komoriya (@Chihokomoriya) 2017年3月22日

どういうことか確かめようと足を運んだ私は、本作のあまりの面白さに驚愕した。
かき氷をたくさん食べたいのび太がドラえもんと氷山に行ってかき氷を食べまくり、さらに友だちを連れてきて楽しく遊ぶ、という序盤の流れは、原作マンガの『大氷山の小さな家』の流用だ。そこで、10万年前から氷漬けになっていたリングを見つけたのび太たちは、リングの出所を探るべく南極へ赴く。ここから物語はH・P・ラヴクラフトの怪奇小説『狂気の山脈にて』にスライドし、太古の昔に飛来した異星人の遺跡に遭遇したり、遺跡に残る怪物に襲われたりする。
本作におけるラヴクラフト作品との類似や、『遊星からの物体X』からの引用等については、籠谷千穂氏がご自身のブログで掘り下げた記事を書いておられる。
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私の隣の席に座った小さな男の子は、予告編のときからちょっと映像が暗くなるたびに「怖い、怖い」と母親にしがみついていたが、本作がはじまると食い入るようにスクリーンを見つめていた。幼児だって片時も目を離せない、楽しく面白い作品なのだ。
■大長編SF冒険マンガと日常的短編SFマンガの交代
本作を観て、私はとても羨ましく感じた。ドラえもん映画は、今もこんなにも面白い。
オーパーツを巡る異境の冒険、タイムトラベルと異星人、超科学・新発明を駆使して戦う仲間たち……。これらはどれも『サイボーグ009』のお株だったはずなのに、と009ファンの私は思った。便利なひみつ道具を次々取り出すドラえもんと、ひみつ道具を各人各様に装備したのび太たちは、まるで発明家ギルモア博士と兵器を内蔵したゼロゼロナンバーサイボーグたちに見えた。

けれども、1979年からはじまった『少年サンデー』と『少年ビッグコミック』での連載の途中から、『サイボーグ009』は人情話になっていった。サイボーグ戦士たちの日常の出来事を拾い上げた短編がもっぱら描かれるようになったのだ。この後、何度もテレビアニメや劇場用アニメ等が作られたけれど、痛快無比の冒険活劇とはいかなかった。サイボーグ戦士たちの日常を題材に、彼らの心の襞を丁寧に描写した作品群を経た後では、あっけらかんとしたストーリーが馴染まなかったのかもしれない。すでに『サイボーグ009 超銀河伝説』でも、009の浮気問題や004との友情のグダグダが挿入され、痛快無比とはいえなかった。
『サイボーグ009』の変化と軌を一にするように、『ドラえもん』も新たな領域へ踏み出していた。ただしそれは、『サイボーグ009』とは正反対の方向だ。
日常的な出来事に少し不思議な要素を織り交ぜた一話完結の短編ばかりだった『ドラえもん』は、1980年に『大長編ドラえもん』と題してマンガ『のび太の恐竜』が発表され、合わせて同タイトルの劇場用長編アニメーション映画が公開された。この作品を嚆矢として、以降毎年のように長編映画の公開が続き、ドラえもんたちは宇宙へ太古へ海底へと縦横無尽に活躍するようになった。
そして2017年の長編映画第37作『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』に至るわけだが、その元気に溢れた面白さは圧巻だった。『サイボーグ009』の「移民編」から「海底ピラミッド編」までを濃縮したようなストーリーに、土管に腰かけてコッペパンを頬張り、新幹線の屋根に飛び乗ってはしゃいでいた頃の009の天真爛漫さを盛り付けたような楽しさだった。そのうえ、ドラえもんたちが先端にドリルのついた氷底探検車に乗って南極の氷を掘り進む様子は、『サイボーグ009』の「地下帝国ヨミ編」でドルフィン号が地底を探検するところにそっくりだし、氷底の古代都市でのび太を襲うペンギンの石像のデザインは地下帝国ヨミの鳥型の魔神像を思わせた。
これだ。私が観たかったのはこんなアニメだったのだ。
『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』は、人間ドラマとしても大いに見応えがある。
映画の中盤では偽ドラえもんが出現し、のび太たちを混乱に陥れる。スネ夫やジャイアンは偽者と覚しきドラえもんを警戒し、氷漬けにしてしまおうと相談する。何の危害も加えられていないにもかかわらず。複数出現したドラえもんのどちらを攻撃するか相談するスネ夫とジャイアンは、あたかも誰をいじめるか標的を選ぶかのようだった。
それを止めさせたのが、のび太の"誰もいじめない"という選択だ。スネ夫やジャイアンに同調していれば無難だろうに、あえて立ち塞がったのび太の凛々しさに胸が熱くなる。終盤の危機的状況で、未来ののび太に希望を託す(『STAND BY ME ドラえもん』を彷彿とさせる)展開は、中盤でのこのやり取りがあるから生きてくるのだ。

封印を解かれて蘇った巨大な怪物ブリザーガを目にして、多くの観客が宮崎駿監督の『もののけ姫』のディダラボッチに似ていると感じるだろう。加えて、口から冷凍ビームを吐き散らし、ドラえもんたちを襲う凶暴さは、『風の谷のナウシカ』の巨神兵のようでもある。
巨神兵にディダラボッチ――つまりは宮崎アニメの源流であるポール・グリモー監督の『やぶにらみの暴君』(後の『王様と幸運の鳥』『王と鳥』)の巨大ロボットの再来なのだ。王国の高度な科学技術の象徴でありながら、王様の城も街も破壊し、遂には王様自身を破滅させてしまう巨大ロボットの発展形を、ここにもまた見ることができる。
竜に変化したブリザーガを凍結させるクライマックスに至っては、天才アニメーター金田伊功氏が参加した『幻魔大戦』(1983年)のクライマックス、巨大な竜を凍結させて倒すところを思わせて楽しい。
■世界史の大きな謎
怪物ブリザーガと、ブリザーガを生み出したヒョーガヒョーガ星について考えると、本作の作り手の科学技術や文明に対する見方が窺えて興味深い。
はるかな昔、古代ヒョーガヒョーガ人は数多の星を訪れ、その星の生態系を作り変えるほどの高度な文明を持っていた。ブリザーガとは、古代ヒョーガヒョーガ人が創造した巨人族で、惑星全体を凍結させる能力を備えている。古代ヒョーガヒョーガ人は宇宙のあちこちにブリザーガを放ち、ターゲットとなる惑星に全球凍結(スノーボールアース)現象を起こすことで、生物の爆発的な進化を促していたのだ。
やがて高度なヒョーガヒョーガ文明は失われてしまい、のび太たちが出会った頃のヒョーガヒョーガ人は古代人が残した遺跡を発掘して技術を学ぶあり様だった。それでも超光速航行を駆使して星々を巡るくらいの文明は有していたが、誤って起動させたブリザーガを止められず、ヒョーガヒョーガ星全体の凍結を招いてしまう。ヒョーガヒョーガ人のヒャッコイ博士と少女カーラは、凍りついた故郷を元に戻す方法を探して、10万光年の彼方から地球に残る遺跡を調べに来ていたのだ。
劇中では明示されないが、南極大陸に古代ヒョーガヒョーガ人の遺跡があったことや、地球でも七億年前や六億年前にスノーボールアース現象が起きて生物が爆発的に進化したことを考えれば、地球の生物を進化させたのも古代ヒョーガヒョーガ人なのかもしれない。ヒョーガヒョーガ人と地球人は瓜二つだから、地球人はかつて地球を訪れたヒョーガヒョーガ人の末裔かもしれない。その記憶が失われてしまうほど壊滅的な出来事が、地球のヒョーガヒョーガ人に起きたのだろう。
ヒョーガヒョーガ人はパオパオに「ユカタン」と名付けるくらいだから、ユカタン半島周辺に栄えたマヤ文明はヒョーガヒョーガ文明の系譜に連なるに違いない。

だが、人類を破滅させる技術文明との対比として、たとえば『風の谷のナウシカ』ではナウシカたちの風の谷、『未来少年コナン』では人々が農業や漁業で生活するハイハーバーという一種の理想郷が描かれるのに対し、本作のヒョーガヒョーガ人はそのような安住の地を持たない。彼らが故郷の星を温暖な世界に回復させるしかないことは、本作をひと味違うものにしている。
『風の谷のナウシカ』や『未来少年コナン』における過去の災厄はある種のリセット願望であり、(逆説的ながら)科学技術が後退した理想郷の創出に役立つものになっている。
それに引きかえ、本作のヒョーガヒョーガ人は全球凍結という大災厄を乗り越えるために技術を渇望している。本作には、科学技術の扱いに求められる慎重さと同時に、科学技術を失うみじめさが漂っている。そしてヒョーガヒョーガ人の悲惨な状況に対比されるのは、科学技術が後退した理想郷ではなく、ドラえもんのひみつ道具の楽しさやのび太たちの元気な活躍であり、それはすなわち21世紀や22世紀の地球文明――現代や少し未来の私たち――なのだ。
超光速航行を駆使できるヒョーガヒョーガ人は21世紀の地球人よりも高度な技術を手にしているはずなのだが、にもかかわらずみじめさが漂うのは、その技術を開発したのが彼らではなく、彼らはあくまで古代人の遺したものを発掘しているだけだからだ。
先人が優れたものを持っていたと考えて、先人がいたところを探し続けるヒョーガヒョーガ人と、みずから進歩させた科学技術で危機を乗り越え、活躍する地球人。

この本で人類の7万年の歴史を著したハラリはこう語る。
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世界史の大きな謎の一つに、「なぜ近代以前は後進地域だった西ヨーロッパが、近代以後、世界を支配するようになったのか」というものがあります。
(略)
西ヨーロッパは近代以前、巨大な帝国の中心地だったこともなければ、経済の中心地だったこともありませんでした。西ヨーロッパから広まっていった世界宗教もありません。
(略)
中世後期や近代初期の時点では、中国の技術力と経済力は、西ヨーロッパに優る面もありました。
(略)
経済力についていえば、当時の中国は西ヨーロッパより上でした。中国にくらべれば、スペインもポルトガルもオランダもイングランドも小国でした。
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強大な明帝国や清帝国、オスマン帝国を差し置いて西ヨーロッパ諸国が世界を支配するようになったのは、ヨーロッパ人が「変わった人たち」だったからだとハラリは云う。西ヨーロッパの人々は、「未知の領域を探検し、その領域を征服したら、飽くことなく次の未知の領域をめざす」という精神の持ち主だった。「地平線の先に何があるのかは誰も知らない。だから探検しに行こう。そうすれば、何らかの知識を得ることができ、その知識は自分の力になるはずだ。」
他の地域の人たちは、既知の領域を支配することに力を注いだ。中国の王朝はスペインよりはるかに強大であったにもかかわらず、アメリカ大陸に艦隊を送ろうとはしなかった。ヨーロッパ各国がアメリカ大陸に遠征部隊を派遣していたというのに、ヨーロッパ人の冒険家からアメリカ大陸の存在を教えられても、中国は艦隊を出さなかった。学問や思想においても先人に学ぶのが常で(春秋時代の孔子が数百年前の周の時代を理想としたように)、未知の領域を探求しようとはしなかった。ただ、西ヨーロッパの人々だけが、「既知の領域の外に出て、未知の領域を調べれば、新しい自然法則や新しい知識を得ることができ、その知識は自分たちの力になる」と考えた。
このような精神構造の差が何をもたらしたかは周知のとおりだ。後進地域だった西ヨーロッパは世界のあらゆる地域を抜いて、科学においても国力においても支配的勢力となった。ときには弊害もあったけれど、今では「探検と征服」というこの精神構造を世界の人々が共有し、自然科学でも経済の世界でもみんなが未知の領域の探求に挑んでいる。天然痘の根絶や、ポリオ撲滅に向けた前進は、こうした努力の賜物だろう。
『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』が楽しくて面白くて元気いっぱいに感じられるのは、未知の領域を目指す意欲と探求心に溢れているからだ。科学技術の使い方を誤ったヒョーガヒョーガ人の自省や苦悩もさることながら、本作から強く伝わってくるのはのび太たち――地球人たち――の前向きなバイタリティーなのだ。
最後にヒョーガヒョーガ星を救う兆しが見えるのも、これまでリングの発掘を重視していたヒャッコイ博士が、みずからリングを研究し、そのメカニズムの解明に取り組もうとするからである。
■封印を解かれたもの
前述のようにH・P・ラヴクラフトの怪奇小説をベースとする本作は、太古の昔から甦った怪物たちと死闘を繰り広げるスリラーでもある。

ヒョーガヒョーガ星からやってきたヒャッコイ博士と少女カーラは、パオパオと呼ばれるゾウに似た動物にまたがっている(本作のパオパオは、南極の冒険に相応しくフサフサの体毛に覆われて、ゾウよりマンモスに近い)。パオパオとは、云わずと知れた『ジャングル黒べえ』の人気キャラクターだ。いつも黒べえを乗せて走り回っていた。
ヒャッコイ博士は色白の老人だが、外出するときは黒べえそっくりのサバイバルスーツを身につける。黒べえのどんぐりまなこがゴーグル、分厚い唇がマスク、長い髪が防寒フードといった趣で、スーツを着てパオパオに乗った博士はジャングル黒べえそのものだ。博士と行動を共にする赤い髪のカーラは、黒べえの弟・赤べえに相当するだろう。
『ジャングル黒べえ』が好きだった私は、映画館のスクリーンいっぱいに黒べえと赤べえ(みたいな少女)とパオパオが走り回ることに感激した。

『エースをねらえ!』の前番組だった『ジャングル黒べえ』は、演出を出崎統氏、作画監督を椛島義夫、北原健雄、杉野昭夫の三氏が務め、音楽を三沢郷氏が担当するという、大ブームを巻き起こした『エースをねらえ!』と同じ布陣で制作された痛快ギャグアニメだった。
とても面白い作品なのだが、1980年代末に封印され、マンガもアニメも長年にわたり日の目を見ることがなかった。黒人をマンガチックにデフォルメした黒べえは、当時猛威を振るった黒人差別糾弾の攻撃にさらされるおそれから(実際に糾弾されたわけでもないのに)、マンガの刊行もテレビアニメの再放送もパッケージ化も自粛してしまったのだという。『ジャングル黒べえ』がようやくパッケージ化されるのは、封印から四半世紀以上を経た2015年末のことである。
パッケージ販売ですらこれほどの時間を要した『ジャングル黒べえ』だから、黒べえの新作アニメを作るのは極めて困難に感じられただろう。
『ジャングル黒べえ』の自粛に先立つ1980年、『サイボーグ009 超銀河伝説』の黒人キャラクター008のデザインが米国人スタッフ、ジェフ・シーガルにより問題視された。これでは米国に輸出できないだろうという。そのため、008は原作者自身の手によりデフォルメを控えたデザインに改められた。以降、『サイボーグ009』のアニメ化の際はデフォルメを控えたデザインが踏襲されている(近年では、白人の鼻の大きさを誇張した002のデザインも改められている)。
『サイボーグ009』の場合はデフォルメを控えたデザインに変更しても作品世界は成り立つが、ギャグマンガの『ジャングル黒べえ』がデフォルメをやめたら別物になってしまう。『ジャングル黒べえ』を現代に甦らせるのは、南極の氷に閉じ込められた怪物の封印を解くよりたいへんなことだったはずだ。

しかも、ヒャッコイ博士は肌が白くて目がグリーンの、典型的な白人らしいデザインだ。それがサバイバルスーツを着ると黒人のギャグキャラクター黒べえの姿になる。スーツを脱ぐとまた白人の姿に戻る。キャラクターの魅力に人種なんて関係ないと云わんばかりのこの設定には、人種差別呼ばわりして作品を葬ろうとする動きへの抗議が込められていよう。
これは、『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』と同時期に公開されたハリウッド映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』と同様の仕掛けである。
『ゴースト・イン・ザ・シェル』は白人俳優スカーレット・ヨハンソンが日本人の主人公を演じることで、白人の活躍を期待した観客をものの見事に裏切るとともに、アジア人の役を白人俳優が奪ったと勘違いした観客に冷や水を浴びせる映画だった。一人の俳優が日本人と白人を同時に演じるという、SFならではの意表を突いた作品だ(詳しくは杉本穂高氏のコラム「実写版『ゴースト・イン・ザ・シェル』 少佐はなぜ白人なのか? “ホワイトウォッシュ”問題を超える配役の真の意味」を参照されたい)。
考えてみれば、地球の温暖化が心配されるご時世に地球を寒冷化の危機から救おうとする本作は、「ベッカンコー!」の呪文で何でも引っくり返す黒べえらしい展開である。
ドラミちゃんが怪しげな占いにはまるのも、怪奇小説の世界へのいざないだけでなく、魔法を使う『ジャングル黒べえ』への導入としての意味もあるのだろう。
とはいえ、劇中で氷山ができるメカニズムを解説するなど、しっかりした科学的知見が示される本作において、ドラミちゃんの占いはやけに浮いている。
氷難の相があるというドラミちゃんの言葉どおり、ドラえもんたち一行は氷の世界でたいへんな苦労をする。けれども、彼らの活躍のおかげで地球は凍結を免れ、すでに凍結したヒョーガヒョーガ星も回復の糸口が見つかる。
はたして、ドラミちゃんの占いは当たったのか外れたのか。役立ったのか無意味だったのか。それは観客の判断に委ねられていよう。
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監督・脚本・絵コンテ・演出/高橋敦史
出演/水田わさび 大原めぐみ かかずゆみ 木村昴 関智一 釘宮理恵 浪川大輔 千秋 三石琴乃 松本保典
日本公開/2017年3月4日
ジャンル/[SF] [ファンタジー] [アドベンチャー] [ファミリー]

『STAND BY ME ドラえもん』は、あの続き!?
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映画『STAND BY ME ドラえもん』では、近所の空地に土管が置かれている。
原作でも子供たちが遊ぶのは空地であり、そこには土管があった。
石ノ森章太郎氏の『サイボーグ009』でも、土管や材木が置かれた空地で009がパンを食べる描写がある。
かつて空地と土管は珍しくなかった。子供は土管に登ったり、くぐって遊んだりした。
けれども、今では土管を見かけない。子供が遊ぶ空地すらも市街地では珍しいだろう。
にもかかわらず、本作には空地があり土管がある。そのことは本作が誰に向けられた映画であるかを物語っている。
かつて空地に土管があったのは、あちこちで下水道工事をしていたからだ。
マンガ『ドラえもん』が連載された60~70年代の日本は、ちょうど下水道の整備に着手した頃だった。まだ汲み取り式トイレの家庭も多く、バキュームカーがやってきて家庭の屎尿を回収していた。
『サイボーグ009』では、のんびりした地方都市から東京にやってきたら空地が土管だらけだった。東京で工事が盛んだったことをうかがわせる描写だ。
この頃から下水道工事が急ピッチで進められ、空地の土管たちは地下に埋設された。おかげで屎尿や生活排水を流せるようになり、水洗トイレが普及した。
今や下水道普及率は東京都で99.4%、大阪府で94.3%に達しており、『ドラえもん』の舞台となる都内で土管を見かけることはなくなった。
その変化は、山崎貴、八木竜一両監督も目にしてきたはずだ。
1964年生まれの両監督は、ちょうど『ドラえもん』が小学館の学年誌に連載され出した頃に小学生になった。初期ののび太と同じ時代を生きてきたのだ。
山崎監督が「今回はマンガに忠実に“原作原理主義”で作りました」と云うように、本作はのび太の暮らした70年代を忠実に再現している。家には野暮ったい黒電話があり、町を歩けば黄色い電話ボックスが建っている。子供たちは謎の生物ツチノコの話題で持ち切りだった。
「70年代は博物館に資料があるほど古くないですし、当時のことを調べるのは難しかったです」と八木監督は語る。「当時の小学生は、のび太みたいな人がたくさんいたんです。だから、のび太に親近感を持って下さる方も多いのではと思います。僕ものび太みたいな髪型で、半ズボンに運動靴を履いていたので、デザインする上で自分の小学生の頃の写真を参考にしたりもしています」
原作が描かれた時代を再現するのは、まさに両監督の小学生時代の記憶をたどる作業でもあった。
その時代を考えるとき、連綿と続く流れを感じないではいられない。
山崎貴監督の出世作にして代表作ALWAYSシリーズは、一作目の舞台が1958年、二作目の舞台が1959年であり、1964年を舞台にした『ALWAYS 三丁目の夕日'64』で完結した。三作目は主人公夫婦に赤ん坊が誕生して終わる。
1964年に生まれた赤ん坊、それは山崎監督自身でもある。
昭和30年代を再現したALWAYSシリーズが山崎監督の親たちを描いた映画とするなら、『STAND BY ME ドラえもん』は『ALWAYS 三丁目の夕日'64』で生まれた赤ん坊の少年時代を描く作品だ。あの赤ん坊がどんな風に成長したのか、三丁目の夫婦がどんな親になったのか、それをうかがえる映画なのだ。
傑作『friends もののけ島のナキ』に続く作品として『ドラえもん』を3DCGで映画化することを提案したのは『ナキ』のプロデューサー、現シンエイ動画社長の梅澤道彦氏だが、これこそ両監督にうってつけの企画と云えよう。
とはいえ、本作はノスタルジーには浸らない。
『ALWAYS 三丁目の夕日'64』が過去を舞台にしつつも新しい社会への模索を描いたように、本作は『ドラえもん』が70年代のマンガであることをこんなにも強調しながら少しも懐古的ではないのだ。
それどころか本作は驚くほどの飛躍を見せる。

本作は名編揃いの原作から次のエピソードを取り出して繋ぎ合わせている。
「未来の国からはるばると」
「たまごの中のしずちゃん」
「しずちゃんさようなら」
「雪山のロマンス」
「のび太の結婚前夜」
「さようならドラえもん」
「帰ってきたドラえもん」
すでにアニメ化されたことのあるエピソードばかりだから、オチを察する観客も多いだろう。
だが、原作第1話の「未来の国からはるばると」ではじまり、のび太としずかのロマンスが盛り上がるエピソードを差し挟みながら、原作最終話の「さようならドラえもん」と連載再開時の「帰ってきたドラえもん」までを含めることで、本作は極めてドラマチックな感動作に仕上がっている。
あまりの原作の素晴らしさから、かつて山崎監督が「これはもう映画ではできない。漫画表現に対して羨ましいと思ったことはほとんどないんですが、羨ましいと思った希有な例です。」とまで語っていた「さようならドラえもん」を含めたのは、大きな挑戦だったに違いない。
そして山崎監督みずから「ドラえもんの道具をもし自分が手に入れたら、どんなことができるのか、3DCGだからこそ体感することができます」と云うように、本作はマンガやセルアニメの平面的な絵とは違う、質感のある3DCGならではの世界を堪能させてくれる。
しかし私がもっとも驚いたのは「未来」のシーンだ。
未来からやってきたタイムトラベラーを主人公とする『ドラえもん』は、全編が時間テーマのSFと云える。
本作も時間旅行の面白さを存分に活かしており、とりわけ少年のび太が青年のび太の結婚前夜を訪ねるエピソードは秀逸だ。
小学4年生ののび太は14年後の自分を観察に行き、未来都市の壮大さに圧倒される。燦然と輝く摩天楼が立ち並び、おびただしいエアカーが飛び交う大都会。ホログラフの標識や自動化された物流に、のび太は目を丸くする。のび太の家が建っていたあたりは緑豊かな公園に変わり、人々の憩いの場となっている。そこは夢のような未来世界だった。
もちろん、こんなはずはない。たった14年で世界はこんなに変わらない。
のび太の「現在」は両監督が小学4年生だった1974年頃だから、その14年後といえばまだ80年代。たとえ私たちが生きる2014年になったところで、街並みはさして変わらない。
持ち家が並ぶ住宅地が、14年でビル街のド真ん中の公園になることもあり得ない。のび太のパパはまだ住宅ローンを返し終わってもいないだろう。
それでも本作の作り手は、のび太が大人になった時代を科学技術の発達した素晴らしい世界として描いた。70年代の描写ではあれほど考証にこだわって緻密にリアルに描いたのに、14年後の「未来」のシーンですべてを放り投げた。
この未来のシーンはショックだった。
忘れていたことを突き付けられたから。
すっかり忘れていたのだ。どんな未来が訪れるかを。どんな未来にするのかを。
子供の頃、未来はこうなるはずだった。
大人になったらこんな世界に暮らすはずだった。
小学生向けの雑誌、たとえば『科学』や『学習』には、開発中の技術やそれが実現した未来の想像図がいつも掲載されていた。それは心躍る未来だった。
土地不足は海上都市で解消され、人々の足になるのは静かな電気自動車で、どんな遠くでもリニアモーターカーに乗ればすぐに行けるはずだった。70年代の子供が大人になる頃には、そういう世界になるはずだった。
ましてやノストラダムスの予言によれば世界は1999年に滅亡することになっていたから、その先の21世紀は何でもありの夢の世界だった。
本作の未来世界はおかしくもなんともない。おかしいのはこうなっていない現実の方ではないか、こんな世界にできなかった私たちの方ではないか。
本来迎えるはずだった「未来」を目にして、私は打ちのめされた。
山崎貴監督がドラえもんを映画化するのは、これがはじめてではない。
山崎監督のデビュー作『ジュブナイル』は、個人のWebサイトに「ドラえもんの最終回」として公開された二次創作が元になっている。[*]
2000年公開の『ジュブナイル』に「for Mr.Fujiko・F・Fujio」というクレジットを入れた経緯について、山崎監督は次のように説明している。
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『ジュブナイル』は一番最初に、『ドラえもん』の最終回の話を、人から聞いたことがきっかけなんです。そこから話を転がし始めているので、影響を受けてるんじゃなくて、原作と言ってもいいんです。インスパイアド・フロムみたいな感じなんです。あの話を聞いて、それは映画にできると思って作者の方に連絡をとって。
だから、最初はシナリオにもインターネットの最終回が原作ですと書いてあったんですが、他人のキャラクターであるドラえもんを使った作品を原作にしたと明示しちゃうといろいろ著作権的に問題があるらしくて。作者の方も『ドラえもん』があっての話だから、あんまり原案みたいな形で出してもらうのもちょっと違うと言ってくださって。
結局インターネットのドラえもん最終回が原作ですというのは出せなくて、スペシャルサンクスに作者の方の名前を入れさせてもらいました。
もちろんその話も『ドラえもん』あってのことなので、プロデューサーと相談して「藤子先生に捧ぐ」と入れさせてくださいと藤子プロにお願いしたら、それは是非と言ってくださったので、あのクレジットを入れることができたという次第です。
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『ジュブナイル』は未来からやってきたロボットが少年たちと冒険する物語だ。それはドラえもんをなぞったものだった。
当時のインタビューで『ドラえもん』について語る監督が、『ドラえもん』を実写化したら「タケコプターの視点というのは、きっと面白い」と述べているのは興味深い。
『STAND BY ME ドラえもん』を観た人は、のび太がはじめてタケコプターで飛ぶシーンの躍動感に目をみはったことだろう。山崎監督の念頭には、2000年時点からすでにそのワクワクする映像があったのかもしれない。
二次創作の「ドラえもんの最終回」や『ジュブナイル』を貫くのは、今はまだできないことを実現するために、自分が頑張って未来で実現するというコンセプトだ。誰かに助けてもらうのではなく、何とかなるのを待つのでもなく、自分の力で未来を変える。未来の自分が実現する。
その想いは『STAND BY ME ドラえもん』にも共通している。
原作の中から珍しくのび太が頑張るエピソードを取り上げたこの映画は、特に自分を信じて未来を変える「雪山のロマンス」のパートにおいて一つのクライマックスを迎える。原作の「雪山のロマンス」は、タイムふろしきで体だけ大人になっても中身は子供のままののび太の失敗談だが、映画では「ドラえもんの最終回」の要素を取り入れて、タイムパラドックスを上手く活かした優れたSFになっている。
そして土管が置かれた70年代の風景を懐かしみ、のび太にかつての自分を重ねていた大人の観客は、感動に涙するとともに悟るのだ。
驚くほど文明の発達した輝かしい未来世界は、自分が実現しなくちゃならなかったのだと。
雑誌の想像図に描かれた未来は誰かが作ってくれるものではなく、待っていれば勝手にできるものでもなく、自分が作らなくちゃいけなかった。
本作の未来の描写は刺激的だ。21世紀にもなって、まだ70年代に夢見たことすら実現できていない私たちを挑発している。
未来を変えようと思ったら、これくらいのことはできたはずだ。できるはずだ。
ドラえもんに頼るまいとするのび太の姿が、そのことを教えてくれる。
のび太の想いは本作を通して「STAND BY ME(僕を支えて)、ドラえもん」から「STAND BY ME(そばにいてね)、ドラえもん」に変わっていくのだから。
[*] この経緯についてMasami KATO氏にご教示いただいた。お礼申し上げる。
![STAND BY ME ドラえもん(ブルーレイ豪華版) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41BPEh6RBiL._SL160_.jpg)
監督・脚本/山崎貴 監督/八木竜一
出演/水田わさび 大原めぐみ かかずゆみ 木村昴 関智一 妻夫木聡
日本公開/2014年8月8日
ジャンル/[ファンタジー] [SF] [ドラマ] [ファミリー]
