『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』 がんばれキング!

残念ながら、ゴジラ、ラドン、モスラのようなズバ抜けた魅力を持つスター怪獣を次々に生み出せるものではない。
東宝怪獣映画で怪獣が単独主演した作品には、他にも『大怪獣バラン』(1958年)があるけれど、バランは、まぁ何というか、子供が絵に描きたくなるようなスター性に欠けていたように思う。
1964年には初の宇宙怪獣、その名も『宇宙大怪獣ドゴラ』が銀幕に登場した。着ぐるみでは表現できない不定形生物への挑戦等、たいへん意欲的な作品だったが、怪獣映画なのにストーリーの多くを宝石強盗の話が占めたり、肝心なドゴラが断片的にしか登場しなかったりと、これまた怪獣映画好きには満たされないものが残る作品だった。
そこで打ち出された新機軸が対戦ものだ。ゴジラが無名のアンギラスと戦うのとはわけが違う。米国モンスターの代表キングコングと日本のモンスターの代表ゴジラ、東西のスター怪獣が同じ映画で共演し、どちらが強いか競い合う。『キングコング対ゴジラ』はとてつもなく贅沢な、驚くべき企画だった。狙いは当たって、1962年に初公開されたこの映画は、日本怪獣映画史上最大の動員数を誇っている。
続いて東宝は国内の二大スター、ゴジラとモスラが対戦する『モスラ対ゴジラ』(1964年)を放った。まるで三船敏郎とアラン・ドロンが共演した『レッド・サン』を発表したかと思えば、三船敏郎と勝新太郎の共演作『座頭市と用心棒』を放つようなものだ(いや、公開順では『レッド・サン』より『座頭市と用心棒』が先だけど)。
ここまでゴジラは悪役だった。人間と交流し、ある程度人間と意思の疎通もできるキングコングやモスラは、人間の味方のいいヤツだ。一方、暴れまわり破壊するだけのゴジラは、プロレスでいえば悪役レスラー。とうぜん、勝負はいつもゴジラの負けである。
『キングコング対ゴジラ』は引き分けと云われているが、キングコングだけ悠然と泳ぎ去り、ゴジラは水没したまま行方知れずなのだから、(ゴジラは水中を潜行したのかもしれないが)印象としてはキングコングの勝利であろう。
2014年のアメリカ映画『GODZILLA ゴジラ』は、ゴジラ第一作からこのあたりまでのゴジラ映画をよく研究して作られていたと思う。日本のゴジラ映画が持つ原水爆のメタファーや、ゴジラは苦戦する側であることを、米国人の知る『怪獣王ゴジラ』のイメージと矛盾しないように混合したのは見事であった(詳しくは「『GODZILLA ゴジラ』 渡辺謙しか口にできないこと」を参照されたい)。
さて、キングコングとゴジラの対戦カード、モスラとゴジラの対戦カードで観客動員を図った東宝だが、もういけない。あと対戦させるのはラドンくらいしか残っていないが、ゴジラとラドンではプロレスができないし、ラドンのカードを切ってしまったら後には何も残らない。
――と東宝の制作陣が考えたかどうかはともかく、ここで画期的な手が考案される。『モスラ対ゴジラ』の同年に『宇宙大怪獣ドゴラ』を放った後、前代未聞の大怪獣を誕生させたのだ。タイトル・ロールになってきたスター怪獣のいずれをもしのぎ、それどころかゴジラ、ラドン、モスラの全スター怪獣が総力戦を挑まなければ敵わないほどの史上最強の大怪獣、キングギドラの登場だ。

『三大怪獣 地球最大の決戦』のキングギドラは、ゴジラやラドンが身長50メートルなのに倍の100メートルの大きさ。黄金に輝く体に巨大な翼、サタンが三つの顔を持つように龍のごとき首が三つもある、神話伝説の集合体のような姿。
地球怪獣の武器で一番飛距離が長いのはゴジラの白熱光線だろうが、キングギドラは三つの首のすべてから引力光線を吐くことができる。すなわち、ゴジラとラドンとモスラの三匹を同時に相手にしても、引力光線で対抗できる。キングギドラの前ではゴジラもラドンもモスラも雑魚でしかない。五千年前に一匹だけで高度な金星文明を滅ぼしたといわれるキングギドラは、宇宙最強の怪獣なのだ。
『三大怪獣 地球最大の決戦』でのゴジラとラドンの対戦を見ればこの二匹の力はほぼ互角と判るし、『モスラ対ゴジラ』でモスラはゴジラに勝っている。だからゴジラ、ラドン、モスラの三大怪獣が揃えばゴジラ三匹以上の戦力ともいえるけれど、それでもこの映画でキングギドラを撃退するにはスター怪獣三匹が同時に死力を尽くさねばならなかった。
しかも、そうまでしてもキングギドラを倒すことはできず、三大怪獣たちは王者キングギドラが地球に嫌気がさして宇宙に帰っていくの見送るのがやっとだった。
ああ、なんてかっこいいんだ、キングギドラ。お前こそは怪獣映画史上最高の存在だ。
続く1965年の『怪獣大戦争』でも、キングギドラはゴジラとラドンを相手に暴れまくった。
『三大怪獣 地球最大の決戦』では、ゴジラ、ラドン、モスラの三大怪獣が勢揃いしてようやくキングギドラを撃退できたのだから、ゴジラとラドンだけで敵うわけがない。キングギドラはゴジラ、ラドンとともに海へ転落したあと、海面に浮上できないゴジラとラドンを尻目に悠然と宇宙へ去っていった。
その後もキングギドラは、地球侵略を企む宇宙人の助っ人として『怪獣総進撃』(1968年)や『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』(1972年)にも登場するが、とにかく強い強い。地球の怪獣たちが協力し、集団で袋叩きにしなければ、どうにも対抗できない相手だった。
マーベル・シネマティック・ユニバースの「インフィニティ・サーガ」に例えれば、キングギドラはちょうどサノスのポジションだ。スーパーヒーローたちが束になって挑むことでようやくどうにか対抗できる、最強の敵なのだ。


平成ゴジラの敵として昭和ゴジラシリーズからカムバックした初めての怪獣がキングギドラなのは、その人気からしてとうぜんのことだ。けれども、そのカムバック作『ゴジラvsキングギドラ』(1991年(平成3年))は、あろうことかキングギドラをゴジラと1対1で戦わせてしまった。しかも、この映画のキングギドラはなんとゴジラに負けてしまう。
ゴジラシリーズが『メカゴジラの逆襲』(1975年)でいったん中断した後、1984年に再開されるまでのあいだに、ゴジラ復活を願う声の高まりとともにゴジラの神格化が進んでいたのでもあろうが、曲がりなりにもキングギドラを名乗る怪獣をたかがゴジラ一匹ごときに敗北させてしまうとは、キングギドラの何たるかを見失った大失策であったと思う。
ここからキングギドラは転落の道を歩む。
『モスラ3 キングギドラ来襲』(1998年)では、サブタイトルに名を残すほどの大物として扱われながら、劇中では白亜紀の幼体の頃にモスラ一匹に敗北した上、成長した現代においても強化型モスラ(鎧モスラ)に敗北する。
さらに2001年公開の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』では、バラゴン、モスラと一緒になってゴジラ一匹を倒そうとする始末。
当初の予定どおりバラゴン、アンギラス、バランの三匹がゴジラと戦うのであればバランスが取れていたと思うが、人気怪獣のネームバリューをたのんだ会社の判断により登場怪獣が差し換えられ、ゴジラより強いはずのモスラとキングギドラがゴジラに手こずる映画になってしまった。
映画そのものは滅法面白かったけれど、登場怪獣の選択は(作品の質の面では)判断ミスといえよう。
キングギドラは人気があるから1996年版『モスラ』のデスギドラや『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)のカイザーギドラといった亜種も考案されたが、いずれもモスラ一匹、ゴジラ一匹に倒される体たらく。
アニメーション映画『GODZILLA 星を喰う者』(2018年)のギドラも、ゴジラ一匹に撃退されてしまう。

1. タイトル・ロールの怪獣が中心の映画:『ゴジラ』『キング・コング』『空の大怪獣ラドン』等
2. スター怪獣同士が対戦するもの:『キングコング対ゴジラ』『モスラ対ゴジラ』等
3. スター怪獣が他の怪獣をやっつけるもの:ゴジラvsシリーズ等
キングギドラは、分類2のスター怪獣同士が対戦する映画に、スター怪獣をしのぐ大スターとして乱入した真打のはずだった。なのに、平成以降はゴジラやモスラといったスター怪獣にやっつけられる分類3の怪獣に堕してしまった。
あの最高に強くて最高にかっこいい、怪獣の王たるキングギドラを、東宝は敵役の中の単なる一匹にしてしまったのである。
アメリカ映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の制作が報じられたとき、私はとても不安だった。『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』にはラドンもモスラもキングギドラも出るという。ゴジラよりもラドンよりもモスラよりも圧倒的に強いはずのキングギドラは、そのキングとしての尊厳を守れるのだろうか。
そもそも米国ではゴジラが「怪獣王ゴジラ(Godzilla, King of the Monsters!)」と呼ばれる一方で、キングギドラは単にギドラ(Ghidrah)と呼ばれる。キングギドラ様の「キング」を外すとはとんでもない失礼だが、「キング」の称号はすでにゴジラに捧げていたのである。
結論からいえば、不安は的中してしまった。
2014年の『GODZILLA ゴジラ』が昭和ゴジラシリーズに通じる雰囲気を醸し出していたのに対し、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は平成以降のvsシリーズ色が強かった。ゴジラとラドンとモスラが出現してキングギドラと戦う点は『三大怪獣 地球最大の決戦』を、またキングギドラをモンスターゼロと呼んだり、怪獣たちを機械で操る設定は『怪獣大戦争』を下敷きにしているものの、ゴジラが『ゴジラvsデストロイア』のときのように全身真っ赤になったり、口から白熱光線を発するだけでなく全身から謎のパワーを放射して敵を倒したりと、すっかり平成ゴジラの趣きであった。
そしてキングギドラがラドンを打ち負かし、モスラを倒すのはとうぜんながら、平成以降のゴジラシリーズの例に漏れず、ゴジラ一匹に敗北してしまう。
なんということだろうか。
舞台を米国に移したハレの場で、あの負けてばかりの悪役レスラーだったゴジラに、天下のキングギドラが敗れたのだ。
キングギドラが大好きな私は悲しくてならない。
がんばれキングギドラ。くじけるなキングギドラ。お前が宇宙最強の怪獣であることは多くの人が知っている。「キング」の座を奪い返すまで、戦い続けろキングギドラ!

監督・原案・脚本/マイケル・ドハティ
原案・脚本・制作総指揮/ザック・シールズ 原案/マックス・ボレンスタイン
出演/カイル・チャンドラー ヴェラ・ファーミガ ミリー・ボビー・ブラウン 渡辺謙 チャン・ツィイー ブラッドリー・ウィットフォード サリー・ホーキンス チャールズ・ダンス トーマス・ミドルディッチ
日本公開/2019年5月31日
ジャンル/[アクション] [アドベンチャー] [SF]

【theme : ゴジラシリーズ】
【genre : 映画】
tag : マイケル・ドハティカイル・チャンドラーヴェラ・ファーミガミリー・ボビー・ブラウン渡辺謙チャン・ツィイーブラッドリー・ウィットフォードサリー・ホーキンスチャールズ・ダンストーマス・ミドルディッチ
『シン・ゴジラ』 ゴジラの正体

前々回、前回とガメラについて述べてきたのは、ゴジラを語るためでもあった。東宝のゴジラ映画第29作となる『シン・ゴジラ』が、おそらくゴジラ映画史を覆す傑作だろうと思われたからだ。ガメラシリーズの変遷を振り返ることで、ゴジラシリーズの特徴も浮き彫りになり、その結果『シン・ゴジラ』の位置付けも明らかになると考えたのだ。
■世にも奇妙なゴジラシリーズ
私もゴジラシリーズは大好きだ。『キングコング対ゴジラ』の日米頂上決戦に痺れ、『モスラ対ゴジラ』の不良ゴジラに魅了され、『怪獣大戦争』のストーリーテリングの巧みさに唸ったものだ。一般的な評価は高くないかもしれないが、『ゴジラ対メガロ』だってジェットジャガーのかっこよさと相まって私にはストライクだ。21世紀に目を向ければ、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』の面白さに、さすが平成ガメラの金子修介監督だと敬服した。
だが、どんなにゴジラ映画が作られても、燦然と輝くのは1954年の第一作『ゴジラ』だ。「ゴジラ映画としては」とか「怪獣映画としては」なんて前提をつける必要はない。ジャンルを超えた素晴らしい傑作だ。
それは東宝も重々承知のことだろう。過去、ゴジラシリーズは何度もリブートされたが、1954年の第一作だけは無視できなかった。平成ゴジラシリーズ(vsシリーズ)もミレニアムシリーズも、第一作の続きという位置付けだった。第一作こそゴジラ映画の原点であり最高傑作であり、その特別なポジションは揺るがなかった。
先の記事では怪獣映画を次の三つに分類した。
1. タイトル・ロールの怪獣が中心の映画:『ゴジラ』『キング・コング』『大怪獣ガメラ』等
2. スター怪獣同士が対戦するもの:『キングコング対ゴジラ』等
3. スター怪獣が他の怪獣をやっつけるもの:二作目以降の昭和ガメラシリーズやゴジラvsシリーズ等
(詳しくは「『ガメラ 大怪獣空中決戦』の衝撃とゴジラシリーズ」、「『ガメラ2 レギオン襲来』が最高峰なわけ」を参照)

ゴジラシリーズは『ゴジラ』からはじまったのだから当たり前……と思われるだろうか。
あまりにも『ゴジラ』の存在が大きいので当たり前のように感じてしまうが、他のシリーズに目を向ければ必ずしもそうではない。ゴジラ誕生のヒントとなったキングコングは、南の島で発見されて人間世界に連れてこられ、という同じ話をもう三回もやっている。
怪獣映画以外にも目を向ければ、第一作に拘泥しない例はさらに多い。ソニーピクチャーズは2002年の『スパイダーマン』にはじまるシリーズが行き詰まると早々にリブートし、2012年の『アメイジング・スパイダーマン』でスパイダーマン誕生ばなしからやり直した。007シリーズもスタートレックシリーズも、ある時点で設定を刷新して新しいシリーズにしている。ウルトラマンや仮面ライダーは云わずもがな、日本一の長寿シリーズ「男はつらいよ」だって、テレビ版から劇場版に発展する際に一から話を説き直した。
映画各社がシリーズを一からやり直すのは、ことの起こりが一番面白いからだ。ヒーローなりモンスターなりがはじめて世に現れ、世界と交わるときの驚き、ときめき、衝撃に勝る面白さはない。
『ガメラ 大怪獣空中決戦』が傑作たり得たのも、過去作のしがらみから解放され、設定を一から構築できたからだ。平成ガメラ三部作は、一貫してガメラとは何なのかを解き明かす物語であり、昭和ガメラシリーズに縛られることなく超古代文明だの超自然的な「マナ」だのの設定を盛り込めた。だからこそ、あれほど面白くなったのだ(もちろんリブートしても面白くない映画はあるし、ターミネーターシリーズのように毎回新しいターミネーターがやってくることで陳腐化を防ぐ例もある)。
だから、ゴジラ映画の中で、1954年の『ゴジラ』が燦然と光り輝くのはとうぜんなのだ。一番面白い、おいしいところを描いた第一作を絶対視し、二作目以降しかリブートしない、正確にはリブートとはいえないことしかしてこなかったのだから。
本当に面白いゴジラ映画を作ろうと思ったら、第一作をリメイクすることだ。ゴジラがはじめて人間の前に現れ、日本中が人智を超えた存在に恐れおののき絶望の淵に立たされる。ゴジラシリーズを覆うタブーを打ち破り、そういう映画を作るしかないと私は思っていた。
そして、遂にそれを実現したのが『シン・ゴジラ』だ。第一作が持っていた要素を完全に備え、なおかつ現代風に、2016年に相応しくアレンジされた映画。これが傑作になるのは必然だった。

ゴジラ映画には60年以上の歴史があるから、接した時期は人それぞれだし、人によって好きなところも違うだろう。誰もが自分なりのゴジラ像を抱いているに違いない。
劇中でゴジラに関する研究が進み、その細胞が分析・増殖されていることをよしとする人もいるだろうし、ゴジラ対策機関が設置され、ゴジラ災害を防ぐべく官民が努力しているのをよしとする人もいるだろう。対ゴジラ用に開発された超兵器をかっこいいと思う人もいることだろう。
同時に、ゴジラを鬼神や破壊神のように捉え、愚かな人間に対する怒りや裁きの象徴と見る人もいるだろう。
しかし、第一作『ゴジラ』にこれらの要素はなかった。
正体不明のモンスターが現れ、ただ歩き回って海に帰っていく。『ゴジラ』はそういう映画だった。あとは人間が大騒ぎするだけだ。劫火に逃げ惑い、泣き叫び、死んでいく。政府も学者もなすすべもなく、ただ街を破壊されるだけだ。
大戸島の伝説の怪物になぞらえる老人もいるけれど、その伝説が本当にこの怪物のことかどうかは判らない。水爆実験の影響で出現したと云う学者もいるが、本当のところは判らない。
人間が歩くときにいちいち蟻をよけたりしないように、蟻はなぜ人間が自分の上を歩いたのか永遠に理解することがないように、ゴジラもただ歩き、足下のものを踏み潰していく。
『シン・ゴジラ』はこれをそっくり再現した。一つ一つのセリフやエピソードは違っても、描こうとしているのは同じことだ。
とりわけ忠実に再現されたのがゴジラのデザインだ……などと書くと、過去作のゴジラと似ても似つかないじゃないか、と云われそうだ。
私は『キングコング対ゴジラ』のデザインがかっこいいと思うけれど、『モスラ対ゴジラ』の不敵な面構えのゴジラも人気があるし、平成以降の怒りを込めた顔つきのゴジラを愛する人もいよう。どのゴジラもそれぞれの良さがあるけれど、いずれもゴジラがキャラクターとして人気を確立した後のものだ。
初代ゴジラの特徴は、表情のなさだ。とりわけ魚のような、感情のない真ん丸い目が恐ろしい。
本作のゴジラは無表情な丸い目をきっちりと受け継いでいる。キャラクターデザインの竹谷隆之氏によれば、特に海から上がったばかりの第二形態に関する庵野秀明総監督の要望は「深海魚のラブカみたいに、眼は真ん丸で何も考えていない感じにしたい」というものだった。[*]

「庵野さんは目にも強いこだわりを持っていて、『人間の眼でいこう』ということになってから白目と黒目の比率をとても慎重に吟味されていました。生き物の中で人の目がいちばん恐いと」
人間の目といっても、人間らしい眼差しはない。ゴジラには瞼がなく、表情筋もないから無表情だ。醜くゴツゴツした頭に、ただギョロリとした人間の目玉がついているだけ。この不気味さは、まさに初代ゴジラに通じるものだ。
怖さだけを狙ったのではない。瞼がないのは、完全生物のゴジラは身を守る必要がないからだ、という理由付けがなされている。[*]
怒ったような表情や、眼を細めて睨みつけるような表情は、実はあまり怖くない。
怒った顔が怖いのは、人間とか犬とか猿とか、感情豊かな生き物の場合だ。平静な人に比べれば、そりゃあ怒った人は怖い。だが、怒りの表情を見せるのはそれだけ人間的ということだ。いくら怒っても、人間のすることはたかが知れている。表情があるのは、表情によるコミュニケーションを必要とする証拠であり、理解し合ったり共感を覚えたりする余地がある。
本当に怖いのは感情が読めないもの、感情がない存在だ。怒りがないということは、平静な状態もないのだから、いつ何をされるか判らない。何を考えているか判らない存在ほど怖いものはない。
だから、これまで私が怖いゴジラは初代のみであり、他のゴジラはかっこいいと思うことはあっても全然怖くなかった。
実をいえば、『シン・ゴジラ』を見てもいないのに傑作に違いないと確信したのは、『ガメラ2 レギオン襲来』のトークショーのときだった。
平成ガメラの歴代スーツアクター三人がはじめて揃ったこの日、撮影裏話として『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』でガメラを演じた福沢博文氏が明かしてくれたことがある。
![ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒 デジタル・リマスター版 [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/91vem%2BT1n4L._SL160_.jpg)
「しょせん人間が勝手に思ってるだけだからね。」樋口監督の答えは意外だった。怪獣が考えてることなんて判らない。人間はガメラが守ってくれたとか思っているけど、それは人間の勝手な想像だという。
トークショーに同席していた平成ガメラ三部作の特撮助監督神谷誠氏も「怪獣は災害のメタファーなわけで。人間に台風の気持ちは判らないから」と言葉を添えた。
ガメラが人間の、特に子供の味方であることは、昭和のシリーズから平成シリーズまで一貫した設定だ。まして平成ガメラ第三作は、「THE ABSOLUTE GUARDIAN OF THE UNIVERSE (世界の絶対的な守護者)」と副題がついた作品だ。その終盤で、少女を助けたガメラがじっと少女と見つめ合うクライマックスの場面での、ガメラを演じる役者への指示が慈愛でも博愛でもなく「何を考えているか判らない」というのだから嬉しくなってしまう。
ガメラですら何を考えているか判らないのだから、まして人間の味方でもなんでもないゴジラに人間らしい怒りなんてあるはずがない。私がゴジラでもっとも重要視している「無感情」という要素を樋口監督も押さえていることが判って、私の『シン・ゴジラ』への期待は高まったのだ。
残念ながらゴジラが丸い目をして無表情だったのは、これまで『ゴジラ』第一作だけだった。その後のゴジラは昭和後期の善玉時代を経て、怒りに満ちた凶暴そうな表情を特徴とした。
これは人間のとうぜんの反応だ。人は何にでも因果関係を求める。良くないこと、不幸なことには原因があるはずだと考える。愚かなことをしたからだとか、道理に反することをしたからだとか、人間の行いに原因を求める。それはすなわち、悪い行いをすれば罰が下されると考えることにも繋がる。心理学者ジェシー・ベリングによれば、こうして人間の行いを見ている者――神の概念が生まれたのだという。(「『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ』 幸せを感じる秘密」参照)
ゴジラが街を壊し、人を踏み潰して暴れるのは、人間の行いに怒っているからだと考えるのは自然なことだ。
だがそれは、いわば台風の気持ちを読み取るようなものである。東日本大震災が起きたのは天罰だといった政治家と同じだ。原子力発電所の事故は罰が当たったのだという学者と同じである。本能に根差した素朴な反応だが、これらの発言は激しい非難を浴びた。
『シン・ゴジラ』ではゴジラから一切の表情を排することで、災害のメタファーとしてのゴジラを極限まで突き詰めた。
私たちは台風に限っていえば発生の可能性や進路を予測できるようになってきたが、地震や噴火等々、発生時刻も場所も規模も判らない災害はまだまだ多い。『ゴジラ』第一作は戦争や原水爆のメタファーであると云われるが、空襲や原爆投下だって爆弾を落とされるほうにしてみればいつどこにどれだけの被害が生じるか判らないのだから天災と変わらない。突如としてやってきて、街を紅蓮の炎で焼き尽くし、どこへともなく去っていくゴジラは、天災そのものだ。
人間は己の卑小さ、矮小さにおののくばかりだ。

『崖の上のポニョ』は金魚のような海の生き物が(人間の科学者が開発した高エネルギー物質を摂取して)手や足を生やしながら巨大化し、上陸して大災害を起こす話だ。『シン・ゴジラ』でも、オタマジャクシのような第一形態[*]から深海魚のラブカ(ウナギザメ)のような第二形態、二足歩行の第三形態を経て、手や足を生やしながら巨大化し、上陸して大災害を引き起こす。
ポニョとゴジラでは外見がまるで異なるが、注目すべきは目の描き方だ。宗介の前では可愛い女の子の姿をしているポニョだが、魔力が弱まると半魚人のようになってしまう。そのときポニョを特徴づけるのが表情のない丸い目だ。人間とは違う世界の生き物を表現するには魚のような丸い目がポイントとなることを、優れたクリエイターは心得ている。
私はゴジラの本質が無表情で感情がないことだと考えているが、怒り顔のゴジラの映画が何本も作られたのは、ゴジラに怒りや怨念を重ねる人が多いからだろう。
本作はそれらの人たちも置き去りにはしない。そのための仕掛けが科学者、牧悟郎だ。放射性物質を憎む牧悟郎の恨みつらみを描くことで、本作は観客が怒りや怨念の象徴としてゴジラを見ることを可能にしている。
しかも、牧悟郎は行方不明になっているので、劇中に登場しない。だから、劇中人物が彼に真相を問い質したり、改心させたりができない。残された人たちは(観客も含めて)牧悟郎の怒りや恨みの大きさを想像し、勝手に共感することができる。
人間側のドラマを精緻にすることで多様なゴジラ観を可能にするとは、巧い作り方だ。
■選ばれた方式
本作はゴジラ映画がタブーとしていた第一作のリメイク(第一作からのリブート)に挑戦した映画といえるだろうが、下敷きにしたのはそれだけではない。優れた作品がTTP(徹底的にパクる)によって生まれるように、本作にも数々の手本があろう。
未曽有の大災害が日本を襲い、甚大な被害が生じる中、政府関係者が各国と連絡を取りながら国を揺るがす危機に対処する――というと1973年公開の『日本沈没』あたりが思い浮かぶが、この映画からの影響は限定的だろう。『日本沈没』は政府首脳よりも庶民に近い潜水艇の操縦士を主人公に、大災害に翻弄される日本人を多面的に描き出した。しかし、樋口監督は2006年に『日本沈没』の再映画化に挑戦し、庶民と災害をたっぷり描写したから、同じことをまたやる気にはならなかったに違いない。
庵野秀明総監督も樋口真嗣監督も正直なので、特に重要な手本については映画の中でちゃんと明らかにしている。科学者牧悟郎の写真として、亡き岡本喜八監督のご尊顔が映し出されるのだ。岡本喜八監督のお孫さんの前田理沙さんがこう呟いている。
「岡本喜八を敬愛してくださっている庵野秀明監督、樋口真嗣監督の希望で劇中で写真が使われています。」

国を揺るがす危機にあって政府の中枢でなされた議論を、緊迫感溢れる会議の連続で描いた映画といえば、岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』(1967年)が真っ先に挙がるだろう。
この映画は、原爆が落とされ、英米のみならずソビエト連邦にも攻撃される中で、なおも戦争を続けようとする陸軍大臣らと戦争を終わらせようとする海軍大臣らのせめぎ合いを、1945年8月15日に至る出来事の積み重ねで描き出した。157分もある映画のほとんどは会議や下工作の繰り返しだが、題材の重さとテンポの良さが相まって抜群に面白い。この映画も現場や市井の人々の描写はほとんどなかった。
岡本喜八監督が戦争を描いた大作といえばもう一本、1971年の『激動の昭和史 沖縄決戦』も思い出される。こちらは軍上層部や現場や市井の人々をまんべんなく描いて、多くの犠牲者を出した沖縄戦の経緯を解き明かしている。
こちらも見応えある作品だが、『シン・ゴジラ』の下敷きとしては『日本のいちばん長い日』が相応しい。
なぜか。
映画とは、観客が見たこともないものを見せて楽しませるものだからだ。
『日本のいちばん長い日』が公開された1967年当時、戦争の悲惨さはまだ人々の記憶に残っていただろう。ベトナム戦争特需の好景気に沸いていたとはいえ、戦争中の辛さや戦後の苦しさは誰でも語ることができたはずだ。
一般の人々が知らなかったのは、あの8月15日正午の玉音放送までに何があったのかということだ。なぜ、他でもない8月15日なのか、と云い換えてもいい。もしも8月15日に放送できなければ、大日本帝国は戦争終結のタイミングを失い、さらに犠牲を出し続けていたかもしれない。その知られざる戦争秘話が明かされるから、『日本のいちばん長い日』は面白いのだ。

第二次世界大戦は1945年に終わったけれど、沖縄が米軍に占領されていたこともあり、日本の他の地域では戦争末期に沖縄で何があったのか知られていなかった。多くの民間人にも犠牲を出す悲惨な戦いがあったことが知られるようになったのは、1953年に映画『ひめゆりの塔』が公開されてからだ。この映画の大ヒットにより、壮絶な沖縄戦が広く知られるようになった。
その後、沖縄住民らの激しい運動や日本政府の交渉を経て、1971年6月17日にようやく日米間で沖縄返還協定が調印される。実際に沖縄が日本に返還されたのは翌年の5月15日のことだ。『激動の昭和史 沖縄決戦』が公開されたのは1971年7月17日。沖縄返還協定が調印されてから返還されるまでのあいだの、これまで"外国"だった沖縄がようやく帰ってくるというタイミングで、沖縄戦の経緯となぜひめゆり学徒隊のような悲劇が起きたのかをつまびらかにしたのがこの映画だった。
『シン・ゴジラ』も観客が見たことのないものを見せる映画だ。
作り手は『シン・ゴジラ』を作るに当たって各府省や自衛隊に綿密な調査を行ったという[*]。これを踏まえて、大災害が起きたら政府の各機関がどう動くかをリアルに表現した。

もちろん、東日本大震災の再現ドラマではないから、少なからぬ改変が施されている。国家を揺るがす危機が生じた場合は、官邸地下の危機管理センターが情報集約拠点となるが、東日本大震災当時の首相はそこを離れて官邸地下中二階や官邸五階の会議室に移ってしまった。そのため意思決定に必要な情報の不足と偏在が生じたことが問題として指摘されている。官邸危機管理センターでの情報集約そのものも上手くいってなかったことが指摘されているが、本作ではそういった問題は割愛されている。
東日本大震災以降、3月11日になるとテレビ各局が震災を特集した特別番組を放映している。だが、『シン・ゴジラ』が公開された2016年はそれら特別番組の視聴率が低かった。
その理由は様々だろうが、2011年3月11日の大惨事についてすでに全国民が知っていることも理由の一つだろう。当時の連日にわたる報道、そして毎年繰り返される報道等により、程度の差こそあれ日本人の誰もが大震災のことを知っている。2016年になって新たに報道される事実もあるにはあるが、番組全体としては新たな衝撃や新たな知見がもたらされるわけではない。
事実を報道するテレビ番組の意義はともかく、娯楽映画、商業映画において、観客が目新しさを感じないものを描くために尺や予算を使うのは得策ではない。終戦から22年経って公開された『日本のいちばん長い日』でさえ、現場や市井の描写を必要としなかった。ましてや東日本大震災から五年足らずで公開された『シン・ゴジラ』に、これ以上の被災する人々の描写が必要とは思えない。
軍人であると民間人であるとを問わず、多大な犠牲者が出たことを知らしめる『激動の昭和史 沖縄決戦』方式ではなく、会議を重ねる政府中枢に焦点を当てた『日本のいちばん長い日』方式を選ぶのは妥当な判断といえよう。
それに2016年の今でも、津波の映像が含まれる予告編等には断りのテロップを入れる配慮がなされるくらい、災害の映像に観客は敏感だ。
本作をご覧になればお判りのように、これは希望と明るさを感じさせる映画だ。大災害を題材としながら明るく感じる映画にするには、繊細な配慮が求められる。具体的には、犠牲者が出るネガティブな描写と困難に立ち向かうポジティブな描写のバランスが重要だ。
ましてや災害を描くことが東日本大震災の記憶を甦らせ、それによってネガティブな思いを抱かせるおそれがあるなら、その描写にはなおのこと注意が必要だろう。
この点からも、本作のバランスの取り方は首肯されるところだ。

2016年現在の観客にとって、本作は2011年の大地震と大津波、それに伴う大火災や原子力発電所の事故を思い出させる。
しかし、「災害のメタファー」であるゴジラの上陸が示すのは、すでに起きた災害ばかりではない。首都の壊滅と残された者が奮闘する姿は、いずれ起きる首都直下型地震の暗喩としても見ることができる。近い未来には、本作が首都直下型地震に伴う出来事を予見した映画とみなされているかもしれない。ゴジラが甚大な被害をもたらしながら次の活動までしばらく停止する様子は、本震と余震のようでもある。
私たち人間は災害を消滅させることはできない。台風の進路は変えられないし、地震を止めることもできない。人間が起こす戦争ですら、完全消滅は難しい。
だから『シン・ゴジラ』では、人間は完全な勝利は得られない。かろうじて危機を乗り越えるものの、すべての脅威が消えてなくなるわけではない。再び来るであろう危機に備える必要を感じさせるから、本作はより一層現実的だ。
大災害はいつでもどこでも起こり得る。
それは同時に、本作が描く希望と明るさが、いつでもどこでも人々を元気づけるということでもある。
本作はゴジラ映画や怪獣映画といった枠に留まらず、時を超えて誰の心にも響く映画だ。
この永遠不滅の傑作を観せてくれた庵野秀明総監督、樋口真嗣監督、尾上克郎准監督、そしてすべての関係者の方々に心から感謝したい。
[*] パンフレット記載の PRODUCTION NOTES から

総監督・脚本・編集・D班監督/庵野秀明 監督・特技監督/樋口真嗣 准監督・特技総括・B班監督/尾上克郎
出演/長谷川博己 竹野内豊 石原さとみ 野村萬斎 高良健吾 松尾諭 市川実日子 余貴美子 國村隼 平泉成 柄本明 大杉漣
日本公開/2016年7月29日
ジャンル/[SF] [特撮] [サスペンス]

『GODZILLA ゴジラ』 渡辺謙しか口にできないこと
![GODZILLA ゴジラ[2014] Blu-ray2枚組](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51yBEODOpdL._SL160_.jpg)
「ゴジラはアンチヒーローなんだ。善玉じゃないけれど、悪の化身でもない。」
ゴジラとは何か?
ゴジラ映画を撮る際に作り手が最初に悩むであろうこの質問に、『GODZILLA ゴジラ』のギャレス・エドワーズ監督は上のように答えている。
1954年に誕生して以来、ゴジラというキャラクターはブレ続けてきた。人間を襲う脅威だったり、人間を助けるヒーローだったり、息子思いの教育パパだったりした。
受け手にしても、はじめて接したゴジラ、思い入れのあるゴジラは人それぞれだろう。
どのようなゴジラ像をもってしても万人を喜ばせるのは難しいに違いない。
それでも1985年の『ゴジラ』や1999年の『ゴジラ2000 ミレニアム』等でゴジラシリーズがリブートされるたび、1954年の一作目の続編に戻ったように、日本では初代ゴジラこそ原点にして本物との意識が強い。初代ゴジラは人間を踏み潰し、破壊の限りを尽くす恐怖の権化だ。
米国の流れはいささか異なるようだ。
『チキチキマシン猛レース』や『原始家族フリントストーン』で知られるハンナ・バーベラ・プロダクションが1978年と1979年にゴジラをテレビアニメ化した。カートゥーン専門のハンナ・バーベラと凶暴なゴジラの組み合わせは意外に思えたが、当時の雑誌に「このゴジラは人間の味方の善いゴジラ」というハンナ・バーベラ社の説明があって驚いた。
米国では1999年にもテレビアニメ化されているが、その『ゴジラ ザ・シリーズ』のゴジラも人間を守るいいヤツだった。
どちらのゴジラもスーパーヒーローに位置付けられる。超人ハルクが巨大になったようなものだ。
これらの経緯を考えれば、ギャレス・エドワーズ監督の「善玉じゃないけれど、悪の化身でもない」という言葉は、米国アニメのようなヒーローでもなければ、初代ゴジラのように暴虐でもないと述べているように思える。
だが、出来上がった『GODZILLA ゴジラ』を観れば判るように、監督はヒーローらしさと暴虐さの両方を打ち出した。劇中の人々はゴジラの出現に恐怖するが、ゴジラは凶暴な怪獣ムートー(Massive Unidentified Terrestrial Organism:未確認巨大陸生生命体)を退治して街に平和をもたらしてくれる。
エドワーズ監督が云う「アンチヒーロー」とは、単なる善玉ではなく、悪いだけの怪物でもなく、あらゆる要素を兼ね備えた存在を指すのだろう。
思えば、あらゆる要素を削ぎ落したのがディーン・デヴリン制作、ローランド・エメリッヒ監督の『GODZILLA』だった。
1998年に公開されたこの映画のゴジラもまた、善玉でもなく悪の化身でもなかった。好んで人間を襲うほど暴虐ではないし、街に平和をもたらすのでもなく、ただ巣を作って繁殖するだけの生物だった。善玉とか悪の化身というのはゴジラを擬人化して何らかの役割を担わせることだが、ローランド・エメリッヒ監督は一切擬人化しなかったのだ。
これも一つのアプローチだと思う。誕生以来キャラクターがブレ続け、様々な面を持ってしまったゴジラを取り上げる方法として、後付けのイメージをすべて削ぎ落とすべく原点を探ったのだろう。
エメリッヒ版のゴジラは、イグアナが突然変異したものだと示唆されている。これも原点回帰と云えよう。
イグアナがゴジラの原点とは奇異に感じるかもしれないが、ゴジラのルーツをたどればそれほどおかしな話ではない。
よく知られているように、初代ゴジラは1953年制作のアメリカ映画『原子怪獣現わる』と、同年に日本でリバイバル公開された『キング・コング』をヒントにしている。『原子怪獣現わる』は核実験で目覚めた恐竜が暴れまわる映画であり、そのプロットはそのまま1954年版『ゴジラ』に受け継がれている。
すなわち、ゴジラとは恐竜が怪獣化した(巨大化して白熱光線を吐くようになった)ものなのだが、そもそも当時の恐竜はイグアナを参考にイメージされていた。
富田京一氏は恐竜の外観が検討された過程についてこう説明する。
---
最初に見つかった恐竜の歯がイグアナに似ていたんですね。それ以降、歯が似ているというだけだったんですけど、イグアナがかっこいいのでなんとなく外観をイグアナをモデルにみんな復元しちゃったんですね。
---
今では恐竜は鳥類の祖先であることが判っているから、最新の知見に基づいて恐竜が怪獣化したものを造形すれば、羽毛がフサフサした巨大な鳥になってしまうかもしれない。でも、ゴジラとしてそれはないだろう。
だから、かつての恐竜のイメージの源流を遡ってイグアナにたどり着くのはおかしくない。
また、日本では初代ゴジラといえば1954年版『ゴジラ』を指すけれど、他国では違う。
vsシリーズの特技監督を務めた川北紘一氏は、1998年版『GODZILLA』の公開に際して「アメリカ人のゴジラの原点はレイモンド・バーの出ている『怪獣王ゴジラ』なんですよ。だから我々が観ているゴジラの一作目とは全然ちがうものだと考えたほうがいい。」と述べている。[*]
『怪獣王ゴジラ』(原題『Godzilla, King of the Monsters!』)は、米国の映画会社が1954年版『ゴジラ』のフィルムを買い取って、独自に追加撮影及び編集を行い、1956年に公開した作品だ。そこに1954年版『ゴジラ』のような反核のメッセージはない。
日本のファンは水爆大怪獣として登場したゴジラに核の恐怖や文明への批判を見るが、日米では原点が違うのだ。
1998年版『GODZILLA』を作る際の契約に立ち会った川北紘一氏は、米国側にキャラクターの研修も行ったが、日米の違いにこそ期待していた。
---
我々が思っているゴジラは、僕がリニューアルしてもそんな大胆には変えられない。アメリカ人は大胆に変えることができるんだよ。僕なんか長いこと東宝にいるんで、うちのスターをこんなふうにしちゃっていいのかなあと、そんなにいじれない。それでも随分と変化している。さらに発展させるためには、バーンと一回切って次の世代にしていかなきゃいけない。
---
東宝の期待に応えて、1998年版『GODZILLA』には東宝作品とはまったく異なるゴジラが登場した。
異質なゴジラは残念ながらファンの支持を得ることができず、第19回ゴールデンラズベリー賞の「最低リメイク及び続編賞」を受賞してしまったが、制作したディーン・デヴリンは「僕だってゴジラを愛してたんだ。一生懸命やったんだよ。」と弁明している。
2014年公開の『GODZILLA ゴジラ』の特徴は、うって変わってゴジラのキャラクターを尊重したことだろう。
公式サイトによれば、ギャレス・エドワーズ監督は『怪獣王ゴジラ』ではなく1954年の本多猪四郎(ほんだ いしろう)監督作をDVDで鑑賞し、ストーリーの奥に隠されたメッセージに魅了されたという。
---
(日本以外の)多くの人々が気づかないのは、オリジナルの日本の『ゴジラ』は実は時代性を超えた真摯なメタファーが根底にある映画だということなんだ。だからこそ、あの映画は日本の文化にあれほど受け入れられたんじゃないかな。優れたモンスター映画だというだけでなく、あれほど本能的かつリアルな形でああいう映像がスクリーン上で描かれるのを観ることは、日本の人々にとって、とてもカタルシスになる経験だったからだ
---
脚本家マックス・ボレンスタインも、東宝のゴジラ映画を研究して大きなテーマを見出した。
「オリジナル版は、自然の脅威の中では人間はちっぽけな存在だが、それでも人間には、あれだけの規模の大惨事から立ち上がり、乗り越える強さと回復力があることを描いたすばらしい作品だ」
オリジナルのゴジラが自然の脅威を象徴するかどうかは意見が分かれるかもしれないが、いずれにしろ本作を単なる巨大生物の上陸騒ぎに留まらない作品にしようとする意気込みが感じられる。
エドワーズ監督は本作のテーマが自然対人間であると語る。
「ゴジラは間違いなく自然の怒りを表現している。テーマは自然対人間なんだ。そしてゴジラは自然の側だ。人間がその戦いに勝つことはできない。常に自然が勝ち続ける。それがこの映画の意味するものだ。ゴジラは我々に対する罰なんだ。」
これは矛盾した発言のように聞こえる。
本作でゴジラが戦う相手は新怪獣ムートーであり、人間はゴジラに救われる。ムートーが人間を踏み潰したり街を壊しまくるのとは裏腹に、ゴジラが人間を傷付ける描写は慎重に回避されている。ゴジラが自然の象徴ならば、本作は一見すると自然対人間には見えない。
ここが作り手たちの工夫したところだ。
都市を破壊し、人間を殺すムートーは、人間側の象徴なのだ。ムートーは原子力発電所に巣食ってエネルギーを吸収し、核兵器や原子炉をむしゃむしゃ食べる。雌ムートーの繭を放射性廃棄物処分場で保管したのは、ムートーを餌の中に置いてやるようなものだった。人間が作り出したものから栄養を得て成長するムートーは人類文明の象徴であり、そのムートーに人間が襲われる姿は文明の自滅を表している。
ムートーの必殺技が電磁パルスによる大停電なのも作品のテーマゆえだろう。文明がない太古には停電させる能力なんて意味なかったはずだが、ムートーは文明社会の抱える矛盾を体現した怪獣だから、破壊の矛先は人類文明に向いているのだ。
ゴジラとムートーが宿敵同士なのも、自然対人間の構図を投影しているからだ。
初代ゴジラは、自身が原水爆とそれを生み出した人類文明を象徴していたが、本作ではムートーがその役割を担っている。
これは本作のエグゼクティブ・プロデューサー坂野義光(ばんの よしみつ)氏が監督した『ゴジラ対ヘドラ』(1971年)を髣髴とさせる。
『ゴジラ対ヘドラ』で、人間は公害から生まれたヘドラに襲われる。空や海を汚した報いがヘドラになって返ってきたのだ。人類文明の負の部分――公害の象徴ヘドラに対して、それを退治するゴジラはもはや原水爆の象徴に留まらない。どこからともなく現れて、ヘドラを倒すといずこともなく去っていくゴジラは、人類文明を超越した世界の住人のようだった。
渡辺謙さんが演じる芹沢猪四郎博士は、本作のゴジラが自然に調和をもたらす存在だと説く。ムートー(人類文明)の暴走を止める自然の作用としてゴジラが出現するのだと。
この説明を、おそらく日米の観客は異なる意味合いで受け止めている。
自然が怒るというのなら、そこには感情を持つ魂があることにならないか。
芹沢博士はゴジラを破壊神と呼び、そこに荒ぶる神を見た。
ゴジラ映画を観なれた日本の観客には、お馴染みの説明である。
1954年版『ゴジラ』では大戸島の長老が伝説の怪物「呉爾羅(ごじら)」の名を口にして、超自然的な背景が語られた。『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』に至っては、ゴジラとは太平洋戦争で亡くなった人々の怨念の集合体だと説明されている。ゴジラはしばしば霊的な存在、神々しいものとして描かれてきた。
先進国には珍しく自然崇拝が色濃く残り、山や太陽のような無生物を神とする日本では、このような説明に違和感がない。云うなれば、水爆大怪獣ゴジラは水爆の祟り神である。
他方、米国のようなキリスト教社会では、自然は創造主によって秩序あるものとして造られたのだと考える。怒るのは創造主であり、自然(創造主の秩序)に反することがあれば罰が下される。
「罰」という考え方は、罰を下す者の存在を前提にしている。
エドワーズ監督に「ゴジラは人間に対する罰」と云われても、ゴジラを差し向けるほどの絶対者を想定していない日本人にはピンと来ないが、米国ではすんなりと受け止められるのではないだろうか。ゴジラは、神が造った世界を調和させるための手駒なのだ。
面白いことに、本作で破壊神だの自然の調和だのと云っているのは、主要登場人物中で唯一の日本人である芹沢博士だけだ。
生物学者の芹沢博士は、ゴジラ及びムートーの専門家として意見を求められる立場のようだが、劇中ではお喋りするばかりでこれといった貢献が見られない。芹沢博士に比べれば、スクールバスの運転手の方がよほど果敢に行動している。つまり、本作のストーリーは米国人キャラだけで進行しているのだ。
芹沢博士を除いてこの映画を見てみよう。
突如現れるモンスター、家族を案じる父親、市民を守る軍人たち、モンスターと戦う屈強なヒーロー。芹沢博士がいなくてもストーリーに支障はない。いや、いない方が典型的なアメリカ映画として判りやすい。
本作の芹沢猪四郎博士は、1954年版『ゴジラ』の芹沢大助博士のように怪獣退治の手段を考案するわけでもないし、山根博士のように怪獣研究の重要性を訴えるでもない。
では、いったい何のために登場するのか。
実は1954年版『ゴジラ』にもいるのだ。本作の芹沢博士のようにゴジラのいわれを語り、「ゴジラ」の名を人々に伝えるだけの者が。
大戸島の長老である。
怪獣映画にはこのような役が多い。『ゴジラ対メカゴジラ』の天願老人、『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』の酋長とその娘カレン、『ガメラ対大魔獣ジャイガー』のウエスター島民ギボー等々、いずれも怪獣が棲む土地の現地人だ。異郷の異文化を代表する彼らの言葉は、まるで迷信のように聞こえる。
本作において、迷信を口走る現地人枠に相当するのが芹沢博士なのだ。だからこの役は日本人でなければならなかった。そこがゴジラ誕生の地だからだ。
こうして本作は多重構造を実現する。
芹沢という現地人はいるものの、本作は典型的なアメリカの娯楽映画だ。映画の最後では屋外スクリーンに「怪獣王(King of the Monsters)は救世主か?」という文字が躍り、本作が『怪獣王ゴジラ』(『Godzilla, King of the Monsters!』)の延長上にあることや、テレビアニメ版のようなスーパーヒーロー物であることが明らかにされる。
もう少しテーマ性を汲み取りたい観客には、人類文明の暴走や神の秩序について考えさせることだろう。
一方、東宝のゴジラ映画に馴染んだ人のためには、芹沢博士の言葉が従来どおりの味付けをしてくれる。ゴジラは単なる巨大モンスターでもなければスーパーヒーローでもなく、ゴジラ自身が破壊神というわけだ。
ギャレス・エドワーズ監督はこう述べている。
---
「ゴジラ」はアメリカ人に受け入れられるためには色々なレベルで成功しないと成立しない作品だと思います。個人的には日本人に受け入れられるゴジラ映画を作らなければ本物のゴジラではないと感じています。
ただ両方を叶える可能性もあると信じています。
---
ゴジラらしさをすべて削ぎ落したがためにゴジラに見えなくなってしまった1998年版から一転して、本作のゴジラは米国人にも日本人にも受け入れられるようにいろいろな面を兼ね備えた。
どんな観客でも、自分が観たいゴジラをどこかしら見出せるだろう。
もっとも、私が本作に感心したのは、ここまで述べたのとは別のことだ。
初代ゴジラが核兵器を象徴したように、本作も核の恐怖を取り上げている。同時に、怪獣退治の一手段としてとうぜんのように核兵器が持ち出される。
本作では核の扱いも多重構造であり、かなめになるのはやはり芹沢博士だ。
劇中、核兵器の使用を命じるウィリアム・ステンツ提督に、芹沢博士は古ぼけた懐中時計を差し出す。
提督「止まってるじゃないか。」
芹沢博士「1945年8月6日午前8時15分。」
提督「広島……。」
芹沢博士「それは私の父のものでした。」
このやりとりには驚いた。
広島に原子爆弾を投下した爆撃機エノラ・ゲイの機長ポール・ティベッツ大佐(当時)の息子ジーン・ティベッツ氏の許には、毎年8月頃になると元兵士たちから電話がかかってくるという。「君のお父さんがいなかったら、自分はこうして生きていない」と感謝の気持ちを伝えるために。
原子爆弾の投下のおかげで戦争は終った、戦争が続いていたら失われたであろう多くの人命が救われた。――そう考える米国人は今も少なくないという。
その米国において、原爆の犠牲者の遺族が米国軍人に食ってかかる映画を作るとは、そしてその映画を大ヒットさせてしまうとはたいしたものだ。
立場を変えて考えてみよう。
はたして日本において、たとえば中国人が登場して重慶爆撃の犠牲について日本人に詰め寄る映画を作れるだろうか。その映画を国内で大ヒットさせることができるだろうか。
そのハードルの高さを考えれば、本作の作り手はたいしたことを成し遂げたと思う。
これは語り継ぐに足る映画であろう。
[*] 参考文献: 冠木新市 企画・構成 (1998) 『ゴジラ・デイズ―ゴジラ映画クロニクル 1954~1998』 集英社文庫
![GODZILLA ゴジラ[2014] Blu-ray2枚組](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51yBEODOpdL._SL160_.jpg)
監督/ギャレス・エドワーズ
出演/アーロン・テイラー=ジョンソン(アーロン・ジョンソン) 渡辺謙 エリザベス・オルセン ジュリエット・ビノシュ ブライアン・クランストン サリー・ホーキンス デヴィッド・ストラザーン
日本公開/2014年7月25日
ジャンル/[アクション] [アドベンチャー] [SF]

【theme : GODZILLA ゴジラ2014】
【genre : 映画】
tag : ギャレス・エドワーズアーロン・テイラー=ジョンソンアーロン・ジョンソン渡辺謙エリザベス・オルセンジュリエット・ビノシュブライアン・クランストンサリー・ホーキンスデヴィッド・ストラザーン