『GODZILLA ゴジラ』 渡辺謙しか口にできないこと

 【ネタバレ注意】

 「ゴジラはアンチヒーローなんだ。善玉じゃないけれど、悪の化身でもない。」

 ゴジラとは何か?
 ゴジラ映画を撮る際に作り手が最初に悩むであろうこの質問に、『GODZILLA ゴジラ』のギャレス・エドワーズ監督は上のように答えている。
 1954年に誕生して以来、ゴジラというキャラクターはブレ続けてきた。人間を襲う脅威だったり、人間を助けるヒーローだったり、息子思いの教育パパだったりした。
 受け手にしても、はじめて接したゴジラ、思い入れのあるゴジラは人それぞれだろう。
 どのようなゴジラ像をもってしても万人を喜ばせるのは難しいに違いない。

 それでも1985年の『ゴジラ』や1999年の『ゴジラ2000 ミレニアム』等でゴジラシリーズがリブートされるたび、1954年の一作目の続編に戻ったように、日本では初代ゴジラこそ原点にして本物との意識が強い。初代ゴジラは人間を踏み潰し、破壊の限りを尽くす恐怖の権化だ。

 米国の流れはいささか異なるようだ。
 『チキチキマシン猛レース』や『原始家族フリントストーン』で知られるハンナ・バーベラ・プロダクションが1978年と1979年にゴジラをテレビアニメ化した。カートゥーン専門のハンナ・バーベラと凶暴なゴジラの組み合わせは意外に思えたが、当時の雑誌に「このゴジラは人間の味方の善いゴジラ」というハンナ・バーベラ社の説明があって驚いた。
 米国では1999年にもテレビアニメ化されているが、その『ゴジラ ザ・シリーズ』のゴジラも人間を守るいいヤツだった。
 どちらのゴジラもスーパーヒーローに位置付けられる。超人ハルクが巨大になったようなものだ。

 これらの経緯を考えれば、ギャレス・エドワーズ監督の「善玉じゃないけれど、悪の化身でもない」という言葉は、米国アニメのようなヒーローでもなければ、初代ゴジラのように暴虐でもないと述べているように思える。
 だが、出来上がった『GODZILLA ゴジラ』を観れば判るように、監督はヒーローらしさと暴虐さの両方を打ち出した。劇中の人々はゴジラの出現に恐怖するが、ゴジラは凶暴な怪獣ムートー(Massive Unidentified Terrestrial Organism:未確認巨大陸生生命体)を退治して街に平和をもたらしてくれる。
 エドワーズ監督が云う「アンチヒーロー」とは、単なる善玉ではなく、悪いだけの怪物でもなく、あらゆる要素を兼ね備えた存在を指すのだろう。

 思えば、あらゆる要素を削ぎ落したのがディーン・デヴリン制作、ローランド・エメリッヒ監督の『GODZILLA』だった。
 1998年に公開されたこの映画のゴジラもまた、善玉でもなく悪の化身でもなかった。好んで人間を襲うほど暴虐ではないし、街に平和をもたらすのでもなく、ただ巣を作って繁殖するだけの生物だった。善玉とか悪の化身というのはゴジラを擬人化して何らかの役割を担わせることだが、ローランド・エメリッヒ監督は一切擬人化しなかったのだ。
 これも一つのアプローチだと思う。誕生以来キャラクターがブレ続け、様々な面を持ってしまったゴジラを取り上げる方法として、後付けのイメージをすべて削ぎ落とすべく原点を探ったのだろう。

 エメリッヒ版のゴジラは、イグアナが突然変異したものだと示唆されている。これも原点回帰と云えよう。
 イグアナがゴジラの原点とは奇異に感じるかもしれないが、ゴジラのルーツをたどればそれほどおかしな話ではない。

 よく知られているように、初代ゴジラは1953年制作の米国映画『原子怪獣現わる』と、同年に日本でリバイバル公開された『キング・コング』をヒントにしている。『原子怪獣現わる』は核実験で目覚めた恐竜が暴れまわる映画であり、そのプロットはそのまま1954年版『ゴジラ』に受け継がれている。
 すなわち、ゴジラとは恐竜が怪獣化した(巨大化して白熱光線を吐くようになった)ものなのだが、そもそも当時の恐竜はイグアナを参考にイメージされていた。
 富田京一氏は恐竜の外観が検討された過程についてこう説明する。
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最初に見つかった恐竜の歯がイグアナに似ていたんですね。それ以降、歯が似ているというだけだったんですけど、イグアナがかっこいいのでなんとなく外観をイグアナをモデルにみんな復元しちゃったんですね。
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 今では恐竜は鳥類の祖先であることが判っているから、最新の知見に基づいて恐竜が怪獣化したものを造形すれば、羽毛がフサフサした巨大な鳥になってしまうかもしれない。でも、ゴジラとしてそれはないだろう。
 だから、かつての恐竜のイメージの源流を遡ってイグアナにたどり着くのはおかしくない。

 また、日本では初代ゴジラといえば1954年版『ゴジラ』を指すけれど、他国では違う。
 vsシリーズの特技監督を務めた川北紘一氏は、1998年版『GODZILLA』の公開に際して「アメリカ人のゴジラの原点はレイモンド・バーの出ている『怪獣王ゴジラ』なんですよ。だから我々が観ているゴジラの一作目とは全然ちがうものだと考えたほうがいい。」と述べている。[*]
 『怪獣王ゴジラ』(原題『Godzilla, King of the Monsters!』)は、米国の映画会社が1954年版『ゴジラ』のフィルムを買い取って、独自に追加撮影及び編集を行い、1956年に公開した作品だ。そこに1954年版『ゴジラ』のような反核のメッセージはない。
 日本のファンは水爆大怪獣として登場したゴジラに核の恐怖や文明への批判を見るが、日米では原点が違うのだ。
 1998年版『GODZILLA』を作る際の契約に立ち会った川北紘一氏は、米国側にキャラクターの研修も行ったが、日米の違いにこそ期待していた。
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我々が思っているゴジラは、僕がリニューアルしてもそんな大胆には変えられない。アメリカ人は大胆に変えることができるんだよ。僕なんか長いこと東宝にいるんで、うちのスターをこんなふうにしちゃっていいのかなあと、そんなにいじれない。それでも随分と変化している。さらに発展させるためには、バーンと一回切って次の世代にしていかなきゃいけない。
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 東宝の期待に応えて、1998年版『GODZILLA』には東宝作品とはまったく異なるゴジラが登場した。
 異質なゴジラは残念ながらファンの支持を得ることができず、第19回ゴールデンラズベリー賞の最低リメイク及び続編賞を受賞してしまったが、制作したディーン・デヴリンは「僕だってゴジラを愛してたんだ。一生懸命やったんだよ。」と弁明している。


 2014年公開の『GODZILLA ゴジラ』の特徴は、うって変わってゴジラのキャラクターを尊重したことだろう。
 公式サイトによれば、ギャレス・エドワーズ監督は『怪獣王ゴジラ』ではなく1954年の本多猪四郎(ほんだ いしろう)監督作をDVDで鑑賞し、ストーリーの奥に隠されたメッセージに魅了されたという。
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(日本以外の)多くの人々が気づかないのは、オリジナルの日本の『ゴジラ』は実は時代性を超えた真摯なメタファーが根底にある映画だということなんだ。だからこそ、あの映画は日本の文化にあれほど受け入れられたんじゃないかな。優れたモンスター映画だというだけでなく、あれほど本能的かつリアルな形でああいう映像がスクリーン上で描かれるのを観ることは、日本の人々にとって、とてもカタルシスになる経験だったからだ
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 脚本家マックス・ボレンスタインも、東宝のゴジラ映画を研究して大きなテーマを見出した。
 「オリジナル版は、自然の脅威の中では人間はちっぽけな存在だが、それでも人間には、あれだけの規模の大惨事から立ち上がり、乗り越える強さと回復力があることを描いたすばらしい作品だ」

 オリジナルのゴジラが自然の脅威を象徴するかどうかは意見が分かれるかもしれないが、いずれにしろ本作を単なる巨大生物の上陸騒ぎに留まらない作品にしようとする意気込みが感じられる。
 エドワーズ監督は本作のテーマが自然対人間であると語る。
 「ゴジラは間違いなく自然の怒りを表現している。テーマは自然対人間なんだ。そしてゴジラは自然の側だ。人間がその戦いに勝つことはできない。常に自然が勝ち続ける。それがこの映画の意味するものだ。ゴジラは我々に対する罰なんだ。」

 これは矛盾した発言のように聞こえる。
 本作でゴジラが戦う相手は新怪獣ムートーであり、人間はゴジラに救われる。ムートーが人間を踏み潰したり街を壊しまくるのとは裏腹に、ゴジラが人間を傷付ける描写は慎重に回避されている。ゴジラが自然の象徴ならば、本作は一見すると自然対人間には見えない。

 ここが作り手たちの工夫したところだ。
 都市を破壊し、人間を殺すムートーは、人間側の象徴なのだ。ムートーは原子力発電所に巣食ってエネルギーを吸収し、核兵器や原子炉をむしゃむしゃ食べる。雌ムートーの繭を放射性廃棄物処分場で保管したのは、ムートーを餌の中に置いてやるようなものだった。人間が作り出したものから栄養を得て成長するムートーは人類文明の象徴であり、そのムートーに人間が襲われる姿は文明の自滅を表している。
 ムートーの必殺技が電磁パルスによる大停電なのも作品のテーマゆえだろう。文明がない太古には停電させる能力なんて意味なかったはずだが、ムートーは文明社会の抱える矛盾を体現した怪獣だから、破壊の矛先は人類文明に向いているのだ。
 ゴジラとムートーが宿敵同士なのも、自然対人間の構図を投影しているからだ。
 初代ゴジラは自身が原水爆とそれを生み出した人類文明を象徴していたが、本作ではムートーがその役割を負っている。

 これは本作のエグゼクティブ・プロデューサー坂野義光(ばんの よしみつ)氏が監督した『ゴジラ対ヘドラ』(1971年)を髣髴とさせる。
 この作品で、人間は公害から生まれたヘドラに襲われる。空や海を汚した報いがヘドラになって返ってきたのだ。人類文明の負の部分――公害の象徴ヘドラに対して、それを退治するゴジラはもはや原水爆の象徴に留まらない。どこからともなく現れて、ヘドラを倒すといずこともなく去っていくゴジラは、人類文明を超越した世界の住人のようだった。

 渡辺謙さんが演じる芹沢猪四郎博士は、本作のゴジラが自然に調和をもたらす存在だと説く。ムートー(人類文明)の暴走を止める自然の作用としてゴジラが出現するのだと。
 この説明を、おそらく日米の観客は異なる意味合いで受け止めている。


 自然が怒るというのなら、そこには感情を持つ魂があることにならないか。
 芹沢博士はゴジラを破壊神と呼び、そこに荒ぶる神を見た。
 ゴジラ映画を観なれた日本の観客には、お馴染みの説明である。
 1954年版『ゴジラ』では大戸島の長老が伝説の怪物「呉爾羅(ごじら)」の名を口にして、超自然的な背景が語られた。『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』に至っては、ゴジラとは太平洋戦争で亡くなった人々の怨念の集合体だと説明されている。ゴジラはしばしば霊的な存在、神々しいものとして描かれてきたのだ。
 先進国には珍しく自然崇拝が色濃く残り、山や太陽のような無生物を神とする日本では、このような説明に違和感がない。云うなれば水爆大怪獣ゴジラは水爆の祟り神である。

 他方、米国のようなキリスト教社会では、自然は創造主によって秩序あるものとして造られたのだと考える。怒るのは創造主であり、自然(創造主の秩序)に反することがあれば罰が下される。
 「罰」という考え方は、罰を下す者の存在を前提にしている。
 エドワーズ監督に「ゴジラは人間に対する罰」と云われても、ゴジラを差し向けるほどの絶対者を想定していない日本人にはピンと来ないが、米国ではすんなりと受け止められるのではないだろうか。ゴジラは神が造った世界を調和させるための手駒なのだ。

 面白いことに、本作で破壊神だの自然の調和だのと云っているのは、主要登場人物中で唯一の日本人である芹沢博士だけだ。
 生物学者の芹沢博士は、ゴジラ及びムートーの専門家として意見を求められる立場のようだが、劇中ではお喋りするばかりでこれといった貢献が見られない。芹沢博士に比べれば、スクールバスの運転手の方がよほど果敢に行動している。つまり、本作のストーリーは米国人キャラだけで進行しているのだ。

 芹沢博士を除いてこの映画を見てみよう。
 突如現れるモンスター、家族を案じる父親、市民を守る軍人たち、モンスターと戦う屈強なヒーロー。芹沢博士がいなくてもストーリーに支障はない。いや、いない方が典型的なアメリカ映画として判りやすい。
 本作の芹沢猪四郎博士は、1954年版『ゴジラ』の芹沢大助博士のように怪獣退治の手段を考案するわけでもないし、山根博士のように怪獣研究の重要性を訴えるでもない。
 では、いったい何のために登場するのか。

 実は1954年版『ゴジラ』にもいるのだ。本作の芹沢博士のようにゴジラのいわれを語り、「ゴジラ」の名を人々に伝えるだけの者が。
 大戸島の長老である。
 怪獣映画にはこのような役が多い。『ゴジラ対メカゴジラ』の天願老人、『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』の酋長とその娘カレン、『ガメラ対大魔獣ジャイガー』のウエスター島民ギボー等々、いずれも怪獣が棲む土地の現地人だ。異郷の異文化を代表する彼らの言葉は、まるで迷信のように聞こえる。
 本作において、迷信を口走る現地人枠に相当するのが芹沢博士なのだ。だからこの役は日本人でなければならなかった。そこがゴジラ誕生の地だからだ。

 こうして本作は多重構造を実現する。
 芹沢という現地人はいるものの、本作は典型的なアメリカの娯楽映画だ。映画の最後では屋外スクリーンに「怪獣王(King of the Monsters)は救世主か?」という文字が躍り、本作が『怪獣王ゴジラ』(『Godzilla, King of the Monsters!』)の延長上にあることや、テレビアニメ版のようなスーパーヒーロー物であることが明らかにされる。
 もう少しテーマ性を汲み取りたい観客には、人類文明の暴走や神の秩序について考えさせることだろう。
 一方、東宝のゴジラ映画に馴染んだ人のためには、芹沢博士の言葉が従来どおりの味付けをしてくれる。ゴジラは単なる巨大モンスターでもなければスーパーヒーローでもなく、ゴジラ自身が破壊神というわけだ。
 ギャレス・エドワーズ監督はこう述べている。
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「ゴジラ」はアメリカ人に受け入れられるためには色々なレベルで成功しないと成立しない作品だと思います。個人的には日本人に受け入れられるゴジラ映画を作らなければ本物のゴジラではないと感じています。
ただ両方を叶える可能性もあると信じています。
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 ゴジラらしさをすべて削ぎ落したがためにゴジラに見えなくなってしまった1998年版から一転して、本作のゴジラは米国人にも日本人にも受け入れられるようにいろいろな面を兼ね備えた。
 どんな観客でも、自分が観たいゴジラをどこかしら見出せるだろう。


 もっとも、私が本作に感心したのは、ここまで述べたのとは別のことだ。
 初代ゴジラが核兵器を象徴したように、本作も核の恐怖を取り上げている。同時に、怪獣退治の一手段としてとうぜんのように核兵器が持ち出される。
 本作では核の扱いも多重構造であり、かなめになるのはやはり芹沢博士だ。
 劇中、核兵器の使用を命じるウィリアム・ステンツ提督に、芹沢博士は古ぼけた懐中時計を差し出す。

 提督「止まってるじゃないか。」
 芹沢博士「1945年8月6日午前8時15分。」
 提督「広島……。」
 芹沢博士「それは私の父のものでした。」

 このやりとりには驚いた。
 広島に原子爆弾を投下した爆撃機エノラ・ゲイの機長ポール・ティベッツ大佐(当時)の息子ジーン・ティベッツ氏の許には、毎年8月頃になると元兵士たちから電話がかかってくるという。「君のお父さんがいなかったら、自分はこうして生きていない」と感謝の気持ちを伝えるために。
 原子爆弾の投下のおかげで戦争は終った、戦争が続いていたら失われたであろう多くの人命が救われた。――そう考える米国人は今も少なくないという。
 その米国において、原爆の犠牲者の遺族が米国軍人に食ってかかる映画を作るとは、そしてその映画を大ヒットさせてしまうとはたいしたものだ。

 立場を変えて考えてみよう。
 はたして日本において、たとえば中国人が登場して重慶爆撃の犠牲について日本人に詰め寄る映画を作れるだろうか。その映画を国内で大ヒットさせることができるだろうか。
 そのハードルの高さを考えれば、本作の作り手はたいしたことを成し遂げたと思う。
 これは語り継ぐに足る映画であろう。


[*] 参考文献: 冠木新市 企画・構成 (1998) 『ゴジラ・デイズ―ゴジラ映画クロニクル 1954~1998』 集英社文庫

GODZILLA ゴジラ[2014] Blu-ray2枚組GODZILLA ゴジラ』  [か行]
監督/ギャレス・エドワーズ
出演/アーロン・テイラー=ジョンソン(アーロン・ジョンソン) 渡辺謙 エリザベス・オルセン ジュリエット・ビノシュ ブライアン・クランストン サリー・ホーキンス デヴィッド・ストラザーン
日本公開/2014年7月25日
ジャンル/[アクション] [アドベンチャー] [SF]
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【theme : GODZILLA ゴジラ2014
【genre : 映画

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