『LOGAN/ローガン』 二人の父の物語
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ジェームズ・マンゴールド監督の作品にハズレなし。『LOGAN/ローガン』を観て、改めてそれを実感した。
まして本作では、マンゴールド監督が原案も脚本も制作総指揮も手がける八面六臂の大活躍。これまでのスーパーヒーロー物とは一線を画す作品に仕上がっている。
ジェームズ・マンゴールド監督といえば、『3時10分、決断のとき』で西部劇を復活させ、『ナイト&デイ』で60年代風スパイ・アクションを復活させ、『ウルヴァリン:SAMURAI』でアメコミ映画の枠組みを借りながらニンジャ映画とサムライ映画とヤクザ映画を取り上げるという、それはもう懐かしい娯楽映画の伝道師たる人だ。
そんな彼が『LOGAN/ローガン』で取り組んだのは――名作西部劇への挑戦だった。
■「最後の西部劇」ならぬ、最後の……

原作マンガではすでにウルヴァリンことローガンは死亡しているので、映画でローガンの死を描いてもおかしくはないが、ウルヴァリンとしての戦いの末に死亡する原作ではなく、老境のローガンを描いたオルタナティヴ・バージョン(異本)のマンガを元ネタにするとは面白い。
本作の検討段階でヒュー・ジャックマンが例に挙げたのは、『レスラー』(2008年)や『許されざる者』(1992年)だったという。老いてなおリングに上がろうする父親の悲哀を描いた『レスラー』や、隠遁生活を送っていた老ガンマンが再び戦いの渦に巻き込まれる"最後の西部劇"『許されざる者』の雰囲気は、たしかに本作に受け継がれている。
本作はロードムービーの形をとっているが、ロードムービーのコメディ『リトル・ミス・サンシャイン』(2006年)を血なまぐさくリアルなものにしたらと提案したのはマンゴールド監督であったという。
■X-MEN映画からの解放
一応は、過去のX-MEN映画との繋がりも考慮されている。
2016年の『X-MEN:アポカリプス』でミスティークとナイトクローラーの逃亡を助けた闇商人のキャリバンが本作にも登場し、アルツハイマー病を患うプロフェッサーXの世話をしている。敵対するザンダー・ライス博士は、『X-MEN:アポカリプス』においてローガンがストライカー大佐の研究施設で大暴れしたときに殺された科学者の息子だ。
『X-MEN:アポカリプス』のエンドクレジット後のシーンでは、研究施設からローガンの血液サンプルや研究データを回収する様子が描かれていた。本作に登場するローガンの遺伝子を持つミュータントたちは、46年前のあの事件のときに回収された血液から作られたのだろう。
とはいえ、マンガ『オールドマン・ローガン』は、パラレルワールドでの物語だから自由にできた作品だ。X-MENの映画がすでに八本(『デッドプール』を含めれば九本)もある中で、シリーズの一編として作ったのでは自由が利かないのは明らかだ(観客は、不老不死のはずのローガンがなぜアダマンチウム中毒を防げないほど衰えたのか、他のミュータントたちが死ぬほどのプロフェッサーXの発作とはどんなものだったのか知りたがるに違いない)。
そこでマンゴールド監督がとった手段が、シリーズをメタフィクションにしてしまうことだった。
20世紀フォックスは2016年の『デッドプール』でも第四の壁を破っているから、メタフィクションは経験済みだ。だが、『デッドプール』がスクリーンと客席のあいだにあるはずの見えない壁を破ってギャグを飛ばすのに対し、『LOGAN/ローガン』の手法は『サイボーグ009』に近い。
『サイボーグ009』の「移民編」では、未来人が太古の昔にタイムトラベルし、人類の祖先になることが描かれた。なのに「天使編」では人類を創造した異星人が出現し、「海底ピラミッド編」でも別の異星人が人類を進化させたのだと語られた。どう考えても矛盾しているのだが、著者石ノ森章太郎氏はインタビューに答えて、すべては完結編で明らかになると説明していた。
その完結編『Conclusion God's War』では、なんと冒頭で「移民編」も「天使編」も「海底ピラミッド編」も石ノ森章太郎の創作とされ、これから語るのが真の物語であるとされた(完結編の完成を待たずに石ノ森氏は亡くなられたが)。
『LOGAN/ローガン』でも、劇中ローガンはX-MENのマンガ本を指差し、ここに書かれているのは真実じゃないと説明する。こうすることで、過去のX-MEN映画はマンガ本の中の作り話だったことになり(本作こそが現実の物語)、今後作られるX-MEN映画が本作と矛盾していても、それはマンガ本の中のこととして説明可能になった。
マンゴールド監督は本作をシリーズ中の一編ではなく、単独の作品にしたかったそうだし、他のX-MENが劇中の年齢に応じて最適の役者に演じられてきた(たとえばプロフェッサーXことチャールズ・エグゼビアは、若い頃をジェームズ・マカヴォイが、中年以降をパトリック・スチュワートが演じた)のに対し、不老不死のウルヴァリンはいつでもヒュー・ジャックマンが若々しく演じねばならなかったから、どこかの時点で設定をチャラにする必要があったのだろう。
■主人公はまたしても足が悪い
こうしてX-MENの作品世界から自由になった本作は、ではマンガ『オールドマン・ローガン』に忠実な映画化なのかといえばそうではない。『オールドマン・ローガン』には、20世紀フォックスが映像化の権利を持っていないアベンジャーズの面々が登場していて、20世紀フォックスには映画化できない。
だが、西部劇の面白さを知るマンゴールド監督にとって、それはたいした障壁ではなかったろう。西部劇の要素がある『オールドマン・ローガン』を映画化できなくても、マンゴールド監督の頭にはたくさんの映画を観て蓄えたネタがたっぷり詰まっている。
監督は前作『ウルヴァリン:SAMURAI』のときも、影響を受けた映画として西部劇の『シェーン』や『アウトロー』を挙げていた。本作では劇中に『シェーン』(1953年)の数場面が映し出され、シェーンのセリフも繰り返し紹介される。
マンゴールド監督は本作が影響を受けた作品として、『シェーン』、『レスラー』、『リトル・ミス・サンシャイン』の他に、老カウボーイが少年たちと旅をする西部劇『11人のカウボーイ』(1972年)や、詐欺師と少女のロードムービー『ペーパー・ムーン』(1973年)、ベテラン刑事が襲撃をかわしながら女性を護送していく『ガントレット』(1977年)を挙げたという。
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南北戦争に従軍して片足が不自由になった男が、細々と牧場を営んでいる。借金は返せないし、町の有力者からは嫌がらせを受けている。そんな彼が、遠く離れた町へ無法者を送り届けることになる。無法者は凶暴で手が付けられない上に、ボスを奪還しようとする手下たちが彼らを追撃する。一行を率いるべきピンカートン探偵社の老捜査官は頼りにならず、道半ばにして死んでしまう。ようやく目的地に到着するも、男は同行していた彼の子の目の前で撃たれる。子供は、命懸けで任務を果たした父を看取る。
これはまるで『LOGAN/ローガン』のあらすじのようだ。
ローガンの仕事は順調とは云い難く、チャールズの薬代にもこと欠くあり様だ。そんなローガンが送り届けることになったのが、凶暴で手のつけられない少女ローラ。彼らはローラを奪還しようとするサイボーグ部隊の追撃を受ける。かつてX-MENを率いていたチャールズは戦力にならず、道半ばにして死んでしまう。ようやく目的地に到着するも、ローガンは"彼の子"の目の前で殺される。子供は、命懸けで任務を果たした"父"を看取る。
衰えたとはいえ人並外れた治癒能力を持つローガンが、片足だけは治らずに、いつまでも足を引きずっていることに疑問を覚えた観客もいるだろうが、あれは『3時10分、決断のとき』の主人公の引き写しなのだ。
興味深いことに、『3時10分、決断のとき』はデルマー・デイヴィス監督の1957年の映画『決断の3時10分』のリメイクでありながら、ここに挙げた『LOGAN/ローガン』と『3時10分、決断のとき』の共通点がオリジナルの『決断の3時10分』にはない。オリジナルでは、主人公の足は悪くないし、道半ばで死ぬ老人はいないし、主人公と子供は一緒に旅をしないし、主人公は死なないし、だから子供が父を看取ったりしない。
マンゴールド監督は、リメイク作『3時10分、決断のとき』に付け加えたオリジナル要素ばかりを『LOGAN/ローガン』にも持ち込んだのだ。もう一度取り上げずにはいられないほど強い想いがあったのだろう。
その思いとは何だろうか。
■二人の父
それこそ『LOGAN/ローガン』の中で二度も出てくるセリフが示唆するものだ。長々としたセリフを二度繰り返すなんて、滅多にないことである。
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「人には人の生き方がある。それは変えられない。一緒にいることはできないんだ……人殺しとは。元には戻れない。烙印が押されているから。もう戻ることはない。さあ、家に帰って母さんに……母さんに云うんだ、もう大丈夫だって。谷から銃はなくなったって。」
名画『シェーン』の感動的なラストだが、よく考えるとこのセリフはおかしい。
流れ者のシェーンを慕ってくれた少年と、シェーンが惹かれ合ったその母との名残を惜しむセリフの中で、シェーンは少年の父に触れないのだ。
もちろん少年には父がいる。少年の母には夫がいる。悪党どもに屈せず、真面目に農作業に勤しむ立派な男だ。だが、一介の農夫でしかない彼は、嫌がらせする悪党どもを追い払えずにいた。
そこにやってきた無敵のガンマンがシェーンだった。息子はシェーンを慕い、妻はシェーンに惹かれていく。主人公シェーンがひたすらかっこいいこの英雄譚は、真面目なだけで魅力に乏しい父が引き立て役になることで成立している。その父を演じたのは、なんと『決断の3時10分』でも貧乏な主人公を演じたヴァン・ヘフリンだった。
ジェームズ・マンゴールド監督は、父親が引き立て役になっていることに引っかかりを覚えたに違いない。『3時10分、決断のとき』は、『シェーン』への返歌、いや『シェーン』のアンチテーゼになっている。
無敵のガンマンは護送される無法者のほうだ。護送する主人公は、牧場経営に失敗し、息子たちの前で悪党を追い払えずにいる惨めな父親である。「誇れるものが何もない。」と云う主人公が、誰もが臆する護送任務を最後までやり遂げようとしたのは金のためではない。結果、彼は命を落とすことになるのだが、「これで良心を保てた」と云って、持ち続けていた妻のブローチを息子に渡す。
息子は死にゆく父に寄り添い、「父さんはやり遂げたよ」と告げる。決して、無敵の早撃ちガンマンになびくことはない。
『3時10分、決断のとき』とオリジナル『決断の3時10分』の最大の違いは、オリジナルが夫婦の物語であるのに対して、マンゴールド監督のリメイク作が父子の物語であることだろう。オリジナルでは、最後に登場するのは主人公の妻であり、命懸けの任務に臨んだ主人公と妻の愛の深さが描かれていた。
この違いは、『LOGAN/ローガン』において二人の父を通してさらに強調される。
本作には二組の父子が登場する。ローガンと娘のローラ、そして彼らを温かくもてなす農夫ウィル・マンソンと息子のネイトだ。
農場を営むウィルは、周りの土地を買い占めた有力者から嫌がらせを受けている。彼は農場を続けようと頑張っているのだが、悪党どもを追い払えずにいた。そう、彼は『3時10分、決断のとき』の父と同じ、『シェーン』の農家の父と同じなのだ。
一方、この家にやってきて悪党をたちどころに追い払うローガンは、まさにシェーンの役どころだ。
けれども、本作はシェーンに当たるローガンをかっこよく引き立てはしない。暴力に頼って生きてきたローガンは、惨劇しかもたらさないからだ。
マンソン一家の温かさに触れたチャールズ・エグゼビアは、ローガンに対して「君も家族の温もりを知るべきだ」と諭す。終盤、ローラにはじめて「父さん」と呼ばれたローガンは、「こんな感じなのか」とつぶやきながら死んでいく。このときのローガンは、シェーンの役どころではない。彼は『3時10分、決断のとき』の父であり、『シェーン』の父なのだ。
真のかっこよさとは何なのか。
17年にわたり無敵のヒーローとして描かれてきたローガン/ウルヴァリンは、最後の瞬間にシリーズ全体へのアンチテーゼを示した。
それはまた、『LOGAN/ローガン』に登場する三人のウルヴァリンが示すことでもある。

本作にはウルヴァリンに当たる人物が三人いる。
一人はローガン(本名ジェームズ・ハウレット)だ。ウェポンXとして開発された彼は、X-MEN最強の武闘派で、長年"ウルヴァリン"のコードネームで活躍してきた。本作では、老いさらばえて戦いもままならないが、それでも戦い以外の生き方を知らない男として描かれる。
もう一人は、ローガンの遺伝子コードから創造されたローラである。22回の失敗の後、X-23として誕生した彼女は、原作ではローガン亡き後"ウルヴァリン"の名を継いでいる。
本作の冒頭、追跡部隊から逃げようとするローガンとは裏腹に、ローラが追跡部隊を片っ端から殺してしまうことでも判るように、若くてタフな彼女は戦闘力では老ローガンに勝る。戦闘マシーンとして生み出された彼女は、倫理も常識も知らず、ただ仲間への帰属意識だけで突き進む。
三人目はX-24だ。生まれたときから成人のローガンと同じ体を持つ彼は、ローラ以上に完璧なローガンのクローンだ。誕生時に凶暴性を植え付けられ、戦い以外のことはしない。
三人はそれぞれウルヴァリンのある面を象徴している。
X-24はこれまでのウルヴァリンである。戦いを厭わず、人殺しの烙印を押されても気にしない。敵をやっつけることがかっこいいなら、彼こそヒーローと呼ばれるに相応しいかもしれない。
ローガンも戦うばかりの男だったが、残念ながら体がついて来ない。老いた彼は、戦い続けることに限界を感じている。正真正銘ヒーローだったのに、キャリバンと友情を育むでもなく、孤独に浸っている彼は、戦うだけの男の末路を表している。
ローラは未来だ。これから選択できる未来。彼女も暴力を振るうけれど、それはまだ何も判っていないからだ。烙印が押される前に多くを学ぶことで、戦うだけではない人生を掴めるかもしれない。
「一緒にいることはできないんだ……人殺しとは。」
X-24のように獰猛な獣になるか、ローガンのように老いてから気がつくか。すべてはこれからの学び次第だ。
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監督・原案・脚本・制作総指揮/ジェームズ・マンゴールド
脚本/マイケル・グリーン、スコット・フランク
出演/ヒュー・ジャックマン パトリック・スチュワート ダフネ・キーン リチャード・E・グラント ボイド・ホルブルック スティーヴン・マーチャント
日本公開/2017年6月1日
ジャンル/[SF] [アクション] [ドラマ]

【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : ジェームズ・マンゴールドヒュー・ジャックマンパトリック・スチュワートダフネ・キーンリチャード・E・グラントボイド・ホルブルックスティーヴン・マーチャント
『X-MEN:フューチャー&パスト』 順番に気をつけよう
![X-MEN:フューチャー&パスト 2枚組ブルーレイ&DVD(初回生産限定) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/61inrU3kYYL._SL160_.jpg)
X-MENはミュータント(突然変異体)であり、シリーズの背景には人類の進化への考察がある。
だが、『X-MEN:フューチャー&パスト』で驚かされるのは、映画そのものの進化だ。変容と云ってもいい。
このシリーズは他のスーパーヒーロー物と同様に、正義のヒーローが悪役を倒す物語だった。これまでは。
ところが本作に倒されるべき悪役はいない。にもかかわらずヒーローの活躍が存分に描かれ、起伏に富んだ展開は一瞬たりとも飽きさせない。こんなヒーロー物を作れることに舌を巻く。
本作でX-MENが戦う相手は、ミュータントを狩るロボット「センチネル」だ。
ミュータントを研究して作られたセンチネルの大群に、さすがのX-MENも圧倒される。もはやミュータントの絶滅は時間の問題だった。
本作ではのっけからセンチネルとの激しい戦闘が繰り広げられる。
けれども、センチネルは「悪役」ではない。単に人間が命じたとおりに動いているだけだ。
ではセンチネルを開発した科学者ボリバー・トラスクが倒すべき悪役かといえば、そうでもない。物語の中心はボリバー・トラスクの暗殺を防ごうとするX-MENの活躍だ。
ボリバー・トラスクの暗殺を企てるミスティークも悪役ではない。ミュータントの仲間たちのために、ミュータントの復讐のためにトラスクの命を狙う彼女には、彼女なりの正義がある。
シリーズ一作目からX-MENと対立してきたマグニートーも、本作ではプロフェッサーXらと共闘する仲間だ。
ヒーローが活躍する映画は面白いけれど、年々楽しめなくなってくるのは、現実には悪役なんていないことを歳とともに実感するからだ。
悪いヤツはいるだろう。しかし、そいつさえ倒せば世界を救えるほど世界中の悪を背負い込んだ一人の人物なんて存在しない。そんな人物を設定すれば、作品が現実離れするだけだ。
そのため絶対的な悪を描こうとすればするほど、『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』のように悪役の影が薄くなってしまう。この作品では、悪役のマレキスよりも狡賢く立ち回るロキの方が印象的だった。
それだけに、明確な悪役のいない本作に魅了される。
誰もが善かれと思って行動しているのに、そこに対立が生まれ、憎しみを増幅してしまう。
そんな中で、何をするのが善いことなのか。本作は普遍的な問いを投げかける。
人間から迫害されるミュータントに公民権運動やマイノリティ問題が投影されていると云われる本シリーズは、現実の歴史との関わりも濃厚だ。
作品が増えてくると順番が判りにくいので、映画を作中の時系列で並べ、時代設定を見てみよう。
『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』(2011年公開) …1962年、キューバ危機
『X-MEN:フューチャー&パスト』(2014年公開) …1973年、ベトナム戦争からの米軍撤退
『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』(2009年公開) …ベトナム戦争後
『X-MEN:アポカリプス』(2016年公開) …1983年、レーガン大統領がソビエト連邦を「悪の帝国」と非難
『X-メン』(2000年公開) …近未来
『X-MEN2』(2003年公開) …近未来
『X-MEN:ファイナル ディシジョン』(2006年公開) …近未来
『ウルヴァリン:SAMURAI』(2013年公開) …近未来
『X-MEN:フューチャー&パスト』(2014年公開) …2023年、ミュータント絶滅の危機
『LOGAN/ローガン』(2017年公開) …2029年、ミュータントのいない世界
各作品が含むエピソードは、時代が前後することもある。『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』では1845年以来の戦争の歴史が描かれるし、『ウルヴァリン:SAMURAI』には1945年の原爆投下シーンがある。『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』は1944年の強制収容所で幕を開ける。
だが、映画のメインプロットを考えれば、上の順序になるだろう。
『X-MEN:フューチャー&パスト』は未来と過去の出来事を並行して描くので、二ヶ所に挙げた。本作はもっとも遠い未来である2023年と、パリ協定が結ばれる1973年の両方を舞台にしている。
パリ協定とは、米国がベトナム戦争から手を引くために調印した和平協定だ。本作では調印に向けた交渉のテーブルが戦いの場となり、ときの大統領リチャード・ニクソンも登場する。
とはいえ、この時代の象徴としてストーリーに関わってくるのは、パリ協定よりもドラッグだ。1973年といえば、007がカリブの麻薬王と対決する映画『007/死ぬのは奴らだ』が公開された年である。
本作ではなんと、ベトナム反戦運動や公民権運動から距離を置いてドラッグ文化にのめり込んだ当時の若者よろしく、X-MENを指導すべきプロフェッサーXがクスリを手放せなくなっている。
クスリといっても麻薬・覚醒剤等ではなく、半身不随になったプロフェッサーXが歩くために必要なものだけれど、摂取すると一時的に気分が良くなったり、副作用で本来の能力が阻害されたりと、明らかにドラッグの比喩になっている。
本作は、世の中から逃避してドラッグ中毒になった男の再起を描いた物語でもある。
そのプロフェッサーXの論文を盾に、ミュータントを迫害するのが科学者ボリバー・トラスクだ。
かつてプロフェッサーXは、人間とミュータントの関係をネアンデルタール人とホモ・サピエンスの関係に見なした論文を発表した。
『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』で紹介されたその論文を、本作ではボリバー・トラスクが引用し、かつてホモ・サピエンスの前にネアンデルタール人が絶滅したように、今度はミュータントの出現でホモ・サピエンスが絶滅するだろうと主張する。ネアンデルタール人の轍を踏まぬためには、今のうちにミュータントを絶滅させるべきなのだ。ホモ・サピエンスが生き延びるにはそれしかないと訴える。
興味深いのは、ミュータント迫害の急先鋒となるボリバー・トラスクが平和愛好家であることだ。
トラスク役のピーター・ディンクレイジとブライアン・シンガー監督は、次のように語る。
「トラスクは人類同士の戦争が避けられないと考えており、それを止める唯一の方法は人類共通の敵を見つけることだと思っている。彼にとって、ミュータントの出現は人類を一致団結させる好機だ。彼は善いことをしているつもりなんだ。彼は人々の尊敬を集めるために、生涯を費やしてきた男だ。」
残念ながら、ボリバー・トラスクの主張には一理ある。
人間は、世界を「俺たち」と「奴ら」に色分けして、戦争せずにはいられない生き物だ。「奴ら」と敵対したときの「俺たち」の団結力は目覚ましい。
だが問題は、「俺たち」とは何者で「奴ら」とは何者か、誰が線を引くのか引けるのかだ。
ブライアン・シンガー監督によれば、ボリバー・トラスクの人物像はアドルフ・ヒトラーに基づくという。
「ヒトラーがヨーロッパの暗部を結束させるためのスケープゴートとしてユダヤ人を利用したように、トラスクはミュータントで同じことをしようとしている。しかもヒトラーが長身で金髪の"理想的なアーリア人"ではなかったように、トラスクも背が低くて理想的な外見ではなく、ヒトラーと同類なんだ。」
ボリバー・トラスクは人類に平和をもたらすために、ミュータントへの攻撃を企てた。
しかし、彼が開発したセンチネルは、ミュータントを攻撃するだけでは終わらなかった。ミュータントを支援する人間も、ミュータントを産む人間も、センチネルは攻撃対象にした。都市は荒れ果て、世界は一握りの人間だけのものになった。
これは『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』が語ることと同じだ。
ナチズムに抵抗した牧師マルティン・ニーメラーが作ったこの詩は、他者への攻撃を見逃したためにやがて自分も攻撃される恐ろしさを伝えている。
「奴ら」なんか攻撃してもいいと思う心の底には、「奴ら」に限らず他者を攻撃しても構わないという気持ちが潜んでいる。そんな気持ちが広まるのを許したら、自分は「奴ら」じゃないから安全だと高をくくっていた人もいずれ標的にされるのだ。
本作が描く荒廃した未来は、他者への攻撃を見逃すことで、人々がみずから招いてしまったものなのだ。
さて、プロフェッサーXの論文は、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスを競合する別種のように説明していた。1960年代の論文だから、そのように書かれるのは仕方ない。
最新の研究によると、現生人類とネアンデルタール人の関係はそれほど単純ではないようだ。非アフリカ系の現代人は、ネアンデルタール人の遺伝子も受け継いでいるからだ。
アフリカ大陸で誕生した現生人類は、世界に広がる過程で一足先にユーラシア大陸で暮らしていたネアンデルタール人と交雑したと考えられている。私たちの皮膚や毛髪や爪の形成には、ネアンデルタール人の遺伝情報が関与しているという。私たちはネアンデルタール人の子孫でもあるのだ。
世界は「俺たち」と「奴ら」に線引きできるわけではないのである。
![X-MEN:フューチャー&パスト 2枚組ブルーレイ&DVD(初回生産限定) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/61inrU3kYYL._SL160_.jpg)
監督・制作/ブライアン・シンガー
出演/ヒュー・ジャックマン ジェームズ・マカヴォイ マイケル・ファスベンダー ジェニファー・ローレンス ニコラス・ホルト ハル・ベリー イアン・マッケラン パトリック・スチュワート エレン・ペイジ ピーター・ディンクレイジ エヴァン・ピーターズ ショーン・アシュモア オマール・シー ダニエル・クドモア ファン・ビンビン エイダン・カント ブーブー・スチュワート
日本公開/2014年5月30日
ジャンル/[SF] [アクション] [アドベンチャー]

【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : ブライアン・シンガーヒュー・ジャックマンジェームズ・マカヴォイマイケル・ファスベンダージェニファー・ローレンスニコラス・ホルトハル・ベリーイアン・マッケランパトリック・スチュワートエレン・ペイジ
『ウルヴァリン:SAMURAI』 牛丼の看板との共通点は?
映画を作中の時系列で並べれば次のようになる。
『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』 2011年公開
『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』 2009年公開
『X-メン』 2000年公開
『X-MEN2』 2003年公開
『X-MEN: ファイナル ディシジョン』 2006年公開
『ウルヴァリン:SAMURAI』(本作) 2013年公開
(2014年に『X-MEN:フューチャー&パスト』が公開予定)
『X-MEN: ファイナル ディシジョン』のカタストロフィと、ウルヴァリンが背負った悲しみの大きさを知らないと、本作でウルヴァリンに告げられる「不老不死からの解放」という救いの意味がよく判らないかもしれない。
ともあれ、ミュータントがわらわら出てくる物語は『X-MEN: ファイナル ディシジョン』で一区切りついているから、本作はX-MENシリーズでありながらミュータントがあまり出ない。
代わりに映画を彩るのが、ニンジャ、サムライ、ヤクザだ。
これまでも当ブログで述べてきたように、ニンジャ、サムライ、ヤクザは日本発の三大コンテンツだ。黒澤明、深作欣二らの先達が築いてきたこれらコンテンツの力を今後も大いに活用すべきだと思うが、残念ながら本邦の大手映画会社はあまり積極的ではない。逆に外資系のワーナー・ブラザース映画が、『忍たま乱太郎』等のニンジャ物、『許されざる者』等のサムライ物、『アウトレイジ ビヨンド』等のヤクザ物に取り組んでいる状況だ。
たしかに現代の日本にニンジャ、サムライはいないし、ヤクザも社会の表立ったところにはいないから、日本国内ではあまり訴求力のないコンテンツと判断されるのかもしれない。
でも、せっかくのコンテンツを活かさないとは、なんとももったいないことだ。
そんな日本を尻目に、ニンジャ、サムライ、ヤクザを全部盛り込んだのが『ウルヴァリン:SAMURAI』だ。その上、不死身のミュータントの苦悩とアクション、日米の歴史的経緯への振り返りまで詰め込んで、豪華なフルコースになっている。
もちろん買い被りもいいところではある。真田広之さん演じるサムライは、X-MENチーム最強のミュータントであるウルヴァリンをぐいぐい追いつめるし、一介のヤクザですらウルヴァリンを手こずらせる。
日本の庶民は身の回りを見て、そんなサムライもヤクザもいないよ、と思うかもしれないが、そう卑下してはいけない。ここでイメージされているのは、たとえば三船敏郎演じる剣豪や菅原文太演じる極道なのだ。そう考えれば、ウルヴァリンにとって彼らがいかに強敵かが判るだろう。
ジェームズ・マンゴールド監督は本作が影響を受けた映画として、時代劇の『十三人の刺客』とアカデミー賞を受賞した稲垣浩監督の『宮本武蔵』三部作、西部劇の『シェーン』と『アウトロー』、犯罪映画の『フレンチ・コネクション』と『チャイナタウン』、ドラマの『黒水仙』と『浮草』『恋する惑星』『ブエノスアイレス』を挙げている。
なるほど、三船敏郎さんの宮本武蔵が念頭にあったとすると、アダマンチウムの刀は櫂を削った木刀に相当するのかもしれない。
また、日本を取り上げた外国映画には、日本人の気付かない日本を発見できるが楽しさがある。日本人にとっては当たり前なものが、実は外国人に強くアピールする面白さ。
たとえばヴィム・ヴェンダース監督のドキュメンタリー『東京画』では、飲食店の店頭にある模型の食品サンプルを延々と映していた。ヴィム・ヴェンダース監督には興味深いものだったらしい。普段見慣れている私たちはたいして気にしないけれど、注文の前に料理の完成形を見られるのはたしかにありがたいことだ。
中国には店頭に食材を並べるレストランがある。だが、中国語のメニューが読めず、そもそも料理名も知らない外国人には生の野菜を見てもどんな料理かサッパリ判らない。完成形のミニチュアを見て選べればいいのに。そんなことを考えて、日本の飲食店の良さに気付く。
日本を訪れた外国人観光客は吉野家の看板を写真に撮りたがるという。橙色と黒の鮮やかなコントラスト、漢字をでかでかとあしらったデザインに、日本独特の雰囲気を感じるらしい。
私たちは吉野家の看板を目にしても牛丼のことしか考えないが、云われてみれば歌舞伎座の垂れ幕に通じるユニークなデザインだ。
日本を扱った外国映画は、そんな日本人が見落としがちなものや、日本人が気にも留めないものに脚光を当てるから面白い。
本作で目を引くのは、ウルヴァリンが泊まるラブホテルだろう。
日本人はSFアクションの世界とラブホテルの世界をなんとなく別物のように思っているが、考えてみればあれこれ詮索されずに泊まるには、一般の旅館やホテルよりラブホテルの方が都合が良い。なのに、「ラブホテルの円形ベッドにたたずむスーパーヒーロー」という構図を物凄く奇異に感じてしまう。
私たちが無意識のうちに抱いている「スーパーヒーローはラブホテルにしけこんだりしない」という思い込みを、本作は木っ端微塵にぶち壊す。その爽快さを楽しめるか、鼻白むかで、本作の好き嫌いが分かれるかもしれない。
ウルヴァリンがニンジャ軍団と戦う場所が、まるで白川郷か大内宿のような古い家並みなのもいかしてる。
今も日本にはこんな町があるのだが、多くは重要伝統的建造物群保存地区に選定されたり観光地化しており、日本人には戦闘の舞台として思い浮かべにくい。
これも意表を突いたシチュエーションだ。
買い被りが多いのはこそばゆい。
劇中に登場する新幹線にはパンタグラフがなく、時速500kmと話しているからリニア新幹線かもしれないが、日本にリニア新幹線が開通するのはまだ先の話だ。
日本企業の強大さはバブル時代を髣髴とさせる。原作マンガが1982年に描かれたからではないだろうが、この企業イメージは、皇居の地価がカリフォルニア州と同じで、東京の不動産を担保にすればアメリカ全土が買えるといわれたあの時代の残影かもしれない。
劇中の地理にはいささかデタラメがある。一般人が港区の増上寺から台東区の上野駅まで一気に駆け抜けるのは無理だろう。長崎行きのバスに乗ったら『崖の上のポニョ』の舞台に着いてしまうのもおかしい。
とはいえ、こんなデタラメは邦画でも日常茶飯事だ。邦画を観てると、都心を歩く人が一瞬後には郊外にいたり、直進しているクルマが実は同じ道を行ったり来たりしていることがある。
地元民も観るんだからもう少し辻褄を合せて欲しいと思うが、邦画の中の人物は瞬間移動を繰り返している。
それを考えれば、本作のような外国映画での多少のフィクションは許されるだろう。
それどころか地理的な整合を犠牲にしてでもその場所、その景色をカメラに収めたいという作り手の貪欲さに、感心するばかりだ。
剣道場を畳敷きにしようとするスタッフを止めて、剣道場の床は板張りであることを教えた真田広之さんら日本人関係者の貢献もあろう。
それにしても、米国人の目に映る日本人像は変わったものだ。
米国映画に登場する日本人キャラクターとして有名なのは、『ティファニーで朝食を』のユニオシだろう。洋画家の国吉康雄氏がモデルといわれるこのキャラクターは、出っ歯で釣り目でメガネをかけた社交性ゼロのチビであり、かつての日本人のイメージを象徴していた。つまり、外見的にも人間的にも良いところが全然なかった。
『ティファニーで朝食を』の公開は1961年。第二次世界大戦の終結から16年しか経っていない。
第二次世界大戦当時は、米国人は日本人をひどく見下していた。人間扱いしていなかったとすらいえる。
開戦前夜、「アメリカ人もイギリス人も日本人のことをチビで出っ歯で眼鏡をかけた黄色んぼで、世界中で見たものは何でもメモを取ったり写真を撮ったりして、国へ帰って二流の類似品を作ろうとする連中と見下していた」という。
米国の軍事専門家によれば、日本海軍の軍艦はイギリスの軍艦を真似た劣悪なコピーに過ぎず、艦砲射撃をすると転覆するおそれがあった。日本人は片目をとじることができないので、正確な射撃はできないと云われていた。
ルーズベルト大統領は、日本のパイロットはすべて近眼で、常に敵に先に発見されてしまうので撃墜は容易だと信じていた。ルーズベルト大統領もマーシャル参謀総長も、米国人一人は日本人五人に相当し、たとえ日本が奇襲攻撃を仕掛けてもたいした損害を受けることなしに撃退できる、といつも語っていたという。
米国世論も同様だった。米国の空母二隻もあれば日本国内の交通を数ヶ月途絶させることができると云われていた。フィリピンやシベリアの基地から空襲すれば、日本軍は数週間で壊滅するとも。
米国は一ヶ月に1,500機の飛行機を生産できるが、日本は一年に250機足らず。しかも高オクタンのガソリンが欠乏しているし、飛行学校は一年に100名を卒業させているにすぎない。日本との戦争が起こっても、アメリカは容易に勝てる。戦闘は六ヶ月で終わり、そのあと全軍をヨーロッパの戦場に回すことが可能である、と考えられていた。
実際のところ、1941年12月の段階で日本の戦闘機の生産は月に400機を上回っていたが、米軍当局ですらこれを200機がやっとと見積もっていた。
米国は日本を見下し、舐めきっていた。
もっとも、相手を見下し、舐めていた点では大日本帝国もお互い様だ。
日米開戦の前、第25軍作戦主任参謀の辻政信中佐と作戦参謀の朝枝繁春少佐は小冊子『これだけ読めば戦は勝てる』を作って各分隊に配布した。これには「今度の敵は支那軍に比べると、将校は西洋人で下士官は大部分土人であるから、軍隊の上下の精神的団結は全く零だ。」「戦は勝ちだ。対手は支那兵以下の弱虫で、戦車も飛行機もがたがたの寄せ集めである。勝つにきまっているが、唯如何にしてじょうずに勝つかの問題だけだ。」などと温いことが書いてあった。
帝国のトップである大本営もいい加減だった。
すでに米英との戦争に突入していた1942年3月、大本営政府連絡会議でまとめられた『世界情勢判断』では、「米英の戦争遂行能力の総合的観察」として「米英国民は生活程度高く、これが低下はそのすこぶる苦痛とするところにして、戦勝の希望なき戦争継続は社会不安を醸成す。一般に士気の衰退を招来すべし」と述べ、米英両国は国内をまとめきれず、戦争継続が困難だろうと予想していた。
日米ともに相手を舐めて、いい加減な情勢判断を重ねた挙句、四年に及ぶ戦争に陥ったのである。
このような過去を考えれば、本作の日本人像の変わりようは感慨深い。
まず本作は、米国による長崎への原爆投下をしっかり描く。強烈な熱線と爆風、衝撃波で、街が一瞬にして灰燼と化す恐ろしさをまざまざと映し出す。
戦争中、長崎市幸町には捕虜収容所があった。原爆投下により連合軍兵士八名が犠牲になり、数十名が負傷、被爆した。映画の原爆投下地点と捕虜収容所の位置関係は現実と異なるものの、本作はこの史実を取り上げたのかもしれない。はたして、原爆のために連合軍兵士にも犠牲が出たことを、こんにちどれだけの日本人が知っているだろうか。
映画は青年将校の矢志田(ヤシダ)が原爆投下を前にして捕虜たちを逃がすところからはじまる。
収容所にはローガンことウルヴァリンも捕らわれており、爆発の瞬間矢志田とともに深い井戸の底に身を隠す。連合軍兵士と日本兵が助け合うことで命を取り留めるのである。
物語は戦争中の二人の交流から一転して現代に移り、ウルヴァリンは矢志田の孫・真理子と愛し合う。真理子は長崎の捕虜収容所の跡に立ち、ウルヴァリンと祖父が助け合ったことに触れて「井戸の中の出来事は世界平和の証明よ」と口にする。
本作は日本が舞台だから敵キャラクターもほとんど日本人だが、ここには出っ歯も釣り目もメガネもチビもいない。ウルヴァリンの好敵手たる者ばかりだ。
ウルヴァリンが風呂に入れられ、オバサンたちにゴシゴシこすられるのも意外性があって面白い。
日本の風呂の特徴といえば混浴であり、昭和30年代くらいまで混浴は珍しくなかった。1958年公開の駅前シリーズ第一作『駅前旅館』では、上野駅前の旅館の主(森繁久彌)が湯船に浸かっているところへ、ためらいもなく女性が入ってくるシーンがある。
黒船で来航したペリーは男女が平気で混浴する日本に驚いたそうだが、西洋人は混浴がよほど気になるのか、1980年の米国ドラマ『将軍 SHOGUN』ではリチャード・チェンバレン演じる主人公と島田陽子さん演じるヒロインまり子が一緒に風呂に入るのがちょっと見どころだったりした。
庶民の銭湯ならともかく、外国人が入浴中の内風呂にのこのこ入っていく武家の子女はいないと思うが、オリエンタリズムと興味本位でいっぱいの米国ドラマでは、日本といえば混浴シーンが欠かせなかったのだろう。
だから本作でのウルヴァリンの入浴にもてっきり美女がお付き合いするかと思ったら、オバサンたちが着衣のままデッキブラシでウルヴァリンをこするので笑ってしまった。
現在の日本では混浴を期待できないことがよく理解されている。
かつて日本人は片目をとじることができないと思われていた。
時を経れば、理解は進む。
これからも。
お互いに。
参考文献
半藤一利 (2001) 『[真珠湾]の日』 文藝春秋
ジェイムズ・ラスブリッジャー、エリック・ネイヴ (1991) 『真珠湾の裏切り チャーチルはいかにしてルーズヴェルトを第二次世界大戦に誘い込んだか』 文藝春秋
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監督/ジェームズ・マンゴールド
出演/ヒュー・ジャックマン 真田広之 TAO 福島リラ ハル・ヤマノウチ ファムケ・ヤンセン スヴェトラーナ・コドチェンコワ ウィル・ユン・リー ブライアン・ティー
日本公開/2013年9月13日
ジャンル/[SF] [アクション]


【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画】
【genre : 映画】
tag : ジェームズ・マンゴールドヒュー・ジャックマン真田広之TAO福島リラハル・ヤマノウチファムケ・ヤンセンスヴェトラーナ・コドチェンコワウィル・ユン・リーブライアン・ティー
『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』 1962年に何があったのか?
だからそのファンは全世界におり、なまなかな映像化では納得しないだろう。
だが、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』なら、原作マンガのファンも大満足するのではないだろうか。
さすがは『キック・アス』のマシュー・ヴォーン監督である。アメコミファンの気持ちが判っている。
2000年公開の映画『X-メン』に始まるシリーズには、いささか不満があった。
サイクロップスの活躍が少ないとか、スコットの扱いがひどいとか、スコット役のジェームズ・マースデンのクレジットが後ろすぎるとか……。映画制作時のキャラクター人気を反映してのこともあろうが、サイクロップス(スコット・サマーズ)こそX-MENの初代メンバーであり、リーダーであったことを思えば、主役扱いのウルヴァリンとの差が大きすぎると感じたのは、私一人ではないだろう。
しかし、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』では、そんなことは気にならない。なにしろ、サイクロップスがX-MENに参画する前の物語なのだ。
本作は、原作のエッセンスを上手く抽出して、実に見事にまとめ上げている。
それは必ずしも原作に忠実というわけではない。『X-メン』(2000年)よりも『ウルヴァリン: X-MEN ZERO』(2009年)よりも前の時代を描いているのに、本来サイクロップスの弟であるハヴォック(アレックス)がすでに活躍していたりと、映画ならではの改変はある。
だが、X-MENたちのコスチュームが原作マンガの開始当初のものに沿ったデザインになるなど、原作の魅力を活かそうとしているのは確かだろう。
マシュー・ヴォーン監督によれば、本作は、ブライアン・シンガーが監督した『X-メン』(2000年)及び『X-MEN2』(2003年)と、『スター・トレック』(2009年)、そして60年代の007映画から大きな影響を受けているそうだ。
ブライアン・シンガーの『X-メン』を意識するのは、それがX-MEN映画の原点だから当然だし、J・J・エイブラムス監督の『スター・トレック』は名高いシリーズを若く新鮮なキャストで新たに方向付けたという点で良い手本なのも判る。
したがって、マシュー・ヴォーン監督が上げた作品で注目すべきは、60年代の007映画だろう。
本作は1962年を舞台としている。
原作マンガが始まったのは1963年だから、本作がX-MENの前日譚を描く上では最適な時代設定である。
そして1962年といえば『007は殺しの番号』(リバイバル時の邦題は『007/ドクター・ノオ』)の公開年でもある。
マシュー・ヴォーン監督は、これらを踏まえて、超能力を持ったミュータントたちの活躍を、米ソの対立が高まる冷戦時代を背景にした昔懐かしのスパイアクションに仕立てている。これがもう、『007は二度死ぬ』のような法螺の大きさや、むやみに溢れるお色気や、世界を股にかけた活躍や、幾何学模様がうごめくアニメーションのエンドクレジットまで、60年代らしさに満ちていて楽しい。
もちろん、30年以上前の007シリーズと同じことをするだけではない。これは超能力戦争であり、最新のVFXを活かした映像は大迫力だ。
たとえば、飛行機に乗ったマグニートーが超能力を使って海中の物体を引き上げるシーンは、ゴジラシリーズ屈指の傑作『怪獣大戦争』(1965年)において明神湖からゴジラを引き上げるシーンにも似て、観客の目をみはらせることだろう。
また、クライマックスに次ぐクライマックスの波状攻撃も嬉しいところだ。
米国の冒険小説や映画・アニメでは、クライマックスが一つの大きな山ではなく、連峰のように山が続くことがある。たとえば、敵との激闘を潜り抜けてもミサイルが発射されてしまったり、都市へ向かうミサイルの軌道を外してもダムに落ちて濁流が街を襲ったりと、クライマックスが終わらないのだ。
本作も、そんな息もつかせぬ危機また危機の連続であり、容易に観客をクールダウンさせてくれない。
さて、『X-MEN』におけるミュータントの悲しみは、公民権運動を模したものだと云われる。
人類との融和を唱えるプロフェッサーX(チャールズ・エグゼビア)がマーティン・ルーサー・キング・ジュニアに、人類に攻撃的なマグニートー(エリック・レーンシャー)がマルコムXに喩えられるように、本作が背景とする1962年は公民権運動が盛り上がっていた時期でもある。
だが、それ以上に『X-MEN』が世界中で共感を呼ぶのは、既存社会に馴染めない人々すべてを代弁しているからであろう。1940年に新人類スランと現人類の相克を描いた『スラン』が発表されると、たちまちSFファンの人気を博し、読者は口々に「ファンはスランだ」と述べたという。
『X-MEN』には、社会や周りの人と馴染めないと感じる者が、いかにして世の中と折り合いをつけるか、あるいは対峙するかという普遍的なテーマがあり、それは『スラン』から70年を経た現代でも色褪せることがない。
とりわけ、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』は、チャールズとエリックを対比させることによって、長年語り継がれてきたこのテーマがより一層鮮明になっている。
その意味でも、本作はもっともX-MENらしい映画と云えるだろう。
[*] ウィキペディアの「漫画のベストセラー一覧」によれば、1位は10億冊を販売した『クラシックス・イラストレイテッド』、2位が4億冊の『X-メン』だが、『クラシックス・イラストレイテッド』は古典の数々を漫画化した企画シリーズであり、「立川文庫」のように作品群の総称と捉えた方がいいだろう。
![X-MEN:ファースト・ジェネレーション (ヒュー・ジャックマン 出演) [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Jb18luLqL._SL160_.jpg)
監督・脚本/マシュー・ヴォーン 脚本/ジェーン・ゴールドマン
原案・制作/ブライアン・シンガー
出演/ジェームズ・マカヴォイ マイケル・ファスベンダー ケヴィン・ベーコン ローズ・バーン ジャニュアリー・ジョーンズ オリヴァー・プラット ジェニファー・ローレンス ニコラス・ホルト
日本公開/2011年6月11日
ジャンル/[SF] [アクション] [アドベンチャー]


【theme : X-MENシリーズ】
【genre : 映画】
tag : マシュー・ヴォーンブライアン・シンガージェームズ・マカヴォイマイケル・ファスベンダーケヴィン・ベーコンローズ・バーンジャニュアリー・ジョーンズオリヴァー・プラットジェニファー・ローレンスニコラス・ホルト