『銀の匙 Silver Spoon』 映画ならではのもの
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3.11のあと、そういう声があった。
たしかに行方不明者の捜索は重要だ。そこに異存はないけれど、だからといって犬や猫を保護するのがおかしいわけではない。
人間は助けるべきだが、犬や猫は後回しで良い、と主張する人にとって、人間と犬や猫のあいだには境界線があるのだろう。
一方、被災した犬や猫を助ける人たちの境界線は、必ずしもそこではない。
『銀の匙 Silver Spoon』の主人公・八軒勇吾(はちけん ゆうご)が、大蝦夷農業高等学校に入学して最初に面食らうのはその点だ。
酪農家に生まれた級友たちが、学校で飼育される動物たちとの距離感をすでに掴んでいるのに対し、札幌のサラリーマン家庭で育った八軒にはそれがない。生きたニワトリを食料として見ることができないし、食用に出荷される豚に名前をつけて可愛がったりする。
なんの予備知識もなく酪農の世界に飛び込む点で、おそらく映画館の多くの観客も八軒と同じだろう。本作に接して感じること、学ぶことは、とても多いはずだ。
本作で印象的なのが、「経済動物」という言葉である。劇中、農業高校の生徒たちは、飼育する牛や豚をこう呼ぶ。
酪農等に疎い私は、この言葉を本作ではじめて知った。
経済動物とは、ペット(愛玩動物)の対義語だ。農業高校の豚やニワトリは、可愛がったり愛情を注ぐ対象としているのではない。彼らは解体され、調理され、食べられるのだ。
経済動物とペットとの違いは何だろう。
豚やニワトリなら経済動物、犬や猫や小鳥ならペットだろうか。
そんなはずはない。豚だってニワトリだって愛情を注いで育てれば可愛いだろうし、犬も小鳥も食べれば美味いに違いない。
経済動物とペットの違いが判らない八軒は、動物と接する際の距離の取り方が不安定で、そんなこととっくの昔に体感している級友とケンカになってしまう。
本作は、八軒の高校生活をおもしろおかしく描きながら、経済動物とペットの違いや、生物について、生命について、そして生きるということについて考えさせて秀逸だ。
橘玲氏によれば、人間を取り巻く世界は同心円状の三つの空間に分類される。
人間の周囲に存在するのが「愛情空間」だ。これは家族や愛する人で構成され、せいぜい半径10メートルくらいである。『崖の上のポニョ』公開時に宣伝された「半径3m以内に 大切なものは ぜんぶある。 -宮崎駿-」という言葉は、愛情空間のことを述べたのだろう。
愛情空間の周りには親しい友だちからなる半径100メートルほどの友情空間があり、さらにその周囲に年賀状をやりとりするような「知り合い」の空間があるという。ここまでをひっくるめて政治空間と呼ぶ。
その外側に茫漠と広がるのが「他人」の世界だ。そこにいるのは普段は気にかけることのない人々であり、かろうじて貨幣を介して繋がっている。これが「貨幣空間」である。
たまたま立ち寄った買い物先の店員に、格別の愛情や友情を感じることはないだろう。彼/彼女との関係は、カネを払えばおしまいだ。私たちが手にする商品には、それを作った人が必ずどこかにいて、私たちが払うカネが巡り巡ってその人にも届くはずだが、商品を利用するときにそれらの人のことを考えたりはしない。
世界のほとんどは貨幣空間だが、私たちにとって価値があるのは政治空間、とりわけ愛情空間である。
3.11のあと、境界線の引き方が掛け違っていると感じたのはここだった。
愛情空間の中にいるかどうかと、人間か否かは別問題なのだ。
「犬の心配してる場合じゃない」と主張する人にとって、愛情空間や政治空間の中にいるのが人間であることは自明なのだろう。
他方、犬や猫を保護する人にとっては、犬や猫も愛情空間に属するのだ。自分の家では、犬や猫も家族の一員に迎えているのだろう。そんな人には、たとえ自分が直接の飼い主でなくても、被災した犬や猫を見過ごせなかったに違いない。
犬や猫を保護する人も、「犬の心配してる場合じゃない」と主張する人も、被災者やその愛情空間に属する者を助けなければと考えている点で同じなのだが、愛情空間に属する者を人間に限定するか否かで言動に違いが出るのだろう。
愛情空間は人間しか入れないものではない。
愛という感情は強力だから、ひとたび発動したら対象を人間に限定しない。貨幣空間の見ず知らずの人間よりも、目の前の犬や猫を大切に思う人もいるだろう。
ヴェルナー・ヘルツォーク監督の『アギーレ/神の怒り』には、いかだで漂流する主人公たちを見つけた原住民が「肉だ、肉だ」と大喜びする場面がある。人間というだけで愛情空間や政治空間に入れるものではない。
『銀の匙 Silver Spoon』の八軒が迂闊なのはここなのだ。
都会育ちの彼は、ペットくらいしか動物を知らない。彼は豚に名前を付けたり愛情を注いだりして、動物を軽々しく愛情空間に入れてしまう。級友たちが豚を経済動物と呼び、その存在を貨幣空間に留めておこうとしているのに比べて、八軒の愛情空間は敷居が低すぎるのだ。
そのため、豚が育って出荷時期が近付くと、彼は苦しむことになる。食用に出荷する予定の豚を、愛情空間に入れてしまった彼の迂闊さが招いた苦悩だ。
牛や豚は経済動物と割り切っているはずの級友が、口ではドライなことを云いながら、実際には割り切れずに動物を大切にしているエピソードも考えさせる。
本作が優れているのは、酪農や農業を題材にして、愛するとはどういうことなのかを抉っているからだろう。肉食恐竜が餌にすべき草食恐竜の子を愛してしまう傑作アニメ『おまえうまそうだな』に通じるテーマである。
同時に、本作が繰り返し取り上げるのが「競争」だ。
進学校の競争についていけない八軒が、受験戦争から逃げるようにして農業高校に来たことから、本作の序盤では競争に対して否定的な印象がある。
しかし、母豚の乳房を奪い合う豚の赤ん坊たちをはじめ、北海道独特のばん馬レースや成績の悪い馬の処分、そして乳の出が悪い牛を切り捨てないがために経営が立ちいかなくなる酪農家等のエピソードを積み重ねて、世の中には競争が当たり前のようにあり、生き物を相手にする農業はその渦中にあることが描かれる。
とうぜんだろう。
生物はみな生存競争を潜り抜けて進化してきた。自然とは生き残りをかけた競争の場であり、精子間の競争に勝ち抜いて誕生した人間も例外ではない。
人間は集団間では競争しても、集団内では平等を重視するから、人間集団の中ばかり見ていると本作序盤の八軒のように競争社会に否定的な思いを抱くかもしれない。
しかし、動植物を相手にする農業の現場では、平等観だけではやっていけない。
競争に脱落した過去を持ち、弱者に感情移入する八軒が、どのように競争と平等のバランスを取っていくのかも本作の見どころの一つだ。
以上で述べたことは、農家に生まれ育ち、みずからも酪農に従事した荒川弘(あらかわ ひろむ)氏の原作マンガには、余すところなく描かれているのだろう。
それでも映画化することで、私のように原作を読んでおらず、アニメ版も見ていない者に作品が届く意義は大きいと思う。
ましてや本作には、実写映画ならではのものがある。
それは豚の屠殺だ。
本作は、豚が電気ショックで気絶させられて、首を切り落とされて血を抜かれ、解体される過程を実写映像で見せている。
出演する役者たちは、屠殺に慣れているわけではない。公式サイトによれば、この場面の撮影では役者たちから「やばい」「こわい」という声が漏れたという。
だが、この場面はなくてはならなかった。牛や豚を育てることと、私たちが肉を食べることとのあいだに何があるかを示す上でも、マンガやアニメにはできないことを表現する上でも、屠殺の撮影を避けるわけにはいかなかった。
血なまぐさくならないように配慮しつつも、屠殺のことをセリフだけで済ませたりせず、きちんと見せたのは本作の本気度を示している。
本作は、判りやすい答えを教えてくれる映画ではない。
それどころか、都会人がなんとなく目を逸らしていることを引きずり出して、直視させる。
愉快なギャグと、起伏に富んだ物語と、あたたかな感動にくるみながら、本作が繰り出す刃は鋭い。
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監督・脚本/吉田恵輔 脚本/高田亮
出演/中島健人 広瀬アリス 市川知宏 黒木華 矢本悠馬 安田カナ 岸井ゆきの 吹石一恵 中村獅童 上島竜兵 西田尚美 吹越満 哀川翔 竹内力 石橋蓮司
日本公開/2014年3月7日
ジャンル/[ドラマ] [青春]
