『舟を編む』 なぜ1995年なのか?

 『舟を編む』は、辞書の編纂という地味で気の長そうな仕事が、想像を遥かに上回るほど地味で気が長いことを描き、そこから絶妙な笑いを生み出すコメディだ。
 本作は1995年を舞台にしているけれど、描かれる内容は極めて今日的だ。東日本大震災後の私たちにとって、切実な問題でもある。
 それどころか、時代設定が1995年であるところがミソなのだ。
 20年にも及ぶ辞書作りは、いつの時代を舞台にしてもおかしくない。本作も劇中だけで15年の歳月が流れる。
 しかし、他でもない1995年を中心にしているから現代に響いてくる。

 1995年、それはWindows95が発売された年である。
 それまでのパソコンより洗練され、インターネットを利用し易くなったWindows95搭載機の登場は、その後、一般家庭でのネット利用を大きく促進した。ウェブブラウザといえば Netscape Navigator が主流だったところに、マイクロソフトが Internet Explorer を発表したのも1995年である。
 今では当時のパソコン以上のことがスマートフォンでできるようになり、誰もが当たり前のようにネットでコミュニケーションしている。LINEやTwitterや掲示板等を読んだり書いたりすることで、特定・不特定の相手とやりとりできる。当ブログもネットを介したコミュニケーションの一つである。
 こうしたネットのサービスの拡充により、1995年当時に比べて人々のコミュニケーションは格段に豊かになった――だろうか?

 不特定多数が集まる掲示板で炎上したり、ブログにネガティブなコメントが殺到したり、Twitterで本人の予期せぬ話題が広まったりと、ネット上のコミュニケーションには様々な弊害も見られる。いや、それを弊害と捉えるか否かは人それぞれだが、インターネットを通じて発言する大衆の出現が、社会に何がしかの変化をもたらしたのは確かだろう。
 小田嶋隆氏は、失言と制裁と謝罪を繰り返させるインターネットの空気を指摘して、次のように語っている。
---
 何かを思うことと、それを口に出すことの間には、しかるべき距離がある。当然の話だ。
 アタマの中で考えたことを、その場ですべて声に出して良いのは、幼児と独裁者だけだ。
 ふつうの人間は、自制しなければならない。

 ところが、この距離(ないしは時間)が、うまく確保できなくなってきている。
 コミュニケーションの到達範囲も、次第に制御不能に陥りつつある。
 われわれは、黙れなくなっている。
 これは、実にやっかいなことだ。

 ずっとむかし、まだ、一般の日本人がインターネットやパソコンにつながっていなかった時代、思うこととしゃべることの間の距離は、当事者である私たちが特に自制するまでもなく、所与の条件として、余儀なく決定されていた。

 仮に、思ったことをそのまましゃべってしまうどうにも口の軽い人間がいたのだとしても、その彼の軽佻な声は、彼の周囲にいる数人の人間の耳に届くだけで、しかも、その場で揮発していた。であるからして、個人の発言が炎上を招く危険性は、現在と比べて、ずっと低かった。

 ところが、手の中にスマホを持っている21世紀の人間は、つい余計なことをつぶやいてしまう。
 しかも、ほんの10年前までは、罪の無いジョークとして受け流されていた言葉が、記録に残って、永遠に蒸し返される。
(略)
 もしかすると、考えることと発言することの間の距離(ないしは時間)を喪失したことが、われわれがデジタルのコミュニケーションツールを手に入れたことによって獲得した副作用のうちで、最も致命的なものなのかもしれない。
---

 考えることと発言することのあいだの距離(ないしは時間)を喪失したばかりではない。
 コミュニケーションツールが充実した現代は、人類史上もっとも文字によるコミュニケーションが活発な時代であろう。特に日本では、ネットワーク経由でのメッセージのやりとりが、かつて主流なコミュニケーションツールだった電話をも駆逐する勢いだ。
 だが、コミュニケーションというものは、バーバルコミュニケーション(言語的コミュニケーション)とノンバーバルコミュニケーション(非言語的コミュニケーション)からなっている。ことわざに「目は口ほどに物を云う」とあるとおり、人は話者の言葉だけではなく、表情や声音も併せて話者の感情や意図を判断している。表情、声音、言葉が矛盾するとき、人は言葉より声音、声音より表情を重視するという。
 なのに文字のコミュニケーションには表情も声音もない。コミュニケーションに大切なものがごっそり抜け落ちているのだ。[*]
 それはある意味で楽なことかもしれない。コミュニケーションを成り立たせるものの一部しか使わなくて済むのだから。
 でも、それで本当に意思や情報を伝達できるのだろうか。

 ましてや東日本大震災後には流言・デマが飛び交った
 自称ジャーナリストや自称学者や自称ドキュメンタリー作家等々が耳目を集める刺激的なネタを発信し、それを人々は拡散した。
 ネットでのコミュニケーションにはメリットがあるものの、噴出したデメリットも大きかった。

 だからこそ、言葉を慎重に吟味したい。
 勢いに流されることなく、浮つくことなく、自分の意図や感情を正確に伝えるには、慎重な言葉遣いが欠かせない。
 辞書の編纂事業を通して言葉の重さ大切さに目を向ける『舟を編む』は、まことに現代的な作品と云えよう。
 本作を撮った石井裕也監督も、「言葉を発するということは、大切なことであり、また非常に危ないものなのかもしれません」と述懐する。
---
コミュニケーションについてどう描くか、それが核になりました。自分の想いをいかに他者に伝えるか。そのツールとして言葉がある。(略)いまではインターネットで気軽に発言ができる時代ですが、発した言葉が、思いもよらない方向へ行ってしまう場合があったりします。
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 本作の主人公馬締光也(まじめ みつや)は、大学院で言語学を専攻した後、出版社に勤務する、云うなれば言葉遣いの専門家だ。
 にもかかわらず他人の気持ちが判らないし、惚れた相手に想いを伝えることもできない。言葉の専門家だからこそ、言葉遣いの難しさが判ってしまう。結果、猫だけが友だちの孤独な暮らしに落ち込んでいる。
 ネットのおかげでコミュニケーションし易くなったかのような現代人も、孤独じゃないとは限らない。ネット越しのコミュニケーションで、どれだけ真意や感情を理解し合えているのだろう。

 本作は言葉の大切さに注目すると同時に、デジタルなコミュニケーションツールがなかった頃に立ち返り、孤独な人がコミュニケーションを成立させる過程をじっくりと描いている。
 文字じゃなく、面と向かって話さなきゃ伝わらない気持ちがある。行動をともにするからこそ分かち合えるものがある。
 言葉の海に溺れていた馬締は、手紙ではなく、相手の目を見て話すことでようやく気持ちを伝えられる。

 辞書編纂を題材にした本作は、辞書がコミュニケーションの象徴だからこそ、言語的コミュニケーションを補完する非言語的なコミュニケーションも重視するのだ。
 馬締の達筆すぎるラブレターをヒロインが理解できないエピソードは、馬締の変人ぶりを面白おかしく強調するとともに、言語的コミュニケーションばかりが肥大化した現代のカリカチュアである。
 本作はそんな現代を、そうなる前の1995年から照らし出している。

 馬締が編纂した辞書の名は『大渡海(だいとかい)』という。
 『大渡海』の監修を務める国語学者松本は、劇中でその名のいわれを説明する。

 「言葉の海。
 人は辞書と言う舟で
 その海を渡り、
 自分の気持ちを
 的確に表す言葉を探します。
 誰かと繋がりたくて
 広大な海を渡ろうとする人たちに
 捧げる辞書、
 それが大渡海」

 それは、ネットという大都会に住む私たちに向けられた言葉であろう。


[*] 近年、LINEの利用者が急増している一因は、豊富なスタンプや絵文字により非言語的コミュニケーションを補えるからだろう。

舟を編む 豪華版(2枚組) 【初回限定生産】 [Blu-ray]舟を編む』  [は行]
監督/石井裕也
出演/松田龍平 宮崎あおい オダギリジョー 加藤剛 小林薫 八千草薫 渡辺美佐子 黒木華 池脇千鶴 鶴見辰吾 宇野祥平 又吉直樹 波岡一喜 森岡龍 斎藤嘉樹 麻生久美子 伊佐山ひろ子
日本公開/2013年4月13日
ジャンル/[ドラマ] [コメディ] [ロマンス]
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【genre : 映画

tag : 石井裕也 松田龍平 宮崎あおい オダギリジョー 加藤剛 小林薫 八千草薫 渡辺美佐子 黒木華 池脇千鶴

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