『かぐや姫の物語』 高畑勲の「罪と罰」とは?

 【ネタバレ注意】

 2013年、高畑勲監督は実に14年ぶりとなる新作映画を発表した。
 『かぐや姫の物語』は、まさに高畑アニメの集大成ともいうべき大傑作だ。これまで世界中を泣かせ、喜ばせ、感動させてきた高畑勲作品のあらゆる要素がここに結実している。
 72歳で長編アニメからの引退を宣言した宮崎駿監督よりも、さらに年上で78歳になる高畑監督が発表したこの長編は、心して観たい作品である。

 何年か前のこと、私は都内にしては閑静なところにある弥生美術館を訪れた。武部本一郎画伯の回顧展が行われたからだ。
 武部画伯は多くの児童書やSF小説の挿絵を手掛けた人なので、本を好きな方にもファンが多いだろう。『火星のプリンセス』のヒロインを描いた絵は、米国のSFファンも魅了したという。『ガラスのうさぎ』のか弱い少女の絵も印象的だ。
 ところが回顧展で伺った話では、武部画伯の絵はあまり児童書に使われなくなったという。武部画伯のみならず、今や多くの画家の絵が使われなくなったそうなのだ。

 代わって児童書に採用されているのは、アニメのような絵だ。
 くっきりした輪郭線でキャラクターを描き、顔も服も濃淡なく彩色するセル画のための技法が、児童書にそのまま持ち込まれて表紙を飾っている。出版社の人間がこのようなアニメ絵を好きなわけではない。こういう絵でないと子供が読んでくれないそうなのだ。テレビ絵本やフィルムコミックの普及と併せて、なんとか子供に本を手に取ってもらおうとする工夫の結果が、アニメ絵を表紙にした児童書なのだろう。
 私は武部画伯をはじめ多くの画家の個性的な挿絵が好きだったし、同時にアニメも好きだったので、複雑な心境だった。

 当代一のアニメーション演出家・高畑勲監督はドキュメンタリー映画『いわさきちひろ ~27歳の旅立ち~』に出演して、淡い水彩画で知られるいわさきちひろさんの魅力について語っている。
 高畑監督は「68年、長女が保育園から持ち帰った絵本にあった輪郭線のないタッチに「この絵で成立するのか」と驚いた一方、子供の不安な気持ちや想像力が内包されていると感心し、ファンになった」という。

 アニメをセル画で作るために確立されたアニメ絵は、アニメーションの技法の一つでしかない。ましてや絵というものは、画材にしろ表現の仕方にしろ、描き手ごとに、作品ごとに千差万別でいいはずだ。
 そんな当たり前のことすら忘れてしまうほど、日本の商業アニメは「アニメ絵」一色に覆われている。

 かくいう私も、高畑監督が1999年に『ホーホケキョ となりの山田くん』を発表したときは、その意義がよく判らなかった。
 水彩画のような淡い描き方は原作に沿っているわけでもなし、『おじゃまんが山田くん』のようなセル画調で良いのではないかと思った。
 けれども、高畑監督が『ホーホケキョ となりの山田くん』以来14年ぶりに発表した『かぐや姫の物語』では、絵柄と内容が密接に結びついていた。

 日本最古の物語『竹取物語』を原作とするこの映画は、美しい絵巻物を紐解くようにはじまる。
 墨と筆で描いたような人物、動物、風景と、淡い彩色が織りなす映像は、あたかも鳥獣人物戯画が動き出したかのようだ。
 物語の背景となる平安時代、その時代性と絵巻物らしいリアリティを打ちだすのに、この絵柄が貢献していることは論をまたない。現代のコンピューター技術があればこそ実現できた映像は、今どきのはやりや風潮に流されることなく、千年以上経っても色褪せない物語を再現している。
 その堂々とした風格に圧倒されるばかりだ。


 『ホーホケキョ となりの山田くん』で挑戦した技術に磨きをかける一方で、芝居については1968年の監督デビュー作『太陽の王子 ホルスの大冒険』以来のこだわりを貫いている。

 『太陽の王子 ホルスの大冒険』では絵を描くより先に声を収録するプレスコ方式を採用した。
 日本製アニメの多くが採用しているアテレコでは、絵コンテマンがキャラクターに演技をさせて、役者は絵を見ながらそれに合わせている。
 しかし、プレスコならば絵を気にせずに役者が全身全霊をあげて演技できる。絵コンテを描く人やアニメーターは役者のセリフ回しや息遣いを汲み取って、キャラクターの動作を描き込んでいける。そのような方式だからこそ、『ホルス』では平幹二朗さん、市原悦子さん、東野英治郎さんら名優たちが演技をリードした。

 このやり方は他の高畑アニメでも採用されており、本作も同様だ。
 地井武男さん、宮本信子さん、田畑智子さんをはじめ、そのまま舞台化、実写化してもおかしくない実力あるキャストを揃えたのも、高畑監督の演技重視の姿勢の現れだろう。

 そして本作は、内容もこれまでの高畑アニメの流れにある。
 日常の描写を積み重ねながら少女のたくましさを浮き彫りにしていくところは、『パンダコパンダ』(1972年)のミミ子や『じゃりン子チエ』(1981年)を思い出させるし、そんな少女が空飛ぶ妖精を目にするファンタジックな描写は『赤毛のアン』(1979年)を彷彿とさせる。
 自然豊かな地方でのびのび育った少女が、都会の息苦しさと上流階級の厳しいしつけにさいなまれる本作に、『アルプスの少女ハイジ』(1974年)との類似を見る人も多いに違いない。
 かぐや姫は時に無邪気に、時に横柄に振る舞い、感情の振幅がとても大きい。本当の自分を取り戻そうと雪原をさまよう彼女はまた、人間の心と悪魔の心のあいだで葛藤する『太陽の王子 ホルスの大冒険』のヒロイン・ヒルダの再現に他なるまい。[*1]

 『アルプスの少女ハイジ』に見られるように、「都会」と「反都会的な理想の共同体」の対比は高畑アニメの重要なモチーフだが、後年の『おもひでぽろぽろ』(1991年)や『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)では「理想の共同体」のはかなさも描かれた。[*2]
 かつてアルムの山や東の村に「理想の共同体」を託した高畑勲監督も、「戦後民主主義の希望と挫折の総括」[*2]と云われる『平成狸合戦ぽんぽこ』では「理想の共同体」を目指す闘争の苦い顛末を描き、『ホーホケキョ となりの山田くん』ではもう家族という共同体しか残されていない現代人を描いた。
 そして「理想の共同体」を信じられた頃を振り返るように、労働運動に燃えていた60年代を代表する『ひょっこりひょうたん島』や、東映動画(現東映アニメーション)に入社してアニメーション人生のスタートを切った1959年当時に大人気だった『月光仮面』を劇中に登場させた。

 とはいえ、昔を懐かしんでも仕方がない。
 本作のかぐや姫は何度も「理想の共同体」に帰ろうとするが、そこはすでに無人だったり、彼女の居場所となる位置を別の女性が占めていたりして、単純に昔に帰れるわけではないことが示される。
 『ハイジ』よりも『ホルス』よりもずっと前、高畑監督が演出志望の新人のときに出したプロットが本作の元になっていることを考えれば、本作は過去の高畑アニメの集大成であると同時に、もっと早く作られるべきだった高畑アニメの原点とも云えよう。


 千年以上前の作品を原作にしたこともあって、高畑監督は表面的な今日性は排除している。
 はやりすたりから解放された本作に込められたのは、百年経っても千年経っても変わることのない人の心であり、百年経っても千年経っても変わらない面白さだ。

 もっとも高畑監督は、かぐや姫の現代人らしさを強調している。
 「僕はわがまま娘を描いているんです。わがままなのが、現代の娘の最大の特徴でしょ。僕はなにも昔の物語をそのまま描こうと思ったんじゃない。現代の娘があの時代にタイムスリップして、その時代の中で何をしたか。それを観ることが大きなテーマになるんじゃないかと思ったんだ」
 もちろん、少女を主人公にした作品をつくり続けた高畑監督にとって、「わがまま娘」は悪口ではない。因習に縛られず、自由闊達なヒロインを世に送り出してきた高畑監督は、千年前の物語にも同様の主人公を据えたのだ。
 その人物造形が原作の展開にピタリとはまるのだから、これはもう原作者も同じように考えていたとしか思えない。

 本作も高畑監督の作品らしく、原作には極めて忠実だ。
 高畑監督は原作をないがしろにすることはない。普遍性を持たせるため、あるいはボリュームを増すために脚色することはあっても、原作ファンが反発するようなアレンジを施すことはない。その脚色は原作を深く掘り下げた結果であり、脚色することで原作の行間を埋めているのだ。
 ときには、原作者よりも原作をよく理解しているのではないかと思うほどの掘り下げぶりだ。

 本作も、日本人なら誰もが知っているかぐや姫の物語をほぼ忠実になぞり、原作から外れたことは起こらない。
 にもかかわらず、原作が語らないかぐや姫の心情をきめ細かに描写し、私たちが知らなかった本当のかぐや姫の物語を作り上げている。ストーリーを知っているからこそ、千年ものあいだ日本人が誰も気づいてやれなかったかぐや姫の秘められた気持ちや背景に驚かされる。その確かな心理描写にうならされるのだ。

 『竹取物語』は、月からやってきたかぐや姫が反骨精神を発揮して権力者を袖にした挙句、また月へと還っていく話だ。
 説話が源流と云われるように奇想天外な物語だが、とりわけ不可解なのは姫が犯したという罪だ。かぐや姫は罪を犯したために月の世界から地上に降ろされたという。月から迎えがやってくるのは、罰の期限が過ぎたからだ。
 姫が犯した罪がこの物語の根幹でありながら、原作は最後までそれが何かを明かさない。

 『かぐや姫』の映画化を検討した際、鈴木敏夫プロデューサーは高畑監督に訊かれたという。
 「かぐや姫は、月の人でしょう。数ある星の中で、なぜ地球へやってきたんですか」
 「なんで一定期間いて、月に戻ったんですか?」
 「地球へ来て、彼女はどんな気持ちで、毎日をどう生きてたんですか?」
 「なんで、また元に戻らなければならなかったのか」
 答えに窮した鈴木プロデューサーは、誰もが知っていると思っていたかぐや姫の物語に未知なる広がりがあることに気づかされた。

 本作に驚くとともに感動するのは、「姫の犯した罪と罰」という惹句のとおり、その罪と罰が明らかにされて、それがストンと腑に落ちるからだ。

 半村良氏の代表的な伝奇SFに『妖星伝』がある。松本零士氏のマンガ化によってご存知の方もいるだろう。
 江戸時代を舞台に、特殊な能力を持つ鬼道衆と異星文明を描いた娯楽小説だが、巻を追うにつれて仏教用語が頻出し、生命や宇宙に思いを馳せた哲学的な内容になっていく。
 特に印象的な言葉が「奈落」である。「奈落の底」「奈落に落ちる」という表現もあるように、暗くて深い下の方を指す言葉であり、劇場では舞台や花道の下の空間を奈落と呼ぶ。これはもともとサンスクリット語の「ナラカ」から来ており、地獄を意味する言葉だ。
 『妖星伝』では、この言葉のルーツが宇宙にあると語られる。高度な文明を発達させた異星人は、宇宙の片隅に異様な星を発見する。そこでは生命体が他の生命体の血肉を貪っており、みずからが生きるために他者を殺さねばならなかった。そのおぞましさを嫌悪した異星人は、この星を奈落と呼んだ。奈落(地獄)とは宇宙一の妖星――私たちの住む地球だったのだ。

 『竹取物語』でも、かぐや姫を迎えに来た天人は地球を「穢れた所」と呼ぶ。
 清らかで美しく不老不死の天人からすれば、地球は穢れた土地であり、短い一生をただただ争いごとに費やして死んでいく人間たちは賤しい存在でしかない。
 だとすれば、かぐや姫が地上に降ろされた理由も判る。彼女は流刑者なのだ。穢れた地上にいること自体が罰なのだ。

 たしかに『竹取物語』を改めて読んでみれば、そうとしか思えない。姫と一緒に授かった金で贅沢な暮らしをする翁、姫の心を射止めんと虚言を弄する貴族たち。いずれも天人から見れば賤しい行いでしかなく、地上の醜さを表している。
 そんな場所にたった一人で何年も住まわせるとは、なんてひどい罰なのだろう。あまりにもむごい仕打ちである。
 文庫本にしたらごく薄い『竹取物語』に、大長編『妖星伝』に匹敵する風刺と哲学が込められていたことに、本作を観て私ははじめて思い至った。

 では、そんなひどい罰を受けるほどの罪とは何だろうか。かぐや姫は何をしてしまったのか。
 本作では、それを姫自身が説明している。彼女の罪は、地球に憧れたことだと。穢れた地球、賤しい生物たち、そんなものに興味を持ったことが天人にとっては罪なのだ。
 だから彼女は地上に降ろされた。あそこは危険だと諭しても聞き分けのない子が、だったら一人で行ってみなさいと懲らしめられるように。もう帰りたいと音を上げたなら、連れ戻してあげようという約束で。そのときには地球の嫌な思い出なんかきれいに消してあげようという配慮までしてもらって。

 千年も語り継がれた『竹取物語』から、こんなストーリーを紡ぎだした高畑勲監督には脱帽だ。
 この罪と約束を中心にかぐや姫の物語を語り直すことで、誰もが慣れ親しんだ『竹取物語』はまったく新たな相貌を見せはじめる。

 本作のクライマックスは、虚飾に満ちた都の暮らしに嫌気が差したかぐや姫が、それでも地球には素晴らしいものがたくさんあることを思い起こして、苦悩するところである。
 せっかく地球に来たというのに、自分は何をしていたのか。地球には様々な生き方、様々な暮らし方があり、けっして穢れているだの賤しいだのと決めつけるべきではない。そこに思いを馳せず、一瞬でも地上にはいたくないと思ってしまった自分の愚かなことよ。
 かぐや姫は叫ぶ。「私は生きるために生まれてきたというのに!」

 かつてヒューマニズムを前面に打ち出していた黒澤明監督は、歳とともに作風が変化した。70代で撮った『影武者』や『乱』では、天から人間界を批判するような目線になり、厭世的な気分が漂っていた。
 かつて「理想の共同体」を夢見た高畑アニメも、現実の苦さを前にして徐々にそのトーンを変えてきた。
 それでも高畑監督は、地球の生き物を見下ろす天人の目線に同化せず、人間と一緒になって野山を駆け回る天人の少女を主人公に据えることで、人間の、生命の、地球の素晴らしさを謳い上げた。天人から見れば人間は無知で愚かな存在かもしれないが、少女は彼らを肯定した。地球を丸ごと肯定した。
 高畑監督が到達したこの境地の、なんと感動的なことか。

 天の羽衣をまとったかぐや姫は、天人の一人となって月へ還ってしまう。
 だが、本作でかぐや姫は、月に向かいながらそっと地球を振り返る。
 原作にはない高畑勲の演出である。


[*1] 人間の心と悪魔の心の二面性を併せ持ち、市原悦子さんをして「こんな複雑な主人公ははじめて」と驚かせた少女ヒルダの源流は、レフ・アタマーノフ監督の『雪の女王』(1957年)に登場した「素直な顔」と「すさんだ顔」を持つ少年カイであろうことが、おかだえみこ著「日本のアニメを変えた人―高畑勲の軌跡 作家論・高畑勲」にて示唆されている。

[*2] 高畑・宮崎アニメの描く「理想の共同体」とその変質については、佐藤健志著「共同体への夢と幻滅~ジブリ作品はどこに行くか」に詳しい。

[*1]、[*2]ともに、『キネマ旬報臨時増刊1995年7月16日号 宮崎駿、高畑勲とスタジオジブリのアニメーションたち』所収

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監督・原案・脚本/高畑勲  脚本/坂口理子
出演/朝倉あき 高良健吾 地井武男 宮本信子 高畑淳子 田畑智子 立川志の輔 橋爪功 上川隆也 伊集院光 宇崎竜童 古城環 中村七之助 朝丘雪路 仲代達矢
日本公開/2013年11月23日
ジャンル/[ドラマ] [ファンタジー]
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【theme : ジブリ
【genre : 映画

tag : 高畑勲 朝倉あき 高良健吾 地井武男 宮本信子 高畑淳子 田畑智子 仲代達矢 橋爪功 上川隆也

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