『42 ~世界を変えた男~』で注目すべきは人種差別問題ではない

本作が描くのは、実在の野球選手ジャッキー・ロビンソンだ。
白人だけで構成されていた大リーグに、初の黒人選手として飛び込んだジャッキーは、野球ファンからも対戦チームからもチームメイトさえからも中傷され憎まれ、嫌がらせを受ける。
とうぜん予想された苦難に敢然と立ち向かうジャッキー・ロビンソンを、日本で公開される出演作はこれがはじめてとなるチャドウィック・ボーズマンが好演し、彼を大リーグに引きずり込むブルックリン・ドジャースのゼネラルマネージャー(GM)、ブランチ・リッキーをハリソン・フォードが貫禄たっぷりに演じている。
この映画は、ジャッキーが黒人ゆえに味わう苦しみと戦いを描いており、涙なくして観られない。その上、物語は野球の試合を中心に据えて、リーグ優勝をかけたチーム間のせめぎ合いや、ジャッキーと他の選手の対決等の見どころも多く、スポーツものとしても充分に面白い。
だが本作の舞台となる1940年代の米国は、日本人に馴染みのある世界ではない。ましてや本作を黒人差別を題材にした作品だと思ってしまうと、日本人には遠い国の過去の出来事としか感じられない。
しかし、もしも本作がかつて黒人差別があったことを振り返るだけの映画なら、米国人にとっても古くさくて説教じみてしまい、わざわざ1940年代の風物を再現してまで現代に作る意義はないに違いない。
『42 ~世界を変えた男~』が現代の米国にも日本にも、いや日本にこそ強く響く映画なのは、ジャッキーをドジャースに入れようとしてリッキーが監督に電話するシーンだけでもよく判る。
黒人選手のジャッキーをどう思うかとリッキーに尋ねられたレオ・ドローチャー監督は、迷いなくキッパリ云いきる。自分が目指しているのは優勝だけだと。優秀な選手なら黒人だろうが何だろうが関係ない。もしも役に立たなければ、実の弟でも追い出すだけだと。
60年にわたって白人だけで営まれてきた大リーグには、強固な慣習や白人だけの連帯感があったはずだ。そこに黒人選手を投入すれば、「チームの和」が乱れてしまう。
にもかかわらず、ドローチャー監督は黒人選手の参加をまったく厭わなかった。
それどころか、優秀な選手を「黒人だから」という理由で排除するような「チームの和」なんかいらないと考えた。
これまで当ブログをお読みになった方なら、このやりとりを聞いて押井守監督の勝敗論を思い出したことだろう。
やはり大リーグを舞台にした映画『マネーボール』を俎上に載せて、押井守監督は次のように語っている。
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現状維持を望むというのは勝たなくてもいいから言い訳が欲しいだけなんだ。要するに、直感や経験を重視する人は「勝つこと」を絶対条件にしてないことがほとんどなわけ。勝つためだったら自分の経験だろうがなんだろうがドブに捨てる覚悟がなかったら勝てるわけないじゃん
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黒人の参加を嫌う選手たちは、仲良く気持ちよくプレーをしたいのかもしれない。それには、今までどおり白人だけで固まっていたかったのかもしれない。
しかしチームを優勝に導く責任を負っている監督にとって、大事なのは優勝に貢献できる選手かどうかだ。肌の色は関係ない。
本作が2時間8分の上映時間を通じて描くのは、「人種差別はいけません」というお説教ではない。そこにあるのは、徹頭徹尾、能力主義の公平さである。
『マネーボール』もそうだった。『マネーボール』は統計的手法を駆使することで、旧来の評価軸では埋もれてしまう人に脚光を当て、個人を公平に扱うことを訴える映画だった。
とはいえ、データを分析して数字で人間を判断することには反発する人もいるだろう。『マネーボール』に反論するかのように野球映画『人生の特等席』が公開された。そこではドライなデータ分析が否定され、昔ながらの仲間意識や職人ならではの経験が尊重された。
その『人生の特等席』に改めて反論するのが本作だ。本作は『マネーボール』のアプローチとは趣向を変えて、データ分析や数字による判断といった理性への働きかけではなく、差別への怒りや異人種が和解する喜び等の感情に訴えかけて、公平な世の中はどうあるべきかを観客に感じ取らせる。
『42 ~世界を変えた男~』はジャッキー・ロビンソンというヒーローを描いた痛快作であり、『マネーボール』が題材にした統計オタクとGMの悩みからはかけ離れた映画に見える。
だが本作のナレーションは、両作に同じ精神が流れてることを示している。
本作の冒頭、語り部たる記者は云う。
「野球は民主主義が本当にある証拠だ。野球のボックス・スコアには、体格も宗派も支持政党も肌の色も記録されない。そこにはただ試合での成績が記録されるだけだ。」
数字だけに徹すること。それが民主主義だと主張する本作は、リベラル派のブラッド・ピットが制作した『マネーボール』と同じことを訴えている。
だからこそ『42 ~世界を変えた男~』は、日本人に痛烈な一作だ。
過去の人間関係も、どんな集団に属するのかもおかまいなしに、能力だけを物差しにして個人を評価する。――これは、日本人のもっとも苦手で嫌いなことだ。
日本社会は今なお同質性が高く、異分子に寛容ではない。日本人は伝統的によそ者を簡単には受け入れず、集団の文化から逸脱した者を村八分にすることで安心社会を保ってきたからだ。
脚本も手掛けたブライアン・ヘルゲランド監督が上手いのは、黒人選手をバックアップするGMブランチ・リッキーがメソジスト派であると強調し、数字を重視する能力主義と伝統的な信仰共同体とが矛盾しないことをアピールした点だ。こうして本作は『人生の特等席』を支持しそうな客層にも親近感を抱かせる。
日本の伝統的コミュニティを重視する人々も、本作の正論には抵抗しにくいだろう。
血縁、出身地、所属集団等にかかわらず公平に個人を評価すること。それと同じくらい嫌がられるのが、カネの多寡で良し悪しを判断することだ。
金儲けするヤツは強欲で、いい人は金に執着しない。そんな内容の映画は多い。
しかし、それではダメだと押井守監督は云う。
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ビジネスを描いた映画の大半がダメなのはさ、結局みんな前提が間違ってるんだもん。要するに冷酷さと人間性の世界の対立というさ、そういう命題を立てた瞬間もう間違っちゃう。
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野球もビジネスだから金が動く。本作のGMブランチ・リッキーも、人類愛だけでジャッキーを取り立てるわけではない。
ジャッキーの入団に猛反対するスタッフを相手に、リッキーは黒人選手を入団させれば黒人客の増加が見込めると説明する。
「カネに黒も白もない。カネは緑なんだ。1ドル札は緑色だ。」
多様な価値観や思想信条が対立するとき、カネは共通の尺度足りうる。破滅志向の人間はともかくとして、まともに収支を考慮する冷静さがある人間には、儲かるということが一定の説得力を持ち得るのだ。
カネがすべてではないけれど、人類文明が誕生してからというもの、カネ以上に価値を定量的に表現する方法を私たちはまだ発明していない。各人が自分なりの価値観や思想をぶつけ合っても落としどころが見つからないとき、ものごとを金額に換算して議論するのは一つの知恵と云えるだろう。
"いい人"からは嫌われがちなカネこそが、人種も偏見も関係ない唯一公平な価値判断であると示す点でも、本作は注目に値する。
また、数々の嫌がらせにジャッキーが対抗する手段も見ものである。
白人ばかりのチームに入れば、ジャッキーが攻撃の的になるのは目に見えていた。リッキーはこれから起こるであろう辛い日々を予言しながら、ジャッキーに問題を起こすなと釘を刺す。
ジャッキーは反論した。「あなたは、やり返す勇気もない選手が欲しいのか?」
リッキー「違う。やり返さない勇気を持った選手が欲しいのだ。」
ジャッキー「もし僕にユニフォームをくれるなら……。もし僕に背番号をくれるなら……。勇気で応えます。」
この会話は、鋭いセリフが飛び交う本作の中にあってとりわけ印象深い。
ジャッキーはブランチ・リッキーとの約束を守り、どんなに嫌がらせを受けても手を上げない。
私は久しぶりにアメリカ映画の真髄を見た思いだった。
やられたらやり返す。これは紀元前18世紀に成立したハンムラビ法典に通じる考え方で、現代の映画でも、侮辱を受けた主人公が相手を殴るシーンが頻繁に見られる。
ところが、ハンムラビ法典は「目には目で、歯には歯で」とあるように被った害を超える報復を禁じており、あくまで同等の罰にとどめるよう定めている。なのに映画の主人公はしばしばやりすぎる。言葉で侮辱してきた相手に腕力を振るって殴り倒すのは、明らかに「目には目で、歯には歯で」に反している。
2013年公開の『マン・オブ・スティール』では、さすがにスーパーマンが一般人を殴ったりしないが(スーパーマンに殴られたら死んでしまう)、スーパーマンは口汚いトラック運転手に怒って、そのトラックを滅茶苦茶に壊してしまう。
こんなシーンを見るたびに、私は残念に思った。
1958年の映画『大いなる西部』は傑作だった。その素晴らしさはとても説明しきれないほどだが、何より感動したのはグレゴリー・ペック演じる主人公が決してやり返さないことだった。バカにされても、腰抜け扱いされても、彼は平気な顔をしていた。
このような強さを備えてこそヒーローだと思っていたのに、今では『大いなる西部』の人物像を受け継ぐ作品がめっきり見られなくなってしまった。
だから本作のジャッキーが観客からブーイングを浴びても、対戦チームから罵倒されても、審判にすら嫌がらせされても怒りをこらえる姿を目にして、これぞアメリカン・ヒーローだと感激した。
ジャッキーはやられっ放しなわけではない。ちゃんと相手をへこませる。だがその方法は暴力ではないし、近視眼的な復讐でもない。
彼は野球選手なのだから、ルールを守ってゲームの上でやっつける。意地悪な投手にはホームランでお返しし、口汚い相手チームの監督からは勝利をもぎ取る。
侮辱されたジャッキーが安易に殴り返したりせず、耐え続ける姿を観ていた観客には、その「仕返し」が爽快だ。
ここで描かれるのは、やられたらやり返すシステム1レベルの原始的な衝動ではなく、野球のルールにのっとって相手を打ち取ろうとするシステム2レベルの理性である。
どのような不快なことがあろうとも、ルールを踏み外さずに公正な勝利を目指す精神は、すなわち「法の支配」の暗喩に他ならない。
私は1年以上前に「アメリカは壊れているか?」と題した記事を書いた。同時多発テロ事件に報復するためアフガニスタンやイラクへ攻め込んだアメリカの映画からは、もはや『大いなる西部』や『大脱走』のような感慨を得ることがなかったからだ。
けれど、その後アメリカ映画から、復讐心と公正なルールとのあいだの苦悩を描いた傑作『声をかくす人』や『スター・トレック イントゥ・ダークネス』が登場し、正義を振りかざしたくなる感情よりも法の支配を守る方が重要であることが強調された。
1940年代を舞台にした本作もその流れにある。ルールを守ってこそ成立するスポーツと、理不尽な排他性。そのはざまで苦悩するジャッキーは、過去10年を振り返るとともに、これからのあるべき姿を模索するアメリカの象徴だ。
今この映画をつくる意義はここにある。
劇中、試合前にアメリカ国歌をわざわざ最後まで歌うのも、この国の理念を再確認するためだ。
しかも、本作は法と慣習の違いにも踏み込んでいる。英米の法体系(コモンロー)は慣習から発展したが、法の定めと慣習の要請が一致するとは限らない。
法は黒人選手の入団を禁じていないが、慣習として黒人の大リーガーはあり得ない。そんなときに個人は、社会はどうすべきなのか。本作はそこまで考察して「法の支配」の何たるかに思いを馳せる。
「裁判官ですら空気を読んでしまうので、法の支配が成立しない」と云われる日本では、なおのこと本作から学ぶことが多いだろう。

監督・脚本/ブライアン・ヘルゲランド
出演/チャドウィック・ボーズマン ハリソン・フォード ニコール・ベハーリー クリストファー・メローニ アンドレ・ホランド ルーカス・ブラック ハミッシュ・リンクレイター ライアン・メリマン ブラッド・バイアー ジェシー・ルケン アラン・テュディック
日本公開/2013年11月1日
ジャンル/[ドラマ] [伝記] [スポーツ]

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