『ワールド・ウォーZ』 ラストはもう一つあった

 【ネタバレ注意】

 『ワールド・ウォーZ』を日本で公開するに当たり、配給会社はZとは何かを明かさずに宣伝した。
 ポスターでも予告編でもZに触れず、ブラッド・ピットと逃げ惑う人々だけを見せるようにした。
 そのため、これをパニック映画、ディザスター映画だと思い込んだ人もいたに違いない。
 普段ならZに興味を抱かない人や、Zを避けてしまう人が、もしもZの映画とは思わずに映画館に足を運んだとしたら、配給会社の宣伝は正解だったといえるだろう。後からZと知った観客も、怒ったりはしないはずだ。Zの映画も悪くない、そう思うことだろう。
 それくらい『ワールド・ウォーZ』は、Z――ゾンビ(Zombie)映画の愛好家だけに観せておくのがもったいない作品だ。

 私は常々不思議だった。
 西洋では、なぜこれほどゾンビ映画が盛んなのだろう?
 私はホラー映画やゾンビ映画を熱心に追いかけているわけではないが、それでもゾンビ映画が毎年公開されてるような気がしている。
 ウィキペディアの「ゾンビ映画の一覧」にはおびただしいタイトルが並んでおり、欧米、特に米国で近年ゾンビ映画が作られない年はない。日本にもゾンビ映画はあるものの、公開規模が限定的だったり、海外展開を狙うものだったりするので、興隆の中心地は米国といえよう。
 これはウィキペディアの情報だから網羅性や正確性の点では検討が必要かもしれないが、ゾンビ映画が他のモンスター(吸血鬼や狼男やフランケンシュタインの怪物等)の映画に比べて群を抜いて盛んなのは間違いない。
 
 特定の傾向の映画が盛んになるのは、それを好んで作る制作者と受け入れる観客の双方がいてはじめて成り立つ。
 『桐島、部活やめるってよ』や『東京公園』や『キツツキと雨』に劇中劇としてゾンビ映画が登場するのは、日本にもゾンビ映画を好むクリエイターがいることを示すよりも、むしろ正面からゾンビ映画を撮るのが日本では難しいことの例証であるように思う。

 私が感じている疑問――なぜこれほど西洋、特に米国でゾンビ映画が盛んなのか、という疑問については、すでにホラーやゾンビの研究者が追求していることだろう。
 それでも、『ワールド・ウォーZ』を観て私なりに思うところがあったので、ここに記しておきたい。


■ゾンビ映画が抱える矛盾

 ゾンビ映画が米国で盛んな理由の一つは、ゾンビの概念を生み出したブードゥー教の信仰地域を抱えるからだろう。
 元来アフリカに起源を持つブードゥー教だが、奴隷貿易による黒人の移送は、アメリカ大陸にアフリカ文化をもたらした。ブードゥー教は今もカリブ海の島国ハイチや、カリブ海に面した米国ルイジアナ州ニューオーリンズ等で信仰されている。ニューオーリンズにあるフットボールチームの名が「ニューオーリンズ・ブードゥー」であることからも、ブードゥー教が親しまれていることが判るだろう。
 カリブ海にブードゥーと来れば、『007/死ぬのは奴らだ』を思い浮かべる人も多かろう。この作品は、カリブ海を舞台に、007がCIAのフェリックス・ライターと協力して、ブードゥーの力を振るう黒人犯罪王と対決する話だった。

 ゾンビとは、墓から掘り出した死体をブードゥーの術で蘇らせ、奴隷として使役するものである。
 これが米国映画に登場するようになった背景を、ウィキペディアでは次のように説明している。
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20世紀初頭にハイチを占領したアメリカは、ハリウッド映画などでゾンビを面白おかしく題材にし、ブードゥーのイメージダウンを行った。
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 日本でも、平井和正原作のマンガ『デスハンター』やその小説化『死霊狩り』(ゾンビー・ハンターシリーズ)により、奴隷化された死体としてのゾンビは60~70年代には知られていた。

 しかし、こんにち映画で盛んに取り上げられるゾンビは、ブードゥー教の死人奴隷とは異質のものだ。
 1968年に米国で公開されたジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』が、現在盛んなゾンビ映画の源流だという。「ゾンビ映画の一覧」のこの映画の解説には「カニバリズム、感染、理性の喪失、頭部の破壊以外は不死身など現在のゾンビ映画の基本的なルールをつくった作品」と書かれている。

 ブードゥー教の死人奴隷は、人間を食べたり、ゾンビ状態を感染させたりしなかった。
 本来のゾンビにはないこれらの特徴は、リチャード・マシスンのSF小説『地球最後の男』(1954年発表、1964年にマシスンも脚本に参加して映画化)の影響であるという。吸血鬼をテーマにしたマシスンの小説には、「人間を食料にする」「襲われた人間も吸血鬼になる」といった吸血鬼ならではの特徴があり、ロメロはこれをゾンビに移植したのだ。

 もっとも、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』は、米国以外にはほとんど公開されなかった
 世界にロメロのゾンビを知らしめたのは、1978年の続編『ゾンビ』であろう。
 日本での公開は1979年だ。平井和正氏の小説で「ゾンビー」の語に親しんでいたSFファンは、長音符号がない「ゾンビ」に違和感を覚えたが、「ゾンビ」の呼び名はあっという間に浸透した。

 以降、群れをなして人間を襲う不死身の怪物ゾンビは、アメリカ映画に欠かせない人気キャラクターになった。
 そしてゾンビ映画の多くがジョージ・A・ロメロの、というよりリチャード・マシスンの影響下にある。
 otokinoki氏が「ゾンビもののストーリー定形」を手際良くまとめているので、ここに引用させていただこう。
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■ゾンビもののストーリー定形
0)大前提として、終末映画である。直接描かれなくても、人類滅亡が暗示されている。
1)ゾンビに追い立てられた主人公たちは逃げ場の無い場所に閉じ込められて、小さいコミュニティでのサバイバルを行う
2)職業も思想も違う人々は疑心暗鬼と不安に囚われ、最初はなんとかなると思っていたコミュニティは崩壊する。
3)崩壊した隠れ家を主人公は飛び出し、また別の隠れ場所を見出すが、そこにもゾンビが満ちている(終末の暗示)
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 この定形からして、ほぼリチャード・マシスンの小説どおりである。
 マシスンの『地球最後の男』は、1964年のヴィンセント・プライス主演版のみならず、1971年にはチャールトン・ヘストン主演の『地球最後の男オメガマン』に、2007年にはウィル・スミス主演『アイ・アム・レジェンド』になっているから、小説を読んでいなくても内容をご存知の方は多いだろう。
 ただ、この定形だけであれば、1951年にジョン・ウィンダムが書いたSF小説『トリフィドの日』とほぼ変わらない。『トリフィドの日』は1962年に『人類SOS!』として映画化されており、これもまたジョージ・A・ロメロの映画に影響を与えたと云われている。
 なるほど、『Night of the Living Dead(ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生)』とは『The Day of the Triffids(トリフィドの日)』のもじりなのだろう。

 ジョン・ウィンダムの『トリフィドの日』に対して、その3年後にリチャード・マシスンが『地球最後の男』で行った工夫は、ウィンダムが別々の恐怖として描いた「怪物」と「疫病」を一つにまとめた点だろう。ウイルスに感染した犠牲者が捕食者に変わり、人間は少数派になってしまう。ここがマシスンの『地球最後の男』の特徴だ。
 だから、バイオハザードシリーズはアクション重視で従来のゾンビ映画から離れてるようでいても、ゾンビ化の原因をウイルス感染に求めるところがリチャード・マシスンの小説に忠実といえるかもしれない。

 だが、これらのゾンビ映画では、本来は吸血鬼の特徴であるものをゾンビに移植したことによって無理も生じている。
 なぜなら「人肉を食べること」と「襲われた人間もゾンビになること」は両立しにくいからだ。
 吸血鬼なら血を吸うだけだから、襲われた人が吸血鬼になって他人の血を吸いはじめてもおかしくない。
 だがゾンビが人肉を食べる設定では、ゾンビが獰猛であればあるほど、つまり腹をすかしていればいるほど人体を貪り食ってしまい、ゾンビになるべき人体が残らないはずだ。ゾンビとは、他のゾンビに食われたときの食べ残しが歩き出したものだから、活動力のあるゾンビ(手足がまだ残っているゾンビ)は遠慮がちに食べてもらったことになる。
 そう考えると、ゾンビが凶暴なんだか慎み深いのか判らなくなり、何だかゾンビが怖くなくなってしまう。

 こんなことになるのは、『地球最後の男』からゾンビ物への移植が上手くいってないからだ。
 そこでゾンビ映画が抱える矛盾を整理し、これまでゾンビ映画が避けていた領域に踏み出したのが『ワールド・ウォーZ』である。


■ゾンビ映画を観られる人は?

 『ワールド・ウォーZ』の特徴の一つは、グロテスクでないことだ。
 ゾンビ映画にしばしば見られる、血飛沫、血まみれ、損壊した人体が、本作にはほとんど出てこない。
 バイオハザードシリーズのレイティングはPG12(小学生には助言・指導が必要)なのに、そのおかげで本作はG(どなたでもご覧になれます)にとどまっている(米国ではPG-13(Parents strongly cautioned))。

 大予算(結果的に1.9億ドルに膨らんだ)を投じるのだから、残酷描写を控えて、できるだけたくさんの人に見てもらえるレイティングにするのは重要だった(それでも制作と主演を兼ねるブラッド・ピットは、表現を過激にすることを望んだそうだが)。
 だがそれだけでなく、本作に残酷描写が少ないのは、「人肉を食べること」と「襲われた人間もゾンビになること」の矛盾を解消するために、「襲われた人間もゾンビになること」のみを採用したからだ。

 本作のゾンビは人間に噛み付くだけで、肉を食ったりしない。
 噛み付けばウイルスに感染するので、人間を食べなくても、より広範囲にウイルスを蔓延させるというウイルスの目的が達せられるからだ。それどころか体を損傷してしまうと、宿主が行動しにくくなり、ウイルスの蔓延が妨げられるおそれがある。
 人間が食べられる猟奇的な映像を撮るよりも、ウイルスに感染した犠牲者が捕食者に変わるコンセプトを優先する方が、ウイルスの活動の説明として合理的だし、『地球最後の男』の原点に立ち返っても当然の選択といえる。

 「ウイルスの目的」だの「ウイルスの活動」だのと書くと、ウイルスが計算ずくで宿主を操作しているようでバカバカしく感じられるかもしれない。
 しかし現実に、昆虫に感染して行動を操るバキュロウイルスや、働きバチを外敵と戦わせる覚悟ウイルスの例もある(覚悟ウイルスに感染しなければ働きバチは戦わずに逃げてしまうので、巣が外敵に荒らされる)。

 そもそもヒトゲノム(人間の遺伝情報)の半分近くは、外部から侵入して数千万年かけて潜り込んだウイルスたちであることが判っている。人類が誕生してからまだ200~300万年しか経っていないから、人類になる前から私たちの遺伝子はウイルスたちに侵されているのだ。
 それどころか、彼らが持ち込んだ遺伝因子により霊長類が生まれたとも推測されている。私たちは、ウイルスたちの遺伝子操作の結果として誕生したのかもしれない。

 人間の母親にとって、父親由来の遺伝形質を持つ胎児は異物である。だから母親は免疫反応を起こし、病原体を攻撃するのと同じようにリンパ球が胎児を攻撃するはずだが、この攻撃から胎児を守っているのもウイルスだ。ウイルスは母体から胎児を守り、人間の繁殖を助けている。
 地球上には膨大な種類のウイルスがいるけれど、人類はまだほんの一部を研究しているに過ぎない。地球の環境や生物がどれほどウイルスに依存し、操作されているか、私たちはまだまだ知らないのだ。


 話を映画に戻そう。
 本作が従来のゾンビ映画と違うのは、残酷描写を控えたことだけではない。

 第一次世界大戦(World War I)や第ニ次世界大戦(World War II)をもじった題の『ワールド・ウォーZ(World War Z)』は、まさに「最後の世界大戦」と「世界ゾンビ大戦」を掛けているのだろう。
 その名のとおり、本作は全世界規模での対ゾンビ戦を描いており、ゾンビ映画史上屈指のスケールだ。
 そのスケールの大きさは、otokinoki氏が指摘した「ゾンビもののストーリー定形」をも覆す。
 具体的には次のとおりだ。

0)大前提として、終末映画である。直接描かれなくても、人類滅亡が暗示されている。
 →人類が世界中でゾンビに対抗する姿が描かれ、必ずしも人類滅亡が前提ではない。

1)ゾンビに追い立てられた主人公たちは逃げ場の無い場所に閉じ込められて、小さいコミュニティでのサバイバルを行う
 →主人公たちはゾンビと戦うため世界を股に掛けて活躍する。

2)職業も思想も違う人々は疑心暗鬼と不安に囚われ、最初はなんとかなると思っていたコミュニティは崩壊する。
 →職業も思想も違う人々が、時に自己を犠牲にしながら主人公を支援する。当初は自己中心的に見えた主人公も、戦いの中では自己犠牲を厭わない。

3)崩壊した隠れ家を主人公は飛び出し、また別の隠れ場所を見出すが、そこにもゾンビが満ちている(終末の暗示)
 →ゾンビに抵抗し続ける人類の姿が強調され、事態は好転するであろうことが示唆される。

 otokinoki氏の記事は、『ワールド・ウォーZ』の原作小説がいかに革新的なゾンビ物かを説明している。
 私は原作を読んでいないが、映画が国連調査員を主人公にして各地のエピソードを結びつけるのに対し、原作は国連の調査によるインタビュー集の形を取っており、映画以上に定形から踏み出しているようだ。

 ともあれ定形から外れるのは、まず定形をきちんと理解していないとできることではない。
 ゾンビ物というジャンルの中にありながら従来の矛盾を解消し、過去の作品が避けていた領域に踏み出した本作は、たとえて云うならロボットアニメにおける『機動戦士ガンダム』や、魔法少女アニメにおける『魔法少女まどか☆マギカ』に匹敵する画期的な位置にあろう。

 ここで注目したいのは、革新的な作品でありながらなお踏襲せざるを得ないそのジャンルの特徴だ。
 『ワールド・ウォーZ』以前の作品にあり、『ワールド・ウォーZ』でも打ち出しているポイント。それこそが変えることのできないゾンビ物の中核、ジャンルを成り立たせている主要因子のはずだ。
 ゾンビ映画がこれほど盛んな秘密を探る鍵は、そこにあるかもしれない。


■人間とゾンビを隔てるのは何?

 ウィキペディアで『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』に付けられた解説をもう一度見てみよう。
 そこには、「カニバリズム、感染、理性の喪失、頭部の破壊以外は不死身など現在のゾンビ映画の基本的なルールをつくった作品」と書かれている。
 だが前述したように、本作はカニバリズムを排除した。
 すると、ここに挙げられるようなゾンビ映画の基本的なルールでは、「感染」「理性の喪失」「頭部の破壊以外は不死身」の三点が残る。
 これは『ワールド・ウォーZ』でも踏襲している。

 感染:
 本作はゾンビ化の原因をウイルスとしているので、人々は常に感染の恐怖にさらされている。犠牲者はいつでも捕食者に変わり得る。
 これは『地球最後の男』から続く重大な要素だ。

 理性の喪失:
 ゾンビは、人間を見ると凶暴性を発揮して襲いかかる一方で、獲物がなければ立ち尽くして休眠状態に入る。いずれにしろ理性的に行動することはない。ブードゥー教のゾンビが自由意志を持たない奴隷であることを考えても、ゾンビ物を特徴付ける重大な要素だろう。
 実は『地球最後の男』の吸血鬼は生前の知性を維持しており、理性を喪失したりしない。理性の有無が、吸血鬼物とゾンビ物の違いかもしれない。

 不死身:
 ゾンビは強靭な肉体を持っており、主人公を何度も追い詰める。
 それはゾンビの特徴でもあるが、モンスターはおおむねそうだろう。か弱くて短命なモンスターではお話にならないから、これを重視しても仕方あるまい。

 こうしてみると、ゾンビ物で一番重要なのは「理性の喪失」であり、次が「感染」になるだろうか。

 本作が改めて強調していることもある。
 序盤に主人公を匿ってくれる優しい男が登場するが、彼は家の中に閉じこもり続けようとする。主人公は、男に行動しなければダメだと説くのだが、男は何もしないことが一番だと思い込んでいる。
 説得を諦めた主人公が男と別れて血路を開いているころ、男は自宅でゾンビに襲われ、やっぱりゾンビと化してしまう。

 また、各国が崩壊する中、信じがたい報告でもきちんと吟味し、用心深く行動してきたイスラエルは、防護壁を完成させてゾンビを防ぐことに成功していた。
 ところが、壁の内側に逃げ込めた人々がはしゃいで大騒ぎしたことから、聞きつけたゾンビが集まって、せっかくの壁は破られてしまう。

 これらのエピソードは、人々が一様に犠牲になるわけではないことを示している。
 一人ひとりの判断と行動が、ゾンビになるか否かの明暗を分けてしまうのだ。

 ここでotokinoki氏の記事から「ゾンビものの登場キャラクター定形」を紹介しよう。
 ゾンビ物にはストーリーだけでなく、キャラクターの定形もあるという。
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■ゾンビものの登場キャラクター定形
1)軍人の作戦は失敗し、結果的に崩壊を呼び寄せ、軍人キャラは主人公よりも早く死ぬ。
2)ゾンビを科学的に利用しようとか、儲けようなどの強欲なキャラは惨めな死に方をする。
3)キャラクターの性格は、基本的に変わることはなく、人格的に成長しない
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 これを見ると、本作はストーリー定形のみならずキャラクター定形も引っくり返しているのが判る。

1)軍人の作戦は失敗し、結果的に崩壊を呼び寄せ、軍人キャラは主人公よりも早く死ぬ。
 →本作では軍人、民間人の区別なく、多くの人がゾンビと戦うために心血を注いでおり、軍人が特に早く死ぬわけではない。軍人はどちらかというと献身的にすら描かれる。

2)ゾンビを科学的に利用しようとか、儲けようなどの強欲なキャラは惨めな死に方をする。
 →原作小説とは違い、映画には強欲というほどのキャラは出てこないのだが、強いていえば自分の家族のことしか考えない主人公一家が強欲キャラに当たるだろうか。
 だが、群像劇である原作を一人の主人公の物語に集約するため、主人公像は「自分勝手な民間人→有能な国連調査員→自己犠牲を厭わない勇敢な人物」と変遷する。終盤では、自分の家族のことばかり考えていたのを恥じ、家族の安否を心配しながらも、ゾンビへの対抗策を見出すために犠牲的な活躍をする。彼は決して惨めではない。

3)キャラクターの性格は、基本的に変わることはなく、人格的に成長しない
 →前述のようにキャラクターの性格は変化し、人格的に成長する。

 「ゾンビものの登場キャラクター定形」に照らせば、本作はキャラクター面でも革新的な作品だ。

 けれどキャラクター定形の分類の仕方を変えると、そうともいえないかもしれない。

 1)状況をきちんと把握した上で先の見通しを立てることができない者は助からない。
 2)慎重さを欠いて、その場の感情に身を任せる者は助からない。
 3)他者との協調性を欠いたまま、変わろうとしない者は助からない。

 このように整理すると、本作も他のゾンビ物も同じような定形にまとまるように思う。
 ショッピングモールで主人公に薬をくれた青年が、1シーンだけの端役なのにやけに印象的なのも、物資を略奪する他の者との違いを強調するためだろう。
 もちろんこの青年が死ぬ(ゾンビ化する)ことはないのだ。

 考えてみれば、ゾンビの犠牲になる者とゾンビとのあいだに、どれほどの違いがあるだろうか。
 先に述べたように、ゾンビとは理性をなくした存在だ。そしてゾンビになるのは、理性的に行動しなかった人間だ。

 これまでのゾンビ映画では、人間がゾンビにされる際に食人等の残酷描写があった。そのショッキングな映像が挟まるために、人間とゾンビとのあいだには明確な境界があるように感じられた。
 しかし、過剰な残酷描写を取り除いた本作によって見えてくるのは、人間とゾンビとの境界の曖昧さだ。理性的に行動しない人間はゾンビになる。一人の理性の欠如は、感染して他人の理性も失わせる。

 人間とゾンビを隔てるのは、理性の有無という何とも曖昧なものではないだろうか。


■恐怖の正体

 人間とゾンビの境界が曖昧であれば、ゾンビ映画が盛んなのも頷けようというものだ。

 映画に出てくる他の怪物には、往々にして特別な出自がある。人間を凌駕する能力もあり、一般人がおいそれとはなれそうもない。凄い能力を持つ彼らはヒーローと紙一重であり(仮面ライダーがショッカーのバッタ怪人であるように)、なろうにもハードルが高そうなのだ。
 だが、理性を失うことなら、誰にでも可能性がありそうだ。感情がたかぶったり、酒を飲んで我を忘れたりなんてことは、人間誰しもあるのではないか。
 ゾンビは単に死なないだけで、能力面では一般の人間より劣ることが多い。他の怪物よりもハードルが低いゾンビは、だらしない自分を見るようなのだ。

 本作のゾンビが俊敏なのももっともだ。
 血まみれでもなく、肉が剥き出しにもなっていないゾンビ(すなわち、普通の人間にしか見えない)が、他の映画のように緩慢に歩いていたら、ただの愚か者にしか見えない。
 本作で休眠状態にあるゾンビは、まさに単なるでくの坊だ。せめて人間を襲うシーンぐらい全力で走らねば見てられない。

 ゾンビ映画が突きつけるのは、愚か者の群れに巻き込まれ、感化されてしまう自分なのだ。
 その恐怖は、人間を凌ぐ凄い怪物に対峙する他のモンスター映画とはまったく異なる。
 理性という、ややもすれば失いがちなものを問えるからこそ、ゾンビ映画は好んで作られるのだろう。そして観客も、内心では愚か者に転落しかねない危うさを自覚しているから、ゾンビ映画に見入ってしまうのではないだろうか。


 とはいえ、それだけではまだ冒頭の疑問に答えていない。
 なぜ西洋でゾンビ映画が盛んなのか説明できない。
 特に米国が盛んなのは、ブードゥー教の信仰地域を抱えるからだとしても、ブードゥー教は全米に広まっているわけではない。
 米国では土葬が一般的なので、墓から死者が蘇ることがイメージしやすいのかもしれないが、近年盛んなゾンビ映画は、もはや墓から掘り出すブードゥーのゾンビとはかけ離れている。

 この疑問について考えるには、まず理性とは何かを明らかにする必要があるだろう。
 人間に備わっていて、喪失したらゾンビになってしまう「理性」とはいったい何だろう?

 ダニエル・カーネマンは人間の認知システムを2段階モデルで説明した。彼によれば、人間には直感を担うシステム1と推論を担うシステム2があるという。
 池田信夫・與那覇潤共著『「日本史」の終わり 変わる世界、変われない日本人』にカーネマンの理論の紹介があるので、そこから図を引用しよう。

  カーネマンの認知システムの2段階モデル

 システム1は直感的に情報を処理する仕組みであり、脳の一番古い層だという。意識を経由せずに素早く働く思考であり、睡眠も呼吸もここで行う。
 対するシステム2は進化の中で比較的最近できたもので、意識的に推論を行ったりする時間のかかる思考だ。システム2は高度な思考ができるけれど、エネルギーを大量に消費して効率が悪い。脳の重さは体重の2%程度だが、基礎代謝の20%も消費するため、私たちはなるべくシステム1でエネルギーを使わずに情報を処理し、意識的に働くシステム2の負荷を小さくしている。
 たとえばピアノの演奏を最初に習うときはシステム2で意識して鍵盤をたたくが、慣れてくればシステム1で自動的に指が動くようになる。

 これを人間とゾンビで考えると、理性を喪失したゾンビとは、システム2が機能せず、いつも直感的なシステム1だけで行動する者といえよう。
 脳の一番古い層の、自動的に働く速い思考をゾンビ呼ばわりとは、ひどい云い方だと思われるかもしれないが、もともと人間は集団内では愛情や共感を抱くものの、集団間では激しい戦争を繰り返す生き物だった。所属する集団が違えば人間といえども食料でしかなかったし、ここ数百年を除けば人間の最大の死因は殺人だった。
 他の動物に比べて、人間が特別に凶暴なわけではない。他の動物と同様に、人間も縄張り争いや食い合いをしていただけなのだ。聖書にはかつて人間が楽園にいたかのごとく書かれているが、隣町に行っても食い殺されない現代の方がよっぽど平和なのである。

 このように、カーネマンの2段階モデルは人間とゾンビに当てはめることができる。
 では、西洋でゾンビ映画が盛んなことは、どうかかわるのだろうか。

 前掲書に與那覇潤氏の興味深い発言があるので、少々長いが引用しよう。
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 なるほど、システム1のレベルはおそらく全人類に共通であると。それでは、フクヤマの際に議論したような人類の諸社会の違いは、むしろシステム2の部分で出てくることになりますね。実はこれは、ヨーロッパ型の「近代化」と、私の言う「中国化」を区別する上でも鍵になるポイントだと思うのです。
 つまり西洋近代のすごかったところは、条件反射的なシステム1の作動を「抑制する機構」をかなりがっちりと作って、それがいわば社会的なシステム2なのではあるまいか。近世ヨーロッパは本来、一大宗教戦争の時代で、カトリックとプロテスタントがシステム1レベルの反発心から「お前らは邪教だ」といってメチャクチャ殺し合って、これ以上続けたらもう社会が持たないところまで来た。
 そこで、だからこそ宗教的な本能は合理性で抑制しようと。信じる宗教が違っていたとしても、最低限お互い人間であることは認め合って、人それぞれの信仰を政治には持ち込まないことで、なんとか共存していきましょうという形になった。これがいわゆる政教分離であって、近代ヨーロッパのイノベーションの根源ですね。
 逆に中国の場合は、たぶんそれをやっていない。前近代からおおむねずっと国家が統一されてきて、近世のあいだもせいぜい豊臣秀吉がちょっかいを出してきた程度で、隣国とも平和だったから。
 そうなると、システム1の本能的な道徳感情を抑制しないといけない、という発想がそもそも生まれないから、ほぼ剥き出しの状態でシステム1をキープしたまま来ているのだろうと思うんですね。だから政教分離は起きないし、道徳感情は持ち込まずに客観的なルールで人を裁こうという法治国家も作られず、むしろ政争と道徳的糾弾とがつねに一体化して展開する「徳治国家」になる。
(略)
 西洋のほうは、カトリックとプロテスタントの宗教戦争を経て政教分離が進むとともに、身の安全のために合理的に考えて「社会契約」を結び、いわば利己的で野獣のような人間どうしであっても、お互い生存できる秩序を作るという発想になった。ホッブスの言う「人間は人間に対して狼」、すなわちシステム1に任せていたら大量殺戮になる状態を前提にして、システム2としての社会契約でそれを制御するという考え方です。
 しかし岸本先生によれば、東洋は別の道を行ったという。『リヴァイアサン』が刊行された1651年は、中国史で言えば明清交替のころで、儒教のなかでも新興の「陽明学」が猛烈に流行した時期だというのです。
 陽明学の人間観とはホッブスとはまさに逆で、「心即理」のスローガンが有名ですが、いわばシステム1への徹底的な信頼です。「親に孝行を尽くせ」などと説教しなくても、赤子がおのずと母を慕って泣く心を持っているように、人間の素直なまごころをそのまま発揮すれば、自動的にすべてが調和して秩序が成り立つはずだと考える。
 逆に、システム2的に合理主義をごちゃごちゃこねまわすのは、自分の本心をストレートに発揮できなくさせる悪しき行いだから、われわれは小理屈のうまいインテリ連中よりも、無知蒙昧だが質朴な「愚夫愚婦」の言動こそを尺度にすべきだ、と唱えたのです。
(略)
システム1が人類に普遍的だとすると、「それに身を委ねるだけでいいんだ」というエートスは、狭義の陽明学者でなくても伝染していく。
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 西洋では身の安全のために、システム2の部分をフル稼働させねばならなかった。
 システム2によって意識的に政教分離し、社会契約を結び、法治国家を徹底しなければ、システム1が噴出して、恐ろしい殺し合いの世界に逆戻りしてしまう。本来ならシステム2の働きをシステム1に肩代わりさせてシステム2の負荷を小さくしたいのに、システム1を抑制する機構をシステム2に担わせたため、システム2の負荷が小さくならない。そのストレスにさらされ続けているのが西洋だというわけだ。

 一方、中国をはじめ東洋の世界は、「抑制する機構」としてのシステム2を発達させなかった。
 それどころかシステム1を信頼すればいいという考えもあって、システム1の世界――すなわち無知蒙昧で質朴な愚夫愚婦になるのが怖くない。

 ちなみに、陽明学は日本にも伝わり、江戸幕府を倒す思想的背景になっている。
 システム1を「抑制する機構」を持たない倒幕運動は、やがて江戸城が無血開城し、倒幕が果たされたにもかかわらず、東北諸藩との戦争を起こしてしまう。


 社会の秩序はシステム1を抑制して実現するのか、信頼して実現するのか。
 洋の東西で違う答えを出したことが、以降の社会を大きく分けた。
 こう考えると、西洋ばかりでゾンビ映画が盛んなのは、むしろ当然のように思えてくる。
 理性を喪失し、凶暴さが人々のあいだに蔓延していく――それは西洋の人々が長い歴史を通して懸命に抑え込もうとしてきた悪夢なのだ。
 そのストレスを抱える西洋なればこそ、ゾンビ映画が切実に感じられるのだろう。

 だから、『ワールド・ウォーZ』の作り直したラストは大正解だと思う。


■却下されたラスト

 私はマーク・フォースター監督の『007/慰めの報酬』が大好きだ。世界で5.8億ドル以上を稼いだ成績は立派だと思う。
 しかし評論家から厳しく批評されたため、マーク・フォースター監督はもう一度アクション映画を撮って再評価されることを願っていたという。

 『ワールド・ウォーZ』の脚本を最初に担当したJ・マイケル・ストラジンスキーは、こう語っている。
 「頭が空っぽのランボーとゾンビが戦うアクション映画を撮りたいんなら、何だってこのエレガントで知的な原作を選んだんだ?」

 『ワールド・ウォーZ』の制作が遅れに遅れ、費用が膨れ上がったいきさつは、VANITY FAIR誌のレポートに詳しい。そこには、ストラジンスキーが抜けた後、新たに雇ったマシュー・マイケル・カーナハンの脚本に基づいて、フォースター監督がどんな映画を撮ったかが書かれている。

 本作は三幕物だ。
 第一幕は、ゾンビが発生したフィラデルフィアで、主人公と家族が逃げ惑う話。
 第二幕は、国連調査員に復帰した主人公が、イスラエル等でゾンビの調査をする話。
 第三幕は、飛行機でモスクワに不時着した主人公が、ロシア軍に加わって赤の広場でゾンビとの大戦争を繰り広げる話だ。
 単なる調査員だった主人公は、第三幕でなぜか凄腕のゾンビ・キラーとして活躍し、軍のリーダーになっていく。

 主要な撮影が終わってから3ヶ月後の2012年2月2日、マーク・フォースター監督はパラマウントの経営陣にディレクターズ・カット版を公開した。
 上映後、室内は静まり返っていたという。
 パラマウント・フィルムグループの社長アダム・グッドマンは、前半は気に入ったそうだ。だがディレクターズ・カットには、ホラー映画なら当然備えているべきサスペンスがなかった。
 制作の(そして主演の)ブラッド・ピットは、マーク・フォースター監督に「一人だけでもう一度じっくり観させてくれ。その後、話し合おう」と告げた。

 それから1ヶ月ちょっとが経ち、映画の公開日を2012年12月から2013年6月21日に変更することが発表された。
 2012年4月、ブラッド・ピットに頼まれて、『スター・トレック イントゥ・ダークネス』の脚本家デイモン・リンデロフは編集し直した映画を観た。
 リンデロフは、イスラエルを出発した後の展開をすべて変えたらどうかと提案した。それはせっかく撮ったロシアの大戦争を捨ててしまうことを意味したが、なんとパラマウントの経営陣は賛成した。映画の主人公が「世界を救う」症候群に陥ることを防ぐ彼のアイデアは、経営陣に受け入れられたのだ。

 リンデロフは、『LOST』で組んだドリュー・ゴダードと一緒に脚本に取り掛かり、10日後には新たな60ページを仕上げた。何年ものあいだ誰もが考えあぐねたエンディングが、こうして形になった。
 イスラエルを出発した主人公は、ロシアではなくウェールズに不時着し、広場で大戦争するのではなく、研究所の狭い部屋で試練に立ち向かうことになった。


 追加撮影には、約2000万ドルが投じられた。
 1.9億ドルもの制作費を投入した超大作なのに、クライマックスの第三幕をたった2000万ドルで撮ってしまうとは、スケールダウンに見えるかもしれない。
 でも、私はこの第三幕に納得した。スケールダウンで映画が損なわれたとは思わない。
 ロシアのシーンを観ていないから、それがどんな出来だったのか私は知らない。
 しかし、たとえロシアの戦闘シーンが手に汗握るほどの大アクションだったとしても、この映画には相応しくないだろう。

 本作は、ゾンビ物にもかかわらず残酷描写を排除することで、ゾンビ物の本質が理性の有無にあることをさらけ出してしまった。
 そこで問われるのは、理性をどこまで保てるかだ。理性をなくした者たちに取り巻かれ、誰にも助けてもらえない極限まで追い詰められて、それでも人間は理性的に振舞えるのか。独りぼっちで、恐怖や動揺に襲われながらも、それらの感情を抑え込んで冷静に対処できるのか。
 その葛藤が、この映画のクライマックスであるべきだ。

 だから、暴力的な行動では何も解決しない。
 たとえ人間側のためであっても、ヒーローと称賛されようと、大暴れしてゾンビをたくさん殺すことでは、理性の勝利を表現できない。
 観客の心に訴えるのは、派手な戦闘シーンではなく、静かな葛藤なのだ。


 主人公の最後の葛藤は、マラリア療法を思わせるゾンビ対策に挑むことだ。
 マラリア療法とは、病気を治すために別の病気にかからせる危険な治療法である。梅毒患者をマラリアに感染させ、マラリアのために患者が発した高熱で梅毒の病原体が死滅したら、マラリアの治療に取り掛かるのだ。
 第二次世界大戦中、マラリアのために10万人以上の日本人が死亡したから、その恐ろしさはよく知られていよう。
 毒をもって毒を制すという言葉はあるが、患者を梅毒とマラリアにかからせるとは驚くべき治療法だ。治療をする側にもされる側にも、たいへんな葛藤があったに違いない。

 1927年、マラリア療法を発明したユリウス・ワーグナー=ヤウレックに、ノーベル生理学・医学賞が贈られている。


追記
 本作公開の3年後、日本でユニークなゾンビ映画が登場した。
 本記事に続けてこちらの記事もお読みいただければ幸いだ。
  「『アイアムアヒーロー』はゾンビ映画なの?

参考文献
 池田信夫・與那覇潤 (2012) 『「日本史」の終わり 変わる世界、変われない日本人』 株式会社PHP研究所

ワールド・ウォーZワールド・ウォーZ』  [わ行]
監督/マーク・フォースター  原作/マックス・ブルックス
原案/マシュー・マイケル・カーナハン J・マイケル・ストラジンスキー
脚本/マシュー・マイケル・カーナハン ドリュー・ゴダード デイモン・リンデロフ
出演/ブラッド・ピット ミレイユ・イーノス ジェームズ・バッジ・デール ダニエラ・ケルテス デヴィッド・モース ルディ・ボーケン ファナ・モコエナ アビゲイル・ハーグローヴ マシュー・フォックス
日本公開/2013年8月10日
ジャンル/[アクション] [パニック] [ホラー]
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【theme : ゾンビ映画
【genre : 映画

tag : マーク・フォースター ブラッド・ピット ミレイユ・イーノス ジェームズ・バッジ・デール ダニエラ・ケルテス デヴィッド・モース ルディ・ボーケン ファナ・モコエナ アビゲイル・ハーグローヴ マシュー・フォックス

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