『リンカーン』 大統領は本当は弱い

 「世論、民意に従うのが本当の政治ではない。」
 小峰隆夫氏のこの言葉は印象的だ。
 民意を汲み取らずして、何の民主主義だろう。
 そう突っ込みたくなるかもしれないが、そも民主主義なる用語は誤訳と云われる。democracy を先人は民主主義と訳したけれど、democracy の意味は民衆が支配することであり、主義(ism)ではない。democracy は autocracy (専政)や aristocracy (貴族政)に対比して民衆が支配する政体を表しており、民主政と訳す方が相応しい。

 その民主政は、衆愚政と紙一重でもある。衆愚政と呼んでは言葉が過ぎるなら、民意のバイアス――偏りと呼べば穏当だろうか。
 映画『リンカーン』の背後にあるのは、民主政がもたらす苦悶、民意のバイアスへの悲憤である。

 小峰隆夫氏は参考人として国会に出席した際、議員たちを前に次のように述べたそうだ。
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 しばしば世論調査で人々の考えを聞き、民意に従うべきだという議論が出ます。しかし、民意には民意のバイアスというものがあると思います。それは、『短期的な視点で物事を判断してしまう』ことや『自分の身の回りのことを中心に物事を判断してしまう』というバイアスです。

 しかし、短期的なマイナスを避けようとして、長期的にかえって大きなマイナスを抱え込むということはよくあります。また、身の回りのマイナスを避けようとして、回り回ってかえって大きなマイナスが身に及んでくるということもよくあることです。

 こうした民意のバイアスを避ける仕組みが『間接民主主義』だと私は思います。従って、国会議員の方々は、自らの判断で長期的に国民のためになる政策を考えていただき、もしそれが民意に反するものである場合は、(民意に従って自らの考えを修正するのではなく)民意の方を説得していただきたいと思います。
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 小峰氏は民主主義(民主政)の欠点を克服する仕組みとして間接民主主義に言及したが、本作の主人公エイブラハム・リンカーンにとっては間接民主主義すら不完全だった。
 リンカーンは奴隷を解放すべきだと考えていた。しかし間接民主主義の下、各州で選出された議員には奴隷解放に反対の者も多く、大統領という弱い立場のリンカーンは奴隷制を廃止できなかった。なにしろ大統領には議会への出席権すらないのである。
 『リンカーン』は四年に及んだ南北戦争から1865年1月を取り上げて、民主主義と戦うリンカーンを描いた映画である。

 だから、題名が『リンカーン』だからといって、本作はリンカーンの生涯を描くわけではない。リンカーンが奴隷解放を訴えるようになった経緯をこの映画は詳しく語らないが、そんなことはどうでもいい。南北戦争の波乱万丈を描くわけでもないし、歴史的背景についてまったく知らなくても構わない。
 スティーヴン・スピルバーグ監督が描くのはただ一つ、迷いを抱えた人がいかに決断するか、ということだ。150分の上映時間は、その決断の辛さと重さを伝えるためにある。
 それゆえ、スピルバーグはリンカーンの大統領任期全体を描いた脚本を改稿させて、リンカーンが奴隷解放に向けて憲法修正第13条を可決させるべく尽力した1月に絞らせた。


 奴隷制廃止後の現在の私たちの眼には、奴隷制なんて廃止して当然の不合理に映る。しかし、150年前の米国では、奴隷制への賛否が南北戦争に発展するほど意見が分かれていた。
 そんな中、本作でリンカーンを襲うジレンマは、奴隷解放と奴隷制廃止が必ずしも両立しないことだ。
 アメリカ合衆国の法律では、交戦国の財産を没収できる。連邦政府に逆らう南部諸州が、あくまで黒人は奴隷であり、個人の私有財産だと主張するなら、戦力で押しつぶして、奴隷を没収してしまえば良い。それで現在奴隷の境遇にいる者たちを解放できる。
 しかし南部を交戦国として扱えば、彼らがアメリカ合衆国の一部ではないと認めることになる。アメリカ合衆国の法に従わせるには、南部もあくまでアメリカ合衆国であり、この戦いは国家間の戦争ではなく反逆の鎮圧だ、という立場を貫かねばならない。そうしなければ、諸州に残る奴隷制を根絶することはできないだろう。
 奴隷制の根絶を目指すと、現在奴隷として苦しんでいる者たちを解放できないとは、なんたる矛盾!

 さらにリンカーンを悩ませるのは、南部諸州が和平を模索しはじめたことだった。
 劇中リンカーンは、奴隷制を廃止してこそ戦争が終わると人々に思わせていたが、世の中には、嫌な戦争が終わりさえすれば奴隷制の廃止に踏み込まなくて良いと考える者も少なくなかった。
 そんなときに和平の申し出があれば、人々は戦争終結を望んで飛びつくだろう。戦争さえ終わるなら、南部の奴隷制には譲歩しよう――連邦議会の大勢がそう動くのは間違いない。アメリカ合衆国の大統領には法案を提出する権限もないから、議員の理解がなければ修正第13条は審議すらされずに終わる。

 奴隷解放のために戦争してきたのに、和平の提案を受け入れたら戦争だけ終わって奴隷制が残ってしまう。
 はたして、戦争で多くの若者が死に、日々犠牲が拡大していても、奴隷制廃止を目指して戦争を続けるべきなのか。
 それとも、戦争を終わらせ、平和な暮らしを取り戻す代わりに、悲惨な奴隷制を存続させるのか。
 映画は、究極の決断を突きつける。その葛藤をより強調するために、スピルバーグはリンカーンの息子を登場させ、リンカーンがまさに戦争続行か否かを悩んでいるそのときに軍に入隊させてしまう。息子の身を案じる妻は狂乱して、リンカーンを非難する。本作を構成するありとあらゆる要素は、リンカーンの葛藤を強調するためにある。

 これらすべてを背負い込んで、リンカーンは一人で決断しなければならない。
 誰も代わってくれないし、幸運も舞い込まない。どう決断しても、誰かが不幸になる。恨む者もいるだろう。
 それは孤独な戦いだ。

 アメリカ映画はこれまでも葛藤する主人公を描いてきた。
 当ブログでも、『ナバロンの要塞』等を例に出してたびたび論じてきた。
 そのアメリカ映画の歴史の中でも、本作の葛藤は飛び抜けて苦しいものだろう。
 それでも決断せねばならない。
 その場に観客を立ち会わせることに、この映画の真価がある。


 2009年はリンカーン生誕から200年、2011年はリンカーンの大統領就任から150年ということもあるのだろう、リンカーンを題材とする映画が続々と公開されている。
 けれどもスピルバーグが、本作には生涯でもとりわけ魅了されたとまで語り、12年かけて映画化したのは、時流に乗りたかったわけではあるまい。
 近年、異国・異民族との対立を強調する映画が目につく米国で、ロバート・ゼメキス監督はキリスト教を通した秩序と平安を訴えた。
 ユダヤ系のスピルバーグはキリスト教を持ち出すのではなく、人間同士の信頼や敬意を強調し、前作『戦火の馬』ではドイツ兵とも判りえることを示した。
 そのスピルバーグにとって、この題材に取り組むのは必然であろう。
 150年前に北のアメリカ合衆国と南のアメリカ連合国は四年間も戦争し、62万人もの死者を出した。北部と南部は激しく憎み合っただろうが、それが今や一つの国として何ら争うことはない。奴隷制は廃止され、米国は差別の撤廃に向けて歩んできた。
 150年前の米国でこれほどのことができたなら、今の世界から争いをなくし、差別をなくせないはずがない。それをスピルバーグは映画を通して気づかせてくれる。


 また、本作は「動機オーライ主義」を戒める点でも重要だ。
 立派なことをするのだから勝ち負けは関係ない――私たちはしばしばそんな考えに囚われはしないだろうか。
 リンカーンは目的達成のためなら策を弄し、まわり道も厭わない。
 かつて測量士だったリンカーンが、方位磁針の話をするシーンがある。
 「方位磁針があれば北は判る。けれども、どこに山や沼があるかは判らない。北を目指しても途中で沼に落ちて沈んでしまったら、真北を知ることに意味はない。」
 真北に向かうことだけが真北に行くことではない。
 スピルバーグ監督も、現代を描くために150年前を舞台にしたのだ。


 本作のその後の顛末は、映画『声をかくす人』で描かれる。
 こちらも、いま観るべき傑作だ。


リンカーン [Blu-ray]リンカーン』  [ら行]
監督・制作/スティーヴン・スピルバーグ  制作/キャスリーン・ケネディ
出演/ダニエル・デイ=ルイス サリー・フィールド トミー・リー・ジョーンズ デヴィッド・ストラザーン ジョセフ・ゴードン=レヴィット ジェームズ・スペイダー ハル・ホルブルック ジョン・ホークス
日本公開/2013年4月19日
ジャンル/[ドラマ] [伝記]
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【theme : アメリカ映画
【genre : 映画

tag : スティーヴン・スピルバーグ ダニエル・デイ=ルイス サリー・フィールド トミー・リー・ジョーンズ デヴィッド・ストラザーン ジョセフ・ゴードン=レヴィット ジェームズ・スペイダー ハル・ホルブルック ジョン・ホークス

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