『オズ はじまりの戦い』が大切にした2つのこと
【ネタバレ注意】
サム・ライミ監督の『オズ はじまりの戦い』は、『オズの魔法使い』への愛情に満ちた、実に楽しいファンタジー映画だ。
本稿では、この作品についてネタバレを辞さずに語る。
『オズ はじまりの戦い』のネタバレというよりも、主に『オズの魔法使い』のネタバレだ。『オズ はじまりの戦い』そのものが『オズの魔法使い』のネタバレなので、これはいかんともしがたいし、『オズの魔法使い』について語れば『オズ はじまりの戦い』のネタバレになる。
1900年に出版された『オズの魔法使い』のことは多くの人が知っていようし、『オズの魔法使い』を知っていればその前日譚たる『オズ はじまりの戦い』のネタは割れているも同然だから、ネタバレ過多もご容赦願いたい。
『オズ はじまりの戦い』は、オズの魔法使いがオズの国にやってきて、国王になったいきさつを描く。『オズの魔法使い』の数十年前のお話だ。
本作は、ライマン・フランク・ボームが著した児童文学のオズ・シリーズをベースにしてはいるものの、それ以上に1939年公開のミュージカル映画『オズの魔法使』を意識している(映画の題名には送り仮名の「い」が付かない)。
ジュディ・ガーランド主演のこの映画は名作の誉れが高いし、劇中歌「虹の彼方に(Over the Rainbow)」は世界中のアーティストにカバーされているから誰もが一度ならず耳にしていることだろう。
本作における『オズの魔法使』へのリスペクトは、映像面で特に顕著だ。白黒の日常から色彩豊かなオズの国へ変化するところ。しかもカラーパートは往年のテクニカラーを思わせる発色で、エメラルド・シティの緑色もケシの花々の赤色も、過剰なまでの鮮やかさだ。絵に描いたようなエメラルド・シティの遠景は、1939年版そのものである。
けれども、1939年版とは違うところもある。
たとえば東の魔女が履いていたルビーの靴は出てこない。西の魔女にはホクロがない。
だが、私はそれで良いと思う。なぜならボームの原作小説には、ルビーの靴なんて出てこないし、魔女にはホクロがないからだ。
本来、東の魔女が履いているのは銀の靴である。ギリシャ神話のアルテミスが銀の馬車に乗っていたように、銀の弾丸が狼男や悪魔を撃退するように、特別な力が宿る靴には銀こそが相応しい。
それがルビーに変えられたのは、まだカラー映画が珍しかった1939年当時、せっかくのカラー映画なのだから銀よりも視覚に訴える色にしようとの考えからだ(1978年の映画『ウィズ』では原作どおり銀の靴)。
1939年版をリスペクトする作り手は、ルビーの靴を出したかったに違いない。
しかし、1939年版『オズの魔法使』の権利は、ワーナー・ブラザーズが有しているのだ。そのため『オズ はじまりの戦い』を制作したディズニーは、パブリックドメインに入っているボームの原作小説ならいくらでも料理できるけれど、1939年の映画で考案された要素は取り入れることができない。
本作の魔女が靴を見せないのは、それがルビーなのか銀なのかを観客の想像に委ねるためだろう。
東の魔女と西の魔女が姉妹という設定も1939年版のオリジナルだ。原作の魔女に血縁関係はない。
でも、本作のスタッフは二人の魔女を姉妹として描きたかった。そこで舞台『ウィキッド』でも見られる西の魔女が姉で東の魔女が妹という解釈は取らず、東の魔女を姉、西の魔女を妹にした。
ディズニーは1939年版を思わせる映画を作りながら、1939年版の特徴的な部分をあえて外すことで、ワーナー・ブラザーズの権利を侵害しないように細心の注意を払っている。
同時に、ケシの花を戦術に活用したり、1939年版では描けなかった「せとものの国」を登場させたりと、オズの世界への深い理解を示していることは、原作ファンに好意的に受け入れられるのではないだろうか。
ディズニーがオズ・シリーズに取り組むのは、本作がはじめてではない。
1985年にも『オズ』(原題『Return to Oz』)を制作している。これは『オズの魔法使』の後日譚だから、前日譚の『オズ はじまりの戦い』と合わせることで、『オズの魔法使』を挟み込む形になる。
ディズニーは自分が権利を持っていない『オズの魔法使』を中核に、勝手に三部作にしているのだ。
なぜディズニーはこれほど『オズの魔法使』にこだわるのだろうか。
それは100年以上もアメリカの子供たちに親しまれた夢と魔法の世界が、ディズニーのコンセプトとドンピシャに重なるからだろう。ディズニーにしてみれば、『オズの魔法使い』の世界は喉から手が出るほど欲しいはずだ。テーマパークにオズのアトラクションを置きたいだろうし、パレードに臆病なライオンやブリキの木こりやかかしを登場させたいだろう。
だったら『オズの魔法使い』を映画化すれば良さそうだが、ディズニーは負け戦はしない。すでに1939年版が映画史に残る名作として人々のあいだに浸透している。これを今から払拭するのは不可能だし、無謀な挑戦は笑い者になるだけだ。
ならば前日譚や後日譚で『オズの魔法使』を包囲して、オズ・シリーズならディズニーという評判を確立したい。
そんな思惑で行動しているのではないだろうか。
まぁ、妄想はともかく、ワーナー・ブラザーズの権利を侵害せずに、1939年版を髣髴とさせる映画にするという難題を、サム・ライミ監督が上手くこなしているのは確かだろう。
そして『オズの魔法使い』のとても大切な部分を、『オズ はじまりの戦い』はきちんと踏襲している。
私が『オズの魔法使い』で好きなのは、(1)オズの魔法使いが単なるペテン師でしかないこと、(2)オズの魔法使いの贈り物がひどくチープなことだ。
ここは説明が必要だろう。
オズの国には東西南北に一人ずつ魔女がおり、善悪に分かれて微妙なバランスを保っている(1939年版の映画では魔女が三人しかいないが)。
そして彼らの上に君臨するのが、エメラルド・シティに住む「オズの魔法使い」である。強大な魔法を操る魔女ですら恐れおののく偉大な魔法使い――その正体が『オズの魔法使い』の面白いところなのだが、ネタバレ覚悟で書いてしまおう、オズの魔法使いの正体はただのお爺さんなのだ。魔法なんて使えない、なんの力もない、たまたまオズの国にたどり着いた平凡な男なのだ。すなわち、『オズ はじまりの戦い』の主人公である。
はじめて『オズの魔法使い』を読んだとき、私はひどく驚いた。そしてとても感心した。
魔法の力で何でもできる魔女ですら、恐怖や思い込みに囚われると、思考が停止して、つまらないものに支配されてしまう。恐ろしい恐ろしいと思っているから恐ろしいのであって、その実態をきちんと探れば、ペテン師ごときに支配されずに済んだはずだ。
『オズの魔法使い』は思い込みに囚われる愚かさを示している。
またこれは、魔法という不思議な力ですら恐るるに足りず、ということでもある。
オズの魔法使いは、トリックを駆使して人々に本物の魔法使いだと思わせていた。魔法を使える魔女ですら、そのトリックに引っかかった。
つまり平凡な人間でも、知恵と工夫を凝らせば魔法をも凌駕できるのだ。
この原作の精神は、『オズ はじまりの戦い』にも受け継がれている。
『オズ はじまりの戦い』は、副題のとおり戦いがクライマックスだが、そこで敵を倒すのは魔法の力でも伝説の剣でもない。農夫や職人たちの知恵と工夫、そしてちょっぴりのこけおどしが功を奏する。
(2)の贈り物とは、ライオンとかかしとブリキの木こりに渡したものだ。
臆病なライオンは勇気が欲しい。藁のかかしは優れた頭脳が欲しい。ブリキの木こりは暖かなハートが欲しい。彼らはそれをオズの魔法使いに所望するのだが、ただの人間である「オズの魔法使い」にそんなものを授ける力はない。
けれども、オズの魔法使いはちゃんとそれらを授けてあげる。
本当は、勇気も頭脳もハートも、はじめから当人たちに備わっているのだ。オズの魔法使いが行うのは、それを自覚させてやることだ。
そのために彼は、実にくだらないものを三人に渡す。たとえばかかしには、脳ミソと称して針やらピンやらを頭に詰めてやる。かかしは頭が鋭くなったと大喜びだ。
ここで渡す物には、何の価値もない。その品物がくだらなければくだらないほど、大切なのは気の持ちようであることが強調される。
この点もまた、『オズ はじまりの戦い』は受け継いでいる。
主人公が仲間たちにプレゼントを贈る場面で、私はくだらないものを期待した。それが品物としてはくだらなければくだらないほど、気持ちでカバーしなければならないからだ。それでこそオズの魔法使いだから。
そして『オズ はじまりの戦い』は、見事に期待に応えてくれた。
加えて、『オズの魔法使い』は何かが足りないダメ男たちの再生物語でもある。
勇気がない、知恵がない、思いやりがない。そう嘆いてしょぼくれていた男たちが、小さな子供と旅するうちに勇気や知恵や思いやりを発揮して立ち直る。それが『オズの魔法使い』なのだ。
『オズ はじまりの戦い』の主人公は、善い心が足りないと感じている。野心家で金に汚いペテン師を自認する彼は、純朴な女性からの求愛に応じる資格すらないと思っている。そんな彼が冒険の果てに、自分にも善い心があるのだと気づくまでを描くのが本作だ。
善い心も、勇気や知恵や思いやりと同様に、他人から貰うものではない。自分で気がつくべきことだ。そこを外さない『オズ はじまりの戦い』は、ちゃんとダメ男の再生物語になっている。
これらの点さえブレなければ、『オズの魔法使い』に連なる作品として申し分ない。
『オズ はじまりの戦い』 [あ行]
監督/サム・ライミ
出演/ジェームズ・フランコ ミラ・クニス レイチェル・ワイズ ミシェル・ウィリアムズ ビル・コッブス トニー・コックス ザック・ブラフ ジョーイ・キング
日本公開/2013年3月8日
ジャンル/[ファンタジー] [アドベンチャー]
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サム・ライミ監督の『オズ はじまりの戦い』は、『オズの魔法使い』への愛情に満ちた、実に楽しいファンタジー映画だ。
本稿では、この作品についてネタバレを辞さずに語る。
『オズ はじまりの戦い』のネタバレというよりも、主に『オズの魔法使い』のネタバレだ。『オズ はじまりの戦い』そのものが『オズの魔法使い』のネタバレなので、これはいかんともしがたいし、『オズの魔法使い』について語れば『オズ はじまりの戦い』のネタバレになる。
1900年に出版された『オズの魔法使い』のことは多くの人が知っていようし、『オズの魔法使い』を知っていればその前日譚たる『オズ はじまりの戦い』のネタは割れているも同然だから、ネタバレ過多もご容赦願いたい。
『オズ はじまりの戦い』は、オズの魔法使いがオズの国にやってきて、国王になったいきさつを描く。『オズの魔法使い』の数十年前のお話だ。
本作は、ライマン・フランク・ボームが著した児童文学のオズ・シリーズをベースにしてはいるものの、それ以上に1939年公開のミュージカル映画『オズの魔法使』を意識している(映画の題名には送り仮名の「い」が付かない)。
ジュディ・ガーランド主演のこの映画は名作の誉れが高いし、劇中歌「虹の彼方に(Over the Rainbow)」は世界中のアーティストにカバーされているから誰もが一度ならず耳にしていることだろう。
本作における『オズの魔法使』へのリスペクトは、映像面で特に顕著だ。白黒の日常から色彩豊かなオズの国へ変化するところ。しかもカラーパートは往年のテクニカラーを思わせる発色で、エメラルド・シティの緑色もケシの花々の赤色も、過剰なまでの鮮やかさだ。絵に描いたようなエメラルド・シティの遠景は、1939年版そのものである。
けれども、1939年版とは違うところもある。
たとえば東の魔女が履いていたルビーの靴は出てこない。西の魔女にはホクロがない。
だが、私はそれで良いと思う。なぜならボームの原作小説には、ルビーの靴なんて出てこないし、魔女にはホクロがないからだ。
本来、東の魔女が履いているのは銀の靴である。ギリシャ神話のアルテミスが銀の馬車に乗っていたように、銀の弾丸が狼男や悪魔を撃退するように、特別な力が宿る靴には銀こそが相応しい。
それがルビーに変えられたのは、まだカラー映画が珍しかった1939年当時、せっかくのカラー映画なのだから銀よりも視覚に訴える色にしようとの考えからだ(1978年の映画『ウィズ』では原作どおり銀の靴)。
1939年版をリスペクトする作り手は、ルビーの靴を出したかったに違いない。
しかし、1939年版『オズの魔法使』の権利は、ワーナー・ブラザーズが有しているのだ。そのため『オズ はじまりの戦い』を制作したディズニーは、パブリックドメインに入っているボームの原作小説ならいくらでも料理できるけれど、1939年の映画で考案された要素は取り入れることができない。
本作の魔女が靴を見せないのは、それがルビーなのか銀なのかを観客の想像に委ねるためだろう。
東の魔女と西の魔女が姉妹という設定も1939年版のオリジナルだ。原作の魔女に血縁関係はない。
でも、本作のスタッフは二人の魔女を姉妹として描きたかった。そこで舞台『ウィキッド』でも見られる西の魔女が姉で東の魔女が妹という解釈は取らず、東の魔女を姉、西の魔女を妹にした。
ディズニーは1939年版を思わせる映画を作りながら、1939年版の特徴的な部分をあえて外すことで、ワーナー・ブラザーズの権利を侵害しないように細心の注意を払っている。
同時に、ケシの花を戦術に活用したり、1939年版では描けなかった「せとものの国」を登場させたりと、オズの世界への深い理解を示していることは、原作ファンに好意的に受け入れられるのではないだろうか。
ディズニーがオズ・シリーズに取り組むのは、本作がはじめてではない。
1985年にも『オズ』(原題『Return to Oz』)を制作している。これは『オズの魔法使』の後日譚だから、前日譚の『オズ はじまりの戦い』と合わせることで、『オズの魔法使』を挟み込む形になる。
ディズニーは自分が権利を持っていない『オズの魔法使』を中核に、勝手に三部作にしているのだ。
なぜディズニーはこれほど『オズの魔法使』にこだわるのだろうか。
それは100年以上もアメリカの子供たちに親しまれた夢と魔法の世界が、ディズニーのコンセプトとドンピシャに重なるからだろう。ディズニーにしてみれば、『オズの魔法使い』の世界は喉から手が出るほど欲しいはずだ。テーマパークにオズのアトラクションを置きたいだろうし、パレードに臆病なライオンやブリキの木こりやかかしを登場させたいだろう。
だったら『オズの魔法使い』を映画化すれば良さそうだが、ディズニーは負け戦はしない。すでに1939年版が映画史に残る名作として人々のあいだに浸透している。これを今から払拭するのは不可能だし、無謀な挑戦は笑い者になるだけだ。
ならば前日譚や後日譚で『オズの魔法使』を包囲して、オズ・シリーズならディズニーという評判を確立したい。
そんな思惑で行動しているのではないだろうか。
まぁ、妄想はともかく、ワーナー・ブラザーズの権利を侵害せずに、1939年版を髣髴とさせる映画にするという難題を、サム・ライミ監督が上手くこなしているのは確かだろう。
そして『オズの魔法使い』のとても大切な部分を、『オズ はじまりの戦い』はきちんと踏襲している。
私が『オズの魔法使い』で好きなのは、(1)オズの魔法使いが単なるペテン師でしかないこと、(2)オズの魔法使いの贈り物がひどくチープなことだ。
ここは説明が必要だろう。
オズの国には東西南北に一人ずつ魔女がおり、善悪に分かれて微妙なバランスを保っている(1939年版の映画では魔女が三人しかいないが)。
そして彼らの上に君臨するのが、エメラルド・シティに住む「オズの魔法使い」である。強大な魔法を操る魔女ですら恐れおののく偉大な魔法使い――その正体が『オズの魔法使い』の面白いところなのだが、ネタバレ覚悟で書いてしまおう、オズの魔法使いの正体はただのお爺さんなのだ。魔法なんて使えない、なんの力もない、たまたまオズの国にたどり着いた平凡な男なのだ。すなわち、『オズ はじまりの戦い』の主人公である。
はじめて『オズの魔法使い』を読んだとき、私はひどく驚いた。そしてとても感心した。
魔法の力で何でもできる魔女ですら、恐怖や思い込みに囚われると、思考が停止して、つまらないものに支配されてしまう。恐ろしい恐ろしいと思っているから恐ろしいのであって、その実態をきちんと探れば、ペテン師ごときに支配されずに済んだはずだ。
『オズの魔法使い』は思い込みに囚われる愚かさを示している。
またこれは、魔法という不思議な力ですら恐るるに足りず、ということでもある。
オズの魔法使いは、トリックを駆使して人々に本物の魔法使いだと思わせていた。魔法を使える魔女ですら、そのトリックに引っかかった。
つまり平凡な人間でも、知恵と工夫を凝らせば魔法をも凌駕できるのだ。
この原作の精神は、『オズ はじまりの戦い』にも受け継がれている。
『オズ はじまりの戦い』は、副題のとおり戦いがクライマックスだが、そこで敵を倒すのは魔法の力でも伝説の剣でもない。農夫や職人たちの知恵と工夫、そしてちょっぴりのこけおどしが功を奏する。
(2)の贈り物とは、ライオンとかかしとブリキの木こりに渡したものだ。
臆病なライオンは勇気が欲しい。藁のかかしは優れた頭脳が欲しい。ブリキの木こりは暖かなハートが欲しい。彼らはそれをオズの魔法使いに所望するのだが、ただの人間である「オズの魔法使い」にそんなものを授ける力はない。
けれども、オズの魔法使いはちゃんとそれらを授けてあげる。
本当は、勇気も頭脳もハートも、はじめから当人たちに備わっているのだ。オズの魔法使いが行うのは、それを自覚させてやることだ。
そのために彼は、実にくだらないものを三人に渡す。たとえばかかしには、脳ミソと称して針やらピンやらを頭に詰めてやる。かかしは頭が鋭くなったと大喜びだ。
ここで渡す物には、何の価値もない。その品物がくだらなければくだらないほど、大切なのは気の持ちようであることが強調される。
この点もまた、『オズ はじまりの戦い』は受け継いでいる。
主人公が仲間たちにプレゼントを贈る場面で、私はくだらないものを期待した。それが品物としてはくだらなければくだらないほど、気持ちでカバーしなければならないからだ。それでこそオズの魔法使いだから。
そして『オズ はじまりの戦い』は、見事に期待に応えてくれた。
加えて、『オズの魔法使い』は何かが足りないダメ男たちの再生物語でもある。
勇気がない、知恵がない、思いやりがない。そう嘆いてしょぼくれていた男たちが、小さな子供と旅するうちに勇気や知恵や思いやりを発揮して立ち直る。それが『オズの魔法使い』なのだ。
『オズ はじまりの戦い』の主人公は、善い心が足りないと感じている。野心家で金に汚いペテン師を自認する彼は、純朴な女性からの求愛に応じる資格すらないと思っている。そんな彼が冒険の果てに、自分にも善い心があるのだと気づくまでを描くのが本作だ。
善い心も、勇気や知恵や思いやりと同様に、他人から貰うものではない。自分で気がつくべきことだ。そこを外さない『オズ はじまりの戦い』は、ちゃんとダメ男の再生物語になっている。
これらの点さえブレなければ、『オズの魔法使い』に連なる作品として申し分ない。
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監督/サム・ライミ
出演/ジェームズ・フランコ ミラ・クニス レイチェル・ワイズ ミシェル・ウィリアムズ ビル・コッブス トニー・コックス ザック・ブラフ ジョーイ・キング
日本公開/2013年3月8日
ジャンル/[ファンタジー] [アドベンチャー]


【theme : ディズニー映画】
【genre : 映画】
tag : サム・ライミジェームズ・フランコミラ・クニスレイチェル・ワイズミシェル・ウィリアムズビル・コッブストニー・コックスザック・ブラフジョーイ・キング