『フランケンウィニー』 ウィニーとは?
天国の手前には、虹の橋があるという。
寿命の短い犬や猫たちは、あなたより先にそこに行く。そしてあなたが来るのをそこでずっと待っている。やがてあなたも虹の橋に行くときが来て、彼らとの再会を果たす。もう二度と離れることはない。そしてあなた方は一緒に虹の橋を渡っていく……。
世界中で知られている詩『虹の橋』はこんな内容だ。ペットと暮らす人であれば、一度は目にしているのではないか。
この詩が世界に広まったのは、それだけ人々がペットを愛し、その死を悼んでるからだろう。
だから犬と暮らした人であれば、『フランケンウィニー』の主人公ヴィクター・フランケンシュタインの気持ちが痛いほど判るはずだ。
大の仲良しである愛犬スパーキーとの幸せな日々。突然訪れたスパーキーの死。ヴィクターの深い悲しみと、なんとしてもスパーキーに会いたいという切ない想い。
公式サイトによれば、本作はティム・バートン監督が個人的に最も作りたかった映画だという。ここには少年時代の愛犬との思い出が込められている。ディズニー所属のアニメーター時代に100万ドルで制作した短編を、28年後に同じディズニーで3900万ドルかけて長編化できたのだから、感慨もひとしおだろう。
そして、ストップモーション・アニメーションで表現されたブルテリアのスパーキーを見れば、ティム・バートン監督が犬に注ぐ愛情の深さがよく判る。スパーキーの表情や細かい仕草、さらにヴィクターへのじゃれつき方は、犬たちが、大好きな飼い主の前で見せるものだ。本作を鑑賞し、自分の愛犬を思い出した観客も多いだろう。
その愛の深さが、メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』(1818年)の青年科学者ヴィクター・フランケンシュタインと、本作のヴィクター少年の違いでもある。
人造人間を創造したヴィクター青年に、創造物への愛情はない。科学的野心から人間を創った彼は、その醜い出来上がりを忌み嫌い、しまいには悲劇を招く。
だが、ヴィクター少年は溢れる愛をもってスパーキーを復活させる。復活したスパーキーは縫合跡も痛々しく、とても可愛らしいとはいえないのだが、ヴィクター少年は生前と変わらず愛を注ぎ続ける。
ヴィクター少年を指導する科学の先生ジクルスキは、まさにこのことを指摘する。ヴィクターはスパーキーを復活させたものの、金魚の復活には失敗した。その成否を分けたのが、愛情の有無であるとジクルスキ先生は云うのだ。
「科学は善くも悪くもない。どちらにも使うことができる。」
ジクルスキ先生のこのセリフが、本作の肝である。
科学展での優勝を目指して死体の復活を競う子供たちは、その野心のために街を危機に陥れる。一方、科学を恐れるばかりで理解しない大人たちは、無邪気なスパーキーを怪物呼ばわりして狩り立てる。
観客は、子供たちの思慮の浅さに不安を覚えるだろう。同時に、大人たちの愚かさに呆れ、その無理解を残念に思うだろう。
だが、現実に未知の事象に出くわしたとき、私たちは劇中の大人と同じようにただ批難し、排除していないだろうか。しかるべき配慮の上で行動させようとするのではなく、行動そのものを制止していないだろうか。
劇中、ジクルスキ先生は、問題の原因が大人たちの無知と無教養にあると演説する。無知のために科学を恐れ、その恐れが出来事への理解を妨げている。
ジクルスキ先生は大人たちを前に「あなたがたを変えるにはもう遅い」と述べ、次代を担う子供に期待を託そうとするのだが、残念ながら先生は真実を云い当てられた大人たちに追い出されてしまう。
映画は、話の流れを自然に見せるため、ジクルスキを恐ろしい変人のように描く。そのため彼が追い出されるのは当然のように感じられるが、彼の言葉は(過激だけれど)間違っていない。真実を突いた言葉は、しばしば私たちにとって耳障りなのだ。
そして、意見を同じくする者ばかりで集まってエスカレートした結果が、本作でのスパーキー狩りである。
人々の無知は、スパーキーの些細な行為を大きな災厄のように感じさせてしまうのだ。
さて、本作の題名『フランケンウィニー』(原題:Frankenweenie)を日本語にすれば、「フランケンおたく」とでもなろうか。
フランケンおたくと呼ばれるべきは、死体の復活を競う子供たちよりも、第一にティム・バートン監督だろうが、本作は監督が「少年と愛犬の物語と、『フランケンシュタインの館』的な要素を融合」させたというだけあって、『フランケンシュタインの館』に登場する5大キャラクター、すなわちキチガイ博士(本作ではヴィクター少年)とドラキュラ伯爵(本作では猫と蝙蝠の合体モンスター)と狼男(本作ではネズミ怪人)とせむし男(本作ではヴィクターの同級生)とフランケンシュタイン(本作ではスパーキー)が勢揃いする。
加えて、クリストファー・リー演じるドラキュラが映し出されたり、少年に布が巻きついてミイラ男のようになったりと、往年のモンスター映画へのオマージュに溢れた作品になっている。
とりわけ日本の映画ファンに嬉しいのは、ガメラの登場だろう。他でもない『フランケンシュタイン』の原作者と同じシェリーという名のカメが、巨大化して大暴れするのは愉快である。
思えば、ゴジラが水爆の影響で怪物化した恐竜であり、科学の被害者として振る舞うのに対し、ウランを常食とするガメラは原爆のエネルギーすら食ってしまい、人間の科学なんぞ怖がらない。
それはあたかも、『フランケンシュタイン』の悲劇性に対する、本作のポジティブさを象徴するかのようだ。
『フランケンウィニー』 [は行]
監督・制作・原案/ティム・バートン
出演/キャサリン・オハラ マーティン・ショート マーティン・ランドー ウィノナ・ライダー チャーリー・ターハン アッティカス・シェイファー
日本公開/2012年12月15日
ジャンル/[ファンタジー] [犬]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
寿命の短い犬や猫たちは、あなたより先にそこに行く。そしてあなたが来るのをそこでずっと待っている。やがてあなたも虹の橋に行くときが来て、彼らとの再会を果たす。もう二度と離れることはない。そしてあなた方は一緒に虹の橋を渡っていく……。
世界中で知られている詩『虹の橋』はこんな内容だ。ペットと暮らす人であれば、一度は目にしているのではないか。
この詩が世界に広まったのは、それだけ人々がペットを愛し、その死を悼んでるからだろう。
だから犬と暮らした人であれば、『フランケンウィニー』の主人公ヴィクター・フランケンシュタインの気持ちが痛いほど判るはずだ。
大の仲良しである愛犬スパーキーとの幸せな日々。突然訪れたスパーキーの死。ヴィクターの深い悲しみと、なんとしてもスパーキーに会いたいという切ない想い。
公式サイトによれば、本作はティム・バートン監督が個人的に最も作りたかった映画だという。ここには少年時代の愛犬との思い出が込められている。ディズニー所属のアニメーター時代に100万ドルで制作した短編を、28年後に同じディズニーで3900万ドルかけて長編化できたのだから、感慨もひとしおだろう。
そして、ストップモーション・アニメーションで表現されたブルテリアのスパーキーを見れば、ティム・バートン監督が犬に注ぐ愛情の深さがよく判る。スパーキーの表情や細かい仕草、さらにヴィクターへのじゃれつき方は、犬たちが、大好きな飼い主の前で見せるものだ。本作を鑑賞し、自分の愛犬を思い出した観客も多いだろう。
その愛の深さが、メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』(1818年)の青年科学者ヴィクター・フランケンシュタインと、本作のヴィクター少年の違いでもある。
人造人間を創造したヴィクター青年に、創造物への愛情はない。科学的野心から人間を創った彼は、その醜い出来上がりを忌み嫌い、しまいには悲劇を招く。
だが、ヴィクター少年は溢れる愛をもってスパーキーを復活させる。復活したスパーキーは縫合跡も痛々しく、とても可愛らしいとはいえないのだが、ヴィクター少年は生前と変わらず愛を注ぎ続ける。
ヴィクター少年を指導する科学の先生ジクルスキは、まさにこのことを指摘する。ヴィクターはスパーキーを復活させたものの、金魚の復活には失敗した。その成否を分けたのが、愛情の有無であるとジクルスキ先生は云うのだ。
「科学は善くも悪くもない。どちらにも使うことができる。」
ジクルスキ先生のこのセリフが、本作の肝である。
科学展での優勝を目指して死体の復活を競う子供たちは、その野心のために街を危機に陥れる。一方、科学を恐れるばかりで理解しない大人たちは、無邪気なスパーキーを怪物呼ばわりして狩り立てる。
観客は、子供たちの思慮の浅さに不安を覚えるだろう。同時に、大人たちの愚かさに呆れ、その無理解を残念に思うだろう。
だが、現実に未知の事象に出くわしたとき、私たちは劇中の大人と同じようにただ批難し、排除していないだろうか。しかるべき配慮の上で行動させようとするのではなく、行動そのものを制止していないだろうか。
劇中、ジクルスキ先生は、問題の原因が大人たちの無知と無教養にあると演説する。無知のために科学を恐れ、その恐れが出来事への理解を妨げている。
ジクルスキ先生は大人たちを前に「あなたがたを変えるにはもう遅い」と述べ、次代を担う子供に期待を託そうとするのだが、残念ながら先生は真実を云い当てられた大人たちに追い出されてしまう。
映画は、話の流れを自然に見せるため、ジクルスキを恐ろしい変人のように描く。そのため彼が追い出されるのは当然のように感じられるが、彼の言葉は(過激だけれど)間違っていない。真実を突いた言葉は、しばしば私たちにとって耳障りなのだ。
そして、意見を同じくする者ばかりで集まってエスカレートした結果が、本作でのスパーキー狩りである。
人々の無知は、スパーキーの些細な行為を大きな災厄のように感じさせてしまうのだ。
さて、本作の題名『フランケンウィニー』(原題:Frankenweenie)を日本語にすれば、「フランケンおたく」とでもなろうか。
フランケンおたくと呼ばれるべきは、死体の復活を競う子供たちよりも、第一にティム・バートン監督だろうが、本作は監督が「少年と愛犬の物語と、『フランケンシュタインの館』的な要素を融合」させたというだけあって、『フランケンシュタインの館』に登場する5大キャラクター、すなわちキチガイ博士(本作ではヴィクター少年)とドラキュラ伯爵(本作では猫と蝙蝠の合体モンスター)と狼男(本作ではネズミ怪人)とせむし男(本作ではヴィクターの同級生)とフランケンシュタイン(本作ではスパーキー)が勢揃いする。
加えて、クリストファー・リー演じるドラキュラが映し出されたり、少年に布が巻きついてミイラ男のようになったりと、往年のモンスター映画へのオマージュに溢れた作品になっている。
とりわけ日本の映画ファンに嬉しいのは、ガメラの登場だろう。他でもない『フランケンシュタイン』の原作者と同じシェリーという名のカメが、巨大化して大暴れするのは愉快である。
思えば、ゴジラが水爆の影響で怪物化した恐竜であり、科学の被害者として振る舞うのに対し、ウランを常食とするガメラは原爆のエネルギーすら食ってしまい、人間の科学なんぞ怖がらない。
それはあたかも、『フランケンシュタイン』の悲劇性に対する、本作のポジティブさを象徴するかのようだ。
![フランケンウィニー 3Dスーパー・セット(3枚組/デジタルコピー付き) [Blu-ray]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51CkxVCJzfL._SL160_.jpg)
監督・制作・原案/ティム・バートン
出演/キャサリン・オハラ マーティン・ショート マーティン・ランドー ウィノナ・ライダー チャーリー・ターハン アッティカス・シェイファー
日本公開/2012年12月15日
ジャンル/[ファンタジー] [犬]


【theme : ディズニー映画】
【genre : 映画】
tag : ティム・バートンキャサリン・オハラマーティン・ショートマーティン・ランドーウィノナ・ライダーチャーリー・ターハンアッティカス・シェイファー