『闇金ウシジマくん ザ・ファイナル』 復活の予告

『闇金ウシジマくん』シリーズを貫くテーマの一つは「信用」だ。テレビドラマのSeason1とSeason2、そして映画のPart1とPart2のいずれも、お金のやりとりを通して目には見えない「信用」を描いていた(詳しくは「『闇金ウシジマくん』は現代の仕事人だ!」「『闇金ウシジマくん Part2』 正義とは悪だった!」参照)。
2016年の『闇金ウシジマくん』シリーズの連打は、それを一層強調するものだ。
2016年7月17日からはじまったテレビドラマのSeason3は、他人を信用したばっかりに家族ぐるみで洗脳され、殺人までさせられる人々を描いた。原作者の真鍋昌平氏さえも「テレビドラマでやるんですか?」と尋ねるほどハードな展開だった(それでも現実に起きた北九州・連続監禁殺人事件に比べれば、かなり抑えた描写ではある)。
2016年9月22日公開の映画Part3では、情報商材という中身のないものを売るビジネスを題材に、人は信用すれば何にでも金を出すこと、けれども中身がなければ信用は維持できないことを描いた。
闇金融を営むウシジマくんは信用の権化である。どこまで信用できるか相手を値踏みし、信用に応じて金を渡す。債務者が約束どおり金を返せばよし、もしも返せなければどこまでも追いかけて鉄の制裁を加える。信用に応えたかどうかだけで判断するウシジマくんにブレはない。
闇金を利用する人間も、金を借りることで「自分の信用はゼロじゃない、社会と繋がっている」と感じるのだろう。ウシジマくんのモデルになった闇金業経験者トキタセイジ氏(偽名)は、闇金利用者をこう評している。
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今回の本(引用者註「『闇金ウシジマくん』モデルが語る 路地裏拝金エレジー」)では、客のことをクズだなんだとあえて辛辣(しんらつ)に書いているけど、彼らは別に落ちた存在じゃない。彼らなりに精いっぱい生きている。だから、"こんな自分にもまだ金を貸してくれるところがある"という、安心感を覚えて帰るヤツが多いよね。
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ところが2016年10月22日に公開された『ザ・ファイナル』では、ウシジマくんの前に信用とは別の概念が立ちはだかった。「善意」である。善意の塊の幼馴染・竹本が登場し、ウシジマくんに信用だけで判断することの是非を問うのだ。
竹本は他人の幸福を願っており、そのために自分が犠牲になることを厭わない。そんな竹本から見れば、貧困のどん底にある人から容赦なく金を取り立てるウシジマくんは強欲な存在だ。
竹本とウシジマくんの考えは天と地とも離れている。だが、実はウシジマくんとて、そんな竹本がいてくれたから救われた過去がある。
幼馴染というより、因縁の対決をするのが鰐戸(がくと)三兄弟だ。
竹本と同じくウシジマくんの中学時代からの知り合いだが、彼らは竹本とは反対に人間の悪意を象徴している。他人を支配し、搾取するのが彼らのやり方であり、そのために誰をどれだけ傷つけようが気にしない。
『ザ・ファイナル』は、竹本と鰐戸三兄弟という究極の善意と悪意を登場させて、彼らとウシジマくんを対決させることで、ウシジマくんが象徴する「信用」の意味を問う映画なのだ。

一般的に、「信用」は「善」に近いところで語られることが多いと思う。しかし、ウシジマくんの商売は違法であり、そのむごい取り立てや債務者の人生を破壊する行為は善からはほど遠く感じる。
そこで本作は、極め付けの善と対比することで信用の何たるかを浮き彫りにする。同時に、徹底した悪との比較によって、ウシジマくんの行為がどれほど悪いか/悪くないかを明らかにする。
そして人の世に必要なのは善なのか信用なのか、私たちはどうあるべきかを問いかける。シリーズの掉尾を飾るに相応しい重厚なテーマである。
善意だけで行動する竹本は素晴らしい人間だ。彼は困った人を放っておけない。他人の暮らしを良くするために、誰もが恐れる鰐戸やウシジマくんを相手に臆することなく真摯に掛け合う。
ところが彼には、他人に与えるものが何もない。惜しみなく施しを与えようとする竹本だが、彼自身は無一文であり、金を持ってる鰐戸三兄弟に他者への便宜を図るよう頼み込むことしかできない。
鰐戸三兄弟は、暴力の恐怖と甘い誘惑で人々を隷属させている。他人の痛みも苦しみも意に介さない邪悪な連中だが、注目すべきは彼らが大勢の人間を食わせていることだ。
宿泊施設「誠愛の家」を運営する彼らは、そこに何十人も住まわせ、違法な労働に従事させてその上がりをせしめている。貧困者を利用する卑劣な行為だが、社会に居場所がない人間はそこにいればまがりなりにも寝床と食事にありつける。正論を吐く竹本には誰も味方しないのに、鰐戸三兄弟の命令にはみんな黙って従っている。
ここに善意の限界と、悪を排除できないジレンマがある。
いや、美しい正論を口にしながら何も与えられない竹本は、本当に善なのか。
恐怖と誘惑で支配しつつ、衣食住を確保してやれる鰐戸三兄弟は、本当に悪なのか。
善と悪とを隔てるものが本当にあるのだろうか。

力とは暴力ばかりではない。中国の古典に「経世済民」という言葉がある。世を治め、民を救済することを意味し、略して経済という。民を救済する力とは、すなわち経済力であろう。
竹本はウシジマくんを強欲と非難し、考えを改めるように説得を試みる。金を豊富に持つウシジマくんに、貧しい人に少し与えてやれと云う。
だが、ウシジマくんが取り立ての手綱を緩めたり、金をくれてやったりしたらどうなるだろうか。ウシジマくん一人の金で世界中の人を豊かにすることはできない。ウシジマくんの資金は雲散霧消し、早晩ウシジマくんは一文なしになるだろう。
劇中に説明はなくても、竹本がホームレスに転落し、「誠愛の家」に身を寄せる破目になったのは、彼が持てるすべてを他者に与えてしまったからであることは容易に察せられる。「誠愛の家」で働かされる彼はあまりにも無力だ。
実際には、ウシジマくんとて債務者の一人に過ぎない。
ウシジマくんに金があるように見えるのは、彼が金主から高利で借りているからだ。ウシジマくんは金の一部を他者に貸し、発生した利息を回収する。そこからさらに金主へ多額の利息を返済する。ウシジマくんは金が循環するルートの結節点の一つなのだ。金はいったんそこに集まるが、すぐにまた流れ出ていく。止まらずに流れ続けるからこそ、流れを分岐させて困窮する人に金を渡すこともできる(ウシジマくんと金主の関係については、テレビドラマのSeason1で描かれている)。
だから、ウシジマくんは金の循環を止められない。流れが止まったら、生態系の生物は死に絶える。金を与えるのは一方向に金を動かすだけで循環にならないから、やがて上流も下流も食い詰める。竹本がホームレスにならざるを得なかったように。
無慈悲に取り立てるウシジマくんを非難する竹本に、ウシジマくんの返す言葉が問題の難しさを表している。
「お前は金を借りる側だからそう云うんだ。金を貸すほうになってみろ。」
本作は第一級のエンターテイメントであり、金を巡る対立や三つ巴、四つ巴の戦い等々、見どころにはこと欠かない。カタルシスも存分に味わわせてくれる。
だが、安易な結論は示さない。


しかし、ここにこそ本作の真髄がある。
金の循環を通して、社会の信用を維持するウシジマくんは、金の流れを寸断し、混沌とさせる竹本の善意を容認できない。《力=経済力》の裏打ちのない善意の持ち主は、一介の債務者でしかない。
だが、竹本は労働仲間全員分の借金を一人で背負いながらも、いずれ社会に戻ってくることを予告する。誰も竹本を助けないというのに。生きては出られないという施設に送られてしまうのに。
これはまさにイエス・キリストの生涯と同じである。
イエスは人々に悔い改めること、他者を愛することを説いた。けれども弟子の一人に裏切られ、イエスの教えに耳を貸さない連中に引き渡される。弟子たちはイエスを見放し、逃げ出してしまう。誰も庇ってくれない中、イエスはすべての人の罪を背負って十字架にかけられ、処刑される。だが、イエスは自分の死と復活を予告していた。その言葉どおり、墓に埋葬されたイエスは三日後に復活し、弟子たちの前に現れる。逃げていた弟子たちは心打たれ、イエスの教えを広めるために奔走するようになる。
労働施設行きを前にしても、やがて社会に舞い戻ると力強く予告する竹本の姿は、引き渡し直前のイエス・キリストに重なって見える。
竹本がイエスだとすれば、かけがえのない友人を労働施設送りにするウシジマくんは、弟子たちの中で会計を担当し、金と引き換えにイエスを売ったユダに相当しよう。
イスカリオテのユダは裏切り者だが、イエスはユダが裏切ることも予告していた。イエスの予告どおりユダが裏切ったからこそ、イエスの死と復活が生じ、人々の中でイエスへの信仰が高まった。彼の裏切りは避けて通れないプロセスだったに違いない。
だから竹本とウシジマくんも、今はこうなるしかないのかもしれない。信用を「金」という形で実体化させ、それを循環させることで維持された社会では、こうせざるを得なかったのかもしれない。
しかし、いつか竹本が再び姿を現すとき、何かが変わるかもしれない。
逃げ出した労働者仲間の心に、何かが生じるかもしれない。
そこから、世界は変わっていくかもしれない。
余韻に満ちた本作のラストは、そんな思いを抱かせる。

監督・企画・プロデュース・脚本/山口雅俊 脚本/福間正浩
出演/山田孝之 綾野剛 永山絢斗 崎本大海 やべきょうすけ 安藤政信 間宮祥太朗 八嶋智人 真野恵里菜 太賀 モロ師岡 真飛聖 高橋メアリージュン マキタスポーツ 最上もが 狩野見恭兵 玉城ティナ YOUNG DAIS
日本公開/2016年10月22日
ジャンル/[ドラマ]

『闇金ウシジマくん Part2』 正義とは悪だった!

前作の映画『闇金ウシジマくん』では、劇場版らしい華が必要だと判断されたのか、大掛かりなイベントやウシジマくんのアクションが盛り込まれて少々派手過ぎな気がしたけれど、『闇金ウシジマくん Part2』はテレビシリーズのSeason1やSeason2のノリに近く、ウシジマくんらしさに満ちている。
闇金融は犯罪だ。このことは劇場版でもテレビシリーズでも幾度となくテロップで強調され、観客及び視聴者がウシジマくんをヒーロー視しないように配慮されている。
だが本シリーズでは、凶悪な闇金業者ウシジマくんの無慈悲な取り立てが、ダメな債務者を地獄へ叩き落とす正義の鉄槌に見えるところがミソである。
それはウシジマくんの行動が、一般的なビジネスの約束事と共通しているからだ。
金の流れを見れば判りやすい。
ウシジマくんが債務者に金を渡し、債務者は10日で5割の利息を持ってくる。利息の支払いが遅れれば、ウシジマくんに延滞料を取り立てられる。
これは、顧客が事業者に金を前払いし、事業者が納期までに商品を納める(あるいはサービスを提供する)のと同じようなものだ。期日に遅れれば顧客に怒られるし、違約金を取られても文句は云えない。
契約で定めた納期に間に合わせるのは、いかなるビジネスでも当然のことだ。
そこに納得できるから、そしてしばしば期日に商品が届かずに不快な思いをすることがあるから、観客はウシジマくんの無茶な取り立てを痛快に感じてしまう。
10日で5割なんて利息を課すのは現行法に違反するので、ウシジマくんは犯罪者だが、そもそも約束を守らない債務者が腐っているのだ。
しかし、ウシジマくんは怖い。
なぜなら、彼には情けがないからだ。
人間誰しも自分が可愛い。身内も可愛いし、好きな人と嫌いな人では接し方が異なりもする。
しかも、人間には本能として利他心が備わっている。困っている人を見れば助けずにはいられないし、親切な人には自分も親切にしたくなる。そういう情の通った人間関係を心地好く感じるのだ。
ウシジマくんにはそれがない。人間なら備わっている感情がない。やり遂げたい目標もなければ、ドロドロした欲望もない。彼がやっているのは、10日で5割というルールを他人に守らせることだけだ。
マンガ家のとり・みき氏が「あまり契約がしっかりしてくると、僕とかは真っ先に〆切の件で契約不履行と言われる怖れがある」と云うように、誰でも人付き合いの中で多少の融通は利かせて欲しいものだ。立場が逆であれば、できることなら少しぐらいは待ってあげたいと思う。そうやって少しずつ融通し合い、許し合うことで、人間関係は円滑になると思う。
少しの融通も利かせずに無理矢理取り立てるのは、薄情な気がする。
だが、融通を利かせたことで円滑になるのは、目の前の人との、その場での関係だけだ。
マンガ家が〆切に遅れても雑誌の発行日は変えられないから、遅れのしわ寄せは誰かに行く。本来しなくて良いはずの残業で吸収するとか、そのために前から予定していたデートをキャンセルするとか、余計な残業代がかかるといった形で、誰かが迷惑を被る。その誰かからすれば、必ず期日までに取り立ててくれる者がいればありがたいはずだ。その人にとってはヒーローだろう。
ウシジマくんの無慈悲な取り立てが正義の鉄槌に見えるのは、ウシジマくんが約束を守らせることに徹しているからだ。約束を守らない腐った債務者を野放しにしないことは、ある種の正義ではないだろうか。
現実にはウシジマくんのような人間はなかなかいるまい。身内でも他人でも分け隔てなく冷徹に接するなんてことは、サイコパスでもなければできない。
山口雅俊監督がウシジマくんのことを「絶対にブレない壁」と表現するように、ウシジマくんは人間のいい加減さや甘えが通用しない状況が人の形になったものだ。だから山口監督は、本作を「怪獣映画」と呼ぶ。
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作品の構造としては、ウシジマ君は今の時代の金融モノ最前線という感じで、例えるなら「怪獣映画」。
ウシジマが演じているのは絶対的な“状況(怪獣)”で、あくまでドラマがあるのは“金に踊らされる債務者(人間)”という作品かな。
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たしかにこれは怪獣映画だ。
人間は感情的な生き物で、意見を簡単に翻す。
それに対して、感情でブレることなく、ルールを守らせるだけのウシジマくんは、人間を超越している。
ウシジマくんの位置付けがより明確になるのが、映画のオリジナルキャラクター、柳楽優弥さん演じるストーカーのエピソードだ。彼は窪田正孝さん演じるホストを襲撃するが、ウシジマくんに邪魔される。危うく殺されるところだったホストは、ウシジマくんのおかげで命拾いする。
山口監督がストーカーを登場させたのは、ウシジマの意図しないところで結果的に命を救う人を描きたかったからだという。
このシーンだけを取り上げれば、ウシジマくんが善いことをしたようにも見える。だが、ウシジマくんはホストを救おうとしたわけではない。そこにいる人間から利息を取り立てるのに、ストーカーが邪魔だから単に排除しただけだ。
このエピソードは、ウシジマくんが人間を超越し、善悪の彼岸に立っていることを象徴している。怪獣がたまたま悪人を踏み潰しても、怪獣に悪人を懲らしめる意思があったと考えるのは早計だ。通り過ぎる台風に向かって、恵みの雨をありがとうと感謝するか、被害がひどいと嘆くかは、人間側の事情にすぎない。
山口監督がウシジマ役の山田孝之さんに「ウシジマは本当に悪なので、状況をきちんと演じてください」と話したのも、思いやりとか情け心といった、一般的に善とされる人間らしさを排除するためだろう。人間を超越したウシジマを演じるには、人間性をにじませてはいけないのだ。それを一言で表せば、「悪」という言葉になるのだろう。
感情豊かで思いやりや情け心に富んだ人は、周囲から好感を持たれるに違いない。そんな人と一緒にいるのは楽しい。そうした価値観からすれば、情け容赦ないウシジマくんは悪の権化だ。
けれども、その場しのぎの云い訳や逃げ口上を許さず、ルールの厳守を求めるウシジマくんは、別の面から見れば正義の使者かもしれない。
はたして、ウシジマくんは正義か悪か。あなたの目にはどう映るだろうか。
[追記]
Part2で描かれるカウカウファイナンスの危機管理態勢も見どころだ。
ウシジマくんは、状況がはっきりしない中で行動するリスクと、はっきりするまで待ち続けて手遅れになるリスクを評価し、即座に対応する。その迅速な決断と、カウカウファイナンスのメンバーへの行動計画の徹底ぶりは、ビジネスパーソンのお手本となろう。

監督・企画・プロデュース・脚本/山口雅俊 脚本/福間正浩
出演/山田孝之 綾野剛 菅田将暉 中尾明慶 窪田正孝 門脇麦 柳楽優弥 崎本大海 やべきょうすけ 木南晴夏 高橋メアリージュン 希崎ジェシカ バカリズム 大久保佳代子 キムラ緑子 マキタスポーツ 本仮屋ユイカ 光石研
日本公開/2014年5月16日
ジャンル/[ドラマ]

『闇金ウシジマくん』は現代の仕事人だ!
『闇金ウシジマくん』の映画版は、テレビシリーズのような手加減はしておらず、情け容赦がない。
テレビドラマでは、違法な闇金業者を主人公にして厳しい借金の取り立てを描くことに、眉をひそめる視聴者がいると配慮したのだろう。片瀬那奈さん演じる大久保千秋なるオリジナルのキャラクターが登場し、丑嶋(うしじま)率いるカウカウファイナンスの社員の身でありながら、その業態を疑問視した。千秋は、作品と視聴者との緩衝材の役割を果たしたのだ。
しかし映画となれば、そんな温い配慮は必要ない。
大久保千秋はすでにカウカウファイナンスを退職しており、残った社員は一丸となって闇金融に精を出している。
『闇金ウシジマくん』の面白さは、なんといってもその徹底した取り立てである。
返済額が足りなければ、たとえ1000円でも容赦はしない。債務者に部屋中の小銭をかき集めさせ、まだ足りなければ隣近所や道行く人に土下座させてでも1000円ばかしを持って来させる。
この映画を観ながら、私は闇金融とはまったく関係のないSFを思い出していた。私たちの住む世界が、まるでSF小説の中のようだと感じたからだ。
E・E・スミスが著したレンズマンシリーズは、SF小説の金字塔としてつとに有名だ。E・E・スミスは奔放なイマジネーションを駆使してはるかな未来の遠い宇宙の物語を描いており、その空想の翼は通貨にも及んでいる。
それがcredit――小隅黎氏の訳では「クレジット」、小西宏氏の訳では「信用単位」と表記される通貨だ。現代日本の丑嶋が取り立てるカネは円単位だが、レンズマンシリーズでは「クレジット」単位で通貨が流通している。
通貨の単位が「クレジット」と云われても、すぐにはピンと来ないだろう。しかし、これはレンズマンシリーズが執筆された時代背景を考えてみればよく判る。
E・E・スミスが長い準備期間を経てレンズマンシリーズの第一作『銀河パトロール隊』を発表したのは1937年だ。1929年にはじまった世界恐慌のために各国の経済が大揺れに揺れ、第二次世界大戦が近づいていた頃である。
世界恐慌で大きな影響を受けたものの一つに、金本位制がある。
かつては高価な貨幣として金貨が使われていたけれど、市場に流通する貨幣をまかないきるだけの金貨を鋳造するには、莫大な金塊が必要になる。そこで各国は、金そのものを貨幣にして流通させるのではなく、金と交換可能な印刷物を作り、これを貨幣の代わりに流通させた。すなわち紙幣(兌換紙幣)である。紙幣に「1000円」と書かれていれば、1000円分の金貨と交換できるのだ。
このように金に裏付けられた貨幣制度が金本位制だ。
だが、世界恐慌の荒波を受けると、金の有無とは関係なしに通貨を発行する国が現れた。1931年にイギリスが金本位制を放棄したのを皮切りに、金本位制を放棄する国が相次いだのである。
この様子を見ていたE・E・スミスは、全世界で、金がなくても通貨が成り立つ未来を思い描いた。その通貨が「クレジット」である。
こんにち、クレジットと云われればクレジットカードによる買い物を思い浮かべる人が多いだろう。つまり信用販売だ。
E・E・スミスの空想もそれに近い。その未来社会では、紙に「1000クレジット」と書かれていれば、金と交換できない紙切れでも1000クレジット分の物を買うことができる。紙はあくまで紙でしかないのに、人々は書かれた数字どおりの価値があると信用して、品物を渡してしまうのだ。これがE・E・スミスの空想した未来の買い物だ。
ところが、私たちはすでにそんな世界を実現している。
金本位制は1971年に完全に停止され、私たちは金額を印刷した紙切れを貨幣として使っている。紙に「1000円」と印刷してあれば、その紙には1000円分の価値があるという「お約束」になっている。それどころかおサイフケータイに代表されるように、私たちは紙がなくてもICチップやコンピュータ間を行き来する数値データだけで買い物ができるようになった。
人々は、目に見えて手で触れる金貨がなくても、紙やコンピュータ上の数字の価値を信じることにしたのだ。E・E・スミスは、金がないのに紙上の数字を信用する世界は遠い未来のことと夢想したが、私たちはそれを20世紀中に実現した。
そもそも貨幣の最古の形態は、借金の証文だったという。それは「信用している」とか「恩がある」という人間関係を示していたのだ。
証文があるなら、そこに書かれたものを返す約束が存在している。証文を突きつければ、そこに書かれたものは手元に戻ってくるはずだ。約束を守る、約束を信用するというお互いの信頼関係がなければ、貸し借りは成立しない。
E・E・スミスが未来の通貨の単位を「クレジット」にしたのも、このような思いがあったからだろう。creditという語には、「信用」「信頼」「名誉」「名声」等の意味がある。
貸したものを返さなければ、信用は失墜し、名誉は損なわれる。
これらを考えれば、丑嶋が金額にかかわらず借金を厳しく取り立てる理由が判るだろう。
彼はカネを集めようとしているのではない。貸し借りの本質に立ち返り、約束を守らせることで人と人との「信用」を維持しようとしているのだ。
彼が課す金利は出資法の上限を越えている。だから彼のビジネスは現行法の下では違法であり、闇金融と呼ばれてしまう。
しかし本作を見ればお判りのとおり、彼は至って紳士的だ。カネを貸す前にきちんと金利を説明するし、はじめての客には10万円しか貸さずに返済能力を確かめる。返せそうもない人間に無理に貸し付けて、後から引っぱがすわけではない。
だからカウカウファイナンスからカネを借りるのは、借り手も合意の上である。お互いを信頼し、期日と返済条件について約束を取り交わすのだ。
約束を守っている限り、丑嶋は手荒なことはしない。だが、ひとたび「信用」を裏切れば、丑嶋は容赦ない。
とりわけ彼の取り立てで面白いのは、債務者から知人に連絡を入れさせることだ。取り立ての場に同席した者や、近所の住人や、電話の繋がる友人知人に連絡させて、返済金を用立てさせる。ここでのポイントは、全額が揃わなくて一部だけの回収にとどまっても、勘弁してやることだ。
これは丑嶋の目的がカネの回収ではなく、「信用」を見ることにあるからだ。
カウカウファイナンスに借金しにくる者は、もうすべての知人からカネを借りまくり、踏み倒しまくって、にっちもさっちもいかなくなった人間なのだ。それでも少しでも用立てようとする者が現れるなら、その債務者はまだ信用を完全に失ってはいない。信頼で結ばれた者がいるのなら、その債務者を制裁するには及ばない。
けれども、誰も債務者に手を差し伸べようとしないなら、債務者は周りのすべての信用を踏みにじった人間ということだ。人と人との信頼がなくてもいいと思っている人間なのだ。
裏稼業の人間が、人の世の「信用」を裏切る者を制裁する物語――それは現代の必殺仕事人と呼んでも良かろう。
カウカウファイナンスのメンバーが債務者をとっちめるシーンが痛快なのは、必殺仕事人の仕事に通じるものがあるからだ。
もしも無人島に流れついた二人の人間が、最後の食料を奪い合っているとしたら、カネを積んでも食料を手に入れることはできないだろう。
カネを払えばものが買える世界――それは信用が保たれた、平和な世界なのである。
『闇金ウシジマくん』 [や行]
監督・企画・プロデュース・脚本/山口雅俊 脚本/福間正浩
出演/山田孝之 大島優子 林遣都 崎本大海 やべきょうすけ 片瀬那奈 新井浩文 黒沢あすか 市原隼人 岡田義徳 ムロツヨシ 鈴之助 金田明夫 希崎ジェシカ 内田春菊
日本公開/2012年8月25日
ジャンル/[ドラマ]
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テレビドラマでは、違法な闇金業者を主人公にして厳しい借金の取り立てを描くことに、眉をひそめる視聴者がいると配慮したのだろう。片瀬那奈さん演じる大久保千秋なるオリジナルのキャラクターが登場し、丑嶋(うしじま)率いるカウカウファイナンスの社員の身でありながら、その業態を疑問視した。千秋は、作品と視聴者との緩衝材の役割を果たしたのだ。
しかし映画となれば、そんな温い配慮は必要ない。
大久保千秋はすでにカウカウファイナンスを退職しており、残った社員は一丸となって闇金融に精を出している。
『闇金ウシジマくん』の面白さは、なんといってもその徹底した取り立てである。
返済額が足りなければ、たとえ1000円でも容赦はしない。債務者に部屋中の小銭をかき集めさせ、まだ足りなければ隣近所や道行く人に土下座させてでも1000円ばかしを持って来させる。
この映画を観ながら、私は闇金融とはまったく関係のないSFを思い出していた。私たちの住む世界が、まるでSF小説の中のようだと感じたからだ。
E・E・スミスが著したレンズマンシリーズは、SF小説の金字塔としてつとに有名だ。E・E・スミスは奔放なイマジネーションを駆使してはるかな未来の遠い宇宙の物語を描いており、その空想の翼は通貨にも及んでいる。
それがcredit――小隅黎氏の訳では「クレジット」、小西宏氏の訳では「信用単位」と表記される通貨だ。現代日本の丑嶋が取り立てるカネは円単位だが、レンズマンシリーズでは「クレジット」単位で通貨が流通している。
通貨の単位が「クレジット」と云われても、すぐにはピンと来ないだろう。しかし、これはレンズマンシリーズが執筆された時代背景を考えてみればよく判る。
E・E・スミスが長い準備期間を経てレンズマンシリーズの第一作『銀河パトロール隊』を発表したのは1937年だ。1929年にはじまった世界恐慌のために各国の経済が大揺れに揺れ、第二次世界大戦が近づいていた頃である。
世界恐慌で大きな影響を受けたものの一つに、金本位制がある。
かつては高価な貨幣として金貨が使われていたけれど、市場に流通する貨幣をまかないきるだけの金貨を鋳造するには、莫大な金塊が必要になる。そこで各国は、金そのものを貨幣にして流通させるのではなく、金と交換可能な印刷物を作り、これを貨幣の代わりに流通させた。すなわち紙幣(兌換紙幣)である。紙幣に「1000円」と書かれていれば、1000円分の金貨と交換できるのだ。
このように金に裏付けられた貨幣制度が金本位制だ。
だが、世界恐慌の荒波を受けると、金の有無とは関係なしに通貨を発行する国が現れた。1931年にイギリスが金本位制を放棄したのを皮切りに、金本位制を放棄する国が相次いだのである。
この様子を見ていたE・E・スミスは、全世界で、金がなくても通貨が成り立つ未来を思い描いた。その通貨が「クレジット」である。
こんにち、クレジットと云われればクレジットカードによる買い物を思い浮かべる人が多いだろう。つまり信用販売だ。
E・E・スミスの空想もそれに近い。その未来社会では、紙に「1000クレジット」と書かれていれば、金と交換できない紙切れでも1000クレジット分の物を買うことができる。紙はあくまで紙でしかないのに、人々は書かれた数字どおりの価値があると信用して、品物を渡してしまうのだ。これがE・E・スミスの空想した未来の買い物だ。
ところが、私たちはすでにそんな世界を実現している。
金本位制は1971年に完全に停止され、私たちは金額を印刷した紙切れを貨幣として使っている。紙に「1000円」と印刷してあれば、その紙には1000円分の価値があるという「お約束」になっている。それどころかおサイフケータイに代表されるように、私たちは紙がなくてもICチップやコンピュータ間を行き来する数値データだけで買い物ができるようになった。
人々は、目に見えて手で触れる金貨がなくても、紙やコンピュータ上の数字の価値を信じることにしたのだ。E・E・スミスは、金がないのに紙上の数字を信用する世界は遠い未来のことと夢想したが、私たちはそれを20世紀中に実現した。
そもそも貨幣の最古の形態は、借金の証文だったという。それは「信用している」とか「恩がある」という人間関係を示していたのだ。
証文があるなら、そこに書かれたものを返す約束が存在している。証文を突きつければ、そこに書かれたものは手元に戻ってくるはずだ。約束を守る、約束を信用するというお互いの信頼関係がなければ、貸し借りは成立しない。
E・E・スミスが未来の通貨の単位を「クレジット」にしたのも、このような思いがあったからだろう。creditという語には、「信用」「信頼」「名誉」「名声」等の意味がある。
貸したものを返さなければ、信用は失墜し、名誉は損なわれる。
これらを考えれば、丑嶋が金額にかかわらず借金を厳しく取り立てる理由が判るだろう。
彼はカネを集めようとしているのではない。貸し借りの本質に立ち返り、約束を守らせることで人と人との「信用」を維持しようとしているのだ。
彼が課す金利は出資法の上限を越えている。だから彼のビジネスは現行法の下では違法であり、闇金融と呼ばれてしまう。
しかし本作を見ればお判りのとおり、彼は至って紳士的だ。カネを貸す前にきちんと金利を説明するし、はじめての客には10万円しか貸さずに返済能力を確かめる。返せそうもない人間に無理に貸し付けて、後から引っぱがすわけではない。
だからカウカウファイナンスからカネを借りるのは、借り手も合意の上である。お互いを信頼し、期日と返済条件について約束を取り交わすのだ。
約束を守っている限り、丑嶋は手荒なことはしない。だが、ひとたび「信用」を裏切れば、丑嶋は容赦ない。
とりわけ彼の取り立てで面白いのは、債務者から知人に連絡を入れさせることだ。取り立ての場に同席した者や、近所の住人や、電話の繋がる友人知人に連絡させて、返済金を用立てさせる。ここでのポイントは、全額が揃わなくて一部だけの回収にとどまっても、勘弁してやることだ。
これは丑嶋の目的がカネの回収ではなく、「信用」を見ることにあるからだ。
カウカウファイナンスに借金しにくる者は、もうすべての知人からカネを借りまくり、踏み倒しまくって、にっちもさっちもいかなくなった人間なのだ。それでも少しでも用立てようとする者が現れるなら、その債務者はまだ信用を完全に失ってはいない。信頼で結ばれた者がいるのなら、その債務者を制裁するには及ばない。
けれども、誰も債務者に手を差し伸べようとしないなら、債務者は周りのすべての信用を踏みにじった人間ということだ。人と人との信頼がなくてもいいと思っている人間なのだ。
裏稼業の人間が、人の世の「信用」を裏切る者を制裁する物語――それは現代の必殺仕事人と呼んでも良かろう。
カウカウファイナンスのメンバーが債務者をとっちめるシーンが痛快なのは、必殺仕事人の仕事に通じるものがあるからだ。
もしも無人島に流れついた二人の人間が、最後の食料を奪い合っているとしたら、カネを積んでも食料を手に入れることはできないだろう。
カネを払えばものが買える世界――それは信用が保たれた、平和な世界なのである。
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監督・企画・プロデュース・脚本/山口雅俊 脚本/福間正浩
出演/山田孝之 大島優子 林遣都 崎本大海 やべきょうすけ 片瀬那奈 新井浩文 黒沢あすか 市原隼人 岡田義徳 ムロツヨシ 鈴之助 金田明夫 希崎ジェシカ 内田春菊
日本公開/2012年8月25日
ジャンル/[ドラマ]

