『汚れた心』 心は清くなければならないか?

 「この出来事はガイジンでなければ語れない

 ヴィセンテ・アモリン監督が第二次世界大戦直後のブラジル日系人社会について取材した際、日系移民の子孫の多くがこう云ったそうだ。
 アモリン監督は、『汚れた心(けがれたこころ)』の公式サイトに寄せたメッセージでこのことを紹介し、「これは、この作品を作る上で肝となる言葉でした」と述べている。
 この言葉には、私も考え込まざるを得なかった。
 おそらくこれこそが、私たち日本人が映画『汚れた心』を必要とする理由である。

 すでにブラジル人である日系移民の子孫が云う「ガイジン」とは誰だろうか。
 国籍だけを論じるのなら、ブラジル国民の彼らにとっては、ブラジル外の国の人が「ガイジン」だ。この論法なら日本人も「ガイジン」だろう。
 けれど、もちろん彼らの意図はそんなところにはない。「ガイジンでなければ語れない」とは、日系移民の彼らみずからは口にできないということだ。日本人には――日本人の精神を引きずっている者には、この出来事を客観的に語れないのだ。
 それは裏を返せば、日本人の精神に引きずられないヴィセンテ・アモリン監督に語って欲しいということである。

 そしてヴィセンテ・アモリン監督は、彼らの期待に見事に応えている。
 『汚れた心』はブラジル映画だ。監督のみならず、原作者もブラジル人、脚本家もブラジル人であり、ブラジルを舞台に、ブラジルの実話にインスパイアーされて撮った作品だ。
 それでもこの作品が切り込むのは、日本人の精神である。主要キャストを日本人で固め、「ガイジンでなければ語れない」切り口で日本の文化と精神を解体することで、日本人が語りたがらない本質をえぐりだしている。
 いったい、戦後70年近い時が流れても、日系移民の子孫たちの口を閉ざしてしまう日本人の精神とは何なのだろう。


 本作は、第二次世界大戦後のブラジル日系人社会における「勝ち組」と「負け組」の抗争を描いている。
 情報の乏しい日系移民たちの多くは、日本が第二次世界大戦に勝ったと信じていた。中には連合国側であるブラジル政府の「日本は戦争に負けた」という云い分を受け入れる者もいたが、勝ったと信じている者からすれば彼ら「負け組」の言動は許せるものではなかった。

「勝ち組」は「負け組」を攻撃し、それはすぐにテロ事件に発展した。
 その対立は深く根を張り、10年以上も続いたという。

 そして劇中、テロの際に負け組に告げるのが「お前の心は汚れている」という言葉だ。勝ち組の人々は、負け組に向かって、日本の負けを受け入れるのは心が汚れているからだとを責める。その彼らが自分たちの精神的支えとするのは大和魂である。
 

 本作の原題は『CORACOES SUJOS』(英題『DIRTY HEARTS』)、邦題『汚れた心 (けがれたこころ)』は、その直訳だ。大和魂と汚れた心の対比から思い浮かぶのは、日本古来のキヨキココロ(清き心)とキタナキココロ(邪き心)の対である。
 それは、はるか『古事記』の中にも見てとることができる。
 父イザナギの云いつけを守らなかったスサノヲは、イザナギに国を追放されてしまう。それでスサノヲは、去る前にせめて姉のアマテラスに会おうと思い、アマテラスが治める高天ヶ原にやってくる。ところがアマテラスは、「スサノヲが来るのは善い心からじゃないだろう。私の国を奪うつもりかもしれない」と警戒し、戦争の準備をして待ち受けた。これに対してスサノヲが「自分に汚き心はない」と弁明したので、スサノヲとアマテラスは、スサノヲが清く明き心の持ち主であるかどうか白黒つけようとする。

 このように日本では、心が清く明るいことが重視され、汚き心だと思われるのは神々ですら恐れるのだ。
 ここでのポイントは、問われているのが実際の行動やその結果ではなく、清く明るい心だけであることだ。
 これに関連して、池田信夫氏は次のように述べている。
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そういう日本の伝統を丸山眞男は「動機の純粋性」と呼んだ。日本人が倫理の基準にするのは、その行動が何らかの客観的基準に照らして正しいかどうかではなく、その動機が純粋かどうかである。それを記紀などではキヨキココロと呼び、これと対立する邪悪な動機をキタナキココロと呼んだ。ここで問われているのは行動の結果ではなく、そのもとになる感情である。
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 本作の「勝ち組」の者たちも、目指すは心の純粋さだ。
 「大和魂」なるビラを熟読して、清き心を育み、汚れた心の持ち主を断罪する。そこに行動の良し悪しや結果の妥当性を考慮する気持ちはない。「日本が負けたのは真実なんだ」と云われても、真実は心の中にあるとして取り合わない。

 これは神話の時代と同じ感情だ。
 占いによって清く明き心であることが証明されたスサノヲは、嬉しさのあまり羽目を外して田んぼを滅茶苦茶にしてしまう。だがアマテラスは、スサノヲが高天ヶ原に来たときにはまだ何もしてなくても攻撃せんばかりだったのに、スサノヲの心が汚くないことが判れば、暴れ回る彼を愛しい弟だと云って大目に見ている。
 行動やその結果より、心が清いか汚いかが重要だからだ。


 そして、それは神話の時代や、第二次世界大戦直後のブラジルに限らない。
 今でも「心がきれい」「心が汚い」という言葉を、私たちは平気で使う。そして「動機の純粋性」を重視する日本映画に心酔し、その結果の合理性は気にしない。
 使命のためならどんな無茶でも厭わない主人公を称賛し、必ず勝利する映画を喜ぶ気持ちは、日本の勝利を信じて疑わない「勝ち組」に通じるものがあろう。もしも「負け組」のような考え方の映画――たとえば純粋な動機があっても望ましい結果が出なかったり、勝利を信じる人に水を差す映画が公開されたなら、ヒットはおぼつかないだろう。

 ブラジルの日系移民の子孫が、「この出来事はガイジンでなければ語れない」と云うのはもっともだ。神話の時代から今に至るまで、日本人は清き心を重視してきた。70年前に清き心のために引き起こされた事件に対し、いまだ清き心を重視する日本人が客観的に切り込むことなどできるはずもない。
 それはすなわち、日系移民の子孫たちが戦後70年近くを経ても日本人らしい「清き心」に呪縛されているということでもある。
 第二次世界大戦のとき、日系アメリカ人が「祖国アメリカ」の役に立とうと兵士に志願した一方で、ブラジルでは「勝ち組」と「負け組」の抗争があり、いまだみずからは語れないことに驚かされる。

 ヴィセンテ・アモリン監督は、新作のテーマに「適応とアイデンティティ」という問題を織り込みたいと考えていたという。本作の題材に出合ったのはそんなときだ。
 人は誰しも、住む環境が変わればそれに適応する必要があるだろう。けれども、真実が世の中になく、心の中だけにあるのなら、どこに住んでも何が起きてもアイデンティティは変わらない。
 本作は、それが悲劇であり愚かでもあることを示している。

 私たち日本人は、これからも清き心を大切にし、動機の純粋さを称賛し続けるのだろうか。
 客観的事実に基づいて行動のゆくえを考えるのが汚れた心なのであれば、私たちは汚れた心をこそ持つべきではないだろうか。


参考文献
 校注者 青木和夫、石母田正、小林芳規、佐伯有清 (1982) 『日本思想体系1 古事記』 岩波書店
 梅原猛 (2001) 『古事記』 学研M文庫

汚れた心【完全版】(初回限定生産) [DVD]汚れた心』(けがれたこころ)  [か行]
監督・制作/ヴィセンテ・アモリン  撮影/ホドリゴ・モンチ
脚本/ダヴィド・フランサ・メンデス  原作/フェルナンド・モライス
アソシエイト・プロデューサー/奥田瑛二
出演/伊原剛志 常盤貴子 奥田瑛二 菅田俊 余貴美子 大島葉子 エドゥアルド・モスコヴィス
日本公開/2012年7月21日
ジャンル/[ドラマ] [戦争]
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