『別離』 嘘つきは泥棒の始まり

 さすが『彼女が消えた浜辺』のアスガー・ファルハディ監督だ。新作『別離』も実に面白い映画である。
 テヘランを舞台に描かれるのは、離婚や介護や失業等々、どこの国でも人々の頭を悩ませる問題だ。映画は、ゴミを入れた袋が破れていたり、浴室の戸が開かなくなったりと、些細ではあるが苛立つことを描写して、観客の心をざわつかせる。
 そして小さな行き違いや、つい口にしないで済ませてしまったことが積み重なり、いつのまにか人々の間に不和が広がり、誰もが思いもよらない窮地に立たされる。

 前作『彼女が消えた浜辺』がまるで上質のミステリーのような味わいなのと同様、家族の問題を描いていたはずの『別離』もまた観客を日常の闇にいざない、人生という迷路をさまよわせる。登場人物の中にもしも悪意を抱いた人がいるのなら、その人を懲らしめれば良いだろうが、人々の保身と、家族の身を案じた結果として事態が錯綜してしまったなら、この結び目をほどくにはどうすればよいのか。

 ここで描かれるものは、日本だろうとイランだろうと本質的には変わらない。観客は映画に登場するすべての人に共感するとともにすべての人に反発し、スクリーンを見つめながら我と我が身を振り返るだろう。


 とはいえ、日本の観客が特に強く印象づけられるとしたら、それは宗教だろう。
 映画の冒頭で、ヘルパーの女性が、男性の身体を洗うことが信仰に反しないか電話で相談する場面がある。これにより観客は、女性が敬虔な信徒であることと、イラン社会の秩序を保つ仕組みを知ることになる。

 日本人に宗旨を尋ねると、「信仰する宗教はない」と答える人がいる。自分を無宗教だと考えている人は少なくないだろう。実際には、無宗教を自認する人でも根っこの部分では怨霊信仰や言霊信仰等に深く浸っており、その言動が信仰に制約されていたりするのだが、イスラームやキリスト教のように体系立った宗教を学んでいないために、自分の言動の裏に宗教があるとはなかなか気づかない。

 だが、日本ではそれで済んでも、外国で「信仰する宗教がない」と口外するのは考えものだ。それは「私には道徳心がありません」「私には一般常識がありません」と云っているようなもの、いやそれ以上に強烈な発言として受け取られるおそれがあるからだ。
 2012年1月3日放映のテレビ番組『池上彰の世界を見に行く!2012年新春スペシャル 暮らしに直結!世界を動かすお金』に出演したサウジアラビアの方が、「信仰心のない人は何をするか判らないから怖い」と発言したことは印象的である。

 『別離』を観ると、そのことがとても実感できる。
 たとえ立場が異なっても、いさかいが起こっても、人々が拠りどころとするのはクルアーン(コーラン)だ。クルアーンに誓った言葉は真実であり、クルアーンが禁じることは行わない。その認識が共有されているから、どんなに対立していてもどこかで秩序が保たれる。
 もちろん信仰心の持ち方には個人差があり、言葉の重みにもぶれがあるが、少なくとも各人が信仰を尊重するからこそ意見が違っても同じ席に着けるのだろう。
 もしも本作の登場人物に共通する宗教がなければ、この争いはとどまることがなかったはずだ。

 このように社会を秩序立てる仕組みとしての宗教は、社会が大きくなるにつれて欠かせなくなる。その仕組みは宗教でなくても良いかもしれないが、キリスト教の信徒が20億人以上、イスラームの信徒が11億人もいる事実が、宗教に代わる有力な仕組みを我々が持ち得ていないことを示していよう。
 世界価値観調査に基づいてロナルド・イングルハートとクリスチャン・ヴェルツェルが各国の傾向をプロットした価値マップによれば、イランは宗教等の伝統的価値観を重視する国であり、他方日本は世界一世俗的な国である。けれど日頃信仰に無自覚な日本人といえども、このイラン映画を観ると、宗教が社会秩序の根幹として機能していることに気づくだろう。

 そして宗教が人々にもたらしているもの――本作が成立する上で大前提になっているものの一つが、嘘をついてはいけないという倫理観だ。嘘をつくのはいけないことだと登場人物みんなが考えているからこそ、身に覚えのないことを云われると激昂し、真実を口にしない人はやましさを感じる。
 日本にも「嘘つきは泥棒の始まり」ということわざがあるし、嘘をつくのがいけないなんて当たり前のことだと思うかもしれないが、騙し合いばかりの近頃の映画を観続けていると、嘘をついていないことを正面から問いただす本作はかえって新鮮だ。
 本作がベルリン国際映画祭金熊賞やアカデミー賞外国語映画賞をはじめ各国の映画賞を受賞したのは、嘘をついてはいけないという物語にまだ世界が共感できるからだろう。


別離 [Blu-ray]別離』  [は行]
監督・制作・脚本/アスガー・ファルハディ
出演/レイラ・ハタミ ペイマン・モアディ シャハブ・ホセイニ サレー・バヤト サリナ・ファルハディ ババク・カリミ メリッラ・ザレイ
日本公開/2012年4月7日
ジャンル/[ドラマ] [ミステリー]
ブログパーツ このエントリーをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録

【theme : 洋画
【genre : 映画

tag : アスガー・ファルハディ レイラ・ハタミ ペイマン・モアディ シャハブ・ホセイニ サレー・バヤト サリナ・ファルハディ ババク・カリミ メリッラ・ザレイ

最新の記事
記事への登場ランキング
クリックすると本ブログ内の関連記事に飛びます
カテゴリ: 「全記事一覧」以外はノイズが交じりますm(_ _)m
月別に表示
リンク
スポンサード リンク
キーワードで検索 (表示されない場合はもう一度試してください)
プロフィール

Author:ナドレック

よく読まれる記事
スポンサード リンク
コメントありがとう
トラックバックありがとう
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

これまでの訪問者数
携帯からアクセス (QRコード)
QRコード
RSSリンクの表示