『裏切りのサーカス』は押井守版サイボーグ009だ

 2009年、押井守監督は『サイボーグ009』の映画化を進めていた。
 最終的に神山健治監督の『009 RE:CYBORG』(2012年)として結実した企画は、元々は押井監督の新作としてスタートしたのだ。
 『サイボーグ009』は、001から009までのサイボーグ戦士が9人のチームワークを活かしながら悪と戦うマンガであり、その映画化といえば誰もが痛快なアクションを期待する。ところが押井守監督のアイデアは、原作マンガからずいぶん乖離したものだった。「アニメスタイル 002」のインタビューで、神山監督がその一部を紹介している。

・ヒロインの003は、いまや58歳になっている。
・一方、主人公の009は18歳のまま歳を取らない。
・赤ん坊だった001は、犬に脳を移植している。
・残りのゼロゼロナンバーサイボーグもギルモア博士も、すでに死亡している。
・003は犬を連れて世界中を旅しており、その先で得た証拠を、009の家の留守電に吹き込む。高校生の009がその留守電を聞いている。

 映画は神山健治監督が手がけることになり、この構想は実現しなかったが、主要メンバーが死んでいるとか、ヒロインが初老だなんて作品になったら、原作ファンは憤死していたかもしれない。

 とはいえ押井監督は、自分の原点が『サイボーグ009』にあるという人だ。意味もなく原作をないがしろにはしないだろう。
 『サイボーグ009』の連載開始は1964年。このとき18歳だった009がリアルに歳を取ったとすれば、2012年には66歳だ。001から008までの研究の成果を注ぎ込まれた009は、毛髪も皮膚も特殊プラスチック製で、脳にまで機械を装着しているほどだから、身体的には変化しないだろうが、009よりも前に改造された年上のメンバーたちは死亡していてもおかしくない。1964年当時、すでに白髪頭だったギルモア博士が死んでいるのは当然だ。
 そう考えれば、003が58歳なのはまだ手加減したといえよう。

 たいていマンガやアニメの作り手は、キャラクターの年齢をあまり気にしない。
 サザエさん一家がいつまでも歳を取らないように、原作の発表がいつだろうが設定書に18歳と書きさえすれば009はいつでも18歳なのだ。
 にもかかわらず前述のインタビューによれば、押井守監督は「ギルモア博士なんて100歳とっくに越えてるんだから生きてる訳ないだろ!」と主張したという。
 これは、原作をないがしろにしているどころか、009たちがリアルな存在として押井監督の中に息づいており、年齢をごまかせないのではないだろうか。

 サザエさんは現実社会とほとんど関わらないから、永遠の20代でも構わない。
 だが、『サイボーグ009』はベルリンの壁を越えたり、ベトナム戦争や中東戦争に介入したりと、現実の社会情勢が色濃く反映された作品だ。ベトナム戦争時代の青年が21世紀になっても青年のままでは辻褄が合わない。
 押井守監督が、メンバーの大半が死んでいるとかヒロインが初老であると考えたのは、『サイボーグ009』という作品と、その執筆された時代とのかかわりを尊重したからではないだろうか。

 実をいえば、押井守監督はもっと昔にも『サイボーグ009』のアニメ化に興味を持っていたという。押井守情報サイト「野良犬の塒(ねぐら)」さんが紹介する2004年のインタビューで、押井監督はそのことを語っている。
 そのインタビューを読むと、押井守監督が『サイボーグ009』を冷戦の産物と捉えていたことが判る。各国代表のサイボーグ戦士たちが米ソの代理戦争に介入し、戦争を激化させている軍産複合体の活動を阻止する。そんな『サイボーグ009』は、冷戦時代と切り離せない。そう考えた押井監督は、冷戦終結後に『サイボーグ009』を映画化する意味はないと結論付けた。
 「野良犬の塒」から、押井監督の言葉を引用させていただこう。
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「冷戦後の世界であれ(『009』)をやること自体意味あるんだろうか」というとさ、間違いなく『009』は冷戦の産物だから。
(略)
冷戦の思想の産物なんであって、その枠組みが変わっちゃった今の時代に(『009』を)やってどうするんだろうって。
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 私は『サイボーグ009』には時代を超えた普遍的なテーマがあると思うが、『サイボーグ009』が冷戦を背景に誕生したヒーローであることは間違いない。
 そして1985年にソ連共産党の書記長にミハイル・ゴルバチョフが就任し、冷戦が終結に向かうのと呼応するように、『サイボーグ009』の原作は執筆されなくなる。

 面白いのは、2004年のインタビューでは、どうやったら『サイボーグ009』が映画化可能になるか一通りシミュレーションしたけれど駄目だったと語っていた押井監督が、2009年になるとまたもや『サイボーグ009』の映画化を検討したことだ。
 「世界の枠組みが変わっちゃった中で、どうやったら『009』を映画にしたら良いんだ」という問題に、押井監督は解を見つけたのだろうか。


 そこで注目したいのが、2011年制作の映画『裏切りのサーカス』だ。押井監督は映画紹介の記事で、この映画が「かなり面白かった」と述べている。
 原作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』は1974年に発表されたジョン・ル・カレのスパイ小説だ。極めつけの「冷戦の産物」である。冷戦時代を舞台にした冷戦時代の小説を、今になって映画化した『裏切りのサーカス』――それを、冷戦時代のマンガを「今の時代にやってどうするんだろう」と語っていた押井守監督が面白いというのだから興味深い。冷戦時代の作品でも取り組めると思い直した心境の変化と、通じるものがあるのだろうか。

 押井守監督も、いま『裏切りのサーカス』が作られたことに驚いたという。
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いま冷戦の映画をなぜ作るんだろうってそれがまずびっくりした。映画の中で第二次大戦後の時代をものすごく忠実に再現してるんですよ、車から服装から街角から。あの努力がまずすごいんですが、でもいまなぜ、この時代の映画を作るんだろうって気になった。
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 『裏切りのサーカス』は、英国情報部で実際に起きた事件を基に描かれた(だから『アナザー・カントリー』の後日談ともいえる)、静かな緊張に満ちた映画である。
 対ソ連諜報活動の最前線に立つ英国情報部<サーカス>。「コントロール」と呼ばれるチーフの下、5人の幹部が<サーカス>を指揮していたが、作戦の失敗から優秀な部下を失い、チーフとナンバー2のスマイリーは<サーカス>を追われる破目になる。
 ほどなくチーフは病死し、スマイリーは無為な日々を過ごしていた。
 そんなスマイリーに、政府高官から非公式な任務が与えられる。<サーカス>内部にいる裏切り者の二重スパイを探せというのだ。容疑者はチーフとスマイリーがいなくなったのをいいことに<サーカス>を牛耳っている4人の幹部だ。

 本作でたびたび挿入されるのが、昔のパーティーの回想シーンだ。チーフも部下も健在の頃はチームワークも取れていて、ソ連と戦うためにみんなが一丸となっていたことを物語る光景である。
 公式サイトによれば、この回想シーンは原作にはなく、映画のオリジナルだという。
 映画は冷戦時代を舞台としつつも、あの時代を懐かしい思い出として描いている。そのことを百万言の言葉よりも端的に示すシーンだ。この映画は、一番輝いていた時代が過ぎた後の物語なのだ。
 それもまた現代にアピールする点であると押井監督は考えている。
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劇中のセリフでも言ってたけど「昔はすべてが単純だった。いまは複雑怪奇になって誰も状況が見えなくなった。誰が敵なのか、誰が味方なのか、昔ははっきりしてた」っていうさ。そういうのにうんざりしたっていうのがあるんじゃないかな。
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 そして押井監督は、「どこかしら人間が生きるということ、人生とか時代とか歴史とかいう話につながる普遍性がないと映画にならないと僕は思う」と述べつつ、「ナンバー2論」を展開する。
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歴史でも戦争でも、僕はあるヒエラルキーの中のナンバー2に興味がある。ナンバー2というのは一番面白いポジションなんですよ。上も見えれば下も見える。絶えずトップの側で見られるから。「何をするべきか」というよりも「何をしちゃいけないのか」を一番よく知ってるのがナンバー2。
(略)
あの映画は最近では珍しいナンバー2の映画なんです。スマイリーという男は実はほとんど何もしてない。もぐら(二重スパイ)狩りをやれと言われたときに、まず安ホテルにこもって、「書類を全部持ってこい」と命じて状況を把握するところから始めて、全部人を動かすだけで自分はほとんどなにもしない。いろんな情報を聞いてるだけ。
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 たしかにスマイリーは他の人間にあちこち行かせて、情報を持って来させるばかりだ。
 なるほど、と私は思った。「003が世界中を旅して、その先で得た証拠を、009は家の留守電で聞いている」とはそういうことか。

 戦う相手がハッキリしていた全盛期は過ぎ去った世界。
 メンバーの死亡等により、もはやチームの体をなさなくなった「チーム」。
 こんなことになった理由を突き止めようとする「生き残り」。
 考えてみれば、009は主人公だからリーダーのように見えるけれど、メンバーを招集するのはギルモア博士だし、作戦を立てて司令塔になるのは001だ。001にとって009が捨て駒でしかないことは『地下帝国ヨミ編』が示している。009はナンバー1ではないのだ。

 冷戦時代の作品を現代に甦らせた『裏切りのサーカス』は、やはり冷戦の産物である『サイボーグ009』を検討する上で示唆することが多いのではないだろうか。
 少なくとも、『サイボーグ009』をその執筆された時代から切り離さずに愚直に映画化したら、『裏切りのサーカス』のような味わいになるのではなかろうか。
 『裏切りのサーカス』を観ていると、突拍子もなく感じられた押井守監督の『サイボーグ009』案が、実は正攻法のアプローチのように思えてくるのである。


 さて、最後に押井守監督とは異なる私なりの『裏切りのサーカス』の感想を記しておこう。
 押井守監督はスマイリーがチーフの懐刀であると述べ、ナンバー2の立場を積極的に肯定している。
 だが、チーフはスマイリーのことをそんなに高く買っていたのだろうか。
 私には、チーフにとって便利だからスマイリーをそばに置いていたように思える。チーフが幹部連中と対峙するときに、議論を楽にするために自分に同調する者を参加させる。その程度の位置付けだったのではないだろうか。
 チーフは幹部一人ひとりにその特徴に合わせたコードネームを付けていた。勇敢な「兵士(ソルジャー)」やお洒落な「仕立屋(テイラー)」たちの中にあって、スマイリーのコードネームは一番みじめな「乞食(ベガマン)」だった。チーフが引責するときは、スマイリーも辞めさせられて、まるでチーフの捨て駒である。

 実際スマイリーは、他の幹部のように野心満々で新作戦を打ち出したり、機を見るに敏だったり、主義主張を貫いたりすることがない。職務を淡々とこなしてきたスマイリーは、<サーカス>の幹部の中でもっとも凡庸な男だろう。
 そんなさえない男が、職を失い、妻に家出され、ますますさえなくなっていく。
 そこに漂うのは、時代に合わなくなってしまった物悲しさと、自分が周りから必要とされていない寂寞感だ。

 ところが面白いことに、部下の意見を握りつぶしてきたチーフは死に、新作戦を打ち出した野心家はその作戦が命取りになり、主義主張を貫いた者は主義に殉じることになる。
 凡庸きわまりない男が生き残り、再チャレンジの機会を得る。
 そこに、今の時代でも共感を覚える普遍性があるのではないかと、凡庸な私は思うのだ。


裏切りのサーカス コレクターズ・エディション [Blu-ray]裏切りのサーカス』  [あ行]
監督/トーマス・アルフレッドソン
出演/ゲイリー・オールドマン コリン・ファース トム・ハーディ トビー・ジョーンズ マーク・ストロング ベネディクト・カンバーバッチ ジョン・ハート キアラン・ハインズ キャシー・バーク デヴィッド・デンシック スティーヴン・グレアム サイモン・マクバーニー スヴェトラーナ・コドチェンコワ ジョン・ル・カレ
日本公開/2012年4月21日
ジャンル/[ミステリー] [ドラマ] [サスペンス]
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【theme : ミステリー・スパイ
【genre : 映画

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『009 RE:CYBORG』 「神々との闘い」との闘い

 【ネタバレ注意】

 『009 RE:CYBORG』の公式サイトに踊る惹句が胸に突き刺さる。
 「終わらせなければ、始まらない。」
 そうだろうか。終わらせなければ、始まらないのだろうか。そもそも終わらせることはできるのだろうか。

 私たちの胸にはポッカリと穴が開いている。
 その穴には幾つもの疑問が浮かんでいる。

  神とはなにか?
  伝説とは?
  歴史とは?
  文明とはなんだ?
  そして人間とは……?
  生命(いのち)とは……?
  死とは……?
  肉体とは……?
  精神(こころ)とは……?
  そして――そして神とはなんなんだ!?

 石ノ森章太郎氏は、『サイボーグ009 神々との闘い編』の冒頭でこれらの疑問をファンに投げかけながら、その答えを見せることなく逝去した。
 そして009ファンは、作者が答えなかったこれらの疑問を数十年にわたり考え続けている。神とは何か、精神(こころ)とは何か。もしも作者が逝去しなければ、どんな答えが示されただろうか?

 2009年、押井守監督は『サイボーグ009』の映画化を進めていた
 『サイボーグ009 神々との闘い編』が自分の原点という押井守氏の企画は、4分45秒のプロモーション・ビデオ『009 THE REOPENING』を公開するまではこぎつけた。だが押井氏の構想は、ゼロゼロナンバーサイボーグのほとんどが死んでしまった後の世界というこれまでにない方向に進み、制作委員会には受け入れられなかったようだ(001が犬であるとか、押井氏らしい着想なのかもしれないが)。

 そこで『009 THE REOPENING』の脚本を担当した神山健治氏が監督となり、「RE:OPENING(新装開店)」させたのが本作『009 RE:CYBORG』である。
 なるほど、『009 RE:CYBORG』には『009 THE REOPENING』と同じようなシーンもあり、元のプロットを引き継いでいることがよく判る。

 しかし、『サイボーグ009』に挑むのは困難なことだ。過去の作品は、石ノ森章太郎自身のマンガも含めて、その困難に囚われていた。
 それは原作マンガが未完のままだからだ。
 『サイボーグ009』は、「神とは何か」を考察する作品だ。いや、考察しようとした作品だ。その考察に取り掛かったところで、原作は中断している。これほど普遍的な命題を投げかけられたら、創作者たるもの避けては通れないだろう。とはいえ、軽々しく結論を出せることでもない。
 そのため、『天使編』と『神々との闘い編』が中断してからの『サイボーグ009』は、幻の完結編との葛藤にさいなまれることとなった。

 石ノ森章太郎氏の原作マンガが、続編ではなく番外編としてお茶を濁し続けざるを得なかっただけではない。
 1979年の高橋良輔監督版テレビシリーズは、神が出現する衝撃的なシチュエーションからはじまりながら、そのスケールの大きさが手に余り、早々に方向転換してしまった。
 明比正行監督による1980年の劇場版『サイボーグ009 超銀河伝説』も、スペースオペラ的な展開を経た終盤では宇宙の根源たるボルテックスとの邂逅を描き、生命とは何か、死とは何か、神とは何かに迫ろうとした。だが、人間の生死を超越したボルテックスを説得力をもって描くのは難しく、観客には単に登場人物が死んだり生き返ったりする映画と捉えられてしまった。
 2001年の川越淳監督版テレビシリーズは、最後に『~Conclusion God's War~序章~』に突入した。009の完結編に恋焦がれるファンにとって、神々との闘いが序章だけで終わってしまう展開は、最高にして残酷なプレゼントだった。

 とにかく、『サイボーグ009』に関わる作り手たちには、「神とは何か」という命題を避けては通れないが、真正面から取り上げるのは難しいという悩みが付いて回ったのだ。
 神山健治監督が本作を撮るに当たって考えたのもこの点だ。
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あそこで完結していないがゆえに、そこから先のエピソードをなかなか作れなかったと思うんです。もう一回リスタートするためには、単純にリブートして(過去を)忘れちゃって作る、という手もあるんですね。でもあれだけの作品なので、僕としても忘れる事はできなかった。そこを抜きにして『009』を描いても、なんとなく据わりが悪いなと。そして、完結してないがゆえに完結させて、それによって『009』をまた作れるんじゃないか。今回『RE:CYBORG』というタイトルに込めたのはそういう思いなんです
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 「終わらせなければ、始まらない。」──『神々との闘い編』の続きを書くか、リメイクを書くかという選択を迫られた神山監督は、「いったん我々が、こういう答えを出してみました、という形で結末の提示をしよう」と決意した。本気で神々との闘いを描くことで、『サイボーグ009』にまつわる葛藤を終わらせようとしたのだ。

 かくして『009 RE:CYBORG』は、中断したマンガ『神々との闘い編』のアニメ化かと見まがう作品になった。
 発掘調査の過程で奇妙なものに遭遇した考古学者、文献を調べながらの神を巡る談義、何物かに操られて破壊活動をはじめるサイボーグたち、ゼロゼロナンバーサイボーグとギルモア博士との離反、人間の弱さを浮き彫りにする心の旅、姿を見せたかと思いきやすぐに隠れてしまう謎の美少女……。本作は『神々との闘い編』の要素を実にきめ細かく再現している。
 さらに『神々との闘い編』で読者のあいだに物議を醸したという009と003のラブシーンまで取り込むのは、石ノ森章太郎氏を支持しなかった009ファンに対して挑発的だ。
 また、敵が口にする「人類をやり直す」というセリフは、『天使編』で天使が語ることと同じでもある。

 リスペクトされる原作は、『神々との闘い編』ばかりではない。
 ゼロゼロナンバーサイボーグたちが個人の思想や生活を優先させてまとまらない様子は『地下帝国ヨミ編』を彷彿とさせるし、サイボーグ兵士を開発する軍産複合体は現代風の「黒い幽霊団(ブラックゴースト)」だ。
 そしてもちろんアクションは満載だし、宇宙に放り出された009のもとへ002が駆け付けるところはやっぱり名場面だ。
 シリーズの総決算ともいうべき『009 RE:CYBORG』に、ファンは感涙ものだろう。
 「終わらせなければ、始まらない。」──本作を世に送り出すのは、原作が未完であることと作者の逝去によるファンの喪失感を終わらせる作業でもある。

 もちろん、神山監督らしいモチーフも散りばめられている。
 記憶喪失の主人公にテロリストにミサイル攻撃、そして特別な力を持つ者がそれぞれの正義を行おうとするのは、神山監督の『東のエデン』でもお馴染みだ。あれも、日本を破壊して戦後からやり直す企みとの対決を描いていた。
 神山監督は「やり直す」ことについて次のように語っている。
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キャッチコピーはダブルミーニングにもなっています。映画をご覧いただければわかりますが、「混沌とした世界を、一度終わらせなければ始まらない」という神からのメッセージを、人々ひとりひとりがどう乗り越えていくかという、ストーリーに対する意味合いも込められているんです。
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 とはいえ、「神」という題材はアクション映画では扱いにくい。
 今や進化心理学が神の正体を明かしつつあるが、進化心理学のアプローチはアクション物たりえない。
 そこで本作は、私たちが普段から脳の聞いたと思うものを聞き、脳の見たと思うものを見ている事実に着目する。そして「彼の声」を聞くのはその本人だけ、白い服の少女を見るのも本人だけ、という演出を押し通す。もちろん、009の母親やクラスメートを見るのは009だけだ。
 あらゆる事件の背後に神がいるように見せながら、同時に神(を含む世界)が人間の心の産物でしかないことを示唆して、本作は「神々との闘い」を決着させる。

 でも、それだけじゃあない。
 本作は、石ノ森章太郎氏が好んで取り上げたオーパーツ(場違いな遺物)を登場させる。
 あたかも『海底ピラミッド編』のラストカットを思わせる幕引きに、009ファンはニヤリとするに違いない。


009 RE:CYBORG 豪華版 Blu-ray BOX009 RE:CYBORG』  [さ行]
監督・脚本/神山健治  原作/石ノ森章太郎
出演/宮野真守 小野大輔 斎藤千和 大川透 増岡太郎 吉野裕行 杉山紀彰 丹沢晃之 玉川砂記子 勝部演之
日本公開/2012年10月27日
ジャンル/[SF] [アクション]
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【theme : 009 RE:CYBORG
【genre : 映画

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『サイボーグ009 完結編 conclusion GOD'S WAR』 石ノ森章太郎が描こうとしたこと

[草稿]

 1969年から月刊COMに連載された『サイボーグ009』の『神々との闘い』編は、読者に不評で休載に追い込まれてしまった。その難解な物語や前例のない構成に、読者は付いていけなかったのだろう。
 だが、本当はこのときに完結させておくべきだったと思う。

 当時、著者に非難の便りを送ったファン諸氏に、「ここで完結させなかったら、著者は完結できないまま世を去ってしまうのだぞ。それでもいいのか」と迫ったなら、誰もが連載継続を望んだはずだ。
 その意味で、石ノ森章太郎という作家を信じて付き合い続けることができなかった読者諸氏の罪は重い。

 人気作の『サイボーグ009』でありながら、読者の反発により連載を続けられなかったのだから、当の『神々との闘い』を長らく単行本に収録しなかったのもとうぜんだ。はじめて単行本化した朝日ソノラマ刊『サイボーグ009その世界』のあとがきで、「ジョーはいまやアナタのジョーだ」と述べているのは、著者といえども描きたいように描けない心情を表している。
 著者は、「早く完結編を描いてくれ」という読者の声と、描いたのに読者に反発されてしまったという事実の間で、死ぬまで悩んだに違いない。それこそが、長らく再開できなかった理由だろう。


 2012年、残されたご子息・小野寺丈氏と、石森プロの早瀬マサト氏の手により、遂に『サイボーグ009 完結編』のマンガ連載がはじまった。
 2012年は、石ノ森氏が再構想した完結編『Conclusion God's War』の舞台となる年だ。作品化するには、この年がタイムリミットだった。

 連載マンガの序盤の展開を読む限り、それは小野寺丈氏が石ノ森氏の創作ノートに基づいて1巻だけ刊行した小説『2012 009 conclusion GOD'S WAR』と同じ内容のようだ。
 それらを目にして改めて感じるのは、完結編の構想が『天使編』や『神々との闘い』から大きく変わってはいないということだ。


■完結編はどうなるのか?

 『Conclusion God's War』は二部からなり、まずゼロゼロナンバーサイボーグたちが奇妙な事件に遭遇する第一部、そして"超人"すなわちエスパー・サイボーグとして"神々"と闘う第二部から構成されたはずだ。

 そもそも1969年に書かれた『天使編』は、こんな話だった。

 ■天使編

 雪に覆われた山村で、009と007が遭遇する奇妙な事件。
 事件の成り行きを描いた後、サイボーグたちが決戦のために超人になろうとするところ(すなわち第二部に入るところ)で中絶。


 第一部が山村の事件だけからなるシンプルなストーリーで、すぐに第二部に突入してしまうのは少々淋しい。
 そこで『天使編』の4ヶ月後に改めて連載を開始した『神々との闘い』では、第一部のエピソードを増やしている。

 ■神々との闘い

 ゼロゼロナンバーサイボーグたちがそれぞれ事件に遭遇する。009と003は考古学者の死に立ち会い、004はUFOを目撃、002と005は精神を乗っ取られる等々。
 このあと、サイボーグたちが決戦のために超人になろうとするエピソードと、"神々"に迫ろうとするエピソードとが交差しつつ、雪に覆われた山村が出てきて『天使編』の山村事件を示唆して中絶。


 その後、再構想した『Conclusion God's War』は、『神々との闘い』の語り口が読者に受けなかったことを踏まえて、全体的なストーリーはそのままに、エピソードを総とっかえして化粧直しするはずだったのだろう。
 長期にわたる連載のあいだに各キャラクターにファンがついているので、第一部では001から009まで全員に均等にエピソードを割り振り、見せ場を用意する。
 そして第二部では、『サイボーグ009その世界』のあとがきで第二部を「悪魔編」と呼んでいたように、第一部で"神"や"天使"に見えていた存在が悪魔の本性を剥き出して、"超人"たちと戦うのだ。


■何を描こうとしたのか?

 2008年3月28日にBS2で放映した「とことん!石ノ森章太郎 第六夜 未完の大作・サイボーグ009」では、劇場版第1作と、三つのテレビシリーズからセレクトした8話を取り上げた。

 その一つ、テレビ版第1シリーズの第2話「Xの挑戦」は名作の誉れ高い。
 戦うために改造されたサイボーグX(エックス)ことナックが、恋人ミッチィに告げるセリフは、原作にも通じる悲哀に満ちている。
 「判ったかい、僕はこの機械の一部なんだ。君と楽しくバラを育てていた、あのころの僕ではない。」
 30分のオリジナルストーリーながら、アクションありテーマ性ありで、見ごたえ充分の作品だ。
 これはやはり、脚本の辻真先氏の功績が大きいだろう。

 ただ、気になったのは、「天国で幸せになろう」とか「魂が救われる」というセリフだ。
 石ノ森章太郎氏のマンガには、「天国」や「魂」という言葉はあまり出てこない。永井豪氏や石川賢氏とは対照的に、石ノ森章太郎氏は「天国」「地獄」「魂」といったオカルト的なもの(目で見たり、触れて感じたりできないもの)を、ほとんど扱わないのだ。
 石ノ森章太郎氏の膨大な作品群を見渡しても、オカルト的なものは、わずかに『ブルーゾーン』ぐらいだろうか。その『ブルーゾーン』ですら、エクトプラズム(生命)の力に機械で対抗する話だ。

 それよりも石ノ森作品に頻繁に登場するキーワードは「精神」だ。そしてその延長としての超能力モノならば、山ほど執筆している。
 しかし石ノ森章太郎氏の描く「精神」は、オカルト的なものではなく、

 「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。」(クラークの第三法則)

という領域で捉えるべきだろう。
 すなわち、それは脳科学等の進歩によっていずれ解明されるべきもの、理論的な説明がつけられるはずのものなのだ。
 石ノ森章太郎氏の作品には、しばしばオーパーツ(場違いな加工品)が登場するが、心霊現象はほとんど取り上げない。オカルト雑誌ならどちらも扱うところだが、石ノ森章太郎氏にとっては全く別物なのだろう。


 一方、辻真先氏は、後年、桂真佐喜の名で『聖魔伝』の原作を書いている。辻真先・石川賢版『デビルマン』ともいうべきこのマンガには、神や悪魔、天上界や魔界が登場する。
 『サイボーグ009』の『天使編』『神々との闘い』にも、神や天使が登場するが、決定的に異なるのは、石ノ森章太郎氏が描く神や天使は、単に異星人だということだ。人間が勝手に「神」と呼ぶのであり、彼ら自身はみずからを「神」とは称さない(「造物主」であるとは云うが、これは科学技術を用いて人間の進化の過程に関与したという意味に過ぎない)。
 永井豪氏や石川賢氏(や辻真先氏)の幾多の作品では、神や悪魔と称する存在が超常的な力でハルマゲドンを戦っている。
 しかし、石ノ森章太郎氏の『神々との闘い』がそんな方向に行くことはない。「神」というキーワードこそ同じでも、石ノ森章太郎氏はそれを科学で解明できるもの(異星人)として扱うのだから。

 こう考えてみれば、平井和正氏と石ノ森章太郎氏の共作『幻魔大戦』がうまくいかなかったのも、とうぜんと云えるだろう。
 人智を超えた存在を表現しようとする平井和正氏に対し、石ノ森章太郎氏は宇宙意識体フロイですら超能力を持った犬として描いてしまう。二人は水と油なのだ。容易にはオカルトに飛び込もうとしない石ノ森氏を、平井和正氏はスケールの大きいものを描けないヤツと思ったかもしれない。
 だが、そもそも人智を超えた世界を描く気があるかどうか、そこで二人の志向は違っていたのだ。


 ゲーテは、『ファウスト』の中で次のように述べている。

   すべて移ろい行くものは、
   永遠なるものの比喩に過ぎず、
   かつて満たされざりしもの、
   今ここに満たさる。

 永井豪氏や石川賢氏や辻真先氏や平井和正氏といった作家たちは、短命な人間の肉体を超える、永遠なるものを描こうとした。手塚治虫氏も、「転生」を大きなテーマに据えている点において、ゲーテの系譜に連なろう。

 ゲーテに対して、ニーチェは次のように書いた。

   過ぎ行かざるもの、
   これは汝の比喩に過ぎぬ!
   神、このいかがわしきものは、
   詩人が不正にも拵え上げたもの…

 移ろい行くもの、過ぎ行くもの、つまり短命な肉体の方こそ実態であり、永遠なる魂や神は創作者の空想の産物だ。
 石ノ森章太郎氏の立ち位置は、このニーチェの言葉に近いのではないだろうか。

 石ノ森章太郎氏は『サイボーグ009その世界』のあとがきにて、いずれ発表する『神々との闘い』では「00ナンバーたちが"超人"へ脱皮し…"超人"たちと"神々"との闘いになる」と述べていた。
 これすなわち、「神は死んだ」と叫び、超人たることを説く、ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』に通じよう。


 中断したCOM版『神々との闘い』において、サイボーグたちは語り合う。

 004「からだなんてモノは考え方ひとつなんだ。肉体なんて血と肉でできていようが、プラスチックと鉄でできていようがおなじなんだ! 精神(こころ)の入れモノに過ぎない!」

 008「そ…そうだろうか。
    そうだろうか!?」

 ニーチェは書いている。

「わたしは誓って言う、友よ」とツァラトゥストラは言った。「あなたが言っているようなものは何もかも存在しない。悪魔もなければ、地獄もない。肉体よりもあなたの魂の方が、はやく死ぬだろう。もう何も恐れることはない!」

(本稿中絶)

サイボーグ009 ~Conclusion God’s War~序章~ [DVD]『サイボーグ009』 [本]
作/石ノ森章太郎
初出/1964年~1992年
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [スーパーヒーロー]
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『サイボーグ009 移民編』 作家の良心

 【ネタバレ注意】

 石ノ森章太郎氏が1998年に没して10年以上になるが、いま改めて氏は偉大なマンガ家だったと感じている。
 いっとき、私は氏の作家としての姿勢に疑問を抱いた。
 しかし今は、自分の不明を恥じるばかりである。

 氏の作品で私がたびたび思い返すのは、その代表作『サイボーグ009』の『移民編』だ。
 まずは、今では読むことのできない『移民編』のあらすじを紹介しよう。

---
 009の仲間たちは、ふとしたことから事故に遭った男女を助ける。
 ところが男女は救急車も待たずに姿を消してしまう。残ったのは、事故の際に男の腕からちぎれた精巧な義手だった。
 現代科学を凌駕する義手のメカニズムに、男女の正体をいぶかしむ009たち。
 やがて義手を取り戻しにきた女を捕まえた009たちは、女の背後に謎の組織があることを知る。
 その組織の者たちは、一見、人間のような姿だが、それは義手や義足で取りつくろったものであり、実際には触手が生えていたり足がなかったりして、とても人類とは思えないのだった。
 009たちとの攻防の末、彼らは空飛ぶ円盤で消えてしまう。

 残った女の口を割らせたところ、彼らは私たちの子孫であることが判明する。
 近い将来、核戦争が勃発し、地球上に放射性物質がまき散らされる。その影響で、23世紀の彼らの時代には、人間も動植物も突然変異を重ね、現代の生物とは似ても似つかない奇形ばかりの世界になってしまう。ようやく生まれた赤ちゃんは、下半身が蛇のようにのたくっていたりする。
 009と戦った者たちに触手が生えていたり足がなかったのも突然変異のためであり、彼らも人類の一員だったのだ。
 そして彼ら未来人は、環境が激変した地球に住み続けることをあきらめ、核戦争が起こる前の地球に侵略して移り住もうと企んでいた。彼らの科学技術では300年くらいまでしかタイムトラベルできない。そのため、私たちの"現代"が狙われたのだ。
 009たちは子孫の境遇に同情しながらも、侵略という乱暴な手段を許すことができず、彼らの基地に乗り込んでいった……。

 とうとう009たちと未来人たちが雌雄を決せざるを得なくなったそのとき、未来人の科学陣は超大なタイムトラベルに成功した。何十万年でも、何百万年でも、望みの過去へ移動できるようになったのだ。
 そこで未来人は"現代"への侵攻を止め、有史以前へ、人類が発生した遥かな過去へ旅立ち、自分たちが人類の祖先となることにした。私たちの子孫が先祖となり、先祖は子孫だったのだ。
 遥かな過去へ去った未来人たちを見送って、004はつぶやいた。
 「これでときどきカタワの子が生まれることの説明がつく。」
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 これが『移民編』のストーリーだった。それまで黒い幽霊団と戦ってきた009たちが、はじめて他の敵と本格的に対決した作品であり、なかなか上手くまとまった中編であった。

 ところが80年代からだろうか、出版や放送の世界で過去の作品が改変されるようになった。いわゆる言葉狩りである。
 それまで日常的に使われていた言葉が、実は差別用語だと云われ出し、出版社や放送局は販売や再放送の際にこれらの言葉を差し替えたりマスキングするようになった。テレビアニメの再放送ではセリフの一部が無音になり、登場人物が何を話しているのか判らなくなった。
 『ちびくろサンボ』の出版が控えられ、筒井康隆氏が断筆宣言したのもこの頃である。

 当時、私は出版社や放送局の姿勢に懐疑的だった。
 差別を助長する意図などなく、かつてはごく普通に使っていた言葉を、後世の人間が差別用語よばわりして作品から削っていくのは、作品に対する冒涜だと感じた。差別的だと云うのなら、発表当時の社会情勢とその後の変遷を含めて検証するべきであり、表面的に単語だけを隠しても作品を損なうばかりで何も得るものがない、と考えたのだ。
 だから、出版社や放送局の仕打ちに、とうぜん作り手たる作家やマンガ家や脚本家たちは怒っているだろうと思っていた。

 そして『サイボーグ009』においても、いつのまにか『移民編』のセリフが変えられているのに気づいて、ひどいことをすると思った。
 『移民編』は次のように変わったのである。

---
 009たちが、事故に遭った男女を助けることはオリジナルと同じだ。基本的な筋立ては、オリジナルを踏襲して進む。
 ところが、子孫の設定が違うのだ。
 核戦争が勃発しても、人間に奇形は生まれない。ただ、他の生物――動植物等は怪物化して人間を襲うようになる。そのため子孫たちにはケガが絶えず、義手や義足が欠かせない。新しい病にも悩まされる。
 そんな彼らは、核戦争が起こる前の、動植物が穏やかだった時代の地球に移り住もうと企むのだった……。
 そのあとの顛末はオリジナルと同じである。
 遥かな過去へ去った未来人たちを見送って、004はつぶやく。
 「これでときどき変わった子供が生まれることの説明がつく。」
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 新しい『移民編』はセリフを改変しただけで、絵はほとんど変えていないから、ストーリー全体に大きな違いはない。
 だが、それだけに不自然さが目立つ。ケガをしたからって触手が生えたりしないだろう。下半身が蛇のような赤ちゃんも生まれない。
 子孫の女性が自分の特徴を見せる場面では、オリジナルだと足の指が6本生えていたのに、改変版では噛み傷の痕が残ったことにしている。この足の絵は描き変えている。

 これは改悪だ、と私は思った。
 人間離れした奇形の姿の絵と、動植物に襲われたというセリフが全然合っていないのだから、ひどい改悪だ。

 ところが、この改変を作者石ノ森章太郎氏がみずからの意思で行ったと知って驚いた。
 作者が自分で自作を改悪するなんて、にわかには信じられなかった。片や言葉狩りに抵抗を示す作家もいるというのに。
 石ノ森章太郎は何を考えているのだろう。石ノ森章太郎に作者としての矜持があればこんなことはしないはずだ。――私はそう思った。
 そして、これからは『サイボーグ009』の改悪版しか流通しないのが残念だった。


 1945年に行われた初の核実験以降、フィクションの世界では放射線の影響で突然変異を起こす設定が多用された。
 放射線についてはショウジョウバエでの実験が知られていたが、フィクションの世界で取り上げるようになったのは、各国が盛んに原水爆実験を行ってからだろう。
 スパイダーマンやハルクのように普通に生まれた人間が放射線を浴びて(スパイディの場合は正確には放射線を浴びたクモに噛まれて)超人的なパワーを得るマンガもあるし、SF小説ペリー・ローダンシリーズには広島・長崎の原爆の影響で生まれた日本人ミュータントたちが登場する。『GODZILLA』(1998年)でも、イグアナが原水爆実験の影響でゴジラに変化したことが示唆されている。
 放射線は、怪獣や超能力者を登場させる格好の言い訳になり、世界中の創作者がこれに飛びついた。
 石ノ森章太郎氏も『移民編』に限らず、たとえば『時間局員(タイムパトロール)R』では原水爆の影響で生まれた超能力者がもっと超能力者を増やそうと核戦争を誘発する話を描いている。

 けれども、日本人はこのことにもっと敏感であるべきだろう。
 なにしろ、現実には広島にも長崎にも超能力者はいないのだから。それどころか、怪獣の一匹すら出現しなかった。腕の代わりに触手が生えた人間も誕生しないし、下半身が蛇のようにのたくる人間も誕生しない。
 戦後、長年にわたって被爆者や子供についての調査が行われているが、出生時障害の増加も染色体異常の増加も認められないのだ。
 世界の誰よりも、日本人はこのことを知っておく必要がある。
 結局のところ、世界中で創作されたおびただしいマンガや映画や小説は、行き過ぎた空想の産物だったのだ。愛好家には面白くもない結論だが、超能力者も怪物も生まれないのだ。
 なのに私たちの前には、まるで被爆者を怪物視するかのような後味の悪い作品が積み上がっている。


 そのことに、石ノ森章太郎氏は気がついたのだ。
 核戦争の影響で突然変異が生まれる作品を描くことで、反戦の主張を込めたつもりだった石ノ森章太郎氏は、単に自分が事実無根の物語を世に広め、被爆者への偏見を助長するような行為をしてしまったことに気づいたのだ。
 ましてや、未来人たちが人類の祖先になったから「ときどきカタワの子が生まれる」なんてセリフがあると、放射線による障害が世代を超えて遺伝するかのように思わせてしまう。けれど原爆投下から数十年を経ても、それが原因の「カタワの子」なんて生まれていない。このセリフは広島や長崎の人たちをひどく侮辱していることになる。

 だから、石ノ森氏はみずから作品を改めることにしたのだ。『サイボーグ009』のように長く読み継がれる人気作に、読者に誤解を与える描写を織り込んだままにしてはいけないと考えたのだ。
 たとえ、一度は世に送り出した作品でも、間違いに気づいたらキチンと正す。それが石ノ森章太郎の矜持だったのだ。

 さらに石ノ森章太郎氏は、『サイボーグ009』シリーズでは珍しく、『移民編』を補う続編『時空間漂流民編』を描いている。
 『移民編』は核戦争の恐怖を強く打ち出した作品だったが、遥かな過去へ旅立った未来人のその後の冒険を描き、タイムトラベル物としての色合いを濃くすることで、『移民編』の位置付けも変えている。
 石ノ森氏は『移民編』の大幅な変更はしなかったものの、突然変異だのカタワだのが出てこない『時空間漂流民編』の前編として『移民編』を定義し直すことで、作品世界を再構築しようとしたのだ。

 これらの石ノ森章太郎氏の意図に、私は今まで思い至らなかった。
 子供の頃に好きだった『移民編』を改変されてしまい、楽しい思い出を傷つけられたように感じていた。
 石ノ森章太郎氏が表現者としてどれほど考えて作品に手を入れたか、察することができなかったのだ。
 恥ずかしい限りである。


 残念なことに、広島・長崎への原爆投下から65年以上を経ても、いまだに放射線の影響で突然変異が……なんて作品は作られている。
 2011年に公開された映画『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』では、石ノ森章太郎氏の『時間局員(タイムパトロール)R』によく似た陰謀が巡らされる。敵のミュータントは、核戦争を起こして人類を死滅させ、ミュータントの世界を作ろうとしている。しかし、よく考えれば、核戦争なんか起こしたらミュータントだって吹き飛んでしまいかねない。劇中ではあまり詳しい説明がないが、この作品は放射線の影響でミュータントが大量に誕生することを前提にしているのだ。

 また石ノ森章太郎氏が改変した『移民編』も、中途半端であることは否めない。人間の奇形についての記述は削ったものの、人間を襲う動植物は怪物的な描写のままだ。
 これは、ほとんどの絵を描き変えずに、セリフの差し替えだけで対応したことの限界だろう。「核兵器のまきちらした放射能が、生き物たちを凶暴にしてしまった!」なんて説明を書いて、身体的な変化とも気質の変化とも取れるウヤムヤな表現にしているが、作品がピンぼけになっただけである。
 「カタワの子」というセリフを「変わった子供」に差し替えて、子供の障害を指すのか気質を指すのかも曖昧にしたけれど、改変後にはじめて接する読者には意味不明だろう。

 とはいえ、すでに流通している作品を隠すのではなく、跡形もないほど変えてしまうのでもなくできることとしては、これが氏にとっての落としどころだったのかもしれない。

 あとは私たち読者が、大量に生み出されてしまった作品群をどう受け止めるかである。


サイボーグ009 (第8巻) (Sunday comics―大長編SFコミックス)サイボーグ009』 [本]
作/石ノ森章太郎
初出/1964年~1992年
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [スーパーヒーロー]
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