『ジョン・カーター』 原作に反するピクサーの流儀

 トム・クルーズが主演する!
 大好きな小説の映画化には懐疑的な私が、『火星のプリンセス』の映画を観てみたいと思ったのは、『ダイ・ハード』のジョン・マクティアナンが監督し、主人公ジョン・カーターをトム・クルーズが演じると知ったからだ。
 ところが残念ながら、1980年代にディズニーが進めたこの企画は、遂に日の目を見ることがなかった。

■完成に80年かかった映画

 その後、ロバート・ロドリゲス、ケリー・コンラン、ジョン・ファヴローら名立たる監督がプロジェクトに取り組み、誰もが頓挫していった。
 100年前の1912年に発表された『火星のプリンセス』は、実に80年にわたって映画化の努力が続けられながら、誰もその偉業を成し遂げることができなかったのである。
 そして映画化のニュースが流れるたびに一喜一憂し、その実現を目にすることなく他界したファンも多いはずだ。

 そもそも面白い小説を放っておかない映画界が、20世紀を代表するエンターテインメント作家エドガー・ライス・バローズの作品を映画化しないはずがなかった。
 長編三作目の『類猿人ターザン』は早くも1918年には映画になり、原作と同じく映画もシリーズ化されているし、『時間に忘れられた国』シリーズも『恐竜の島』(1974年)、『続・恐竜の島』(1977年)と映画化され、ペルシダー・シリーズも映画『地底王国』(1976年)になっている。
 それらの動きにもかかわらず、バローズのデビュー作にして代表作の火星シリーズが、第1巻の『火星のプリンセス』ですら映画化できなかったのは、ロバート・ロドリゲスのように全米監督協会とのトラブルによるケースもあることながら、何といってもバローズのイマジネーションが奔放すぎて映像技術の太刀打ちできるものではなかったからだろう[*1]。
 
 そこに描かれるのは、緑色人たちの奇妙な社会や赤色人の超科学、そして大白猿等のモンスターが跋扈する異世界だ。軍神マースの名を持つ火星に相応しく、荒々しく気高い世界なのだ。
 そこに迷い込んだ地球人ジョン・カーターが剣を振るってプリンセスを救う冒険活劇は、いくら面白くても映画で実現できる世界じゃなかった。


 一方『火星のプリンセス』が発表されてから100年のうちに、その亜流や模倣が世にはびこった。
 バローズ登場以前のSFといえば、ジュール・ヴェルヌが科学者・技術者を主人公にした現実的な冒険を描き、H・G・ウェルズは文明批判を含んだ物語を展開していた。スペース・オペラやヒロイック・ファンタジーを読みなれた今の私たちから見れば、ある意味「固い」小説ばかりだった。
 そこにエドガー・ライス・バローズは荒唐無稽な活劇を持ち込むという大発明を行った。バローズが『火星のプリンセス』で発明した「異星のモンスターや悪の皇帝と戦いながら、王女を助けて大活躍」するスタイルは、当時の読者の想像を絶するものだろう。
 そのスタイルは、またたくまに多くの模倣者を生み出した。バローズが生きている頃には数百人の模倣者がいて、その模倣者の中でも有力な者にはさらに数百人の模倣者がいたという。

 小説はもとより、1934年にはアレックス・レイモンドにより、地球人が惑星モンゴで冒険するマンガ『フラッシュ・ゴードン』が発表されてアメコミ史を代表する人気作となり、それを映画化した連続活劇も大ヒット。ジョージ・ルーカスはこれをリメイクしようとするが、権利関係をクリアできず、やむなく似て異なる『スター・ウォーズ』シリーズを作ることになる。とりわけ『ジェダイの復讐』[*2]の惑星タトゥイーンのシークエンスでは、「荒涼とした星で」「空飛ぶ船から」「肌もあらわなお姫様を」「剣を振るって救い出す」という火星シリーズの特徴がそっくり再現されており、バローズファンを歓喜させた。
 バローズが発明したスタイルは、メディアを超えて今に至るも数限りない模倣を生み続けているのだ。

 けれども、マイケル・ムアコックの"新"火星シリーズの解説で鏡明氏が述べているように、いかに優れた作家でもバローズタイプの小説に挑むとバローズの模倣の域を出なくなってしまう。バローズが生み出したスタイルの最高峰は、永遠にバローズなのだ。


 そうなると、やはり本家本元の『火星のプリンセス』をなんとしてでも映画化したいところである。
 一度映画化権を手放したディズニーに働きかけて、改めて映画化を進めたのは、10歳のときから原作のファンだったアンドリュー・スタントン監督だ。スタントン監督が熱心なSFファンであり、SFの作り手としても優れていることは、前作『ウォーリー』が証明している。
 最初に映画化が企画されてから80年以上を経て、遂に完成した『ジョン・カーター』は、原作ファンのスタントン監督らしいこだわりの見られる映画である。


■原作から変えた理由

 火星シリーズのファンは、まずオープニングロゴを見て思わずニヤリとするだろう。
 ディズニー映画でお馴染みのシンデレラ城の映像は、いつものきらびやかなものではなく、火星らしい赤茶けた色になっている。
 さらに映画の序盤、ジョン・カーターが買い物をするところも面白い。変人扱いされて、店主に追い払われそうになったカーターは、豆(beans)を出せと大声で怒鳴るのだ。これはエドガー・ライス・バローズが、自分の書いた処女作が余りに突飛な作品であったために、Normal Bean(普通のソラ豆=正気の男)というペンネームでデビューしようとしたことに引っかけた洒落だろう。

 このように映画の開巻まもないうちから、アンドリュー・スタントン監督が原作を尊重する思いはひしひしと伝わってくる。

 もちろん、原作とまったく同じというわけにはいかない。
 たとえば、タルス・タルカスをはじめとする緑色人がナメクジのように飛び出した目で全方位を一度に見たりしないのは、映像にするとグロテスク過ぎるためだろう。
 ヒロインのデジャー・ソリスが可憐なだけのお姫様ではなく勇敢な戦士として描かれるのも、現代的な女性像としては妥当だ。日本では武部本一郎画伯の挿絵によって清楚でたおやかなイメージが強いけれど、フランク・フラゼッタのイラストに馴染んだ米国では案外活動的なイメージなのかもしれない。
 また、多数のキャラクターが整理され、ジェド(国王)は姿を見せずにジェダック(皇帝)ばかりが登場するのも、2時間程度の上映時間に収めるためには致し方ない。
 それらの違いには、原作ファンも目くじらを立てたりするまい。


 それよりも原作と大きく異なるのは、原作を良く知るアンドリュー・スタントン監督が熟慮の末に作った映画であるだけに、原作の特徴である行き当たりばったりのいい加減さがなくなったことだ。

 小説やマンガの書き方は作家によって千差万別だ。プロットを綿密に練り上げ、縦横に張った伏線を回収しながら執筆する作家もいれば、先の展開はあまり考えずにドンドン書き進める作家もいる。前者の代表例はE・E・スミスのレンズマン・シリーズ、後者の例としては国枝史郎の『神州纐纈城』が挙げられよう。いずれも抜群に面白い小説で、それぞれの魅力がある。
 ただ、前者のような書き方だと、上手くはまれば構成の妙に舌を巻くが、ひとつ間違えると躍動感やスピード感に欠けたものになってしまう。
 後者の書き方では、先の展開が読めない驚きを楽しめる一方、広げた風呂敷をたためなかったり、話の辻褄が合わなかったりする。国枝史郎の作品が未完で終わったり、竜頭蛇尾と云われるのはこのためである。

 だが、エドガー・ライス・バローズは、おそらく後者のようなラフな書き方だったと思われるが、辻褄を合わせてキチンと終わらせる天賦の才を持っていた。
 『火星のプリンセス』も、状況が次々に変わって物語がどこに行き着くのか判らない面白さに満ちている。
 まず冒頭にジョン・カーターの地球でのエピソードが申し訳程度に書かれているものの、舞台は早々に火星に移ってしまう。ジョン・カーターの地球での生活や行動は、後の展開に関係ないからまったく掘り下げようとはしていない。
 火星に移動した理由も理屈も説明なしだ。

 火星に着くと、そこには4本腕の怪物的な緑色人が住んでおり、しばらくは彼らに囚われたジョン・カーターのサバイバルが描かれる。
 これが物語の中心かと思いきや、地球人そっくりの絶世の美女が登場し、「怪物の中で生き抜くたった一人の人間」という設定はあっさり捨て去られる。そしてこの美女デジャー・ソリスとのロマンスがしばらく続き、これはこれでいい感じでありながら、その後デジャー・ソリスと逃避行したり、ジョン・カーターの単独行になったり、国家間の大戦争になったりと、あれよあれよと物語のテイストは変わっていく。
 そして物語は、健全なご都合主義の助けも借りながら、大団円に向かってひた走る。
 行き先の判らない急坂を転げ落ちるようなこの感じが、物語の躍動感を高めて実に心地よい。

 しかし、このような作り方は個人作業の小説やマンガならともかく、集団作業の映画では難しい。
 いや、笠原和夫氏が脚本を書いた『県警対組織暴力』(1975年)のように勢いつけて急坂を転げ落ちるような面白い映画もあるけれど、少なくとも今のハリウッドの大作映画は、プロットを綿密に練り上げて、複数人で脚本を執筆し、プロデューサーたちの了解を得てストーリーを確定させるやり方だ。
 ましてアンドリュー・スタントン監督の所属するピクサーは、集団でストーリー作りをすることで知られている。
 そしてスタントン監督は、ディズニーで制作した『ジョン・カーター』にもピクサーの流儀を持ち込んだ。
 たとえばスタントン監督は、ジョン・カーターが火星へ移動する理屈をみんなで考えたと述べている。
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原作では地球からバルスームへ、緑色のスモークとともに瞬間移動するジョン・カーターだが、映画ではメダルが移動のアイテムになる。「カーターの移動に関しては、初めて原作を読んだ子供のときから“そりゃないだろう”と思っていた(笑)。今回、真っ先にやったのも、移動にどうリアリティをもたせるかだった。みんなで頭をひねりまくって考えたんだよ」
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 理屈っぽくないのが原作の魅力なので、不思議な力で瞬間移動したと云うだけでも良いと思うのだが、昔からの原作ファンであるスタントン監督だけに、自分なりの説明を付けずにはいられなかったのだろう。

 『ジョン・カーター』の脚本はアンドリュー・スタントン監督がマーク・アンドリュースとともに執筆し、さらにSF作家のマイケル・シェイボンが修正している。
 このように、複数人で脚本を仕上げていくのはハリウッドでは珍しくない。しかしそれが原因なのか、できあがった映画からはバローズらしい行き当たりばったりのいい加減さが感じられない。

 たとえば、原作では後半まで登場しないゾダンガ帝国のサブ・サンを冒頭に出すことで、物語の構造を早々にきちんと示しているし、ジョン・カーターの地球での身分や暮らしもしっかり描いて主人公の背景を観客に説明している。
 それに本来『火星のプリンセス』には出てこない(続編のキャラクターである)サーンを登場させてまで、火星への瞬間移動に理屈を付けて、ちっともいい加減ではない。


 また本作は、主人公の動機付けと行動もピクサー流だ。
 ピクサーの「脚本の書き方講座」によれば、ピクサー作品の主人公は「大切なもの」に執着しており、それが失われたために分別のない行動に出てしまう――というパターンになっているそうだ。
 ところが原作のジョン・カーターには、執着するほど大切なものなんて何もない。デジャー・ソリスと恋に落ちて、はじめて守るべきものができるのだ。
 これではピクサーの作劇パターンに当てはまらないから、スタントン監督はジョン・カーターに愛する妻子がいたことにした。そして妻子を失ったがために人里離れた荒野でバカげた黄金探しに没頭し、それが誰も知らない洞穴を経た冒険に繋がることにした。

 このようなやり方は、長年ピクサーで映画作りに携わったスタントン監督らしいと云えるだろうし、近年のアメリカ映画の多くが妻子と別れた男を主人公としていることからも、真っ当なアプローチであろう。


 しかし、こうした取り組みは、バローズ作品に見られる、
 ・痛快なほど楽天的な主人公
 ・あれこれ考える間もなく襲ってくる危機また危機の連続
といった特徴とは相容れない気がする。

 たぶんアンドリュー・スタントンは、プロットを綿密に練り上げ、縦横に張った伏線を回収していくタイプの作り手なのだ。
 他方、エドガー・ライス・バローズの魅力は、行き当たりばったりで荒唐無稽なところである。
 さてさて、これら二つの流儀のブレンドを、観客はどう味わうだろうか。


■大切なのは異星か異性か

 もっとも、アンドリュー・スタントンが理屈を付けなかったところもある。
 舞台となる惑星バルスームが、原作どおり火星とされている点だ。
 原作の書かれた100年前は、火星に運河があって、火星人が存在すると云われていた時代である。バローズが火星を舞台に冒険物語を書くのは、もっともなことだった。
 しかし、火星探査が行われた今では、火星に文明があるとは誰も思っていない。だから、バルスームを火星ではなく架空の星に設定しても良かったはずだ。

 だが、さすがにアンドリュー・スタントンは*火星*シリーズのファンである。こればっかりは変更できない。
 そこでスタントンが取った手段は、時代設定を原作どおり19世紀に据え置くことだった。現代の観客は、まず火星人がいると思われていた時代に連れて行かれ、そこから別の惑星バルスームに連れて行かれる。この2段階の飛躍によって、火星探査機のある現実から、絶世の美女のいる火星へ観客をいざなうのだ。


 また、映画『ジョン・カーター』では、結婚式をクライマックスに持ってきたのも嬉しいところだ。
 意に沿わない結婚からヒロインを助け出すのが、男子最大の冒険だ。エドガー・ライス・バローズの作品は、そういう話ばかりである。
 この古典的なフォーマットは、バローズの系譜を継ぐ『フラッシュ・ゴードン』(1980年)がなぞったのはもちろんのこと、冒険活劇の典型である『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)でも採用している。活劇ばかりじゃなく、青春ドラマの『卒業』(1967年)も、クライマックスは結婚式での花嫁奪還だ。

 ただ、残念ながら今ではこういう映画をなかなか作れない。
 それは結婚の意義が薄れているからだ。結婚したって、相手が嫌ならば離婚すれば良いし、はなから結婚しないカップルもいる。どの映画を見たって登場人物の誰も彼もが離婚しているご時世に、結婚を阻止する冒険にどれだけの意味があるだろうか。
 そこで映画の作り手は、クライマックスに結婚以外の要素を盛り込むようにしている。もちろんクライマックスは結婚式なのだが、『ルパン三世 カリオストロの城』ではそれが同時に偽札作りの陰謀を暴く場となり、『フラッシュ・ゴードン』では地球を救うタイムリミットを重ね合わせる。
 本作でも、結婚式を邪魔することがゾダンガ帝国の野望を挫き、ひいては火星を救うという寸法だ。

 本当は火星の危機なんてどうでもいいのだが、そういうことを絡めてでも結婚式をクライマックスにしようとしたのが、アンドリュー・スタントンの熱意の表れである。
 それでこそ、100年にわたって世界中を熱狂させてきた宇宙冒険大活劇の王道というものだ。


[*1]無謀にも2009年に『火星のプリンセス』のビデオ化がなされている。日本では『アバター・オブ・マーズ』という邦題で、『アバター』のパチもんのような売られ方をしている。
 その『アバター・オブ・マーズ』の監督・脚本・撮影を手がけたマーク・アトキンスは、やはりエドガー・ライス・バローズの小説『時間に忘れられた国』をビデオ化した『ランド・オブ・ザ・ロスト』(2009年)の撮影も担当している。

[*2]『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』は、DVDの発売に当たって原題『Return of the Jedi』に即した『スター・ウォーズ/ジェダイの帰還』に改題されているが、本ブログは映画初公開時の表記に合わせることを原則とする。

ジョン・カーター DVD+ブルーレイセット [Blu-ray]ジョン・カーター』  [さ行]
監督/アンドリュー・スタントン  原作/エドガー・ライス・バローズ
出演/テイラー・キッチュ リン・コリンズ ウィレム・デフォー サマンサ・モートン マーク・ストロング キアラン・ハインズ ドミニク・ウェスト ジェームズ・ピュアフォイ ダリル・サバラ トーマス・ヘイデン・チャーチ
日本公開/2012年4月13日
ジャンル/[SF] [アドベンチャー] [ファンタジー]
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