『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』 日英の大きなギャップ

 うまいオープニングだ。映画はあり得ないようなシチュエーションではじまり、観客をギョッとさせる。
 なんと老いたマーガレット・サッチャーがスーパーのレジに並び、ミルクを買っているのだ。首相経験者は生涯にわたって警護されるはずだから、彼女が一人でスーパーに行くなど尋常ではない。
 にもかかわらずサッチャーは一人きりで買い物を済ませると、夫と食卓を囲みながらミルクの価格について会話する。
 これら一連のシークエンスで、マーガレット・サッチャーにただならぬことが起きているのが観客にも判る。

 『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』は、英国首相として20世紀最長の在任記録を持つマーガレット・サッチャーの生涯をたどった映画である。
 映画の作り手にとって、彼女の人生への切り口はたくさんあったはずだ。上流階級の者たちの中で食料品店の娘が這いあがっていく苦闘。女性初の保守党党首、女性初の英国首相としての栄光。魅力的な物語はいくらでも作れる。
 しかし映画の中心になるのは、認知症に悩まされ、警護されてるはずなのにまるで監禁されているかのような老婦人の姿であった。

 映画人は皮肉屋だ。
 強大な権力を掴みながら孤独な老後を送った人物の評伝といえば、先ごろ『J・エドガー』が公開されたばかりだ。やはり実在の、しかも存命中の人物を扱った映画としては、『ソーシャル・ネットワーク』も記憶に新しい。
 いずれの作品も、構造は同じだ。
 主人公は権力、財力を手に入れて、はた目には成功者に見えるものの、実は孤独を抱えている。それは権力でも財力でも満たせない。人生において本当に大切なものは、もっと別のものなのだ。
 ――どの映画も、そんな描き方をする。映画人は、権力者や資産家の人生に皮肉を利かせることで、観客の大多数を占める一般庶民が納得できるように主人公の人物像を引きずり下ろしたつもりでいる。

 実際、制作総指揮のキャメロン・マクラッケンは、本作が権力と、権力のために支払う代価に関する映画だと述べている。公私のバランスを取らねばならなかったすべての人に通じる物語であると。
 また、公式サイトによれば、脚本家アビ・モーガンが本作を執筆したきっかけは、マーガレットの娘が母の認知症を認めたことだったという。
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あれほど強靭な女性も、自分たちと同じように普通の人間で、年を取り弱くなっていく。その事実に衝撃を覚えたモーガンは、舞台を現代に置くことで、権力者が権力を失うこと、年を取ること、そして喪失について語ってみたいと考えた。「私は、王となった人間が権力を失うのはどういうことなのかを追求してみたいと思いました。自分で朝食の支度をしなければならなくなった、かつての王様の姿。」
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 なるほど、本作を観れば、キャメロン・マクラッケンやアビ・モーガンの狙いが充分に反映されていることが判る。映画は幻覚に悩まされる老人を追い続け、そこにときどき過去のシーンが挿入される。過去の上り調子の頃と現在の姿を対比させようとする意図は明らかだ。


 しかし、マーガレット・サッチャーについて描かれるべきは、そこなのだろうか。
 現在の彼女は認知症に悩まされている。それはそうだろうが、認知症は誰にでも訪れる可能性がある。首相か否かに関係ない。はたして現代のシーンにおける老人の姿は、女性初の英国首相ならではの描写といえるだろうか。
 マーガレット・サッチャーの功績には賛否さまざまな意見があろうが、彼女が20世紀後半に世界有数の指導者であったことは間違いない。だからこそ、映画の題材たり得るのだ。にもかかわらず、皮肉な映画人は、抜きん出た能力や信念や情熱を持った人を、矮小化してはいないだろうか。
 真にドラマチックな部分は、実は引きずり下ろすことのできない、一般庶民には納得しがたいところにあるのではないだろうか。

 そうなのだ。私たちは、どこにでもいそうな今の哀れな老人よりも、誰とも違うキャリアを歩んだ女性がいかに誕生したのかを知りたいのだ。マーガレット・サッチャーの鉄の意志はどこから来るのか、いかようにしてこの激しい気性の人物が誕生したのかを知りたいのだ。

 劇中、サッチャーは「英国の衰退を食い止める」と宣言し、周囲の反対を押し切って数々の施策を実行する。こんなことをしたら次の選挙で勝てない、と心配する者たちを尻目に、数世代後の人々が評価してくれると云い放つサッチャー。
 今、衰退しつつある国に住んでいる私たちは、そんな人物の来歴をこそ見たいと思う。


 しかし、そう感じるのは私が英国人ではないからだろう。
 マーガレット・サッチャーは、12年近くも首相であり続けた。そのあいだ英国では彼女の生い立ちが繰り返し語られただろうし、サッチャー政権時代の記憶もみながまだ共有している。観客の中には、施策に反対するデモに参加した者もいるだろう。その権力者ぶりはアビ・モーガンが「王様」と呼ぶほどだった。
 英国人にとっては、このイギリス映画で語られるサッチャーの老後こそが目新しく、興味を引く部分なのだ。
 「母のように皿を洗う毎日はイヤ!」と叫んで首相にまで上り詰めた女性が、老いた後、ティーカップを洗うときに見せる穏やかな表情。そこに、長年マーガレット・サッチャーという「王様」を戴いていた英国民なら感慨を覚えるはずだ。

 それが、鉄の女と呼ばれたマーガレット・サッチャーの描き方として相応しいかどうかはともかく。

 「左翼のファンタジー」
 本作に対して、マーガレット・サッチャーの子供マークとキャロルはそう感じたという。
 サッチャーの縁者には、この映画が彼女とは立場を異にする者たちの夢物語に見えたのだ。映画では、サッチャーが子供たちをないがしろにして政治に邁進する様子が描かれるが、当の子供たちがこの映画は違うと云っている。
 本当の鉄の女は、映画人が2時間枠で描けるような、一般の観客が判ったつもりになれるような、そんな人間ではないのかもしれない。


 それでも、本作における主人公の存在感は圧倒的だ。
 第84回アカデミー賞の主演女優賞とメイクアップ賞の受賞は、誰にも異を唱えられないだろう。


マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙 コレクターズ・エディション [Blu-ray]マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』  [ま行]
監督/フィリダ・ロイド
出演/メリル・ストリープ アレクサンドラ・ローチ ジム・ブロードベント ハリー・ロイド オリヴィア・コールマン ロジャー・アラム スーザン・ブラウン ニック・ダニング ニコラス・ファレル イアン・グレン リチャード・E・グラント
日本公開/2012年3月16日
ジャンル/[ドラマ] [伝記]
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【theme : イギリス映画
【genre : 映画

tag : フィリダ・ロイド メリル・ストリープ アレクサンドラ・ローチ ジム・ブロードベント ハリー・ロイド オリヴィア・コールマン ロジャー・アラム スーザン・ブラウン ニック・ダニング ニコラス・ファレル

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