『ALWAYS 三丁目の夕日'64』に泣くのは恥ずかしくない
まず『ALWAYS 三丁目の夕日'64』という題名が注目に値する。
同じように題名に年数が使われた映画には、1974年から1975年にかけて公開された『エアポート'75』や1999年末公開の『ゴジラ2000 ミレニアム』がある。お判りのように、題名に付けられた年数は映画の公開時期であり、その作品が新作であることをアピールしている。
けれども『ALWAYS 三丁目の夕日'64』の公開は2012年であり、1964年ではない。
あるいは『1911』や『1492 コロンブス』のように、誰もが知っている歴史的な出来事のあった年を題名にすることもある。
では1964年に歴史的な出来事があっただろうか。
そう問われても、多くの人思い浮かべるのは新幹線の開通や東京オリンピックくらいだろう。有名な出来事ではあるものの、それらを歴史的とまでは云うまい。
ではこの頃に歴史的な出来事はなかったのか?
あったのだ。歴史に残ることが。
もちろんそれは新幹線の開通や東京オリンピックのことではない。
また、この映画の山崎貴監督と出演する堤真一さん、薬師丸ひろ子さん、温水洋一さんらが生まれたことや、2012年の公開は十二支が4回巡って年男・年女の集結となったことでもない。
もっと大きな日本史上の出来事である。
ここで質問だ。
目の前に日本史の年表を広げてどこか一ヶ所で区切るとしたら、あなたはどこに区切りを入れるだろうか。
明治維新?
第二次世界大戦の終わり?
実は、応仁の乱の前後で切れるというのが日本史研究者の一致するところであるという。室町時代までの中世と戦国時代以降の近世が、応仁の乱で切れるのである。
では、二ヶ所目の区切りを入れるならば、それはどこか?
今度こそ明治維新か、それとも敗戦か?
いやいや、與那覇潤氏によれば、高度経済成長期で切れるそうだ。
近世に完成を見た地域ごとのムラ社会――それは、居住地と身分(職業)を固定し、住民同士の相互扶助によるセーフティ・ネットになるとともに相互監視による安心社会をもたらし、地域ごとの濃密な中間集団を形成した。
ところが高度経済成長期になって、地域に根差していたムラが変容する。
與那覇潤氏は『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』において、1960年代の高度成長路線を「地方のムラの人々を会社という『都市のムラ』へ引っ越しさせる」政策であると述べている。高度経済成長期こそは、「戦国時代と並ぶ日本人の生活の激変期」であったという。
そして高度経済成長期のド真ん中が1964年であり、その象徴的な出来事としての新幹線開通や東京オリンピック開催がある。この時期から日本人は、それまでとは違う生活をはじめたのだ。
だから、『ALWAYS 三丁目の夕日'64』の作り手が、1964年を舞台にしたことは慧眼である。
私たちがこの映画を観て懐かしさを覚えるのは、単に東京オリンピックがあったとか、テレビを買って嬉しかったということではない。数百年にわたり連綿と続けてきた生活がここを境に変容してしまった、そのことに感慨を抱くのだ。
ALWAYSシリーズは、とりわけ一貫して家族の変容を描いてきた。
文学崩れの茶川は他人の子供と暮らそうとし、鈴木オートは青森から上京してきた従業員の星野六子(ほしの むつこ、通称ロクちゃん)を家族として扱う。本作に至っては、六子の郷里の両親よりも勤務先の上司であり雇い主である鈴木則文が六子の親として振る舞う。[*]
そして結婚が持つ家と家とを結びつける機能を無視して、本作の登場人物たちは結婚するもしないも本人たちの自由意思で進めてしまう。
本作は一見ほのぼのと家族を賛美するようでいて、実のところ血縁を超えた人間関係の構築がテーマになっているのだ。
21世紀の日本における暮らし方の主流は単身世帯である。多くの人が一人で生きていこうとしている。ハッキリ云えば、血縁に依拠した家族というものが不人気なのだ。
そんな現代において、このシリーズは昔ながらの家族の良さを充分に認めつつ、血縁によらず生活を共にする疑似家族の形成を描き続け、遂に本作では疑似家族から独立する子供や、新たな家族の創出を描いている。
そして数百年来の日本の伝統だった長男が家を継ぐことに関しても、家を継ぐ長男や継がない長男、継げと云われている長男や継ぐなと云われている長男等々、時代の変化とともに出現したさまざまなパターンを描き、古い伝統はここで終わったことを示す。
私たちはこの映画の中に、失われゆくものと新たに生まれたものの双方を見い出すだろう。その双方に愛情を感じ、いずれにも優しさや思いやりがあったことを知る。
しかし時代は変化したのだ。
本作は、単に過去の時代を振り返ったり、懐かしんだりするだけの映画ではない。
あの時代はすでに過ぎ去り、私たちは違う時代に生きているが、あのとき私たちは希望を胸にみずからの足で踏みだしたのだ。新しいものを愛おしく思えばこそ、この道を選んだのだ。
本作はそのことを思い出させ、今の私たちを勇気づける映画なのである。
[*]六子が見染めた菊地医師の人となりを巡る騒動が、本作の主要なエピソードとなる。
とはいえ、自動車修理工たる六子は、無意識のうちに菊地医師のクルマが発するメッセージを読み取っていたに違いない。なにしろ菊地医師のクルマのナンバーは、4114(良い医師)なのだから。
『ALWAYS 三丁目の夕日'64』 [あ行]
監督・脚本・VFX/山崎貴 脚本/古沢良太
出演/吉岡秀隆 堤真一 小雪 薬師丸ひろ子 堀北真希 森山未來 もたいまさこ 染谷将太 大森南朋 三浦友和 須賀健太 小清水一揮 マギー 温水洋一 神戸浩 飯田基祐 ピエール瀧 蛭子能収 正司照枝 高畑淳子 米倉斉加年
日本公開/2012年1月21日
ジャンル/[ドラマ] [ファミリー]
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けれども『ALWAYS 三丁目の夕日'64』の公開は2012年であり、1964年ではない。
あるいは『1911』や『1492 コロンブス』のように、誰もが知っている歴史的な出来事のあった年を題名にすることもある。
では1964年に歴史的な出来事があっただろうか。
そう問われても、多くの人思い浮かべるのは新幹線の開通や東京オリンピックくらいだろう。有名な出来事ではあるものの、それらを歴史的とまでは云うまい。
ではこの頃に歴史的な出来事はなかったのか?
あったのだ。歴史に残ることが。
もちろんそれは新幹線の開通や東京オリンピックのことではない。
また、この映画の山崎貴監督と出演する堤真一さん、薬師丸ひろ子さん、温水洋一さんらが生まれたことや、2012年の公開は十二支が4回巡って年男・年女の集結となったことでもない。
もっと大きな日本史上の出来事である。
ここで質問だ。
目の前に日本史の年表を広げてどこか一ヶ所で区切るとしたら、あなたはどこに区切りを入れるだろうか。
明治維新?
第二次世界大戦の終わり?
実は、応仁の乱の前後で切れるというのが日本史研究者の一致するところであるという。室町時代までの中世と戦国時代以降の近世が、応仁の乱で切れるのである。
では、二ヶ所目の区切りを入れるならば、それはどこか?
今度こそ明治維新か、それとも敗戦か?
いやいや、與那覇潤氏によれば、高度経済成長期で切れるそうだ。
近世に完成を見た地域ごとのムラ社会――それは、居住地と身分(職業)を固定し、住民同士の相互扶助によるセーフティ・ネットになるとともに相互監視による安心社会をもたらし、地域ごとの濃密な中間集団を形成した。
ところが高度経済成長期になって、地域に根差していたムラが変容する。
與那覇潤氏は『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』において、1960年代の高度成長路線を「地方のムラの人々を会社という『都市のムラ』へ引っ越しさせる」政策であると述べている。高度経済成長期こそは、「戦国時代と並ぶ日本人の生活の激変期」であったという。
そして高度経済成長期のド真ん中が1964年であり、その象徴的な出来事としての新幹線開通や東京オリンピック開催がある。この時期から日本人は、それまでとは違う生活をはじめたのだ。
だから、『ALWAYS 三丁目の夕日'64』の作り手が、1964年を舞台にしたことは慧眼である。
私たちがこの映画を観て懐かしさを覚えるのは、単に東京オリンピックがあったとか、テレビを買って嬉しかったということではない。数百年にわたり連綿と続けてきた生活がここを境に変容してしまった、そのことに感慨を抱くのだ。
ALWAYSシリーズは、とりわけ一貫して家族の変容を描いてきた。
文学崩れの茶川は他人の子供と暮らそうとし、鈴木オートは青森から上京してきた従業員の星野六子(ほしの むつこ、通称ロクちゃん)を家族として扱う。本作に至っては、六子の郷里の両親よりも勤務先の上司であり雇い主である鈴木則文が六子の親として振る舞う。[*]
そして結婚が持つ家と家とを結びつける機能を無視して、本作の登場人物たちは結婚するもしないも本人たちの自由意思で進めてしまう。
本作は一見ほのぼのと家族を賛美するようでいて、実のところ血縁を超えた人間関係の構築がテーマになっているのだ。
21世紀の日本における暮らし方の主流は単身世帯である。多くの人が一人で生きていこうとしている。ハッキリ云えば、血縁に依拠した家族というものが不人気なのだ。
そんな現代において、このシリーズは昔ながらの家族の良さを充分に認めつつ、血縁によらず生活を共にする疑似家族の形成を描き続け、遂に本作では疑似家族から独立する子供や、新たな家族の創出を描いている。
そして数百年来の日本の伝統だった長男が家を継ぐことに関しても、家を継ぐ長男や継がない長男、継げと云われている長男や継ぐなと云われている長男等々、時代の変化とともに出現したさまざまなパターンを描き、古い伝統はここで終わったことを示す。
私たちはこの映画の中に、失われゆくものと新たに生まれたものの双方を見い出すだろう。その双方に愛情を感じ、いずれにも優しさや思いやりがあったことを知る。
しかし時代は変化したのだ。
本作は、単に過去の時代を振り返ったり、懐かしんだりするだけの映画ではない。
あの時代はすでに過ぎ去り、私たちは違う時代に生きているが、あのとき私たちは希望を胸にみずからの足で踏みだしたのだ。新しいものを愛おしく思えばこそ、この道を選んだのだ。
本作はそのことを思い出させ、今の私たちを勇気づける映画なのである。
[*]六子が見染めた菊地医師の人となりを巡る騒動が、本作の主要なエピソードとなる。
とはいえ、自動車修理工たる六子は、無意識のうちに菊地医師のクルマが発するメッセージを読み取っていたに違いない。なにしろ菊地医師のクルマのナンバーは、4114(良い医師)なのだから。

監督・脚本・VFX/山崎貴 脚本/古沢良太
出演/吉岡秀隆 堤真一 小雪 薬師丸ひろ子 堀北真希 森山未來 もたいまさこ 染谷将太 大森南朋 三浦友和 須賀健太 小清水一揮 マギー 温水洋一 神戸浩 飯田基祐 ピエール瀧 蛭子能収 正司照枝 高畑淳子 米倉斉加年
日本公開/2012年1月21日
ジャンル/[ドラマ] [ファミリー]

