『マネーボール』 経済学は冷たいか?

 「経済学は冷たい」
 そんなツイートを目にすることがあった。ひとつの学問に冷たいだの温かいだのと体感温度はないはずだが、そういう思い込みを持つ人がいることに興味を引かれた。

 『マネーボール』は、プロ野球チーム・アスレチックスのゼネラルマネージャーであるビリー・ビーンが、イェール大学で経済学を専攻したピーター・ブランドと共にチームの改革に取り組む物語だ。
 ピーター・ブランドのモデルになった人物ポール・デポデスタは、ハーバード大学の出身だそうで、映画の作り手がなぜイェール大学に変えたのかは判らない。脚本のアーロン・ソーキンが手掛けた『ソーシャル・ネットワーク』はハーバード大学を舞台にしていたから、もうハーバードはいいよと思ったのかもしれない。
 あるいは経済学については、ポール・クルーグマンをはじめノーベル経済学賞受賞者を輩出しているイェールの方が今は受けると考えたのかもしれない。
 それはともかく、経済学を専攻して統計を学んだピーター・ブランドは、アスレチックスを安くて勝てるチームにすべく統計的手法を駆使する。


 考えてみれば統計とは不思議なものだ。
 経済学のみならず、理学、工学等、多くの分野で使用され、統計を学んだ人も多いに違いないのに、私たちの暮らしに十二分に活かされているかは疑問だ。政治家や経営者が述べる施策にしろそれへの反論にしろ、統計的な裏付けがあるとは云えないことが多いし、ましてや日常の判断に統計的手法を使っている人は皆無ではないか。
 たとえば、初詣する人は、それで1年間の運勢が良くなるという統計的な裏付けがあるから行くわけではない。血液型と性格が関係すると考えている人は、そのことを立証するデータを目にしたわけではない。
 にもかかわらず、日本人の約8割が初詣に繰り出し、血液型性格診断に関する本はいつも書店を賑わしている。そして人々は、そこに時間や金銭を費やすだけの便益があるか否かの検証すら行わない。
 統計なんて特定の狭い領域でしか使えない、と思われているのかもしれない。

 人間の評価にしても同じことだ。
 『マネーボール』に登場するスカウトたちは、多くの選手たちを値踏みする。曰く、「あいつは球を打つ音がいい」「いい顔をしている」「彼女が美人じゃない。魅力のない証拠だ」……。彼らはそんな主観や印象論で判断し、ある選手には高い報酬を提示し、別の選手は選択肢から外す。

 また、判断材料に数字を使ったとしても、それが本当に適切かは疑問である。
 劇中、ビリー・ビーンとピーター・ブランドが打率ではなく出塁率を重視して、周囲から非難される場面がある。打率は安打のみから算出するが、出塁率の計算には四球も含まれる。投手のミスである四球を、打者の評価に使うのはおかしいとみんなは考えていたのだ。
 しかし、選手を評価する指標は、チームの勝敗を左右する重大な要素である。なぜなら、評価指標を打率にするか出塁率にするかで選手の行動も変わってくるからだ。

 もしも出塁率で評価してもらえるなら、たとえ四球だろうが塁に出さえすれば良い。したがって打者は投手が繰り出す球を正確に見極めて、ボールのときには手を出さないだろう。ボールを積み重ねることも塁に出るためには役立つからだ。
 他方、打率で評価されるのであれば、とにかく球を打たなければならない。バットを握って立っているだけじゃ評価は上がらないのだから、何はともあれバットを振るだろう。それで安打になれば良いものの、アウトになることも増えるかもしれない。
 こうして考えれば、チームが勝つ上では打率と出塁率のどちらが大事か判るはずだ。
 にもかかわらず、ビリー・ビーンとピーター・ブランドが云い出すまでは、誰もが打率を重視していた。
 そして目出つ選手や打率の良い選手が高評価を得るために、ボールを正確に見極めるような地味な選手は冷遇されていた。

 ビリー・ビーンとピーター・ブランドは、そこに統計的手法を駆使して本当に重視すべき指標を持ち込んだ。主観や印象論で評価するのでもなければ、目に付きやすい数字だけを取り上げるのでもなく、本当にチームに貢献する人を掘り起こす指標を統計的に導き出した。
 彼らが行ったのは他でもない、評価システムの見直しなのである。
 そして映画では、冷遇されてきた選手たちが、自信を取り戻し活躍する。
 そんなビリーやピーターの手法が冷たいだろうか。主観や印象論ばかりの旧来のやり方に温かみがあるのだろうか。

 本作に関して、ビリー・ビーン役のブラッド・ピットはこう語る。[*]
 「この作品は、価値観や我々が人をどう評価するか、そして社会における評価システムによって、自分たちの価値とは何かが決まる、といったことを描いている。勝者とはなにか、敗者とはなにか。そうした普遍的なテーマを扱っているんだ」
 ピーター・ブランド役のジョナ・ヒルの意見も同様である。[*]
 「これは、過小評価されている人たちについての映画なんだ。ビーンは子供のころからずっと過小評価されてきたピーターのような人間にチャンスを与えた。それは光り輝き、花を咲かせるチャンスだ。それを描いていることが、この映画のすばらしいところだと思う」

 もう将来はないと思われていた選手が、違う物差しを当てることで輝き出す様は感動である。


 ただし、机上の計算だけでチームがうまくいくわけではない。本作は、チームマネジメントの基本もちゃんと押さえている。
 ・リーダーがビジョン(この場合は優勝)を掲げ、メンバー全員にみずからの言葉で伝達する。
 ・新たに採用した方式の狙いや効果を各メンバーに説明し、リーダーの考えを浸透させる。
 ・チームのムードを乱す者は、場合によっては退場させてでも、みんなのベクトルを一致させる。
 こういったマネジメントの基本を実践することでチームは変わっていくのだが、それも統計的な数字の裏付けがあればこそである。


 もっとも、統計的に数字を出しやすい分野とそうでない分野がある。
 野球は比較的数字にしやすい分野だろう。試合数が多いので母集団が大きく、個々の選手の活躍も衆目の下で測定しやすい。

 しかし、吉田耕作氏によれば、一般企業においては個人の業績は測れないという。成果の80%はみんなが係わり合った結果であって、環境から独立した個々の人間の成果として判別できるのはごく一部であるというのだ。
 そのような中で、無理に従業員に序列を付けたり、ましてや序列に応じて報酬額を大きく変動させては、かえってパフォーマンスは低下するだろう。
 吉田耕作氏は次のように述べる。
---
序列制は恐怖による経営である。なぜなら、従業員のあいだに失業という恐怖の念を植えつけるからだ。恐怖の念は個人個人の人間の尊厳を奪い、従業員の創造力を枯渇させ、長期にわたる質および生産性の向上には結びつかない。リーダーは、このことをしっかり肝に銘ずべきである。
---

 なるほど、『マネーボール』で描かれるのは、すでに成績によって評価するのが当たり前のプロ野球の世界であり、安いといっても数十万ドルに及ぶような高報酬が提示される人々の話だ。
 そんな報酬を提示できない一般企業では、『マネーボール』のようにはいかないことをゆめゆめ忘れてはならないのだろう。


[*] 月刊シネコンウォーカー(No.071/2011年11月12日発行)

マネーボール プレミアムエディション (初回生産限定) [Blu-ray]マネーボール』  [ま行]
監督/ベネット・ミラー
出演/ブラッド・ピット ジョナ・ヒル フィリップ・シーモア・ホフマン ロビン・ライト クリス・プラット ケリス・ドーシー
日本公開/2011年11月11日
ジャンル/[ドラマ] [スポーツ]
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tag : ベネット・ミラー ブラッド・ピット ジョナ・ヒル フィリップ・シーモア・ホフマン ロビン・ライト クリス・プラット ケリス・ドーシー

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