『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』には脱帽だ

『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』オリジナル・サウンドトラック 【ネタバレ注意】

 『猿の惑星』シリーズのリブート第一作『猿の惑星:創世記』(2011年)に、私はいささかの不満があった。旧シリーズに濃厚だった人種差別や人権問題を重視する姿勢が、リブート版からはあまり感じられなかったのだ(詳しくは「『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』に欠けているもの」を参照されたい)。

 代わって『創世記』が強調したのは、自然破壊の問題であり、科学技術に依存することへの批判だった。猿たちは虐げられた人種や民族のメタファーというよりも、人間のエゴイズム――自然破壊の犠牲者として描かれた。
 それはそれで重要な観点だが、何も『猿の惑星』シリーズでやらなくてもいいのではないか。人種差別や人権問題への目配りができなくては、旧シリーズの精神に反するのではないか。そう考えて、『創世記』にはあまり満足できなかった。

 しかし、『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』はまったく違う。まるで旧シリーズと同じ1960~1970年代の映画のような風刺と反骨精神に満ちており、差別や人権の問題にどっぷりと入り込んだ作品だ。
 リブート第一作『創世記』では、猿たちが自分の置かれた境遇を自覚するまでが描かれた。続く第二作『新世紀(ライジング)』での、猿の国の勃興と人間との対立を経て、本作では自由を求める猿たちと守旧派たる人間たちとの壮絶な戦いに突入する。

 とはいえ、「War for the Planet of the Apes(猿の惑星のための戦い)」という題名にもかかわらず、本作はアクション満載の戦闘シーンでスカッとさせる映画ではない。猿たちは人間たちに捕らえられ、鎖で繋がれ、労働を強制され、ことあるごとに鞭で打たれる。それは、許しがたい奴隷制度の復活だ。戦いとは、奴隷の身分におとしめられた猿たちが、知恵をめぐらせ、人間に抵抗することを指している。そしてまた、戦争の愚かさ、憎しみ合うことの虚しさに気づいていく"内なる戦い"でもある。


 驚くべきは人間側の設定だ。それはマカロー大佐に率いられた、白人男性を中心とする冷酷無比な軍隊だ。
 白人男性を全体主義的圧制者として描くのは珍しくない。典型的なのがスター・ウォーズ・シリーズだ。このシリーズでは、白人の男性で構成された帝国軍に、女性リーダーの下に集まった種々雑多な種族からなる反乱同盟軍が挑んでいた。
 ただ、お揃いの黒い軍服に身を包んだ帝国軍は、明らかにナチス・ドイツをモチーフにしていた。第二次世界大戦後に全体主義下の軍隊を描く映画が、ナチス・ドイツに材をとるのはとうぜんであったろう。
 『聖戦記』の特徴は、ナチス・ドイツとの戦いに勝利した、自由と平等の国であるはずのアメリカを、全体主義的な圧制者として据えたことだ。大佐の軍隊は星条旗を掲げ、米国の国歌を奏でている。映画の作り手は、米国とて差別と全体主義から自由ではないと訴えているのだ。
 通常、米国の映画ではこういう風に星条旗を扱わない。過去の記事で述べたように、映画に出てくる星条旗は自由と平等の象徴であり、多くの場合、勇気をもって気高い行為に及ぶものが見上げる旗として描かれる。
 米国に限るまい。自国の旗を、悪の軍団の象徴として掲げる映画には、なかなかお目にかからない。

 大佐の軍隊の目的は、病気の人間を根絶やしにして、健康な人間だけで生き延びようというものだ。病気の人間だけでなく、それを邪魔立てする者も生かしてはおかない。優生思想、選民思想を歪めた考え方だが、人々の多様性を許さず、一定の型にはめようとする(はまらない人間は攻撃する、排除する)動きは、残念ながら現実にまま見られる。
 米国もまた、その病魔に侵されている。映画の作り手たちの危機感は、並々ならぬものがあるのだろう。

 しかも、大佐の軍隊のマークはΑΩ(アルファオメガ)だ!兵士たちはΑΩの入れ墨を彫り、星条旗にもΑΩをスプレーで書き、隊列を組んで「我々は最初であり、最後である!」と唱和している。私はその描写に溢れ出る作り手たちのアナーキーさにぶっ飛んだ。
 ΑΩ(アルファオメガ)は新約聖書に見られる言葉だ。Α(アルファ)はギリシャ文字の最初の文字、Ω(オメガ)は最後の文字であり、「ΑΩ」は「最初から最後まで」、「すべて」を意味する。新約聖書の「ヨハネの黙示録」には、「私はアルファであり、オメガである。はじめであり、終わりである。」という主の言葉が書かれている。すなわち、ΑΩはキリスト教に深く帰依する者が崇める言葉であり、「私は――」とみずからを主語にして口にするとき、その者は神なのだ。それが狂信的な一団のスローガンとなっている。
 多くの米国人が大切にしているもの――国家と宗教――を、これほど皮肉たっぷりに歪めて描く映画は滅多にあるまい。

 ΑΩは、旧シリーズ第二作『続・猿の惑星』に登場するコバルト爆弾に書かれていた文字でもある。この映画では、コバルト爆弾が世界の終末(最後の審判の日)をもたらす装置とされ、狂信的なミュータントたちの信仰の対象だった。
 本作ではさらに進んで、信仰の対象に留まらず、ΑΩが他者を抹殺する軍隊の思想的原動力になっている。

 そんな、国家主義と信教の強制を唱える軍団に、人権を奪われ、奴隷扱いされてきた種々雑多な種族(ここではチンパンジーやゴリラやオランウータン)が団結して戦いを挑むのが本作だ。掲げられていた星条旗は、火に包まれて地に落ちる。
 国家への不信感と、伝統的価値観への反逆に彩られた本作は、まさに1960~1970年代の公民権運動や反戦運動の記憶を甦らせるものである。

               

ポスター/スチール写真 アクリルフォトスタンド入り A4 パターン3 猿の惑星 聖戦記 光沢プリント 本作のストーリーが旧約聖書の「出エジプト記」から「申命記」までを下敷きにしているのは明白だ。
 奴隷として虐げられる人々。偉大なリーダーが民を引き連れて圧制から逃れるが、豊かな大地を目の前にしてリーダーは死んでしまう。これはモーセがユダヤ人を引き連れてカナンの地を目指した物語そのままだ。
 とすると、シーザー率いる猿たちは、旧約聖書を信奉するユダヤ人のメタファーでもあろう。一方、新約聖書の言葉を過大に解釈して自由と平等を妨げているアルファオメガ軍団は、キリスト教系の過激派だ。米映画界にユダヤ人・民主党支持者が多いことを思えば、本作は、キリスト教右派と彼らに支援されている共和党勢力と戦いながら、民主党の目指す社会を打ち立てようとする話にも見えてくる――と考えるのは、うがち過ぎだろうか。

 同時に、本作はマカロー大佐が抱える苦悩と壮絶な決意をも描き、悪魔のような人物であっても勧善懲悪で切り捨てることはできないのだと世の中の複雑さを訴える。

 こんな映画を観ると、米映画界の、ひいては米国社会の度量と心意気に圧倒される。
 その凄さは彼我を置き換えてみればよく判る。この映画がやっていることを日本に置き換えれば、日の丸を掲げて「君が代」斉唱を強制し、靖国神社で軍人のコスプレをするような悪の軍団を相手に、アイヌや在日コリアンを彷彿とさせる人々が団結して戦いを挑む話になろう。あるいは、技能実習制度の名の下で人身取引や強制労働にさらされた外国人が蜂起するようなものか。そんな映画を170億円近い大金を投じて作るわけだ。日本ではスポンサーがつきそうもないし、たとえ制作できたとしても、物議を醸して上映に苦労するのではないだろうか。

 国旗や国歌には人それぞれの思いがあるだろう(あるいは何も思うところはないだろう)。それをとやかく云うつもりはない。私が『猿の惑星:聖戦記』を観て感心するのは、こんな強烈な映画でも作れること、こんな映画でも社会に受け入れられることだ。
 人種差別や人権問題に目配りした旧シリーズの精神はどうしたんだ、と考えていた私の不満は、完全に払拭された。

               

 旧シリーズの登場人物と共通するコーネリアスやノバ等の名前や、×印の磔台といった意匠を散りばめたり、オランウータンを指導的地位に就けたりして、旧シリーズとの一体感を醸し出そうとしている本作は、他にも多くの映画の記憶に彩られている。
 もっとも目につくのは、1979年の『地獄の黙示録』の影響だろう。捜索の旅の末にたどり着いた辺境の地に、禿げ頭の「大佐」が支配する軍隊が独自の世界を作っている。それは『地獄の黙示録』にそっくりだ。アルファオメガ軍団のアジトには、『Apocalypse Now(地獄の黙示録)』をもじった「Ape-ocalypse Now(地獄のサル黙示録?)」なんて落書きまで書かれている。
 そうかと思うと、終盤では映像の色合いや編集が1950年代風になり、モーセの生涯を描いた『十戒』(1956年)の影響を隠そうともしない。実に面白いディレクションだ。

 本作はまた、リブート第一作が言及した自然と人間との関わりについても忘れてはいない。
 ただしそれは、科学技術を進歩させることを批判的に捉えたり、人間活動の犠牲として自然を描いたりするものではない。本作が描くのは、人間のやることなどしょせんちっぽけなものでしかないということだ。本作の終盤で、人間たちは大自然の力――大雪崩――の前にひとたまりもなく壊滅してしまうのだ。
 これこそ、自然に対峙したときに描かれるべきことだろう。結果的に猿たちを助けた大雪崩は、「出エジプト記」における海割れの奇蹟(モーセたちを追ってきた軍が海に呑まれて全滅する)に相当するものだが、聖書の物語と大自然の壮大さとを同時に表現する展開は見事である。

 そして本作は、素晴らしい世界の建設を次の世代に託して幕を閉じる。
 それがはかない望みかもしれないことを、猿と人間の立場が逆転しただけで結局は階級社会になってしまった旧シリーズを見てきた私たちは知っているのだが、自由と平等を求める気持ちはいつだって消せないのだ。


『猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』オリジナル・サウンドトラック猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)』  [さ行]
監督・脚本/マット・リーヴス  脚本/マーク・ボンバック
出演/アンディ・サーキス ウディ・ハレルソン スティーヴ・ザーン アミア・ミラー カリン・コノヴァル ジュディ・グリア テリー・ノタリー ガブリエル・チャバリア タイ・オルソン
日本公開/2017年10月13日
ジャンル/[SF] [アクション] [ドラマ]
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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画
【genre : 映画

tag : マット・リーヴス アンディ・サーキス ウディ・ハレルソン スティーヴ・ザーン アミア・ミラー カリン・コノヴァル ジュディ・グリア テリー・ノタリー ガブリエル・チャバリア タイ・オルソン

『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』に欠けているもの

 【ネタバレ注意】

 『キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー』の記事に、Max-Tさんより『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』に関するコメントをいただいた。
 コメント欄に返事を書いていたのだが、いささか長文になってしまったので別の記事として取り上げることにした。
 以下は、Max-Tさんのコメントへの返信として書いたものである。

---
 Max-Tさん、コメントありがとうございます。

 時間があれば『キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー』も観てやってください。興行成績第1位を驀進する『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』に比べて『キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー』は初登場6位と淋しい成績です。
 たしかに『猿の惑星:創世記』の猿アクションは刺激的で、ヒットするのも判らないではありません。
 ただ、私としては『猿の惑星:創世記』の感想は複雑です。
 まず私は世評に比べて1968年の第一作をあまり評価していません。故中島梓氏も書いていたことですが、猿たちが英語を喋っているのにテイラーはここがどこだか判らなかったんかい!というラストのガッカリ感が大きいからです(^^;

 とはいえ、時間的な円環構造を持ったシリーズ物という類まれなる構成はたいへん面白く、その点は高く評価しています。つまり私は、円環構造を前面に打ち出した三作目、四作目を重視しているのです(一般的には三作目以降の評価はがた落ちのようですが)。それぞれ単体で観て面白いかどうかは別にして、三作目と四作目があるからこそ、奇抜なシリーズを構成できたのだと思います。


 さて『猿の惑星:創世記』についてですが、人間に育てられたシーザーが、長じて人間に反逆する様を描いた作品なので、位置づけとしては四作目の『猿の惑星・征服』(1972年)に相当するかと思います。
 そして『猿の惑星・征服』の特徴といえば、制作当時の時代背景を色濃くにじませていることが挙げられます。すなわち、『猿の惑星・征服』において人間から虐げられる猿たちの姿は、現実の黒人差別を重ね合わせており、人間に反旗を翻す猿たちはブラックパワーの象徴でした。
 このように社会的・政治的メッセージ色の強い四作目をベースにしながら今の時代に新作を作るとしたら、はたしてどのような主張を打ち出すのか。私の興味はもっぱらその点でした。

 ところが映画の序盤で、シーザー及びその母猿が持つ、他の猿と異なる特徴が紹介されて驚きました。他の猿よりも賢い母猿とシーザーを特徴づけるのは、緑色の目だというのです。
 緑の目は白人の特徴です。劇中、高い知能を有するシーザーの目が何度もアップになりますが、そこで映し出されるのはまぎれもなく白人の目です。
 シーザーがゴリラやオランウータン等さまざまな種類の猿を糾合してそのリーダーに収まる様子は、あたかも白人が異人種を従えてリーダーとなるかのようです。
 ましてや、登場する黒人が悪者扱いで、それほど悪いことをしたわけでもないのに、("白人"に率いられた)猿たちに殺されてしまうなんて、60~70年代だったら暴動の引き金にもなろうかというところです。

 もちろん、シーザーの目が白人の目そのものなのは、シーザー役のアンディ・サーキスが白人だからであり、目の演技を忠実に反映させるためなのでしょう。でも、現在の技術をもってすれば、目の色もコントロールできたと思うのです。
 少なくとも、目の色の違いが、他者より知的であることを示すなど、今どきこんな表現を採用するとは驚きです。
 それは、シーザーと同じような目の色のルパート・ワイアット監督にとっては、とても自然な発想だったのかもしれません。客席を埋める白人の観客も、違和感無くシーザーに感情移入するかもしれません。
 しかし、『猿の惑星・征服』が人種差別問題を扱ったSF映画だと思っていた私には、シーザーの「白人の目」が気になって仕方ありませんでした。
 別に映画に社会的・政治的メッセージなんてなくてもいいのでしょうが、どうにも2010年代にこの作品を世に送り出すことの意義が読み取れませんでした。

 オフィシャルサイトによれば、ワイアット監督は本作について「後戻りできないところまで到達してしまった僕らの文明について描いている」「自ら破滅を招く"人類への警鐘"」と語っています。そういう映画は50年代以降たくさん作られてきたので、どれをリメイクしても監督の考えは描けるでしょうが、『猿の惑星・征服』は違うだろうと思うのです。

 だから、『猿の惑星:創世記』がとてもテンポ良くまとまった娯楽作品であり、とりわけ樹上の移動シーンなど猿らしさを生かした演出に特筆すべきものがあることを認めながらも、今ひとつこの作品が腹に落ちないのです。

 そんなこんなでブログには取り上げていませんでした。


 ところで、実のところ私は『猿の惑星』シリーズ以上に、円谷プロ制作のテレビドラマ『SFドラマ 猿の軍団』(1974年)の方が好きでした。放映当時は『宇宙戦艦ヤマト』の裏番組だったのでご覧になっていないでしょうが(私は『猿の軍団』を見ていたので『宇宙戦艦ヤマト』には再放送で燃えました)、小松左京、豊田有恒、田中光二の3氏が原作者に名を連ねるだけあって、当時珍しい本格的なSFドラマでした。
 『猿の惑星:創世記』では、攻撃的なチンパンジーに本来は温和なゴリラが同調してしまうなど、彼らの生態を考えるといささか疑問を感じるところがありますが、『猿の軍団』は猿たちの特徴に応じた派閥が形成されて政治ドラマ風の色合いもあり、子供向け番組にしてはずいぶんと意欲的な内容だったと記憶しています。

 『猿の惑星:創世記』のヒットを受けて、円谷プロが『猿の軍団:創世記』なんて作ってくれれば嬉しいのですが:-)


猿の惑星:創世記(ジェネシス) [DVD]猿の惑星:創世記(ジェネシス)』  [さ行]
監督/ルパート・ワイアット
出演/ジェームズ・フランコ フリーダ・ピント ジョン・リスゴー ブライアン・コックス トム・フェルトン アンディ・サーキス
日本公開/2011年10月7日
ジャンル/[SF] [アクション] [サスペンス]
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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画
【genre : 映画

tag : ルパート・ワイアット ジェームズ・フランコ フリーダ・ピント ジョン・リスゴー ブライアン・コックス トム・フェルトン アンディ・サーキス

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