『シリアスマン』 映画化されなかった続き


 【ネタバレ注意】

 『シリアスマン』の主人公ラリー・ゴプニック教授の劇中での講義が、「シュレーディンガーの猫」と不確定性原理なのが面白い。作品のテーマと密接に結びついており、ニヤリとさせられる。
 もちろん、どちらも前世紀の初めに唱えられた基礎的な考えであり、大学で講義されるのは当然だが、あえてこの二つを説明するシーンを挿入するのがコーエン兄弟らしい。

 主人公ラリーは、わざわざ可愛い猫の絵を描いて学生たちに「シュレーディンガーの猫」の説明をしている。
 「シュレーディンガーの猫」とは、箱の中の猫の生死が外部からは判らないという物理学上の例え話である。判らないどころか、箱の中では猫が生きた状態と死んだ状態が重なり合っており、生か死か白黒つけることができない。この摩訶不思議な現象については、『ミスター・ノーバディ』の記事を参照していただきたい(あまり詳しく解説していないが)。

 もう一つ、主人公ラリーが黒板に延々と計算式を書きながら説明した不確定性原理は、1927年にドイツの理論物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクが提唱した。それは煎じ詰めれば、「物質を正確に観測することはできない」という理論だ。
 たとえば、物質の位置を正確に測ろうとするとその運動量が不確かになってしまう。逆に物質の運動量を正確に測ろうとすると位置が不確かになってしまう。結局、物質の位置と運動量を同時に知り、物質の状態を正確に捉えることはできない。位置と運動量ばかりでなく、時間とエネルギー、位相と個数等も同時に知ることはできないのだ。

 物理学とは物質の何たるかを知り、宇宙の真理を解き明かす学問のように思われがちだが、実のところそこで解明されたのは人間がいかに世界を知りえないかということである。
 少なくとも、物理学の教授であるラリー・ゴプニックが劇中で講義しているのは、人間が世界の実態を知ることはできないという話ばかりだ。
 まことに、本作の監督・脚本・制作・編集を手がけたコーエン兄弟らしいシーンである。


 不確定性原理は20世紀になって提唱されたものだが、世界が人知を超えているということは二千数百年前から云われていた。
 それが本作のベースとなった旧約聖書の『ヨブ記』である。それはこんな物語だ。

 『ヨブ記』の主人公ヨブは、正しい人だった。『シリアスマン』の主人公ラリーと同様に真面目な男(serious man)なのである。
 あるときまで、ヨブは子宝に恵まれ、経済的にも満ち足りて、幸せな生活を送っていた。
 しかし、彼の正しい行いと信仰心にもかかわらず、彼は財産を奪われ、愛する家族も失い、次から次へと災難に見舞われた。
 それでも彼は真面目であり続けた。
 にもかかわらず、さらに災難に襲われた彼は、三人の友人と三回議論した。なぜ彼が災難に遭うかを三人と話しても、彼は納得できない。
 そして、さすがの彼も真面目で従順なだけではいられないと意を決したとき、彼の前に嵐が巻き起こる……。

 繰り返すが、これは映画『シリアスマン』のあらすじではなく、『ヨブ記』のあらすじである。いや、これだけ似ていれば、どちらのあらすじと云っても構わないだろう。
 『シリアスマン』は、真面目人間のラリーが無理難題に耐え続けながら、遂に不正の誘惑に傾きそうになったときに大竜巻が発生して終わる。映画の舞台となる1967年に、ミネソタ州では実際に大竜巻が発生したそうだが、いったい大竜巻がラリーとどう関係するのか劇中で示されることはない。
 しかし、コーエン兄弟を初めとして、本作で描かれたユダヤ人のコミュニティで育った者なら、いや少なくとも旧約聖書に接したことがある者には、この竜巻が意味するものは明らかだろう。『ヨブ記』は42章からなるのだが、コーエン兄弟は嵐が発生した38章以降を映画にしなかったのだ。

 たしかに映画の完成度を考えると、ここで打ち切るのは一つの解である。
 なにしろ、このあと『ヨブ記』にはゲームのファイナルファンタジーシリーズでおなじみの怪物ベヒーモス(バハムート)やリヴァイアサンが登場し、コーエン兄弟の映画とは趣が変わってくるからだ。
 それにしても、ここで止めては『ヨブ記』の起承転結のうち起承しか映画にしていないわけで、まるで解決編のない『名探偵コナン』のようなものである。
 しかし、それで映画を完成させてしまうのが、いかにもコーエン兄弟らしい。コーエン兄弟からしてみれば、『ヨブ記』の見所は前半のヨブがいじめ抜かれるところであり、後半のヨブが説明を聞いて納得するくだりなんて、蛇足にしか思えないのだろう。

 いま私は「ヨブがいじめ抜かれる」と書いた。
 そう、ヨブが災難に見舞われるのは、そう仕向けた者がいるからなのだ。それがヨブの前に発生した嵐である。嵐――人間の力を超えた恐るべき現象。それを起こせるのは、すなわち神である。
 『ヨブ記』では、嵐の中から神が登場してヨブに説明してくれるのである。

 正確にはヨブの受難についての説明ではなく、人知を超越した神の力と人間の矮小さが語られる。そしてヨブは、この世界での出来事は到底人間には理解できないことを知り、ものごとに理由を求める無意味さに気づいて満足するのだ。
 ヨブの受難は、直接的にはサタンの仕業だが、それとて神がサタンに認めたのだから、ヨブが不平不満を云う筋合いではない。ヨブがひどい目に遭った理由なんて、ヨブが関知することではないのだ。

 『シリアスマン』に登場する人々は、本来とても賢いはずだ。
 人は困難に直面したり問題の解決を図りたいときに、ラビ(聖職者)や学者や弁護士に相談する。
 ところが本作では、ラビの答えはズレてるし、弁護士は口先ばかりで頼りにならず、困っている当の本人が学者である。真実を探求したり、人生の諸問題を解決するはずの人たちが、何の役にも立っていない。
 しかし、それでいいのだ。ラビが核心を突いたことをペラペラ喋ったりしたら、聖書の教えに反するのではないか。この世界のことなど人間には知る由もないというのが『ヨブ記』の教えなのだから。


 また、『ヨブ記』の重要なテーマは、因果応報という考え方の破壊である。
 人間は悪いことが起こると過去の所業の報いだと考えがちだ。はたまた、善いことをすれば報われると期待しがちだ。しかしそんなことはない。ついてない人は行いの善し悪しにかかわらずついてないし、性格が悪いのにラッキーが続く人もいる。因果応報なんて、人間の心の中の虚しい願望にすぎない。
 真面目な正しい人ヨブの物語が教えるのは、どんなに真面目にしていても不幸は降りかかるし、人間にはそんな世界を理解できないという残酷な事実である。
 かように紀元前4~5世紀頃に書かれたという『ヨブ記』は、その残酷な結論において、20世紀の不確定性原理に通じるのではないだろうか。

 だから、『シリアスマン』に挿入される小話にも判りやすい説明はない。悪霊かもしれない訪問者にしても、歯に刻まれたメッセージにしても、結局その真相は語られず、納得のいくオチもない。面白い話だけに尻切れトンボが気になるが、真相なんて判らないし、因果応報なんて期待できないというのがコーエン兄弟のメッセージだ。
 これまでのコーエン兄弟の作品も同様だろう。たとえば『バーン・アフター・リーディング』でも行為の善し悪しと結果の善し悪しは関係ない。

 ところが、『ヨブ記』では作者の筆が滑ったのか、物語の最後にヨブが再び財産や家族に恵まれる描写がある。苦難に耐えて正しい人であり続けたヨブは、絵に描いたようなハッピーエンドを迎えるのだ。
 長年にわたって伝えられていくためには、やっぱりハッピーエンドが必要だったのかもしれない。しかし、それでは『ヨブ記』の真意に反するのではないか。人間が因果応報を期待するのは筋違い、というのが『ヨブ記』の主張なら、最後までヨブは不幸なままで終わるべきだ。それどころか、これからもっともっと不幸になりそうな予感を残して終わるべきだ。
 コーエン兄弟は、それを徹底している。
 ハッピーエンドになる『ヨブ記』の42章を切り落とし、それどころかヨブが神と会話して満足感を得る38章以降も捨て去った。そして映画は、主人公が医者から重大な告知をされるところで終わる。
 あぁ、なんて情け容赦のないことか!


 では、因果応報を期待できない私たちは、人生をどう歩んだら良いのだろう。
 コーエン兄弟は、その疑問にもちゃんと答えている。
 映画に登場するラビたちは、なんだかトボけた、妙な人々だが、一つ大事なことを語っているのだ。
 『ヨブ記』では三人の友人と議論した後に、エリフなる人物が登場する。『シリアスマン』では三人のラビが登場するだけだが、三人目のラビは二度登場する。だから章題も「一人目のラビ」「二人目のラビ」と続きながら、その後は「三人目のラビ」ではなくラビの名前「マーシャク」になっている。マーシャク師は、『ヨブ記』における三人目の友人とエリフとを兼ねているのだ。

 このエリフという名は「彼は神である」という意味だそうだ。そして三人の友人たちが因果応報の考えに基づいて「ヨブの受難はヨブが罪深いことをしたからに違いない」と主張するのに対し、エリフは「ヨブに罪があるかどうかは神が判断することだ」と述べる。「彼は神である」と呼ばれるだけあって、エリフの言葉はいい線を突いている。
 しかしエリフの言葉にもかかわらず、ヨブが神と直接対話するまで納得しなかったように、私たち観客もマーシャク師が二度目に登場したときの言葉を重視しないで聞き流しているのではないだろうか。

 公式サイトによれば、もともと本作は、マーシャク師と少年の会話を中心とした短編映画として構想されていたそうだ。いろいろな要素が付け加わって長編映画になったものの、マーシャク師が少年に語る場面こそ本作の肝であることに変わりはない。
 そこでマーシャク師が口にするのは、1967年のヒット曲"Somebody to Love"(邦題『あなただけを』)の歌詞である。ジェファーソン・エアプレインのこの曲は、映画の冒頭にも終わりにも繰り返し流れており、とても重要なものであることが判る。
 そのメッセージは、要約すればこんな意味である。

 「真実が偽りとわかり、すべての喜びが消えたときであっても、心を尽くして人を愛しなさい」

 本作の主人公ラリーは、うまくいっていると思っていた夫婦関係がすでに崩壊していたことを知り、子供たちからは邪険にされ、兄弟の真の姿も知ってしまい、すべての喜びが消えてしまう。
 そんなとき「あなたには愛する人が必要じゃないか」と歌うのが"Somebody to Love"だ。
 こんなメチャクチャな家族でも、長男のバル・ミツバー(13歳の成人式)のためにユダヤ人コミュニティのみんなは集まってくれる。妻も子供たちも、もちろんラリーも微笑みを交わす。そしてマーシャク師は成人式のクライマックスで"Somebody to Love"の詞を繰り返す。
 コーエン兄弟のメッセージは明確だろう。

 そしてまた、映画の冒頭には次の一文が掲げられている。
 「あなたに起きることすべてをあるがままに受け入れなさい」


 もっとも、ユダヤ教のラビをおちょくったような描き方がユダヤ人の観客の心証を害するかもしれないとの配慮だろうか、エンドクレジットの最後にはこうも記している。

 "No Jews were harmed in the making of this motion picture."
 「この映画の制作に際して、危害を受けたユダヤ人はおりません。」

 本来ここは「危害を受けた動物はおりません」と表記するところだ。
 真実を知り得ず、因果応報も期待できないこの世界で私たちが生き抜く手段は、ユーモアなのである。


Serious Man (Score)シリアスマン』  [さ行]
監督・脚本・制作・編集/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン
出演/マイケル・スタールバーグ リチャード・カインド リチャード・カインド サリ・レニック アーロン・ウルフ ジェシカ・マクマナス アダム・アーキン
日本公開/2011年2月26日
ジャンル/[コメディ] [ドラマ]
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【genre : 映画

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