『ダンシング・チャップリン』 映画という窮屈な芸術

 乱立するシネコンのコンテンツ不足解消や差別化のためだろう、近年では映画ではないものもシネコンで上映されている。いわゆる「非映画デジタルコンテンツ」、ODS(Other Digital Stuff)というものだ。

 たとえば、劇団☆新感線の演劇はデジタルシネマとして収録されて、ゲキ×シネのブランド名でスクリーンにかけられている。
 そこには幾つものメリットがあろう。観客にとって一番大きいのは、地理的・時期的な理由から観られなかった公演を鑑賞できることだ。そもそも劇団☆新感線のチケットは人気が高くて入手しにくい。しかし、ゲキ×シネなら公演チケットの5分の1以下の価格で確実に鑑賞できる。
 上映する側にとっては、開催地や公演回数の制約から劇を観てもらえない人々に、鑑賞機会を提供し、新たなファンを開拓する意義があろうし、デジタルシネマとして収録することで演劇を後々に残すこともできる。

 両者にとって様々なメリットがあるわけだが、私はゲキ×シネを観に行ったことがない。
 なぜなら、役者と空間を共有できないからだ。笑い声や拍手で、観客の想いを伝えることができない。スタンディングオベーションで満足感を伝えることもできない。役者と観客で作り上げる閉鎖空間を味わうことができない。演劇なら当たり前のようにできることが制限されてしまうので、足を運ぶ気が起こらないのだ。

 大好きな劇団☆新感線の芝居ですらスクリーンで観る気にならないのだから、ましてやあまり馴染みのないバレエを収録した『ダンシング・チャップリン』を観に行くのはためらわれた。
 それでも映画館に向かったのは、他ならぬ周防正行監督の作品だからだ。周防監督がバレエという舞台芸術にどう迫るのか、そこに興味を引かれた。


 『ダンシング・チャップリン』は二幕からなっている。バレエを作り上げる過程を追ったドキュメンタリーの第一幕と、バレエそのものを上映する第二幕である。
 第一幕では、部外者にはなかなか窺い知れない舞台裏が見られて面白い。バレエを知らない私でも興味が持続したのは、元々の題材が映画だからだろう。チャップリンの映画の数々をモチーフにしたバレエ『Charlot Danse avec Nous(チャップリンと踊ろう)』を、再構成して映画にする試みが『ダンシング・チャップリン』なのだ。だから練習風景で語られるのは『モダン・タイムス』や『街の灯』等のチャップリン映画をどう表現するかであり、映画ファンとしての興味は尽きない。

 また、チャップリンの遺族へのインタビューや、チャップリンの映画を挿入することで、チャップリンその人の魅力に迫る内容にもなっている。
 本作は、『ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかける夢』にも似たメタ構造を持っており、次の構成要素を内包するのだ。
 (1) チャップリンと彼の映画の魅力
 (2) 映画を題材にしたバレエを完成させようとするダンサーたちの物語
 (3) バレエを映画として再構成しようとする周防正行監督の物語
 (4) バレエを再構成した映画『ダンシング・チャップリン』

 お気づきのように、本作は単にバレエを扱った映画なのではなく、映画をいったんバレエ化して、それをさらに映画化することによって、映画とバレエという二つの異なる芸術の両方に迫る作品なのである。
 映画ファンであれば、愛すべきチャップリンの映画にバレエ界の人たちがどう切り込むかに興味を抱くだろうし、舞台で見せることを前提に完成されたバレエに対する周防監督のアプローチにも注目だ。

 バレエファンにとっては、当代一流のダンサーが作品を完成させていく過程が面白いだろう。
 バレエを扱った映画としては、本作封切りの1ヶ月後に『ブラック・スワン』が公開され、舞台裏のダンサーたちを描いて大ヒットしたが、本作は現実の舞台裏であり、演技ではない本物のダンサーたちの姿を映し出しているところが大きく違う。『ブラック・スワン』の主人公は、役を他人に取られることを恐れて錯乱するが、本作では懸命に練習しているにもかかわらず共演者からダメ出しされたダンサーが、ためらいもなく役から外される。周防監督は残酷にも、外されたダンサーの目線で、彼抜きで続けられる練習風景を追い続ける。そこには泣き叫ぶ隙もない。

 にもかかわらず、本作から感じられるのは周防監督の愛である。
 チャップリンに代表される映画への愛、ルイジ・ボニーノという優れたダンサーがいるうちに彼の代表作『Charlot Danse avec Nous(チャップリンと踊ろう)』を記録しておきたいというバレエへの愛、そして草刈民代さんの出演作としてこの作品を選んだ妻への愛。
 第一幕を鑑賞しながら、私たちは周防監督の想いを追体験することになる。

               

 一転して、第二幕ではバレエと映画の相克が感じられる。

 周防監督は本作を撮るに当たって、『Charlot Danse avec Nous(チャップリンと踊ろう)』を作った振付家のローラン・プティと話し合っている。その中で、周防監督の提案が拒絶されることがあった。
 プティは、ダンサーの魅力を最大限に活かすべきだと考えていた。そのため、舞台美術はできるだけシンプルにして、ダンサーの他には見るものもない状態が望ましいと考えている。一方、周防監督は警官たちを公園で踊らせたかった。チャップリンは「警官と女と公園があれば映画になる」と話したという。そこで警官のダンスシーンは舞台から飛び出して現実の公園で撮影したいと考えたのだ。
 しかし、この案にプティは猛反対した。観客の目をダンサーに集中させるには、何も置かない舞台が一番である。だから公園のセットを作るのすら好ましくないのに、本物の公園にダンサーを連れ出すなんてもってのほかだ。プティは「そんなことなら、この話はなかったことにしよう」とまで云った。
 私も彼に賛成だった。優れた踊りに勝るものはない。公園の風景など、踊りを見る上では何の役にも立たない。

 ところが、である。
 第二幕に私は強い違和感を覚えた。
 たしかに、ダンサーたちの踊りは素晴らしい。カメラはその踊りを収めるために最適な構図を選んで、ダンサーの身体と表情を捉えている。
 しかし、私はとても窮屈に感じた。カメラがルイジ・ボニーノの踊りを捉える、そのとき他のダンサーのしていることが見えない。カメラが草刈民代さんの表情を捉える、そのとき手足がどのように延びているのか見えない。

 客席に身を置いて舞台を眺めているのなら、舞台上のどこを観るのも客の自由である。主役の踊りを横目で見つつ、バックのダンサーにも目を向けられる。ダンサーの手でも足でも好きなところを見つめられる。
 だが、スクリーンの中のダンサーを見る客には、そんな自由がないのだった。
 もちろん、客席からでは見られない構図、見えない細部というものもある。カメラはダンサーを俯瞰したり、顔にアップで迫ったりして、映画ならではの威力をいかんなく発揮していた。それでも、視線の自由を奪われることとのトレードオフが成り立っていたとは云いがたい。


 不思議なことに、例外なのが公園のシーンであった。
 警官たちが木立の中で踊るシーン、これはちっとも窮屈に感じないのである。
 私は振付家ローラン・プティと同様に、公園での撮影なんてもってのほかだと考えていたのに、いざ見てみると、その演目が最もしっくりくるのだ。

 理由は察しがついた。
 公園には客席がない。四角い舞台もない。視座が自由すぎるために、どこからどう見るべきなのか判らないのだ。そのため、周防監督の提示する構図を信頼して身を任せるしかない。そしてその構図そのものを楽しむことになる。
 舞台を撮影した場合は、「客席からはこう見えるはず」「客席にいればここまでは視界に収まるはず」という見当がつく。その見当が裏切られるから違和感を覚えるのだ。見当どおりに見られないから窮屈なのだ。

 奇しくも、本作は一つの舞台作品を舞台上と舞台外とで再現することで、映画の特徴と限界を浮き彫りにしてみせた。この特性を認識させたことこそ、映画としての『ダンシング・チャップリン』のユニークな点ではないか。

 ゲキ×シネも屋外でロケして撮ったなら、舞台を収録するのとは違う魅力を得るかもしれない。
 しかしそれは――もはや、一つの映画である。


ダンシング・チャップリン(Blu-ray)ダンシング・チャップリン』  [た行]
監督/周防正行  振付/ローラン・プティ
出演/ルイジ・ボニーノ 草刈民代
日本公開/2011年4月16日
ジャンル/[ドキュメンタリー]
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【theme : 日本映画
【genre : 映画

tag : 周防正行 ローラン・プティ ルイジ・ボニーノ 草刈民代

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