『コクリコ坂から』 忘れ去られたモデルとなった事件

 【ネタバレ注意】

 なぜ1963年なのだろう?
 マンガ『コクリコ坂から』が少女マンガ誌『なかよし』に連載されたのは、1980年である。もちろん、その時代を背景に、その時代の少女たちを対象に描かれたマンガだから、映画のように高度経済成長期を舞台としたわけではない。

 にもかかわらず、映画『コクリコ坂から』の時代は1963年と設定されている。
 1963年――1941年1月生まれの宮崎駿氏は22歳、学習院大学を卒業し、アニメーターとして東映動画に入社した年である。すなわち、この映画は宮崎駿氏のアニメーター人生のはじまりとなった時代を描いているのだ。

 また、主役二人の年齢から逆算すれば、その出生の秘密は18年前に遡る。1963年の18年前と云えば1945年、第二次世界大戦の末期であり、風間俊が戦災孤児であることが判る。
 名匠小津安二郎監督が、戦後の復帰第一弾として制作した『長屋紳士録』(1947年)では、上野公園にたむろする多数の戦災孤児を引き取って育てようと呼びかけている。そんなことが珍しくない時代だったのである。

 一方、劇中では主人公・松崎海の父が朝鮮戦争で死亡したことも語られており、海もまた戦災の遺族であることが判る。
 朝鮮戦争に日本が参加していたことはあまり知られていないかもしれないが、それでも北朝鮮の機雷を排除するために日本の海上保安庁が出動していたことはご存知の方もいるだろう。しかし、海の父が従事していたのは、ほとんど知られていない海上輸送である。
 宮崎駿氏は、映画『コクリコ坂から』の企画・脚本を進める中で、多大な犠牲者を出しながら日本でも忘れ去られているLSTの海上輸送にスポットライトを当てている。

 この朝鮮戦争での海上輸送について、石丸安蔵氏は戦史研究の論考で次のように書いている。
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差し迫った問題が1つあった。それは開戦に伴い日本に駐留していた占領軍を、迅速に朝鮮半島に輸送する必要があったにもかかわらず、アメリカ軍にはこれらの兵員、物資を輸送するのに十分な船舶がなかったことである。この問題を解決するためにアメリカ軍が採った方策は、第二次世界大戦の終戦処理として日本政府に貸与していたLST(Landing Ship Tank:戦車揚陸艦)や日本の商船を利用することであった。これらのLSTは日本人が乗組んで運航していた。
(略)
海上輸送に日本人が関わったという事実を追求しようとしても、海上輸送は「会社とGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)との契約に基づく行為であり、政府は全く関与していない」というかつての政府答弁に見られるとおり、全容解明には大きな壁が横たわり積極的に論議されることもなかった。
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 本作で海の父が乗り込んでいたのが、このLST(戦車揚陸艦)である。
 そして朝鮮戦争では、日本人犠牲者も少なくない。再び石丸安蔵氏の論考から引用しよう。

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ここに朝鮮戦争が勃発してから半年という期間のデータではあるが、特別調達庁が実施した集計が残されている。特殊港湾荷役者の業務上死亡が1名、業務上疾病が79名、その他21名(うち死亡者3名を含む)であり、計101名。特殊船員の業務上死亡が22名、業務上疾病が20名、私傷死が4名、私傷病が208名であり、計254名。その他朝鮮海域等において特殊輸送業務に従事中死亡した者が26名(港湾荷役が4名、船員が22名)となっている。朝鮮戦争勃発から半年間での日本人死亡者が56名となる。
これらの死亡者のうち、1950(昭和25)年11月15日元山沖を航行中のLT(大型曳船)636号が触雷し沈没した海難事故では、乗組んでいた日本人LR船員27人のうち22名が死亡するという悲惨な事故が発生している。また、日本特別掃海隊は、10月17日元山沖において掃海活動中のMS14号艇が触雷し、死者1名、負傷者18名の損害を出している。
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 おそらく海の父のエピソードは、1950年11月15日の海難事故等を念頭に設定されたのだろう。
 朝鮮戦争は今でも終わっていないが、そこに日本も「参戦」していたことは、こんにち日本人ですら忘れているのではないだろうか。

 宮崎駿氏は軍オタである。
 その反戦的な思想にかかわらず、戦史・軍事に造詣が深く、戦車や戦闘機が大好きである。いや、戦車や戦闘機が大好きで戦史・軍事に造詣があるからこそ、戦争の悲惨さを深く考察し、反戦的な思想を抱くのだろう。同族経営の軍需産業の家に生まれ、戦時中の家業が軍用機の部品作りだったことも影響していよう。

 そんな宮崎駿氏は、これまで架空の国の架空の戦争を描くことはあっても、史実としての戦争を描くことは避けてきた。盟友・高畑勲監督が『火垂るの墓』で戦争に切り込んでいるのに、である。
 本作は、そんな宮崎駿氏がはじめて日本の戦争を取り上げた作品であり、とりわけ朝鮮戦争での日本人"参戦"問題は戦史・軍事マニアの氏だからこそ掘り起こせた題材である。

 宮崎駿氏は、映画『コクリコ坂から』で1963年を舞台に高校生たちの青春群像を描くことで自身の青春時代を振り返るとともに、朝鮮戦争そして第二次世界大戦と、自分の幼少期を取り巻いた「戦争」にも迫ったのである。
 だからこそ、映画には終始、朝鮮戦争が影を落とし、物語のキーとなるのは特攻隊の戦友との記念写真だ。特攻に使われた軍用機には宮崎航空興学で製作した部品が組み込まれていたことを思い出すように、特攻隊の生き残りとの出会いが本作のクライマックスとなっている。

 すなわち、映画『コクリコ坂から』は、宮崎駿氏が自分自身と向かい合う作品なのだ。
 あたかも黒澤明監督が『まあだだよ』で自分を振り返ったように。
 『まあだだよ』は内田百間の随筆を原案とし、内田百間の人生を追った映画でありながら、そこで描かれるのが黒澤明自身であることは多くの論者が指摘している。それはたとえば、内田百間が大学教授を辞して作家生活に専念した年を実際の1934年ではなく黒澤明が監督としてデビューした1943年に変更するなど、原作の設定年を監督自身の人生で意味深い年に変更して映画を作ったこと等からも検証されている。[*1]
 宮崎駿氏が、『コクリコ坂から』の劇中時間を自分にとって意味深い1963年に変更したのと同じである。[*2]

               

 それにしても、なぜ宮崎駿氏は自分自身と向かい合うに当たり、『コクリコ坂から』という少女マンガを媒介に選んだのか。
 そこにはいくつかの理由があろう。

 一つは距離感である。
 戦史や兵器にずば抜けた知識を持つ軍事マニアでありながら、これまで日本の戦争を扱うことを避けてきた氏にとって、少女マンガの恋愛模様は正反対の世界である。そのフィルター越しであればこれまで避けてきたことを見つめられる、氏はそう考えたのかもしれない。
 いや、そういうフィルターを置いて距離を取らなければ、自作で戦争を扱うことはできなかったというべきか。

 もう一つの理由は原作者への共感だ。
 宮崎駿氏といえば、戦史・軍事マニアとしての面に加えて、組合活動の闘士だったことでも知られる。東映動画入社後に労働組合の書記長へ就任し、激しい組合活動を行ったことは有名だ。
 一方、『コクリコ坂から』の原作を書いたのは、1948年生まれの佐山哲郎氏である(絵は高橋千鶴氏が担当)。
 宮崎駿氏は『企画のための覚書』に、この原作マンガについて次のように記している。
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明らかに70年の経験を引きずる原作者(男性である)の存在を感じさせ、学園紛争と大衆蔑視が敷き込まれている。少女マンガの制約を知りつつ挑戦したともいえるだろう。
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 1948年生まれの佐山哲郎氏にとって、70年安保闘争は同時代のリアルな体験だったはずだ。
 だが、すでに1969年に東大安田講堂が陥落神田カルチェ・ラタン闘争も終結しており、70年安保から10年を経ての『コクリコ坂から』における少女マンガには場違いとも思える制服廃止運動やその敗北は、佐山哲郎氏自身が青春時代に見てきたことの投影だろう。
 『企画のための覚書』によれば宮崎駿氏はこのマンガを「不発に終った作品」と見ているが、それだけに「少女マンガの制約を知りつつ」学園紛争という題材に「挑戦した」原作者に、かつての組合活動の闘士として共感するところが大きかったはずだ。
 だからこそ、今度は自分の手で、少女マンガを通して学園紛争を描くことを考えたのだろう。そしてまた、組合活動の闘士だった自分に向き合おうと考えたのだろう。

 『企画のための覚書』には、原作ファンを裏切るような言葉が並んでいる。
  「原作は(略)話を現代っぽくしようとしているが、そんな無理は映画ですることはない」
  「筋は変更可能である」
  「いかにもマンネリな安直なモチーフ」
  「マンガ的に展開する必要はない」
  「コミック風のオチも切りすてる」
 この言葉どおり、映画は原作をすっかり改変している。原作に思い入れがあるファンは怒るかもしれない。
 だが、宮崎駿氏の目指すものが、原作のストーリーをなぞることでも、キャラクターを大切にすることでもなく、原作者の「挑戦」を受け継ぐことであったなら、原作の設定にこだわる必要があるだろうか。

 こうして、映画『コクリコ坂から』では、これまで『太陽の王子 ホルスの大冒険』や『未来少年コナン』で片鱗を見せていた労働運動的な要素が、主要な題材として前面に登場したのだ。

               

 さて、このような思いで宮崎駿氏が出した企画に対して、監督を希望したのが息子の宮崎吾朗氏である。1967年1月生まれの吾朗氏にとっては、1963年はおろか70年前後の学園紛争すら知らない世界だ。
 その彼が、なぜ本作の監督を希望したのか。
 それは、この作品が単なるマンガの映画化ではなく、父・宮崎駿が自分に向かい合う作品だからだろう。
 これまで、息子に向けてアニメーションを作ってきた宮崎駿氏が、よわい70にして自分を見つめた作品に取り組もうというときに、その息子が手を貸すのは自然なことではないだろうか。吾朗氏は、それを他人任せにはできなかったのだ。

 その想いは、吾朗監督が絵コンテの段階で追加したセリフに表れている。
 「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!?」
 「人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか!?」
 「新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるか!!」

 討論会のシーンでの風間俊のこのセリフは、いかにも生硬であり、宮崎駿氏が書いたものとは思えなかったが、あとから吾朗監督が追加したと知って納得した。

 映画『コクリコ坂から』は、ジブリ作品の例に漏れず、綿密な取材により1963年の日本を見事に再現している。公式サイトによれば、宮崎吾朗監督は1963年公開の日活の青春映画の数々を参考にしたという。
 彼にとって、『コクリコ坂から』を制作することは、父・宮崎駿の生きた時代を知ることだったのだ。
 人が生きて死んでいった記憶を、ないがしろにはしないのだ。


[*1] 「「巨人と少年」<追章>・『まあだだよ』論 巨人の再生」尾形俊朗 『異説・黒澤明』所収

[*2] 理事長である徳丸社長のモデルは、もちろん株式会社スタジオジブリの初代社長・徳間康快氏である。
 『ルパン三世 カリオストロの城』の興行的不振から何年ものあいだ映画を作れない状況だった宮崎駿氏に、徳間氏が『風の谷のナウシカ』制作のチャンスを与えたことで、今日の宮崎氏もジブリもある。本作のカルチェラタン問題が理事長の登場により好転することと良く似ている。
 なお、徳間氏自身は逗子開成学園の理事長を務めている。
 徳丸社長のクルマのナンバーが「と 1090(とくまる)」なのが洒落ている。


コクリコ坂から 横浜特別版 (初回限定) [Blu-ray]コクリコ坂から』  [か行]
監督/宮崎吾朗  企画・脚本/宮崎駿  脚本/丹羽圭子
出演/長澤まさみ 岡田准一 竹下景子 石田ゆり子 風吹ジュン 内藤剛志 風間俊介 大森南朋 香川照之
日本公開/2011年7月16日
ジャンル/[青春] [ロマンス] [戦争]
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【genre : 映画

tag : 宮崎吾朗 宮崎駿 長澤まさみ 岡田准一 竹下景子 石田ゆり子 風吹ジュン 内藤剛志 風間俊介 大森南朋

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