『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』に登場しないのは?

 続編を作るなら前作よりもスケールアップさせなくちゃ、と作り手の多くは考えるのだろう。
 その常套手段の一つが、登場するキャラクターの数を増やすことだ。

 ヒーローとして行動しようと孤軍奮闘する少年デイヴを描いた『キック・アス』も、続編『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』ではヒーロー軍団と悪人軍団の集団戦に発展した。
 キック・アスに扮したデイヴは、 スターズ・アンド・ストライプス大佐を中心にインセクトマンやバトル・ガイやナイト・ビッチらが集まるヒーロー軍団「ジャスティス・フォーエバー」に参加する。
 敵はマザー・ファッカー率いるスーパー悪人軍団TOXIC MEGACUNTS(毒々すごく嫌なヤツら)だ。スーパーマンの敵が1978年の一作目のレックス・ルーサーひとりから『スーパーマンII』の三悪人になったとか、バットマンの敵が1989年の一作目のジョーカーひとりから『バットマン リターンズ』のペンギンとキャットウーマンの二人になったどころではない。
 『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』のクライマックスは、おびただしい数のヒーローたちと悪人たちの大乱闘だ。

 このあたり、既視感を覚える特撮ファンも多いだろう。
 日本における近年のスーパーヒーロー物も、おびただしい数のヒーローや悪人が入り乱れる。
 『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』(2011年)では歴代の仮面ライダー63名とキカイダー、キカイダー01、イナズマン、快傑ズバットが集結し、悪の組織の歴代幹部たちと大乱闘を繰り広げる。『ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦』(2011年)はスーパー戦隊の戦士199名と、歴代の敵幹部たちの戦いだ。『仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦』(2012年)では仮面ライダーたちとスーパー戦隊戦士たち200名以上が、これまた250名以上の怪人・戦闘員と戦っている。
 もはや映画館のスクリーンでも1ショットには収めきれないほどの大人数であり、キャラクターの数を増やしてのスケールアップもここまで来たかと感嘆した。

 このようなヒーロー物のエスカレーションの傾向を考えれば、『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』がヒーロー軍団と悪人軍団の大乱闘になるのも頷ける。早くも二作目でここまでキャラクターを増やすとは、ヒーロー物のパロディであるとともに、メタ的なヒーロー物でもある本シリーズらしいと云えよう。

 しかし『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』は、大乱闘の絵面こそオールライダーやスーパーヒーロー大戦を彷彿とさせるが、そこには決定的な違いがある。
 本作は、日米のヒーロー物が乖離していることを強く感じさせるのだ。


 世界でスーパーヒーローを輩出している大国と云えば、日本と米国がツートップだ。数十年の歴史を誇るヒーローがうじゃうじゃいるのはこの二ヶ国くらいだろう。
 だが、両国のヒーローには文化的・歴史的な違いがあり、彼らの出自は大きく異なる。
 端的に云えば、米国のスーパーヒーローが自分の身/家族/集団を自分で守ろうと立ち上がった者なのに対し、日本のヒーローは一般人を守りに来たよそ者である。
 「よそ者」には、ウルトラマンのように文字どおり別世界の「光の国」からやって来た者もいれば、仮面ライダーや変身忍者嵐のように組織を抜け出して来た者もいるし、何かを渡されたり指名されたりして特別な力を手に入れた者もいる。守られる一般人とは違う、特別な者たちだ。
 米国のスーパーヒーローも特殊能力を持っていたり、秘密兵器を持っていたりするから特別ではあるのだが、自分の街を自分で守ろうと立ち上がっただけであって、もとを正せば一般人と同じでしょ、と突っ込んだのが前作『キック・アス』だった。

 ここでは、日米両国における秩序のあり方の違いも考慮しておくべきだろう。
 山岸俊男氏の研究によれば、日本人が求める秩序ある社会とは、自分たちの集団の内部に安心が提供されている社会である。それは外部に対して閉ざされた社会であり、外部と没交渉であるほど(逃げ場がないので)集団内の人間は村八分にされないように協力的に行動し、集団内の安心感が高まる。
 このような安心社会を維持するために必要なのは、外部の者、異分子を徹底的に排除することだ。このような固定した関係と仲間内の相互監視は、集団に馴染めない者には息苦しく苦痛かもしれないが、集団の秩序維持のためには多様性は許されない。

 片や米国の秩序は、個人の行動を普遍的な行動基準である法や契約で拘束することにより実現している。
 このような社会では、法や契約を守らせるためにしっかりした警察組織や司法組織等が必要だ。と同時に、警察組織や司法組織が法や契約を守らせるから、集団を閉ざす必要がない。法や契約は明示されているので、集団を出入りする多様な人々も何を守るべきか理解できる。
 それでも誰もがきちんと法や契約を守るとは限らないから、社会の構成員一人ひとりが、まわりの人が信頼に値する人間かどうかを見極める能力を磨く必要がある。山岸氏はこれを社会的知性と呼んでいる。
 閉ざされていない社会では、社会的知性を駆使して各人が他人と対峙しなければならない。それはそれで苦労かもしれないが、信頼に値する人間を見出せば人間関係を広げることができる。
 社会的知性を持たない人は閉ざされた集団にとどまり続けるしかなく、外部に存在するかもしれない様々な機会を(無意識のうちに)放棄している。[*1]

 もちろんこのような特徴で日本社会と米国社会がきれいに二分されるわけではないが、日本のヒーロー物において敵の怪人のみならずスーパーヒーローですら一般人にとっての「よそ者」なのは、閉ざされた社会では排除の対象となる異分子だからかもしれない。この点について詳しくは『キック・アス』の記事をお読みいただきたい。

 『キック・アス』以上に『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』が日米のヒーロー物の違いを感じさせるのは、クライマックスで乱闘しているヒーローたちが何者かという点においてだ。
 『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』や『仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦』で乱闘しているのは、名にし負う歴代のヒーローたちだ。彼らは一般人とは異なる出自や複雑な過去を持つ、特別な者たちである。
 だが、『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』で乱闘している連中は、マスクを被っただけの一般人だ。ジャージ姿のおじさん、おばさんもいる。
 主人公のキック・アスからしてスーパーヒーローではないけれど、応援に駆け付けた連中はキック・アスのようなトレーニングすらしていない。平々凡々たる一般人が立ち上がっただけなのだ。

 これがヒーロー軍団だろうか。
 もちろんジャスティス・フォーエバーはDCコミックのスーパーヒーローチーム「ジャスティス・リーグ」のパロディではあるだろうが、そういう洒落はともかくとしても、本作には決定的に欠けているものがある。
 それは逃げ惑う民衆だ。ヒーローが守るべき一般人である。
 『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』においてライダーたちが民衆の声に応えて登場したのとは対照的に、本作にヒーローを待望する民衆はいない。
 とうぜんだ。本作では民衆がヒーローじみた格好をして、悪人軍団との戦いに臨むのだから。誰もが戦いに参加しているから、ここには逃げ惑ったり、ヒーローを呼ぶだけの者はいない。
 大乱闘の絵面こそ似ているものの、日米のヒーロー物が描くのはまったく異なるものなのだ。

 ここで注目したいのは、本作の民衆が立ち上がったことではない。
 日本のヒーロー物の民衆はなぜ立ち上がらないのか、ということだ。


 2011年3月11日、日本をモーメントマグニチュード9.0の超巨大地震が襲った。東日本大震災である。
 そのため大変な被害と混乱が生じたにもかかわらず、略奪や暴動が吹き荒れることはなく、多くの人は秩序立って行動した。
 マスコミはこれを賞賛し、外国での日本人を賞賛する報道をこぞって紹介した。

 国内外に日本人礼賛の声が高まる中、一石を投じたのが歴史学者の與那覇潤氏だった。
 氏は「今こそ、「国民性」の発揮はバランス感覚を持って」と題した記事で次のように述べた。
---
日本人が大規模災害にあたっても(おおむね)粛然と退避行動をとり、学校や公民館をはじめとする公的機関を避難所として活用できるのは、もちろん望ましいことです。歴史学的にみると、これは戦国時代の争乱状況の際、領主が城郭に領民を収容する慣行ができて以来のことで、統治機構の存在意義を「住民の生存の保障」に求める心性によって、アナーキーな「自力救済」(その典型が略奪)に歯止めをかける行動パターンが、近代以前から国民的な約束事(国民性)になってきた史実に由来します。

一方で見方を変えると、これは、日本社会には危機であっても(危機のときこそ)「統治機構に従順になる」性格があることと同義であり、それが近代の「非常時」には戦争動員の基盤ともなりました。さらに、危機であるにもかかわらず「統治機構に従順でない」メンバーに対しては、同じ結束力が排除の論理として機能したこともあります(関東大震災時の集団パニックは、その最大の悪例でした)。あらゆる国民性と同様、日本の国民性にも長短があるのであり、今こそその両面をしっかりと見つめた対応が必要と思います。
---

 日本の民衆は自力で何かするのではなく、危機にあっては領主の保護に依存する。その行動パターンが震災時にも現れたというのである。

 江戸時代になると、日本は地位の非一貫性を特徴とする社会になったという。[*2]
 強者と弱者、すべてを独占する者と何も持たざる者に分かれるのではなく、政治的な権力はあるが経済力がない武士、経済力はあるが政治的権力はない町人というように、ある分野では勝者である人々が別の分野では敗者になっている社会だ。
 かつて社会科の教科書には「士農工商」という言葉が記載され、武士がトップで商人が底辺となる四つの身分が存在したと教えた時期がある。だが、教科書出版の東京書籍では2000年度の教科書から「士農工商」を削っている。そんなピラミッド型の身分制度ではなかったからだ。

 與那覇潤氏は、こうも述べている。[*3]
---
百姓一揆の伝統以来、「あらゆる税は悪い税」というのが、日本人のモラル・エコノミー、庶民の金銭感覚になってしまった。
近世の百姓一揆の要求とは、基本的に単なる「検知などによる増税の拒否」であって、たとえば中世の一向一揆や国人一揆のように、領主層を追い出して地域の統治を自主管理するところまで進む気はない。要するに、「税金を上げない限りにおいて、お上を信用する」という、非常に虫のいい依存体質なんです(笑)。
江戸のムラ社会では、西洋の都市国家のように統治者・被治者が一体になって一つの共同体を構成するリパブリカニズムが生まれず、「武士は統治者、百姓は被治者」という形に完全に分離してしまったから、本当の意味での「自治」が育たなかった。むしろ「政府」はぜんぶ武士が握って、「村落」の側は一定額のお金さえ払えば、あとはお互い現状維持だけ考えてそれ以上何もしないという関係で、意識の上でも乖離していた節さえあります。
---

 立法も司法も行政も武士に任せっきりにして、政治的な行動といえばせいぜい増税反対のデモ(百姓一揆)ぐらい、というのが近世の百姓だった。
 統治を自主管理するところまで進む気はない――百姓はみずから統治にかかわろうと立ち上がったりはしないのだ。

 ところが明治以降、武士階級は消滅した。
 依存体質の百姓、みずから立ち上がったりしない人々を残して。

 『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』では、誰も彼もが立ち上がる。誰もが、自分の街のために行動する。
 日本の観客は、はたしてこの映画を共感をもって迎えられるだろうか。


参考文献
[*1] 山岸俊男・吉開範章(2009)『ネット評判社会』 NTT出版
[*2] 與那覇潤 (2011) 『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 文藝春秋
[*3] 池田信夫・與那覇潤 (2012) 『「日本史」の終わり 変わる世界、変われない日本人』 PHP研究所


キック・アス ジャスティス・フォーエバー [Blu-ray]キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』  [か行]
監督・脚本/ジェフ・ワドロウ
原作/マーク・ミラー、ジョン・S・ロミタ・Jr
出演/アーロン・テイラー=ジョンソン(アーロン・ジョンソン) クリストファー・ミンツ=プラッセ クロエ・グレース・モレッツ ジム・キャリー モリス・チェスナット クローディア・リー クラーク・デューク オーガスタス・プリュー スティーヴン・マッキントッシュ モニカ・ドラン ギャレット・M・ブラウン リンジー・フォンセカ
日本公開/2014年2月22日
ジャンル/[アクション] [コメディ] [青春]
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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画
【genre : 映画

tag : ジェフ・ワドロウ アーロン・テイラー=ジョンソン アーロン・ジョンソン クリストファー・ミンツ=プラッセ クロエ・グレース・モレッツ ジム・キャリー モリス・チェスナット クローディア・リー クラーク・デューク オーガスタス・プリュー

『キック・アス』 あなたが戦わない理由は?

 Wikipediaに "Japan is the only country that nears the US in output of superheroes." と解説されているように、おそらく世界でもスーパーヒーローを輩出している大国は日米2ヶ国である。
 しかしながら、私が以前の記事(『SPACE BATTLESHIP ヤマト』を惑わせる3つの「原作」)の注釈で「ウルトラマンとスーパーマンの誕生には、文化的・歴史的・宗教的な違いがある。」と書いたように、その出自は大きく異なるだろう。

 端的に示そう。
 日米のスーパーヒーローは、戦う理由が違う。

 たとえば、東 京一(あずま きょういち)作詞の『ウルトラマンの歌』で「光の国から 地球のために」と歌っているように、石森章太郎作詞の『レッツゴー!!ライダーキック』で「世界の平和を 守るため」と歌っているように、ウルトラマンや仮面ライダーは地球のため、世界の平和のために戦っている。まことに壮大な戦いである。

 それに対して、米国のスーパーヒーローはどうか。
 スーパーマンはメトロポリスを守っている。バットマンはゴッサムシティ、ザ・スピリットはセントラル・シティを守るために戦っている。もちろん、各ヒーローは1都市にとどまらない戦いに参画することもあるが、基本的にはホームグラウンドを持ち、街を悪漢から守っている。

 最近の例で判りやすいのは『キック・アス』だ。
 映画の『キック・アス』は原作に比べればずいぶんマイルドで(ぬるくて)コメディタッチ(万人向け)だが、それでも日本公開時のレイティングはR15+(15歳未満の入場禁止)だった。
 この過激な映画のヒーローは、一介のオタク少年である。スーパーヒーローになろうと決意した彼の行動は、次の二つに集約される。

 ・一般人とは違う扮装をする。
 ・街を歩いて悪漢をやっつける。

 すなわち、街の自警団の兄さんと変わらない。
 街で出くわす悪事に見てみぬ振りをしないこと、悪漢は自分の手で片づけること、これが米国のスーパーヒーローの根幹である。
 その源流は、米国の歴史と文化に求められるだろう。開拓時代、組織立った警察機構がないなかで、街を守るのは保安官だった。さらに云えば、自分の牧場を守るのは自分自身だった。往年の西部劇を見れば、牧場主や農場主は一様に銃を持ち、牛泥棒たちを追い払っている。
 武装してでも自分の身/家族/街は自分で守るのがスーパーヒーローの流儀であり、アメリカ合衆国憲法修正第2条に「人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない。」と規定するゆえんでもある。

 『キック・アス』は、他のスーパーヒーローのような超能力や超兵器は持っていないため、一風変わったヒーロー物のように見えるが、とんでもない。超能力や超兵器なんてなくたって、街の悪漢は自分の手で懲らしめる点で、ヒーローの原点を追求した作品である。
 同じく、ちょっと変わったヒーロー物として人気を博したのが、1981年からテレビ放映された『UFO時代のときめき飛行 アメリカン・ヒーロー』だった。『キック・アス』とは正反対に、悪漢退治をするつもりなんてまったくなかったのに、超能力や超兵器を持ってしまった高校教師の物語である。最初はしぶしぶだったものの、やはりアメリカのヒーローらしく、彼も犯罪者を追うために奮闘した。

 映画『キック・アス』は、2008年から始まったマンガの映画化だが、原作とは大きな違いがある。
 その一つは、キック・アスに近づくヒーローチームのビッグダディとヒット・ガールの扱いだ。原作のビッグダディは、顔を隠しただけの大男である。ヒーローらしい扮装をしているわけではない。10歳の少女ヒット・ガールもマントを付けてはいるものの、取り立てて変わったコスチュームではない。原作の追求するヒーロー像は、悪事を見逃さずに立ちあがるという一点に集約しており、見てくれは抑え気味だからだ。
 しかし、映画版のビッグダディは明らかにバットマンを模した扮装をしており、ドミノマスクを付けたヒット・ガールはロビンそのものである。これは映画が見た目を重視するからでもあろうが、他ならぬバットマンとロビンのダイナミック・デュオを真似ることで、他の作品へのオマージュにもなっているのだ。
 それがアメコミ史のエポックメイキングたる『ダークナイト・リターンズ』だ。
 この作品で、バットマンを引退していたブルース・ウェインは、街に溢れる悪を許せず、遂にバットマンに復帰する。周囲の反対を押し切って、少女にロビンの格好をさせ、狙い定めた相手をぶちのめして回る。そんな行為を国家体制は許さないのだが、老バットマンは聞く耳を持たない。そこには、自警行為に取りつかれた男の狂気があった。政府はついに、スーパーマンにバットマン討伐を命じることになる。

 1986年に発表された『ダークナイト・リターンズ』の影響は甚大だった。
 『ダークナイト・リターンズ』により、みんなのヒーロー・バットマンは、暗い怨念に狂える男になった。この作品の衝撃を受けて、ティム・バートン監督は映画『バットマン』(1989年)を作り、クリストファー・ノーラン監督はタイトルもそのまま『ダークナイト』(2008年)を作るわけだが、ヒットすることを義務付けられた大作映画には、マンガ『ダークナイト・リターンズ』の狂気に迫ることができなかった。
 その点で映画『キック・アス』は、原作を離れてビッグダディとヒット・ガールを『ダークナイト・リターンズ』の老バットマンと少女ロビンに近づけることで、バットマン映画ができなかった狂える自警団を再現してみせた。この映画は、原作よりもぬるくて万人向けにせざるを得なかった代わりに、アメコミファンならみんな知ってる『ダークナイト・リターンズ』を匂わせるという手に出たのである。
 そして、西部開拓時代でもないのに、スーパーヒーローが街をうろつき暴力を辞さない狂気を、オタク少年キック・アスの目を通して突き付けた。

 米国のスーパーヒーローが西部のガンマンの延長である以上、その敵役は牛泥棒たちの延長である。スーパーマンの宿敵レックス・ルーサーも、バットマンの宿敵ジョーカーも、X-メンの宿敵マグニートーも、悪事を働きはするものの、自分の生活と自分の人生がある一人の人間だ。
 開拓時代のガンマンが、実際のところ人を殺めたかどうかはともかく、少なくとも子供やティーンエイジャーが読むアメコミでは、彼ら悪漢とて命を尊重される。有無を言わさず殺すのではなく、警察に突き出すなり、力を奪うなりで事件は解決を見る。
 だから、ビッグダディとヒット・ガールが有無を言わさず殺す場面に風刺が効いてくるのである。
 『キック・アス』は、街の悪事に頬かむりする人々と、行き過ぎた自警行為に走るヒーローの双方に眼差しを向け、正義とは何かをあなたに問い質す。

               

 一方、日本のスーパーヒーローはどのような出自によるのだろうか。
 ウルトラマンは地球のため、仮面ライダーは世界の平和ために戦っているそうだ。本当だろうか。

 私は先の記事において「日本のヒーロー物の悪役は消耗品だ。」と書いた。事実、彼らは毎週殺されている。
 この記事に対して、次のような質問をいただいた。

> スーパーマンの敵とウルトラマンや仮面ライダーでの「悪役」の扱いの差はそもそもスーパーマンの敵は「人間」なのにウルトラマンや仮面ライダーの敵は「人間じゃない存在」という違いのせいではないでしょうか?

 この質問は、更に二つの要素に分解することができる。

 (1) ウルトラマンや仮面ライダーの敵は「人間じゃない存在」なのか?
 (2) 「人間じゃない存在」なら殺して良いのか?

 (1)については、幾つもの反例が存在する。たとえ、ウルトラマンが戦う宇宙*人*や、仮面ライダーが戦う怪*人*は「人間じゃない」としても、アイアンキングの敵である不知火族や、忍者キャプターの敵である風魔忍群は人間である。奇抜な扮装をし、怪しい術を使うとはいえ、彼らは人間なのに殺されている。
 それに、仮面ライダーが戦う怪人は、ライダーと同じ改造人間であり、元をただせば一般市民だ。ウルトラマンが戦う宇宙人も、宇宙航行できるほどの知的生命体であるはずだ。にもかかわらず、彼らは怪獣とひと括りにされ、その人間性は無視されている。
 初の国産テレビヒーロー『月光仮面』は、「憎むな、殺すな、赦(ゆる)しましょう」をモットーにしていたし、同時期の『まぼろし探偵』も人を殺めることはなかった。しかし、これら温厚なヒーローたちは、ウルトラマンや仮面ライダーによって駆逐されてしまう。

 ここで面白い話がある。
 『月光仮面』が現代版『鞍馬天狗』として企画されたように、日本のヒーロー物のルーツの一つが時代劇であることは論をまたないであろう。米国のヒーローが西部のガンマンをルーツとするのと同様である。その嵐寛壽郎主演の映画『鞍馬天狗』を、原作者の大仏次郎氏は「人を斬りすぎる」と非難したそうだ。そこでみずから映画を作り、人を殺さずに大儀を唱える鞍馬天狗を描いたのだが、さっぱり客が入らなかったという。人々は、バッサバッサと敵を切り倒す場面がなければ納得しなかったのである。
 まさしく、八手三郎作詞『仮面ライダーのうた』で「ぶちのめせ」「ぶちかませ!」と歌うがごとく、ヒーローには容赦ない態度が求められた。
 こうしてスーパーヒーローたちは、怪獣・怪人という消耗品たちを、際限なく殺し続けることになった。


 ここでひとまず、ヒーローの敵が、サタンの爪のような悪党たちから、怪獣や怪人という異形の者に変化したことについて触れておきたい。
 その契機となったのは『ウルトラマン』だろう。それは先行する『ゴジラ』(1954年)の成功をテレビに移植し、おびただしいゴジラの亜流を登場させた。
 ゴジラとは得体の知れない化け物、人間をはるかに凌駕する存在である。この恐怖の象徴が暴威を振るうから『ゴジラ』は怖い。したがって、ゴジラを倒すのは魔物を退治することに他ならない。その源流をたどれば、ヤマタノオロチ等の神話に行きつくことだろう。
 だから、魔物を退治するウルトラマンは、神様や神話の英雄に相当する。私たち民衆よりも高い次元の存在だ。初代『ウルトラマン』(1966年)第7話では、バラージの街にウルトラマンの神像が奉られていたし、『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』ではアジアの神様ハヌマーンと共演した。

 しかし、米国には『ゴジラ』に相当する作品として『キング・コング』(1933年)や『原子怪獣現わる』(1953年)がありながら、それらとスーパーヒーローにほとんど何の関係もないように、日本のスーパーヒーローも今や『ゴジラ』とは関係がない。
 当のウルトラシリーズにおいても、怪獣を「人間をはるかに凌駕する存在」への「恐怖の象徴」とみなしていた作品がどれだけあるだろうか。怪獣たちはあっという間に単なる猛獣となり、宇宙人の攻撃兵器の一つになり下がった。同時に、神性を帯びていたウルトラマンも、暴漢を殴りつけるプロレスラーに近づいていった。家族構成が明らかにされ、タロウ少年の成長が物語られ、彼らは民衆と同じレベルになっていった。
 そしてウルトラシリーズは、親しみやすい民衆化と、神性を取り戻そうとする試みとのどっちつかずでいるうちに、存在感をなくしてしまった。
 たとえば、株式会社バンダイナムコホールディングスの2011年3月期における第2四半期決算補足資料から、キャラクター別売上げを見てみよう。

バンダイナムコ

 ウルトラマンは、バンダイナムコグループ全体の報告対象に挙がりすらしない。のみならず、トイホビー事業に関してみれば、2010年度の通期見込は28億円しかなく、これは仮面ライダーのおよそ7分の1、機動戦士ガンダムの5分の1以下、スーパー戦隊やアンパンマンの3分の1以下でしかない。この数字には驚かれる方も多いだろう。大きな企業なら、営業担当者1~2名でもこれくらいの売上を持っていよう。
 しかも、円谷プロダクションの売上高そのものが約35.8億円だという(株式会社ティ・ワイ・オーの2009年7月期有価証券報告書)。
 産業としてのウルトラシリーズはこういう規模なのである。

 とどのつまり、『ゴジラ』とその流れを汲んだ『ウルトラマン』は、怪獣物をジャンルとして定着させるには至らなかった。せいぜい覆面を被った悪漢を敵とはせず、一見すると人間らしくない者を敵にすることで、殺しへの抵抗感を弱めただけなのかもしれない。

               

 ここで改めて、「(2)『人間じゃない存在』なら殺して良いのか?」という点を考えてみよう。

 これまで述べたように彼らは人間である。奇怪な格好をさせられ、醜い容姿であったとしても、あくまで人間の延長上にいる。
 私もさすがにゴジラが人間だというつもりはないが、スーパーヒーローの敵はゴジラからほど遠い。ウルトラシリーズの最新作『ウルトラマンゼロ THE MOVIE』の敵ですら、皇帝や将軍や参謀という役職を持ち、人語を解し、コミュニケーションが成立する(脅しや悪態だが)。
 では、彼らを殺してもいいのか?
 確かに彼らは作中では人間扱いされていないが、では「人間じゃない」とは何なのか。殺していいほど「人間じゃない」とは?
 そして「人間」とは何なのか?

 論を進めるには、日本のスーパーヒーローの原点たる『仮面ライダー』(1971年)に立ち返るのが良いだろう。株式会社バンダイナムコホールディングスのキャラクター別売上からも判るように、今やスーパーヒーローとは仮面ライダーとその系譜のことだ。
 『仮面ライダー』『変身忍者嵐』『人造人間キカイダー』『ロボット刑事』『イナズマン』、これら石森章太郎氏が考案・関与したヒーローたちにはある共通点がある。特撮ファンならご存知だろう。彼らは裏切り者である。
 仮面ライダーはショッカーに作られた改造人間である。裏切らなければ、バッタ男として人々を襲っていただろう。嵐も血車党の一員である。キカイダーはダークロボットと同じく光明寺博士が作った、いわばダークの兄弟ロボットである。ロボット刑事Kは霧島家の姉弟ゲンカの産物だ。イナズマンは母の属する新人類帝国に刃向っている。
 『仮面ライダー』を企画するに当たって、東映では先行する『タイガーマスク』の人気要因を分析したとのことで、梶原一騎原作の『タイガーマスク』(1968年)もやはり「虎の穴」の裏切り者だった。さらにそれより前には石森章太郎氏がブラックゴースト団を裏切った『サイボーグ009』(1964年)を書いている。石森作品について云えば、もっと後年の『アクマイザー3』や『大鉄人17』も同様に裏切り者である。

 『サイボーグ009』や『仮面ライダー』に見られる特徴、すなわち、
 ・敵味方一人ひとりが異なる特殊な技を持つこと
 ・主人公は集団からの離反者であること
 ・離反しつつも元いた集団の特異性(改造人間であること等)を引きずり、孤独感を抱えていること
などを鑑みれば、石森章太郎氏の発想のべースとなったものが判る。
 先に私は、ヒーロー物のルーツが時代劇であると述べたが、これらの特徴を備えているのは時代劇の中でも忍者物、抜け忍の姿である。
 彼らは忍者集団の一員として育ちながら、集団の規律を乱し、追われる破目になった者の現代の姿なのだ。竹熊健太郎氏と相原コージ氏は『サルでも描けるまんが教室』において、かつての忍者マンガが姿を変えたのが後のエスパーマンガであると述べたが、その端緒を開いたのが石森章太郎氏であろう。

 はたして、集団から離反した忍者は死ぬまで追われるものであったのか、その事実のほどは詳しい研究に譲るが、集団から離反することの悲哀を私たちは知っている。
 私たちは日々集団の一員たる努力をしている。仲間内の空気を読み、逸脱しないことに懸命だ。多くの場合、会社を辞めたら会社には戻れないし、公園の主婦たちに入り込めなかったら公園に居場所はない。地域的なムラ社会は崩れつつあっても、村八分を恐れる気持ちは変わらない。
 私たちが住んでいるのは、一番最初の憲法の一番最初の条項に「和をもって貴しとなす」と定める国だ。規律を乱さず集団の一員たることが最も重視されるのだ。

 ただし、『仮面ライダー』等を考えるときにポイントとなるのは、ヒーローが離反した「あの集団」は彼らの集団であって、「私たちの集団」ではないということだ。
 私たちの与り知らない掟を定めた「あの集団」は、私たちとは関係ない。ショッカーも血車党も、私たちとは別の集団である。では、「あの集団」から離反した者は、「私たちの集団」の一員たり得るのか?

 違う。
 私たちの会社が別の会社の受け皿ではないように、人々がよそ者を歓迎しないように、「私たちの集団」はあくまで「私たちの集団」であり、「あの集団」に離反者がいようがどうしようが関係ない。
 私たちは、旧知の人間だけで集まって安心社会を形作っているのだ。
 以前引用した池田信夫氏の記事をご記憶の方もいよう。
---
伝統的な小集団では、「村八分」のような繰り返しゲーム型のメカニズムが機能するが、こうした安心社会では異分子を排除するので、未知の人は疑うことがデフォルト値になっている。これに対して、契約ベースの信頼社会では基本的な約束は守ることが共通のルールになっている。

したがって囚人のジレンマの実験を行なうと、「集団主義」と思われている日本人のほうが、猜疑心が強いためナッシュ均衡(互いに裏切る)に落ち込みやすく、アメリカ人のほうがパレート最善解(互いに協力する)に到達しやすい。これは著者が『信頼の構造』で初めて明らかにした実験経済学の業績だが、今の日本はムラ型から契約型への過渡期にあるという。
---

 ムラ社会では、近づく者が泥棒か正直者かは関係ない。よそ者がいたら安心できないのだ。ムラの住人じゃない者、ムラの掟に従わない者は、排除しなければならない。
 だから、「人間じゃない存在」という表現は充分ではない。「我々のムラの人間じゃない存在」をやっつけるのだ。人間扱いするのは、我々のムラの住人だけで良いのだから。そして、大江健三郎氏が『同時代ゲーム』(1979年)において集団を「村=国家=小宇宙」と表現したように、「私たちの集団」を守ることこそが、世界の平和である。

 ヒーロー物を見ていて、疑問に感じないだろうか。
 たった1人、せいぜい数人で戦うだけなのに、どうしてこうも軽々しく「世界の平和を守る」などと口にできるのだろうか。
 それは「私たちの集団」が決めた"平和"でしかないのに。そこには、別の集団の存在を認め、共存する、あるいは多様性を受容するという観点があるだろうか。


 さて、ヒーローはどうすれば良い?
 「あの集団」を離反してしまい、さりとて「私たちの集団」の一員でもない者は、どうすればいいのだ?

 証明するしかない。
 「あの集団」の者ではないことを、「私たちの集団」のために役立つことを、証明してみせるのだ。
 もしも「あの集団」が近づいたら、お前が防波堤になるのだ。「私たちの集団」とは違う連中は排除しなければならない。それをお前がやってみせろ。そうすれば「私たちの集団」に居させてやろう。

 だから、ヒーローは戦い続けなければならない。
 自分の居場所を見つけるために。

               

 対して私たち――すでに集団の一員である私たちは、その戦いを応援をするばかりであった。
 『キック・アス』では、主人公に刺激されて、みんながヒーローとして振る舞い始めのだが。

 池田信夫氏は次のように続ける。
---
Zuckerによれば、アメリカでも19世紀初めまではムラ型の集団が主流だったが、社会の流動性が高いため、全国的な鉄道網などができるにつれて契約ベースの社会に移行したという。
---

 先に私は、武装してでも自分の身/家族/街は自分で守るのが米国のスーパーヒーローの流儀だと書いた。
 しかし2009年、遂に仮面ライダーも自分たちの住む街「風都(ふうと)」を守って戦った。

 会社や地域や家庭などの有縁ネットワークが弱まる中で、私たちがよって立つ「私たちの集団」は崩壊しつつあるのかもしれない。
 日本でもこれからは、みんながヒーローとして振る舞うのだろうか。


[*]本稿を執筆するに当たっては、こちらの論考に刺激されるところがあった。
 この場を借りて御礼申し上げます。


キック・アス Blu-ray(特典DVD付2枚組)キック・アス』  [か行]
監督・制作・脚本/マシュー・ヴォーン 脚本/ジェーン・ゴールドマン
原作/マーク・ミラー、ジョン・S・ロミタ・Jr
出演/アーロン・ジョンソン クリストファー・ミンツ=プラッセ マーク・ストロング クロエ・グレース・モレッツ ニコラス・ケイジ リンジー・フォンセカ
日本公開/2010年12月18日
ジャンル/[アクション] [コメディ] [青春]
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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画
【genre : 映画

tag : マシュー・ヴォーン アーロン・ジョンソン クリストファー・ミンツ=プラッセ マーク・ストロング クロエ・グレース・モレッツ ニコラス・ケイジ リンジー・フォンセカ

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