『崖の上のポニョ』 名前を呼び捨てにさせるって!?

崖の上のポニョ [DVD] 先の記事「『崖の上のポニョ』 嵐の夜に子供を置き去りって!?」に、はるさんからコメントをいただいた。
 以下は、はるさんのコメントへの返事として書いたものである。

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 はるさん、こんにちは。
 なるほど、字幕だと呼び捨てが気にならないかもしれませんね。

 鈴木敏夫プロデューサーによれば、『崖の上のポニョ』がアメリカ人の眼から観てとんでもない映画であるもう一つの理由は、母親の名前を呼び捨てにするからだそうです。『ジブリの森とポニョの海』で宮崎監督や鈴木プロデューサーにインタビューしたロバート・ホワイティング氏も「アメリカなら親を呼び捨てにすることは怒られます。」と云ってます。米国人は気さくにファーストネームで呼び合うのに、これは興味深いことですね。
 日本でも親を呼び捨てにする五歳児は、宗介とクレヨンしんちゃんくらいだと思いますけど:-)

 鈴木プロデューサーはこの点について「おそらくリサという女性は、たとえ相手が5歳であっても一個の人格と認める。親や兄弟であってもそういう関係であるだろうと思うんです。多分それをやりたかったんだと思うんですよね。」と述べています。
 町山智浩氏は「人の親として『崖の上のポニョ』で許せないこと」として「自分たちの名前を息子に呼び捨てにさせている過剰に民主主義的な両親」も挙げているそうで、賛否はともかく鈴木プロデューサーと同じような捉え方をされているようです。

 宮崎監督と付き合いの長い鈴木プロデューサーがそう云うんならそうなんでしょうけど、私はちょっと違うことも考えています。
 宮崎監督は歴史に詳しい方です。かなり勉強されています。軍事マニアなのでもともと戦史には詳しいのですが、黒澤明監督との対談で、時代劇を作りたいけど、その時代の人間の歩き方とか、風俗、習慣が判らないとずいぶん悩まれていました。その宮崎監督が遂に『もののけ姫』に着手したとき、高い高いハードルをとうとう越えたのかと感慨深いものがありました。『もののけ姫』は、歴史学者の網野善彦氏が「中世についてずいぶん勉強された上でつくられている」と感歎したことでも知られています。
 歴史に詳しいというのは過去の出来事をよく知っているという意味ではなくて、歴史観、史実に裏打ちされた文明観を持っているということです。

 中世を含めた日本史を知るのであれば、とうぜん言霊や諱(いみな)についても宮崎監督はご存知でしょう。諱とは本名のことです。
 ウィキペディアでは諱に関連して次のように説明しています。
 「漢字文化圏では、諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた。これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。」

 私たちは現在でも昭和天皇のことを裕仁(ひろひと)さんとは呼びませんし、現在の天皇は陛下とか天皇陛下と呼ぶことが多く、明仁(あきひと)さんとは口にしません。勤め先では社長とか理事とか先生といった役職・敬称で呼びかけるでしょう。一歩踏み込んでもせいぜい姓で呼ぶまでで、名(ファーストネーム)を呼ぶことはまずありません。

 そういう文化にあって、あえて名を呼ぶとはどういうことか。
 宮崎監督が生半可な考えで採用したはずはありません。
 なにしろ数年前に、名前を奪われて自分を見失ってしまう『千と千尋の神隠し』を作ったばかりなのです。姓の設定がなく、「お父さん」とか「お母さん」といった呼称も用いず、耕一、リサ、宗介という本名を直接呼び合うことで繋がっている家族が、『千と千尋の神隠し』と対照をなすのは明らかでしょう。
 濃厚なアニミズムが噴き出したような本作の世界において、離ればなれになりながらも平静を保とうとする家族には、諱を呼び合うほどのパワーが必要なのかもしれません。

 嫌いなフジモトに付けられたブリュンヒルデという名をあっさり捨ててしまうポニョ。
 宗介にポニョという名をもらったことを祝福するグランマンマーレ。
 本作の世界観は、名付ける、名を呼ぶことにより築かれる関係を重視するものです。
 そこには、お互いに通り名で呼び合い、本当に信頼できる相手にしか真の名(まことのな)を明かさない物語、宮崎監督が愛してやまない『ゲド戦記』の影響もあると思います。

 本作は多くの人に鑑賞されましたが、アメリカはともかく、日本において諱を呼ぶことの文化的な意味が汲み取られていないようなのは残念です。

 はるさんのおっしゃるとおり、作品を再度観る機会が有るのは素晴らしいことです。
 優れた作品は見るたびに発見がありますね。


崖の上のポニョ [Blu-ray]崖の上のポニョ』  [か行]
監督・原作・脚本/宮崎駿 (環境依存文字を避けるため「崎」と表記した。)
出演/山口智子 天海祐希 所ジョージ 土井洋輝 奈良柚莉愛 矢野顕子
日本公開/2008年7月19日
ジャンル/[ファミリー] [ファンタジー]
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『崖の上のポニョ』 嵐の夜に子供を置き去りって!?

崖の上のポニョ [DVD] これだけは書いておきたい、という思いでムラムラしている。
 6年前もそうだった。そのために当サイトを立ち上げたと云っても過言ではない。
 そのときの思いが再燃している。先々月、『崖の上のポニョ』がテレビ放映されたからだ。

 偉大な映画監督が年齢とともに作風を変えるのは珍しいことではない。
 80代になっても精力的に映画を撮り続けた黒澤明は、だがしかし、『椿三十郎』のように縦横に張り巡らせた伏線とダイナミックなストーリーで楽しませる映画を撮ったのは50代までであった。
 『道』や『カビリアの夜』のような涙を誘うドラマを撮っていたフェデリコ・フェリーニは、虚構と幻影の中をさまようかのごとき作品づくりに変わっていった。
 これらの監督は、張り巡らせた伏線をきれいに回収する綿密な構成や、判りやすくメリハリの利いたストーリーや、カタルシスを覚える結末やバケツに三杯泣かせる感動といった「制約」から解放され、自由に闊達に奔放に映画を作るようになっていった。

 これを技芸では守破離と云う。茶道や武道をたしなんだ人は聞いたことがあるだろう。

 守=まずは決められた通りの動き、つまり形を忠実に守り、
 破=守で学んだ基本に自分なりの応用を加え、
 離=形に囚われない自由な境地に至る

 こうした段階を経ることで、真の道を極められるという教えだ。

 宮崎駿監督も同じく道を極めた人だ。
 長年、宮崎氏の胸のすく冒険活劇に親しんできた観客は、宮崎冒険活劇の集大成にして、冒険活劇からの卒業宣言ともいえる『天空の城ラピュタ』に唖然としたはずだ。我が友たちはシータとパズーの冒険に快哉を叫んでいたが、私は宮崎監督がもう冒険活劇を作らないつもりだと感じてショックを受けた。
 それでもしばらくは、『長くつ下のピッピ』や『パンダコパンダ』以来の元気な女の子の路線に戻っただけで、形には忠実に見えた。
 やがて宮崎アニメは応用が多くなり、遂には形に囚われない自由な境地に突入していった。

 映画作家の作風がこのように変遷していくと、判りやすい娯楽を求める観客はついていけなくなるかもしれない。
 黒澤明が『椿三十郎』のような痛快娯楽作を撮らなくなって、フェデリコ・フェリーニが『道』のような感動作を撮らなくなって、残念に思う観客もいたはずだ。

 そこをフォローするのが映画評論家の役割の一つではないかと思う。判りやすい娯楽作や感動作を作れなくなったのではなく、ちょっと判りにくいかもしれないけれど監督は新たな境地に達したのだと言論を駆使して世に知らしめてもらいたいと思う。
 黒澤明やフェデリコ・フェリーニの作風がどんどん変わったとき、映画評論家はそういう役割を果たしたようだ。フェリーニの『8 1/2(はっか にぶんのいち)』を観て感動にむせび泣く人はいないだろうが、この映画は高く評価され映画賞にも恵まれた。黒澤明は晩年に至るまでキネマ旬報ベスト・テンの常連だった。
 
 ところが宮崎駿監督の扱いはどうも違う。
 『風の谷のナウシカ』のヒットを受けて遅まきながら宮崎駿の存在に気づいたらしい評論家は、この作品をその年のキネマ旬報ベスト・テン第7位に選出した。以来、新作が発表されるたびにキネマ旬報ベスト・テンに選出していたが、宮崎監督がどんどん自由奔放になると評論家のフォローはなくなった。『千と千尋の神隠し』の3位を最後に、『ハウルの動く城』も『崖の上のポニョ』もキネマ旬報ベスト・テンの圏外になっている。
 何もキネマ旬報ベスト・テンに選ばれることが映画の良し悪しではないし、選ばれなくたって一向に構わないのだが、宮崎監督の自由な境地の極北ともいえる『崖の上のポニョ』はもっと評価されてしかるべきではないかと感じた。

 方向性の違いが関係するかもしれない。
 映画監督を主人公に据え、映画とは何か、創作とは何かを問いながら人生を探求する『8 1/2』のような作品は語りやすい。評論しやすい。黒澤明の作品も、何と云うか大人の心をくすぐる高尚なところがあって、評論家が俎上に載せやすい。
 他方、宮崎駿監督は子供向けの作品づくりを心がけ、ややもすればにじみ出そうになる大人の心をできるだけ削いでいる。まして『崖の上のポニョ』は五歳児を主人公にした幼児向けの作品だ。幼児の視点に徹して、幼児が楽しめることを第一義に作られている。はなから大人は対象外なのだ。

 宮崎監督にとっては子供が喜ぶかどうかが大事であって、大人(ましてや評論家)に受けても何の意味もないだろう。
 公開すれば大ヒット間違いなしの宮崎アニメは、評論家が擁護するまでもないのかもしれない(後年、宮崎監督は初の大人向け映画『風立ちぬ』でキネマ旬報ベスト・テン第7位に浮上した。大人にとって興味深い、評論の俎上に載せやすい映画だった)。

 さはさりながら、『崖の上のポニョ』の評価が高くないらしいのは残念だった。
 作品の発表から数十年が経てば、発表順や作風の変化など関係なくなるだろう。私自身、フェリーニの作品は『8 1/2』や『甘い生活』から観た。それらの作品の評判を頻繁に目にしたからだ。その後に『道』や『カビリアの夜』を観て、こんな感動作も撮っていたのかと驚いた。
 未来の受け手が宮崎アニメを手に取るとき、やはり評判の良いものや頻繁に言及されるものに目が行くだろう。大人っぽい要素もある『ハウルの動く城』なら成長してから観てもいいかもしれないが、『崖の上のポニョ』はぜひ小さな子供の頃に観てほしい作品だ。しかし子供に購買力はないから、親が買い与えることになる。結局、作品を選ぶのは大人であり、大人の購買意欲をかき立てることが重要だ。

 『もののけ姫』以降、興行収入が軽く100億円を突破している宮崎アニメだが、『千と千尋の神隠し』の304億円をピークに興収が下がり続けているのも気になった。観客は離れていき、評論家筋の受けもよくない。宮崎監督の自由な境地に誰もついていけなくなっているのではないか。

 『崖の上のポニョ』の魅力をアピールしなければ。
 そんな思いで悶々としていたのが6年前だ。
 そこで当サイトを立ち上げて書いたのが、「『崖の上のポニョ』は大人には厳しいか?」である。私がブログに記事一本書いたところで世の中に何をアピールできるわけでもないが、この記事を書き、記事に倍するコメントを書き足したことで、悶々とした思いはずいぶん晴れた。

 にもかかわらず、再びムラムラしてきたのは、先頃『崖の上のポニョ』がテレビ放映されたとき、一つのツイートを目にしたからだ。
 「嵐の夜に子供を置き去りにするなんて。」

 このことを非難する声があるのは知っていた。「ポニョ 嵐の夜に子供を置き去り」等で検索すれば、非難の声が幾つも見つかる。
 同じ映画を観ても感じ方は人それぞれだから、私がとやかく云うことではない。改めて観れば、受け止め方が変わることもあろう。

 しかし、このことについてはこれまで何も書いていなかったことに気づいたので、とりあえず私の感想を書き留めておきたくなった。ここには宮崎駿監督の大切なメッセージが込められていると思うからだ。

 以下、過去の記事との重複もあるが、お付き合い願いたい。

               

崖の上のポニョ サウンドトラック 突如発生した小型台風のため、リサが働くデイケアサービスセンター「ひまわりの家」は停電していた。センターに通う老人たちは足止めを食らい、今晩はお泊りだ。
 勤務を終えたリサは老人たちの世話を他の職員に任せ、五歳の息子宗介をクルマに乗せて家路を急ぐ。

 このときリサが何を考えていたのか、なぜ天候の悪い中を急いで帰らなければならないのか、映画では明示的には語られない。以前の記事でも書いたように、五歳児のための、五歳児に向けた映画である『崖の上のポニョ』は、大人の不安や心配を子供に知らせないように配慮されている。それは宗介だけでなく、映画館の客席にいる子供たちもおんなじだ。

 大人の観客は察するだろう。嵐が迫る中、船乗りの妻が心配するのは夫の身だ。
 それは劇中で描かれるリサの家を見ても明らかだ。彼女の家はまるで私設の灯台である。入り組んだ海岸線に突き出した崖の上の一軒家は、航海する船にとって絶好の目印に違いない。しかもリサは非常用の発電機や無線機や発光信号機まで用意して、船上の夫のために出来得る限りの装備を揃えている。とても一般家庭とは思えない品ぞろえに、夫への愛情の深さがうかがえる。
 海岸沿いの町全体が停電してしまうなんて、海上の船にとっては暗闇に放り出されるようなものだから、彼女は早く帰って家の明かりを灯し、夫と交信したかったに違いない。

 もっとも、はじめのうちはそういう理由で家路を急いでいたにしても、途中からは逃避行だ。大津波が彼女のクルマに迫ってきたからだ。
 魔法の力を持つポニョが波に乗って宗介を追いかけているのだが、普通の人間にそんなことは判らない。逃げても逃げても迫ってくる大波に、リサはクルマのアクセルを踏み続ける。
 津波とカーアクションが同居するこのシーンは、本作最大の見せ場であろう。とにかく絵が動く動く。アニメーションの迫力と力強さをたっぷりと楽しめる。迫力がありすぎて、怖いくらいだ。見方を変えれば、ここは化け物から逃れられない恐怖シーンでもあるのだから、怖いのもとうぜんだ。

 ともあれ、リサと宗介は我が家にたどり着き、途中で拾ったポニョとともに温かい飲み物で人心地つく。
 そうまでしてたどり着いた我が家なのに、リサは宗介とポニョを残して「ひまわりの家」に戻ってしまう。
 これが疑問視されているわけだ。町山智浩氏は「人の親として『崖の上のポニョ』で許せないこと」として「洪水の夜に5歳の子どもを自宅に置き去りにする母親」を挙げているという。

 アメリカ的な人が増えたのかなぁ、とも思う。
 『崖の上のポニョ』の完成報告会において、鈴木敏夫プロデューサーは「アメリカ人の方の眼から観ると、とんでもない映画らしいんですよ。」と述べている。アメリカでは親は子供、特に小さい子に対して責任を持たなければいけない。なのにリサは宗介とポニョを置いていく。世界展開を視野に入れた本作において、世界最大の映画市場である北米で受け入れられない要素があるのは懸念材料だろう。鈴木プロデューサーは「『崖の上のポニョ』がアメリカでどういった評価を受けるのか、僕はすごく大きな関心があるんです。」と語る。[*1]

 だが鈴木プロデューサーの読みは甘かったのかもしれない。かつて日本では仕事に精を出すのが当たり前とされ、働き手は家庭より仕事を優先したものだ。しかし、いまや『クレヨンしんちゃん』の父ひろしが「係長の代わりはいるけど、とーちゃんの代わりはいないからな」と云って会議をすっぽかして帰ってしまう時代だ。私もこれは名台詞だと思っている。
 その上、本作は子供を置いていくのが父ではなく母だから、余計に風当たりが強いのかもしれない。

 宮崎監督は、息子吾朗氏が父の反対を押し切って『ゲド戦記』を監督したことを指し、「オレの領域に土足で入ってきたのは嫌みだろうか、きっと吾朗が5歳のときに、自分が仕事にかまけていたのがいけなかったんだ。吾朗のような子を作らないためにこの作品を書こう」なんて云ったそうだ。
 親が仕事一筋でも気持ちよく送り出す子供になれ、という冗談だろう。

 いつでも親がそばにいたら、子供たちの冒険を描けない。だからアメリカでも子供が主役の映画ではどこかで親を退場させる必要があるのだが、これがたいへんな努力を要するらしい。
 『E.T.』を公開するための、スティーヴン・スピルバーグ監督たちの苦労は並大抵ではなかったようだ。鈴木プロデューサーは『E.T.』の騒動を紹介している。
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子供たちだけでワッと行きますね。これも実は大変なことだったんですよ。それでアメリカでは共和党問題にまで発展したそうです。「子供に対して親はこうあらなければならない」、それを頑強に守っているのが共和党です。一方、子供に自由を与えようではないか、というのが民主党です。そんな中で、この『崖の上のポニョ』という映画がそれをも超えたところで親子関係が描かれる。
僕としてはこの映画がもし全米で公開されて、ヒットするようなことがあったら非常に面白いと、そんなことを考えました。
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 『崖の上のポニョ』が米国で927館もの公開にこぎつけたのは、スピルバーグと苦労をともにしてきたキャスリーン・ケネディとフランク・マーシャルがプロデューサーを引き受けてくれたおかげだろう。

 もちろん『崖の上のポニョ』で描かれるのは、普通の状況ではない。避難命令が出るほどの災害が起きており、そんなときに親が子供のそばにいるのはとうぜんだ。宮崎監督もそれはよく判っている。

 嵐の夜とか洪水の夜というと、大災害の真っ只中で子供を放り出したように聞こえるが、映画を観ればそんなことはない。
 宗介とポニョが出会うことで嵐は静まる。天候がすっかり回復した満天の星空の下、リサは波も収まったことを見極めた上で、デイケアサービスセンターに戻る話を切り出している。
 リサが去った後で海面が上昇するけれど、これはまた別の話だ。大津波はポニョが宗介に会いに来たときに起きたものだから、二人の再会で解消している。それをリサは見届けている。その後の水位の上昇は、世界のバランスが崩れて地球に落下しはじめた月の引力が起こしたものだ。

 リサが「ひまわりの家」に戻るとき、宗介は一緒に行きたいと云うが、無論そんなことはさせない。家が一番安全だからだ。崖の上の家は水没のおそれがない。食料、水、その他の備品もある。宗介は装備の使い方に習熟しているから、夫との連携もできるはずだ。
 一番安全なところに宗介をいさせるのはとうぜんで、問題は自分も一緒に安全なところにいるかどうかだ。

 ここでリサは「ひまわりの家」の老人たちを心配し、食料や備品をクルマに積めるだけ積んで出発するのだが、もちろんこの展開は仕事一筋の親を気持ちよく送り出す子供になれ、というメッセージではない。そういうところもないではないが、いささかニュアンスが異なる。
 何のためにアニメーション映画を作るのか、という宮崎駿監督の根源的なモチベーションに関わっている。

               

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「おまえさんの出す主人公ってのはどうも良い子過ぎる」とか「優等生過ぎる」っていう意見がいっぱいあって、「人間ってもんはそんなもんじゃない」特に女の子がよく言うんですけどね。「女ってのはそんなもんじゃない」。
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 1988年、宮崎駿監督は『となりのトトロ』発表後の講演でこんなことを語っている。[*2]
 宮崎監督が描く人物はたしかに現実的ではないかもしれないが、それは確信を持ってやっていることだ。
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「人間の掘り下げが足りない」とか「一人の人間の中にある悪とか愚かな部分というものに目を背けて、肯定的な部分とか善いものだけを出してるんじゃないか」、例えば今度の「となりのトトロ」なんか全くそうです。はっきり意図的にやりました。こういう人達がいてくれたらいいなあ、こういう隣の人がいたらいいなあ、っていうふうに。
(略)
自分が作るものは「そんな女性はいません」とか言われても、それこそ「こういう人がいてくれたらいいな」っていうことでやっていくしかないと思ってるんです。
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 宮崎監督が描く人物は、監督の描く理想像なのだ。現実的でないのは百も承知だ。
 こんな人がいたらいいな、映画を観た人が何か行動するときに映画の人物のように振る舞ってくれたらいいな。少しでもその行動に影響できたなら、世の中は少し良くなるんじゃないかな。宮崎監督はそんな思いでアニメーション映画を作っている。

風立ちぬ [Blu-ray] ではリサという母親は監督が描く理想の母親像なのだろうか。
 行動的だが気性が荒くて辛辣で、やや危なっかしいところもあるリサ。彼女は理想の母親像とも云えるし、違うとも云えるだろう。
 宮崎監督の母親像を読み解くには、実際の監督の母親に迫るのが近道だ。『風立ちぬ』が宮崎監督の父を描いた作品であるように、『崖の上のポニョ』は宮崎監督の母を描いた映画である。
 鈴木敏夫プロデューサーは、「ひまわりの家」の老人の一人、トキさんが宮崎監督の母なのだという。
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宮さんのお袋さんは71歳で亡くなられていますが、今年1月に67歳になった宮さんが昨秋、『いつお迎えが来てもおかしくない年になった。(自分が死んで)お袋と再会したら、何を話そう』と言っていました。トキさんというキャラクターは宮さんの母親がモデルだと公言していましたが、その胸に飛び込んでいく宗介は宮崎駿そのものかなと
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 「ひまわりの家」の老人たちのうちにあって、トキさんは一味違う人物だ。みんなは宗介を可愛がり、優しい言葉をかけるのに、トキさんは気性が荒くて辛辣で、宗介が折り紙で作った船を「バッタに見えるね」とこき下ろす。みんながフジモトに連れて行かれたときも、一人だけ別のことをする行動的なお婆さんだ。
 おや、これではリサにそっくりではないか。

 本作にはトキさんと同じ性格の人物が三人いる。
 いずれの人物も行動的で気性が荒くて辛辣で、親を呼び捨てにすることを何とも思わない。そして宗介が大好きだ。
 トキさん本人とリサ、そしてポニョである。ポニョは実の父を「フジモト」と姓で呼び捨てにする。名前で呼び捨てにさせるリサより過激だ。
 再び鈴木プロデューサーの言葉を借りよう。
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おトキさんは口の利き方が素直じゃなくて、偏屈でしょう。うちのお袋なんかもソックリなんです(笑)。
(略)
僕流に宮さんの胸の内を説明すればポニョ、リサ、おトキさん。これは一人の女性なんです。つまりポニョみたいな女の子が成長するとリサになり、年を取ったらおトキさんになる。描いている女性像はひとつなんです。
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 私も同感だ。
 外見と役回りは違うけれど、三人の人物像はそっくりだ。
 周りが全然見えていないポニョが、少し分別を身に着けるとリサになり、さらに思慮深くなるとトキさんになる。トキさんは足が悪くてリサのようには行動できないが、代わりにリサが金魚だと思い込んだポニョを人面魚と見抜く知恵がある。
 宮崎監督は母親をモデルにトキさんのキャラクターを確立し、トキさんを未熟にしてリサを、リサを幼くしてポニョのキャラクターを発想したのかもしれない。その過程で、宮崎監督が六歳の頃から病床に臥せっていた母の分まで元気で活動的なキャラクターにしたのだろう。だから他の宮崎キャラと同じくリサも理想像ではあるものの、現実のモデルがいるだけ理想化しきれていない。
 しかし、本作には生きとし生けるものすべての母であり、母性の象徴たるグランマンマーレがいるから、作品全体で理想の母親像を描いているとも云える。

 では、洪水の夜に五歳の子供を自宅に置き去りにすることは、理想的な親の行動なのだろうか。

 忘れてならないのは、本作が親世代に向けて作られた映画ではなく、五歳くらいの子供のための映画だということだ。
 映画から理想の人物像を汲み取って、「こんな人がいたらいいな」という「こんな人」になることが期待されているのは、幼い子供たちなのだ。五歳の子でもこんなときにはこういう行動を取ってくれるといいな、という思いを込めた映画なのだ。

 なぜなら、この映画のように五歳の頃に街が壊滅する大災害に遭い、そのときの行動を思い返して後々苦しんだ子供がいるからだ。
 宇都宮大空襲の炎の海を逃げ惑った、駿少年である。

 1941年1月生まれの宮崎監督は、1945年7月の宇都宮大空襲のときにわずか四歳半。それでも焼夷弾で町中が燃える中を小さなトラックで逃げたこと、女の子を抱いた近所のおばさんが「乗せてください」と駆け寄ってきたことは憶えているという。自動車の個人所有が一般的ではなく、しかも原油不足から民間では木炭自動車が使われていた当時にあって、裕福な彼の家にはガソリンのクルマがあった。
 宮崎監督はそのときのことを次のように述べている。[*2]
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自分が戦争中に、全体が物質的に苦しんでいる時に軍需産業で儲けてる親の元でぬくぬくと育った、しかも人が死んでる最中に滅多になかったガソリンのトラックで逃げちゃった、乗せてくれって言う人も見捨ててしまった、っていう事は、四歳の子供にとっても強烈な記憶になって残ったんです。それは周りで言ってる正しく生きるとか、人に思いやりを持つとかいうことから比べると、耐え難いことなわけですね。それに自分の親は善い人であり世界で一番優れた人間だ、っていうふうに小さい子どもは思いたいですから、この記憶はずーっと自分の中で押し殺していたんです。それで忘れていまして、そして思春期になった時に、どうしてもこの記憶ともう一回対面せざるを得なくなったわけです。
(略)
自分のどっかの根本に、自分が生まれてここまで生きて来たってことの根本に、とんでもないごまかしがあるっていうふうに気がついたんです。
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 その問題と対決した宮崎青年は、親とも喧嘩した。
 空襲のさなか、我が子を守って逃げるのは親としてとうぜんだと思う。小さなトラックは家族だけでいっぱいだった。止まって他人を乗せられる状況ではなかったろう。
 けれども、自分の親は世界で一番優れた善い人だと思いたい幼子にとって、他人を見捨てる親の姿は衝撃的だった。
 宮崎監督は、あのとき運転していたのが自分だったらトラックを止めただろうかと自問する。

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その時に「乗せてくれ」って言ってあげられる子供が出てきたら、たぶんその瞬間に母親も父親もその車を止めるようにしたんじゃないかと思うんです。例えば自分が親で、子供がそう言ったら僕はそうしただろうと思うんです。
(略)
人間っていうのはやっぱり所詮「止めてくれ」って言えないんじゃなくて、言ってくれる子を出すようなアニメーションを作りたいと思うようになったんだ、ってこの年になって思い至ったんです。
(略)
四歳の子供が親に「車を止めてくれ」って言うのは現実感がないかもしれない。でも、そういう事を言ってくれる子供が出たら、「あ、こういう時にはこういう事言っていいんだ」っていうふうに思えたらね、その方がいいんじゃないかなって思うんです。少なくとも僕はそういうことで映画を作るしかない人間だと思ってるんです。
(略)
自分は「こうあってほしい、こうあったらいいな」っていうものを作りたい。「パンダコパンダ」もそうです。それから「となりのトトロ」もそうです。いや、ほとんどみんなそうですね。そういうものをこれからも作っていくしかないだろうと思うんです。
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 大津波から逃れようとリサがクルマを飛ばしているとき、海に落下するポニョを見た宗介は叫ぶ。「女の子が落ちた!」
 それを聞いたリサは、とっさに*ク*ル*マ*を*止*め*る*

 宗介の安全を確保したリサは、「ひまわりの家」に残る老人たちを心配する。他人だって関係ないわけじゃない。我が子さえ安全ならいいわけじゃない。リサは老人たちのことも等しく心配するのだ。
 そして宗介はリサに「ここに居て」とは*云*わ*な*い*。云いたいだろうに、その言葉を飲み込んで「僕も一緒に行く」と云う。お婆さんたちを放っておくという選択肢は、宗介にはないのだ。この映画で重要なのはリサの選択ではない。宗介の選択だ。

 助けを求める人がクルマに駆け寄ってきたら、親に「乗せてくれ」って云ってあげられる子供。「車を止めてくれ」って云ってくれる子供。子供がそう云ったなら、母親も父親もその言葉を振り切ってまでクルマを走らせはしないのではないか。そうすれば、その子は他人を見捨てる親の姿を見なくて済むんじゃないか。自分が生まれてここまで生きて来たことの根本に、とんでもないごまかしがあるなんて苦悩せずに済むのではないか。
 「車を止めてくれ」って云ってくれる子を出すようなアニメーションを作りたい。その思いが、老人たちのために「ひまわりの家」に向かう母と、その母に理解を示し、見送る子供の描写に繋がるのだろう。


 女の子のためにクルマを止めさせる五歳の子供。
 その子の言葉に、すぐにクルマを止めた母。
 あたかも焼夷弾が降り注ぐあの夜に戻ってやり直したかのようなこの場面を描いた宮崎監督の胸中はいかばかりか。

 本作で宇都宮大空襲のあの夜のことに取り組んだ宮崎駿監督は、次作『風立ちぬ』でいよいよ軍需産業に従事する男を描くことになる。


[*1] 2015年4月10日現在、映画評価サイトRotten Tomatoesでは肯定的な評価が92%を占め、平均点7.6/10を獲得している。
 興行収入15,090,399ドルは、米国市場ではヒットといいがたいだろう。

[*2] 「宮崎駿講演採録 アニメーション罷り通る (なごやシネフェスティバル'88にて)」
   『キネマ旬報臨時増刊1995年7月16日号 宮崎駿、高畑勲とスタジオジブリのアニメーションたち』所収


崖の上のポニョ [Blu-ray]崖の上のポニョ』  [か行]
監督・原作・脚本/宮崎駿 (環境依存文字を避けるため「崎」と表記した。)
出演/山口智子 天海祐希 所ジョージ 土井洋輝 奈良柚莉愛 矢野顕子
日本公開/2008年7月19日
ジャンル/[ファミリー] [ファンタジー]
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tag : 宮崎駿 山口智子 天海祐希 所ジョージ 土井洋輝 奈良柚莉愛 矢野顕子

『崖の上のポニョ』は大人には厳しいか?

 宮崎駿監督は、自分の子供の世代を対象に作品をつくっていたという。

 長男の宮崎吾朗氏は1967年1月の生まれ。
 たしかに息子さんが成長するにつれ、作品の対象年齢は上がっている。

  1972年 宮崎吾朗氏 5歳 『パンダコパンダ』
  1973年 宮崎吾朗氏 6歳 『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』
  1978年 宮崎吾朗氏11歳 『未来少年コナン』
  1984年 宮崎吾朗氏17歳 『風の谷のナウシカ』

 そして息子さんが成人するときに、宮崎冒険活劇の集大成たる『天空の城ラピュタ』(1986年 宮崎吾朗氏19歳)を制作し、その後は息子さんの年齢にかかわらず作品を生み出している。
  1988年 宮崎吾朗氏21歳 『となりのトトロ』

 その宮崎駿監督が、対象年齢をグッと下げて『パンダコパンダ』以来となる5歳児向けの『崖の上のポニョ』を作ると聞いて、さては初孫かと思料したところ、本作が公開された2008年に、社内保育園を竣工したことや(すなわち、保育園が必要なほどスタッフにお子さんの誕生が相次いだ)、自身の初孫を授かったことを知った。
 なるほど幼児向けの作品をつくる原動力に満ちるはずだ。

 出来上がった本作は、子供たちの元気と自由を凝縮した魅力に溢れている。
 津波に襲われた街をポニョと宗介がボートに乗っていくところなど、『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』を思い出して懐かしく感じた人も多いだろう。
 藤岡藤巻と大橋のぞみによる1度聞いたら頭から離れない主題歌と相まって、子供にも、もちろん大人にも楽しい作品だ。


 しかし『パンダコパンダ』を作ったときの宮崎駿監督は31歳、対して『崖の上のポニョ』を作ったときは67歳。36年前と同じように奔放には作れない。
 労働組合の書記長も務めた宮崎監督だが、経営者を悪者扱いする階級闘争的な要素はルパン三世シリーズ『さらば愛しきルパンよ』(1980年)を最後に影を潜め、世の中はそんなに単純ではないことを作品に滲ませていくようになる。

 そんな宮崎監督が、いままた子供に向けて楽しく自由奔放な作品をつくるにはどうしたらいいだろう。
 本作で宮崎監督が出した結論、それは「たいへんなことは大人が引き受ける」ことだ。

 『崖の上のポニョ』ではたいへんなことが起こっている。
 津波のために街は水没、物的・人的被害は甚大だ。
 しかもそれはポニョのせいだ。宗介にもかかわりがある。
 誰もが文句を云いたい、悪者を探して糾弾したいシチュエーションだ。

 しかしそれは大人の世界でのこと、大人が処理すべきこと。
 幼児に不安を抱かせたりつらい思いをさせてはいけない。

 これがもっと成長した少年・少女が相手なら、応分の責任を自覚させるという考えもあろう。
 でも5歳の宗介や人間になったばかりのポニョは、大人が守るべき存在だ。
 得てして「成長物語」は褒め言葉のように使われるが、宮崎監督は成長と称して大人の苦労の一端を担わせるようなことはしない。
 だからこの映画に出てくる大人たちは、みんな子供に優しい。災害やその対策で苦労する姿は見せず、朗らかに振る舞う。客席の子供たちが大人に抱く期待と信頼を裏切らない。 

 わずかに描かれるのは、宗介の母リサとポニョの母グランマンマーレが、子供たちから離れて話し合うシーン。
 それはそうだ、2人には相談すべきことがたくさんある。
 でも具体的な話の内容を子供たち(客席の子供たちも含めて)に聞かせはしない。諸問題は大人だけで受け止めるのだ。子供たちが楽しく暮らせるように。


 上映終了後、楽しげに主題歌を口ずさむ子供たちに囲まれつつ、宮崎駿の突きつけたものの重さを感じながら、私は映画館をあとにした。


崖の上のポニョ [Blu-ray]崖の上のポニョ』  [か行]
監督・原作・脚本/宮崎駿 (環境依存文字を避けるため「崎」と表記した。)
出演/山口智子 天海祐希 所ジョージ 土井洋輝 奈良柚莉愛 矢野顕子
日本公開/2008年7月19日
ジャンル/[ファミリー] [ファンタジー]
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【genre : 映画

tag : 宮崎駿 山口智子 天海祐希 所ジョージ

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