『パレード』 『悪人』 ラストの秘密
『悪人』の記事に関連して、質問をいただいた。
コメント欄で回答するにはあまりにも長くなったので別の記事としたが、回答に当たっては『悪人』と『パレード』の核心的な部分に触れざるを得ない。
両作品について未見の方は、ここから先を読むのはご遠慮願いたい。
【tiffaさんからの質問】
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ラストで深津絵里さんが「あの人は悪人なんですよね」と言ったのはそのままの感情だと思いますか?
私は違うと思うのですが、そうすると、深津さんの表情に違和感を感じてしまいます。そこを追い求める映画ではないと思いますが、いい映画だっただけにそこだけ違和感を感じたままです。
よければ、ナドレックさんなりの考えを教えてください。
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tiffaさん、こんにちは。
ラストで深津絵里さん演じる光代が口にした「あの人は悪人なんですよね」というセリフについて述べるのは難しいですね。
そのためには、「悪人」とは何なのかについて考える必要があると思います。
そしてそれを語るのに、李相日(リ・サンイル)監督は139分の映画を要し、原作者の吉田修一氏は一つの長編小説を要したわけです。
『悪人』という作品は、まさにこのセリフにたどりつくためにあったとも云えるでしょう。
以下に、あくまで私なりに想うところを書いてみます。
まず、光代がこのセリフを述べた場には、4人の人間がいました。
1人は、柄本明さんが演じた犠牲者の父です。被害者側の関係者です。
光代は、彼が大学生を付け狙ったことは知りませんが、娘を殺されたのですから、犯人を憎んでも憎み切れないのは理解するところでしょう。
祐一は彼に対して、「悪いこと」をしたのです。
もう1人は、タクシーの運転手です。被害者側にも加害者側にも属さない傍観者です。
彼は、報道によって事件を知るのみです。事件の当事者のことは、直接的には何も知りません。
にもかかわらず、「常識」にしたがって、人を殺したヤツは悪人だと考えています。
彼は、世間一般を代表しています。
そして光代がいます。加害者側の関係者です。
光代は、祐一がどんなに淋しい魂の持主だったかを知っています。祐一には、他人への優しさがあり、自己を犠牲にする思いやりがあることも知っています。
同時に彼女は、世間一般が殺人者をどう見るか、被害者側の人間が殺人者をどう見るかを理解し、推し量ることができます。
最後の1人は、祐一です。
物理的には、そこにはいません。しかし、結わえ付けられたスカーフを通して、私たちは祐一の影を見ます。
吉田修一氏が「自分は祐一そのものを書かなかった」と述べたように、もともとの原作小説は、祐一の周囲の人を描くことで祐一を浮かび上がらせる手法をとっていました。
それでは映画にならないので、李相日監督は祐一を描くようにしたのですが、この場面だけは、役者が祐一を演じるという映画的手法を捨てて、原作同様に周囲の人から祐一を浮かび上がらせています(私は原作を未読ですので、吉田修一氏のインタビュー記事に基づいて述べています)。
そしてこれは、同じく吉田修一氏が原作の『パレード』でも見られることです。
『パレード』では数人の若者たちが登場します。一緒に暮らしているにもかかわらず、お互いを全人的に理解しているわけではありません。
お互いが見ている/見せているのは、その人のほんの一面だけで、他の面があるのかどうか、あったらそれがどのような面なのかは、お互いにまったく知らないのです。
そして、見ている/見せているほんの一面から、その人間のイメージを作り上げ、イメージを壊さないように各人が役割を演じています。本人はイメージから逸脱しないように努力を強いられ、周囲の者は本人のイメージから外れるところには踏み込まないように心がけなくてはなりません。
実際に『パレード』では、打ち明け話をされているのに寝たフリして聞かなかったり、その人のイメージに合わない物は周囲の者が壊してしまう、といったシークエンスがあります。
こうして各人のイメージを維持することで、社会を保っているのです。
『悪人』の祐一は、この社会にある「悪人のイメージ」を付与されてしまいました。
本当は優しいとか、犠牲的な精神の持ち主だとか、そんなことはイメージから外れるので世間が許しません。
犠牲者の父には、怒りの矛先が必要です。
世間一般の人たちは、人を殺したヤツは悪人だという常識を維持しなければなりません。
しばしば、現実の凶悪犯罪が報道されます。
被害者の遺族や関係者が報道機関をとおして、悲しみや怒りや憎しみの言葉を発することがあります。
マスコミに登場する人々も、犯人を糾弾するコメントを口にします。
私も世間一般の一人として、常識にしたがって、犯罪は許されないと思うし、犯人は罪を償うべきだと思います。
ただ、これらの報道を目にしたときに、引っかかるものはありませんか。
怒りや憎しみの言葉を投げつけている相手は誰なんだろう?
遺族は、犯人と長い付き合いがあるわけでも、その人となりを熟知した上で発言しているわけでもないでしょう。どこの誰とも知らない者に大事な家族を殺されてしまった、というケースが少なくありません。
しかし遺族は、犯人をよく知らなくても、怒りや憎しみの言葉を発することがあります。それらの言葉を投げつける相手は、犯人その人ではなく、「犯人としてイメージされるもの」ではないでしょうか。
ましてや、その発言の模様を眺めている私たちは、言葉を発した人のことも、言葉を投げつけられた人のことも、まったく知りません。
私たちにとって、その人たちは何なのでしょうか。
たとえ実体を知らなくても、人は虚像に向かって怒りをぶつけることができる。
人は、虚像に対する非難に同調することができる。
『悪人』においては、犯人の祖母がマスコミの攻撃を受け、悪徳業者はのうのうとしています。
祖母は、法的には何の罪も犯していません。しかし世間は彼女に、悪人と同類のイメージを背負わせました。
悪徳業者は、その実態を誰も知らないので、悪人としては扱われません。
私たちの社会では、人を非難をするのに、悪の実態はあってもなくても構わないのです。
光代はこれらを理解しています。
彼女も世間の常識を身に付けた一人だったからです。
そして、祐一が生涯「悪人」と呼ばれ続けなければならないことを考え、その絶望的な重荷を痛感したときに、つい口をついて出たのでしょう。
「あの人は悪人なんですよね」と。
『パレード』 [は行]
監督・脚本/行定勲 原作/吉田修一
出演/藤原竜也 香里奈 貫地谷しほり 林遣都 小出恵介 竹財輝之助 野波麻帆 中村ゆり 正名僕蔵
日本公開/2010年2月20日
ジャンル/[ドラマ] [青春] [ミステリー]

コメント欄で回答するにはあまりにも長くなったので別の記事としたが、回答に当たっては『悪人』と『パレード』の核心的な部分に触れざるを得ない。
両作品について未見の方は、ここから先を読むのはご遠慮願いたい。
【tiffaさんからの質問】
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ラストで深津絵里さんが「あの人は悪人なんですよね」と言ったのはそのままの感情だと思いますか?
私は違うと思うのですが、そうすると、深津さんの表情に違和感を感じてしまいます。そこを追い求める映画ではないと思いますが、いい映画だっただけにそこだけ違和感を感じたままです。
よければ、ナドレックさんなりの考えを教えてください。
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tiffaさん、こんにちは。
ラストで深津絵里さん演じる光代が口にした「あの人は悪人なんですよね」というセリフについて述べるのは難しいですね。
そのためには、「悪人」とは何なのかについて考える必要があると思います。
そしてそれを語るのに、李相日(リ・サンイル)監督は139分の映画を要し、原作者の吉田修一氏は一つの長編小説を要したわけです。
『悪人』という作品は、まさにこのセリフにたどりつくためにあったとも云えるでしょう。
以下に、あくまで私なりに想うところを書いてみます。
まず、光代がこのセリフを述べた場には、4人の人間がいました。
1人は、柄本明さんが演じた犠牲者の父です。被害者側の関係者です。
光代は、彼が大学生を付け狙ったことは知りませんが、娘を殺されたのですから、犯人を憎んでも憎み切れないのは理解するところでしょう。
祐一は彼に対して、「悪いこと」をしたのです。
もう1人は、タクシーの運転手です。被害者側にも加害者側にも属さない傍観者です。
彼は、報道によって事件を知るのみです。事件の当事者のことは、直接的には何も知りません。
にもかかわらず、「常識」にしたがって、人を殺したヤツは悪人だと考えています。
彼は、世間一般を代表しています。
そして光代がいます。加害者側の関係者です。
光代は、祐一がどんなに淋しい魂の持主だったかを知っています。祐一には、他人への優しさがあり、自己を犠牲にする思いやりがあることも知っています。
同時に彼女は、世間一般が殺人者をどう見るか、被害者側の人間が殺人者をどう見るかを理解し、推し量ることができます。
最後の1人は、祐一です。
物理的には、そこにはいません。しかし、結わえ付けられたスカーフを通して、私たちは祐一の影を見ます。
吉田修一氏が「自分は祐一そのものを書かなかった」と述べたように、もともとの原作小説は、祐一の周囲の人を描くことで祐一を浮かび上がらせる手法をとっていました。
それでは映画にならないので、李相日監督は祐一を描くようにしたのですが、この場面だけは、役者が祐一を演じるという映画的手法を捨てて、原作同様に周囲の人から祐一を浮かび上がらせています(私は原作を未読ですので、吉田修一氏のインタビュー記事に基づいて述べています)。
そしてこれは、同じく吉田修一氏が原作の『パレード』でも見られることです。
『パレード』では数人の若者たちが登場します。一緒に暮らしているにもかかわらず、お互いを全人的に理解しているわけではありません。
お互いが見ている/見せているのは、その人のほんの一面だけで、他の面があるのかどうか、あったらそれがどのような面なのかは、お互いにまったく知らないのです。
そして、見ている/見せているほんの一面から、その人間のイメージを作り上げ、イメージを壊さないように各人が役割を演じています。本人はイメージから逸脱しないように努力を強いられ、周囲の者は本人のイメージから外れるところには踏み込まないように心がけなくてはなりません。
実際に『パレード』では、打ち明け話をされているのに寝たフリして聞かなかったり、その人のイメージに合わない物は周囲の者が壊してしまう、といったシークエンスがあります。
こうして各人のイメージを維持することで、社会を保っているのです。
『悪人』の祐一は、この社会にある「悪人のイメージ」を付与されてしまいました。
本当は優しいとか、犠牲的な精神の持ち主だとか、そんなことはイメージから外れるので世間が許しません。
犠牲者の父には、怒りの矛先が必要です。
世間一般の人たちは、人を殺したヤツは悪人だという常識を維持しなければなりません。
しばしば、現実の凶悪犯罪が報道されます。
被害者の遺族や関係者が報道機関をとおして、悲しみや怒りや憎しみの言葉を発することがあります。
マスコミに登場する人々も、犯人を糾弾するコメントを口にします。
私も世間一般の一人として、常識にしたがって、犯罪は許されないと思うし、犯人は罪を償うべきだと思います。
ただ、これらの報道を目にしたときに、引っかかるものはありませんか。
怒りや憎しみの言葉を投げつけている相手は誰なんだろう?
遺族は、犯人と長い付き合いがあるわけでも、その人となりを熟知した上で発言しているわけでもないでしょう。どこの誰とも知らない者に大事な家族を殺されてしまった、というケースが少なくありません。
しかし遺族は、犯人をよく知らなくても、怒りや憎しみの言葉を発することがあります。それらの言葉を投げつける相手は、犯人その人ではなく、「犯人としてイメージされるもの」ではないでしょうか。
ましてや、その発言の模様を眺めている私たちは、言葉を発した人のことも、言葉を投げつけられた人のことも、まったく知りません。
私たちにとって、その人たちは何なのでしょうか。
たとえ実体を知らなくても、人は虚像に向かって怒りをぶつけることができる。
人は、虚像に対する非難に同調することができる。
『悪人』においては、犯人の祖母がマスコミの攻撃を受け、悪徳業者はのうのうとしています。
祖母は、法的には何の罪も犯していません。しかし世間は彼女に、悪人と同類のイメージを背負わせました。
悪徳業者は、その実態を誰も知らないので、悪人としては扱われません。
私たちの社会では、人を非難をするのに、悪の実態はあってもなくても構わないのです。
光代はこれらを理解しています。
彼女も世間の常識を身に付けた一人だったからです。
そして、祐一が生涯「悪人」と呼ばれ続けなければならないことを考え、その絶望的な重荷を痛感したときに、つい口をついて出たのでしょう。
「あの人は悪人なんですよね」と。
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監督・脚本/行定勲 原作/吉田修一
出演/藤原竜也 香里奈 貫地谷しほり 林遣都 小出恵介 竹財輝之助 野波麻帆 中村ゆり 正名僕蔵
日本公開/2010年2月20日
ジャンル/[ドラマ] [青春] [ミステリー]
