『樺太1945年夏 氷雪の門』の圧力とは?
『樺太1945年夏 氷雪の門』という作品そのものについては、先日の記事で取り上げた。
ここでは、1974年3月に予定していた公開が中止された事情について触れておきたい。
1974年、東宝は幾つかの作品の公開を止めている。
ソ連からは、3本の映画について抗議があった。
『キネマ旬報』1974年4月下旬号に掲載の座談会「映画■トピック・ジャーナル」によれば、それは次の作品である。
『イワン・デニーソヴィチの一日』 NCC配給
『モスクワわが愛』 東宝配給
『樺太1945年夏 氷雪の門』 JMP配給
『イワン・デニーソヴィチの一日』は、1970年にノーベル文学賞を受賞したアレクサンドル・ソルジェニーツィンの処女作の映画化である。
その作家活動が国家反逆罪に当たるとされたソルジェニーツィンは、1974年2月にソ連を追放された。
もちろんこの映画は、ソ連の制作ではない。
イギリスとノルウェーの合作による『イワン・デニーソヴィチの一日』の日本での公開は、原作者の国外追放が世界中で話題になっていた時期だから、ソ連にとって面白いはずがない。
東宝は配給会社のNCCから興行を打診されていたが、ソ連からの日本で上映しないでくれという申し入れを受けて、こんな話題性が満点の作品なのに興行を断ってしまう。
『キネマ旬報』によれば、「モスフィルムが製作した『モスクワわが愛』が東宝配給ということがからんでいるから」だそうだ。
本作は、ソ連とのしがらみがない松竹系の劇場で公開されている。
『イワン・デニーソヴィチの一日』を犠牲にしてでも東宝が尊重しようとした東宝映画(東宝の制作子会社)とモス・フィルム合作の『モスクワわが愛』については、ソ連側が作品の一部をカットすると云いだした。
『キネマ旬報』は、「ソビエト側は、三角関係がオモシロくない、という。」「カットされたら話がつながらなくなる。日本側は頭を抱えている」と報じている。
そして『樺太1945年夏 氷雪の門』に関するソ連からの抗議については、「要するに第二次大戦の恥部には触れてくれるな、ということだと思う。」「契約としては単なる興行契約だけだったから、東宝はすぐにハズしたわけだ。反共映画だ、みたいな形で参院選などがからんだら、やっかいなことになるのを避けたのだろうね。」と報じている。
折りしも、1974年7月7日の第10回参議院議員通常選挙を控えた頃のことである。
『キネマ旬報』の同号の「日本映画紹介」コーナーには、公開作品として本作のあらすじが掲載されており、興行中止がいかに急な決定だったかが判る。
なお、『キネマ旬報』における本作の紹介記事は、このあらすじ紹介のみであり、興行中止がなければ座談会に取り上げられることもなかったはずだ。
独立プロの自主配給では、話題性に乏しかったのであろう。
この座談会では、東宝の姿勢に対し、「『モスクワわが愛』はちょっと違うけれども、後の二本はつっぱねたって、国交断絶になるわけでなし、妙に弱腰になると後で困るんじゃないかな」という意見もあるものの、「金持ちケンカせず、というところですよ」と結ばれている。
これだけでは、結びの発言の意味が不明だが、それは『キネマ旬報』1974年9月上旬号の座談会を読むと判る。
ここでは、東宝の関係会社である東京映画が制作した『太陽への挑戦』の公開見送り問題を取り上げている。
『太陽への挑戦』は、第10回参議院議員通常選挙で初当選した糸山英太郎氏をモデルにした映画だが、選挙違反事件を受けて東宝は公開を止めてしまった。
座談会の出席者からは、選挙違反事件の話題性を考えれば公開しない手はないとの声が強かったが、東宝の判断は次の事情によるのだろうとしている。
・このころ東宝は、『人間革命』『日本沈没』『華麗なる一族』のヒットに恵まれており、攻撃材料になるような映画を公開するくらいなら、多少の損には眼をつむっても波風を立てるべきではないと考えるだけの余裕があった。
・何よりも世論の袋叩きを恐れている会社である。よくいえば良心的、悪くいえば勇気がない。
・当時は社長が静養中で、森、馬渕両氏が社長代行をしている状況であった。
座談会では、「東映や日活だったら何の躊躇もなくやっちゃうんだろうが」として、8月に『樺太1945年夏 氷雪の門』を公開した東映の岡田茂社長の次の言葉を紹介している。
「『氷雪の門』はソビエト映画じゃない、日本映画なんだ。東宝や東映がやらなくても誰かが上映して、当然反ソ的な意味合いというものが出てくる。しかし大手にまかしておけば最初から喧嘩するようなことをやるはずがないじゃないか」
この言葉を受けて、座談会の出席者は、「東宝と東映の体質というのはすごい違いだ」と述べている。
以上の『キネマ旬報』の記事の他、当時は当たり前すぎて取り上げられていない世情を勘案すると、『樺太1945年夏 氷雪の門』の公開中止の背景として次のことが挙げられよう。
(1) 1973年10月からの第一次オイルショックにより、日本経済は大混乱。そんな中、1974年7月には参院選を控えていた(この参院選で、与党は大敗を喫することになる)。
(2) 1960年の日米安保条約の改定以来冷え込んでいた日ソ関係を打開すべく、1973年10月に17年ぶりの日ソ首脳会談が開かれた。ソ連は、二島返還の提案を撤回したままだったが、この会談でようやく北方四島の問題が未解決であることを日ソで確認したところである。
(3) 東宝には、スキャンダラスな興行になって、世間や圧力団体から叩かれることを恐れる体質があった。
(4) 当時の東宝は、ヒット作に恵まれており、関連会社が制作してみずからが配給する予定だった作品をお蔵入りさせてもこたえないだけの余裕があった。
ましてや、制作・配給は他社が行い、東宝としては興行契約を結んだだけの作品を外したところでダメージではなかった。
(5) ソ連から3本の映画について抗議を受けたが、東宝の子会社が制作し、みずから配給する予定の『モスクワわが愛』に比べれば、他の2本は東宝にとって重要ではなかった。
ところで、2010年の『樺太1945年夏 氷雪の門』リバイバル時のパンフレットの表紙には、こう書かれている。
36年前
ソ連の圧力によって
封印された幻の名作
そして、イントロダクションには次の記述がある。
---
当時の新聞資料等は、ソ連大使館から外務、文部両省に「反ソ映画の上映は困る」との抗議により、配給会社が自粛に至ったと報道している。
---
しかし上に紹介したように、自粛したのは配給会社ではなく、興行会社としての東宝である。
また、私が参照した『キネマ旬報』1974年4月下旬号には、このパンフレット同様に「ソ連大使館から抗議」と書かれているが、ウィキペディアによれば「パーティーの席上、モスフィルム所長が苦言を口にした」のだという。
「ソ連の圧力」という文句から想像されるものと、パーティーの席で苦言を口にされたのとでは、ずいぶんイメージが異なる。
そもそも、当時のソ連にとっては、国外追放にしたソルジェニーツィン原作の『イワン・デニーソヴィチの一日』の方がよほど刺激的だったのではないか。
それを公開した松竹には、何か不利益が生じただろうか。
せっかくリバイバルするのだから、1974年当時に何があったのか具体的に記しておければ、なお良かったろう。
ソ連という国はもう存在しない。したがって、「ソ連の…」「ソ連が…」と書いたところで、もう抗議してくる者はいない。
だからこそ、よりいっそう正確な記述が求められると思うのだが、いかがだろうか。
『樺太1945年夏 氷雪の門』 [か行]
監督/村山三男 脚本/国弘威雄 原作/金子俊男 助監督/山野辺勝太郎、新城卓
出演/二木てるみ 鳥居恵子 岡田可愛 藤田弓子 栗田ひろみ 木内みどり 北原早苗 若林豪 黒沢年男 南田洋子 千秋実 赤木春恵 丹波哲郎 田村高廣 島田正吾
日本公開/1974年8月17日 109分バージョン (153分バージョンもあり)
リバイバル/2010年7月17日 119分バージョン
ジャンル/[ドラマ] [戦争]
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ここでは、1974年3月に予定していた公開が中止された事情について触れておきたい。
1974年、東宝は幾つかの作品の公開を止めている。
ソ連からは、3本の映画について抗議があった。
『キネマ旬報』1974年4月下旬号に掲載の座談会「映画■トピック・ジャーナル」によれば、それは次の作品である。
『イワン・デニーソヴィチの一日』 NCC配給
『モスクワわが愛』 東宝配給
『樺太1945年夏 氷雪の門』 JMP配給
『イワン・デニーソヴィチの一日』は、1970年にノーベル文学賞を受賞したアレクサンドル・ソルジェニーツィンの処女作の映画化である。
その作家活動が国家反逆罪に当たるとされたソルジェニーツィンは、1974年2月にソ連を追放された。
もちろんこの映画は、ソ連の制作ではない。
イギリスとノルウェーの合作による『イワン・デニーソヴィチの一日』の日本での公開は、原作者の国外追放が世界中で話題になっていた時期だから、ソ連にとって面白いはずがない。
東宝は配給会社のNCCから興行を打診されていたが、ソ連からの日本で上映しないでくれという申し入れを受けて、こんな話題性が満点の作品なのに興行を断ってしまう。
『キネマ旬報』によれば、「モスフィルムが製作した『モスクワわが愛』が東宝配給ということがからんでいるから」だそうだ。
本作は、ソ連とのしがらみがない松竹系の劇場で公開されている。
『イワン・デニーソヴィチの一日』を犠牲にしてでも東宝が尊重しようとした東宝映画(東宝の制作子会社)とモス・フィルム合作の『モスクワわが愛』については、ソ連側が作品の一部をカットすると云いだした。
『キネマ旬報』は、「ソビエト側は、三角関係がオモシロくない、という。」「カットされたら話がつながらなくなる。日本側は頭を抱えている」と報じている。
そして『樺太1945年夏 氷雪の門』に関するソ連からの抗議については、「要するに第二次大戦の恥部には触れてくれるな、ということだと思う。」「契約としては単なる興行契約だけだったから、東宝はすぐにハズしたわけだ。反共映画だ、みたいな形で参院選などがからんだら、やっかいなことになるのを避けたのだろうね。」と報じている。
折りしも、1974年7月7日の第10回参議院議員通常選挙を控えた頃のことである。
『キネマ旬報』の同号の「日本映画紹介」コーナーには、公開作品として本作のあらすじが掲載されており、興行中止がいかに急な決定だったかが判る。
なお、『キネマ旬報』における本作の紹介記事は、このあらすじ紹介のみであり、興行中止がなければ座談会に取り上げられることもなかったはずだ。
独立プロの自主配給では、話題性に乏しかったのであろう。
この座談会では、東宝の姿勢に対し、「『モスクワわが愛』はちょっと違うけれども、後の二本はつっぱねたって、国交断絶になるわけでなし、妙に弱腰になると後で困るんじゃないかな」という意見もあるものの、「金持ちケンカせず、というところですよ」と結ばれている。
これだけでは、結びの発言の意味が不明だが、それは『キネマ旬報』1974年9月上旬号の座談会を読むと判る。
ここでは、東宝の関係会社である東京映画が制作した『太陽への挑戦』の公開見送り問題を取り上げている。
『太陽への挑戦』は、第10回参議院議員通常選挙で初当選した糸山英太郎氏をモデルにした映画だが、選挙違反事件を受けて東宝は公開を止めてしまった。
座談会の出席者からは、選挙違反事件の話題性を考えれば公開しない手はないとの声が強かったが、東宝の判断は次の事情によるのだろうとしている。
・このころ東宝は、『人間革命』『日本沈没』『華麗なる一族』のヒットに恵まれており、攻撃材料になるような映画を公開するくらいなら、多少の損には眼をつむっても波風を立てるべきではないと考えるだけの余裕があった。
・何よりも世論の袋叩きを恐れている会社である。よくいえば良心的、悪くいえば勇気がない。
・当時は社長が静養中で、森、馬渕両氏が社長代行をしている状況であった。
座談会では、「東映や日活だったら何の躊躇もなくやっちゃうんだろうが」として、8月に『樺太1945年夏 氷雪の門』を公開した東映の岡田茂社長の次の言葉を紹介している。
「『氷雪の門』はソビエト映画じゃない、日本映画なんだ。東宝や東映がやらなくても誰かが上映して、当然反ソ的な意味合いというものが出てくる。しかし大手にまかしておけば最初から喧嘩するようなことをやるはずがないじゃないか」
この言葉を受けて、座談会の出席者は、「東宝と東映の体質というのはすごい違いだ」と述べている。
以上の『キネマ旬報』の記事の他、当時は当たり前すぎて取り上げられていない世情を勘案すると、『樺太1945年夏 氷雪の門』の公開中止の背景として次のことが挙げられよう。
(1) 1973年10月からの第一次オイルショックにより、日本経済は大混乱。そんな中、1974年7月には参院選を控えていた(この参院選で、与党は大敗を喫することになる)。
(2) 1960年の日米安保条約の改定以来冷え込んでいた日ソ関係を打開すべく、1973年10月に17年ぶりの日ソ首脳会談が開かれた。ソ連は、二島返還の提案を撤回したままだったが、この会談でようやく北方四島の問題が未解決であることを日ソで確認したところである。
(3) 東宝には、スキャンダラスな興行になって、世間や圧力団体から叩かれることを恐れる体質があった。
(4) 当時の東宝は、ヒット作に恵まれており、関連会社が制作してみずからが配給する予定だった作品をお蔵入りさせてもこたえないだけの余裕があった。
ましてや、制作・配給は他社が行い、東宝としては興行契約を結んだだけの作品を外したところでダメージではなかった。
(5) ソ連から3本の映画について抗議を受けたが、東宝の子会社が制作し、みずから配給する予定の『モスクワわが愛』に比べれば、他の2本は東宝にとって重要ではなかった。
ところで、2010年の『樺太1945年夏 氷雪の門』リバイバル時のパンフレットの表紙には、こう書かれている。
36年前
ソ連の圧力によって
封印された幻の名作
そして、イントロダクションには次の記述がある。
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当時の新聞資料等は、ソ連大使館から外務、文部両省に「反ソ映画の上映は困る」との抗議により、配給会社が自粛に至ったと報道している。
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しかし上に紹介したように、自粛したのは配給会社ではなく、興行会社としての東宝である。
また、私が参照した『キネマ旬報』1974年4月下旬号には、このパンフレット同様に「ソ連大使館から抗議」と書かれているが、ウィキペディアによれば「パーティーの席上、モスフィルム所長が苦言を口にした」のだという。
「ソ連の圧力」という文句から想像されるものと、パーティーの席で苦言を口にされたのとでは、ずいぶんイメージが異なる。
そもそも、当時のソ連にとっては、国外追放にしたソルジェニーツィン原作の『イワン・デニーソヴィチの一日』の方がよほど刺激的だったのではないか。
それを公開した松竹には、何か不利益が生じただろうか。
せっかくリバイバルするのだから、1974年当時に何があったのか具体的に記しておければ、なお良かったろう。
ソ連という国はもう存在しない。したがって、「ソ連の…」「ソ連が…」と書いたところで、もう抗議してくる者はいない。
だからこそ、よりいっそう正確な記述が求められると思うのだが、いかがだろうか。
『樺太1945年夏 氷雪の門』 [か行]
監督/村山三男 脚本/国弘威雄 原作/金子俊男 助監督/山野辺勝太郎、新城卓
出演/二木てるみ 鳥居恵子 岡田可愛 藤田弓子 栗田ひろみ 木内みどり 北原早苗 若林豪 黒沢年男 南田洋子 千秋実 赤木春恵 丹波哲郎 田村高廣 島田正吾
日本公開/1974年8月17日 109分バージョン (153分バージョンもあり)
リバイバル/2010年7月17日 119分バージョン
ジャンル/[ドラマ] [戦争]


『樺太1945年夏 氷雪の門』 生と死を分かつのは?

「原爆は是か非か、戦争は是か非か、軍事力は是か非か──。白か黒かの二分法の論理だけに議論が支配されている。」
竹中正治氏は、日経ビジネス オンラインの記事で、このような日本的二分法の危うさについて述べている。
「興味深いことに、旧日本軍では戦争の展開までも、勝利か玉砕かの二分法に支配され、「投降」という選択肢が最初から否定されていた。「撤退」という言葉すら否定されて「転進」と言われた。これはけっこう根の深い問題かもしれない。」
このような二分法は、日本人の考え方の端々に見受けられる。「けっこう」どころか、たいへん根の深い問題である。
ただ、これは必ずしも日本人特有の考え方とは云えないかもしれない。
この二分法の問題については、いずれ稿を改めて述べたいと思う。
今回注目したいのは、竹中正治氏の記事に寄せられた次のコメントだ。
「一度降伏したら、煮て殺されるか焼いて殺されるかもわからないのにおいそれと降伏できるはずもなく、少しでも有利な条件を付けようと必死の覚悟で抗戦するのは当たり前です。」
記事には、同様のコメントがいくつも付いている。
映画『樺太1945年夏 氷雪の門』でも、「日本は無条件降伏したっていうじゃない!」と人々がショックを隠せない場面がある。
『樺太1945年夏 氷雪の門』は、樺太の戦いの過酷な状況を題材としている。
1945年6月に沖縄が戦火にさらされたことは日本人なら誰もが知るところだが、日本国内で戦場になった地として樺太もあることは、あまり認識されていないかもしれない。
その理由は、沖縄と異なり今では日本の領土ではなく、住民たちが散り散りになっており、戦場の跡を自由に訪れるのも叶わないためだろうか。
1945年8月9日に参戦したソビエト連邦は、南樺太に進撃した。当時、樺太には、戦火を避けて疎開している人も多かった。日本政府がソ連からの宣戦布告を受領したのは、翌日のことである。[*5]
その攻撃は、日本がポツダム宣言を受諾してもなお止むことはなかった。日本から停戦のための軍使を何度送っても殺され、日本人と朝鮮人の婦女子を乗せた避難船は撃沈された。[*1][*2][*5]
この映画は、ソ連軍が迫る中、樺太の電話網の維持に務めた電話交換手たちとその家族を描いた物語だ。
電話交換手たちはみな若い女性であり、実際に舞台となった真岡郵便電信局では8月20日に9名が命を落としている。
ただ、『樺太1945年夏 氷雪の門』は、樺太の戦いを描いた唯一の映画でありながら、あまり知名度が高いとはいえない。
なにしろ、企画・制作に9年もかけて完成しながら、公開10日前になって上映が中止されてしまったのだ。ソ連が莫大な予算で東宝から映画の興行権を買い取ったのだという。その5ヶ月後、東映系にて劇場公開されるものの、それは北海道・九州での2週間のみの上映にとどまった。
沖縄戦が『ひめゆりの塔』の大ヒットによって世間に認識された[*4]ことを考えると、本作が限定公開にとどまったために、映画のみならず樺太の戦いの存在を知らしめる貴重な機会が損なわれたといえる。

本作を語る上では、いくつもの論点がある。
たとえば次の点である。
1. 1945年の樺太の戦いとはどのようなものだったのか。
2. 1974年当時の映画の作り手(および日本人)は、戦争をどのように考えていたのか。
3. なぜ、映画の公開を中止しなければならなかったのか。それで何を守れたのか、何を捨てたのか。
1点目と3点目については、幾つもの文献や報道が存在する。
一観客である私としては、2点目について考えてみたい(3点目については別記事参照)。
ちなみに、1点目と2点目、すなわち樺太の戦いから映画公開までには、29年の歳月が流れている。
2点目から現在までは、36年もの歳月だ。
時が経てば、当時は判らなかったことも知り得るし、冷静に振り返ることができる……はずである。
しかるに竹中正治氏の記事に寄せられた「一度降伏したら、煮て殺されるか焼いて殺されるかもわからない」というコメントは、2010年に書き込まれたものである。
「日本は無条件降伏したっていうじゃない!」というセリフは、1974年に書かれたものである。
そして、1945年の状況については、ひめゆり学徒の生存者が次のように証言している。
---
米軍の船からは「穴にいる者は出てこい。泳げる者は泳いできなさい。傷ついた者は助けてやる。食べ物いっぱいあります」とマイクの呼びかけが続いていますが、捕虜になれば女の子は裸にされ、戦車でひき殺されると教えられていた女生徒たちには、それが悪魔の声に聞こえた
――島袋淑子さん・照屋菊子さんの証言[*4] 強調は引用者
---
竹中正治氏は記事へのコメントについて、「無条件降伏という厳し過ぎる条件を要求した連合国が悪いという反論であろうが、悲しむべき無知である。」と述べている。
そして、日本が受諾したポツダム宣言を引用して、こう述べている。
---
当時の軍国主義イデオロギーに比べると、なんと民主的で人権に配慮した宣言だろうか。
---
竹中氏が無知と形容するのは、直接的には2010年のコメントを書き込んだ者に対してである。
しかし、ポツダム宣言の内容については、1945年当時の人々も無知だったろう。
1945年から2010年に至るまで、どれだけの人が正確に理解していたか。
それは1974年の映画制作者とて同じだろう。
なぜなら、本作を観るに、映画の作り手は歴史家として過去を冷静に振り返るよりも、死んだ電話交換手たちに同情し、その心情に共感しているからだ。
もちろん、大衆向けの映画において、観客が共感できるように作るのは一般的なアプローチだ。
とくに、本作の結末が悲劇的なものである以上、観客が9名の電話交換手に対して「かわいそう」という当たり前の感情を、抱けるようにする必要があったろう。
しかし、真岡郵便電信局事件から29年を経たときに、そのような取り上げ方でいいのだろうか。

9名の乙女はなぜ死んだのか?
実は、彼女たちはソ連兵に撃たれたわけでも、砲撃の被害に遭ったわけでもない。
悲しむべきことに、「捕虜になれば女の子は裸にされ」ると考えた彼女たちは、貞操を守るために服毒自殺したのである。
「もうみんな死んでいます。私も乙女のまま潔く死にます。みなさん、さようなら……」
9人目の自殺者は、真岡局から泊居局への電話回線を開き、このような言葉を残している。[*3]
ちなみに、稚内公園に建てられた彼女たちの慰霊碑には、当初「日本軍の命ずるまま青酸苛里をのみ」と書かれていたそうだ。
碑文を刻む際に、なぜ日本軍が命令したことにしたのかは判らない。軍部を悪者に仕立ててこと足れりと考える者がいたのかもしれない。
いまでは、「今はこれまでと死の交換台に向かい(略)静かに青酸苛里をのみ」と書き換えられている。[*3]
このような死は、真岡郵便電信局だけではない。
樺太の大平炭鉱病院では23名もの看護師たちが自殺を図り、6名が亡くなった。
真岡中学の軍事教練助教官は、みずからの妻子4人と隣家の体育教官の妻子2人の首をはねた後、みずから割腹自殺しており、英語教諭は妻子4人を殺害後にカミソリで自刃している。[*3]
米兵が上陸した沖縄でも、多くの人々が自殺した。
まさに人々は、陸軍省の戦陣訓の本訓其の二 第八のとおりに行動したのだ。
---
「『生きて虜囚の辱めを受けず』――死んでも捕虜になってはいけないという、この戦陣訓の言葉が沖縄県民全体に大きな犠牲を強いました。とくに女子学生たちはそれを守りきりましたからね。」
――宮良ルリさんの証言[*4]
---
『樺太1945年夏 氷雪の門』は、電話交換手たちの死で終わる。
次々と服毒した彼女たちは床に倒れ、その美しい死に顔が、映画のクライマックスとなる。
しかし、これだけでは「9名の乙女はなぜ死んだのか?」という問いに答えていない。
映画では、重要なことが描かれていないのだ。
なんと、同じとき、同じ場所にいたにもかかわらず、生き延びた人もいたのである。
彼らの生死を分けたものはなにか?
映画はそのことに触れない。
村山三男監督は、1974年公開時のパンフレットで次のように述べている。[*3]
---
私は、この映画でソ連が悪い、日本が悪いなどと問題にするつもりはありません。互いに相手があっての戦争ですからね。むしろ戦争そのものの悲惨さの真実を描きたい。だから関係者という関係者には全部お会いしたといっても過言じゃない。お陰でノイローゼになりかけた
---
関係者という関係者には全部お会いしたのなら、9名の乙女が死んだときに電話交換室にいた人の話も聞いたのではないだろうか。
生存者がいたことは知らなかったのだろうか。
1989年に出版された川嶋康男著『「九人の乙女」はなぜ死んだか』によれば、真岡郵便電信局から生還した職員は11名いる。彼らはソ連兵の捕虜となった。
このうち5名が女性であり、さらに3名は電話交換手である。
1945年8月20日、電話交換室には12名が勤務しており、9名だけが自殺したのだ。
生き延びた電話交換手がいたことは、川嶋康男氏がその著書によって知らしめたことであり、1974年当時、村山三男監督らは知らなかったのかもしれない。
あるいは、生き延びた3名の立場を考慮して、あえて映画では描かなかったのかもしれない(詳しくはコメント欄を参照)。
いずれにしろ重要なのは、映画の作り手の思いが、服毒自殺した女性たちに重なっていることである。
劇中、ソ連兵が来たら女性は何をされるか判らない、ということが繰り返し語られる。
それは、戦時中から現代に至るまで蔓延する「捕虜になれば女の子は裸にされ、戦車でひき殺される」「煮て殺されるか焼いて殺されるかもわからない」という恐れだ。
いまもむかしも、我々日本人は戦争をこのように捉えているのだ。
だから、追い詰められた彼女たちが死を選ぶのは仕方がない。映画はそう云っているように思える。
同じ境遇にありながら電話交換手の生死を分けたもの、映画はそこには踏み込まず、避難民に「戦争は嫌だ」と叫ばせることで、すべては戦争のせいだと結論付ける。
しかし、電話交換手の生死を分けたものはたった一つしかないのだ。
それは毒を飲んだか飲まないかの違いである。
生き延びた3名とて、積極的に毒を飲まないことを選んだわけではない。激しい砲撃と迫るソ連兵の恐怖に、身動きできなかったというべきかもしれない。
確実なのは、服毒しなかった女性はソ連兵に凌辱されることもなく、戦後も存命であったことだ。

日本人は、「捕虜になれば女の子は裸にされ、戦車でひき殺される」「煮て殺されるか焼いて殺されるかもわからない」と考えていたが、これは同時に、立場が逆転すれば「捕虜にした女の子は裸にして、戦車でひき殺す」「煮て殺しても焼いて殺しても構わない」ということでもある。
日本兵の行動を律するために公表された戦陣訓は、そもそも日本兵の放火、略奪、婦女暴行を止めさせるためのものであったという。
若松孝二監督の『キャタピラー』でも、山村から中国に出征した男が、現地の女性を凌辱し惨殺する場面が何度も映し出される。
このように、攻め入ったら放火、略奪、婦女暴行でも何でもする、攻め込まれたら放火、略奪、婦女暴行でも何でもされる、という考えが、竹中正治氏の云う二分法の背景にはあるのではないか。
もっとも、停戦のための軍使を射殺したソ連軍とて、民主的で人権に配慮したポツダム宣言を理解していたのかは疑問である。
ただ、9名の電話交換手に関していえば、角田房子氏の「酷な言い方だが、九人の交換手の自決はあまりに早かった」という意見[*2]に同感だ。
当時の支配的な考え方からすれば、死を選ぶのは自然なことかもしれないが。
いや、当時だけではない。
先日の記事でも述べたとおり、現代日本は世界有数の自殺大国である。
日本に自殺が多い理由について、WHO精神保健部ホセ・ベルトロテ博士は次のように語ったという。
「日本では、自殺が文化の一部になっているように見える。(略)自殺によって自身の名誉を守る、責任を取る、といった倫理規範として自殺がとらえられている。」
同じように、英エコノミスト誌は次のように論評したという。
「日本社会は失敗や破産の恥をさらすことから立ち直ることをめったに許容しない。自殺は運命に直面して逃げない行為として承認されることさえある。」
「生き恥をさらす」という言葉がある。
私たち日本人には、生き長らえることを恥ずかしいと思う文化がある。
対語として「死に恥をさらす」という言葉もあるが、これが使われる例はあまり見ない。
川嶋康男氏はその著書で、生き延びた電話交換手のその後について触れている。[*3]
---
生き残ったことが、それほど恥なのか――。
(略)
あるマスコミ人は、取材だといって真顔で「なぜ死ななかったのか」と、生き残ったことを逆なでするような質問を浴びせてきたという。
(略)
集団自決した「九人の乙女」の「死」と、その場で死ねなかった交換手の「生」とを対比させ、一方を「死の美学」を持って称え、他方を「敵前逃亡」のごとく蔑視するという旧体制の論理を賛美することにならないか。
---
『樺太1945年夏 氷雪の門』のラスト、電話交換手たちの死に顔は美しい。
しかし、いかに猛毒の青酸カリとて、1秒もたたずに即死するわけではない。死ぬまでに数分は要することから、映画とは違って、もがき苦しみ、断末魔の凄まじい形相となる。[*3]
私は常々、日本映画が死を美しく描きすぎると思っている。
本作は、電話交換手たちの死を美化せず、もっと苦しいものとして見せても良かったのではないか。
遺族の感情を配慮したのかもしれないが、死は美しくなんてないことを示すのが、「戦争そのものの悲惨さの真実」を描くことではないかと思う。
そして、交換手たちの死で終わる『樺太1945年夏 氷雪の門』は史実の一つの面に過ぎず、みずからの手で命を絶ったりしなければ生きながらえることもできるのだと、語り継ぐ必要がある。
[*1] 毎日新聞 1992年10月1日「ソ連軍の攻撃だった 終戦七日後サハリンからの避難船撃沈 潜水艦魚雷で 司令部報告に明記」[*2]
[*2] 角田房子 (1994) 『悲しみの島サハリン――戦後責任の背景』 新潮社
[*3] 川嶋康男 (1989) 『「九人の乙女」はなぜ死んだか』 恒友出版
[*4] 香川京子 (1992) 『ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ』 朝日新聞社
[*5] 2010年公開時のパンフレット 監修:藤村建雄
『樺太1945年夏 氷雪の門』 [か行]
監督/村山三男 脚本/国弘威雄 原作/金子俊男 助監督/山野辺勝太郎、新城卓
出演/二木てるみ 鳥居恵子 岡田可愛 藤田弓子 栗田ひろみ 木内みどり 北原早苗 若林豪 黒沢年男 南田洋子 千秋実 赤木春恵 丹波哲郎 田村高廣 島田正吾
日本公開/1974年8月17日 109分バージョン (153分バージョンもあり)
リバイバル/2010年7月17日 119分バージョン
ジャンル/[ドラマ] [戦争]

