『借りぐらしのアリエッティ』 なぜベンツに乗っているのか?
ジブリのアニメが好きだと云う人がいるが、それは本当にジブリのアニメなのだろか?
ジブリのアニメが好きな人に具体的な作品名を聞くと、『となりのトトロ』や『天空の城ラピュタ』が挙がる。
しかしそれらは宮崎駿監督作品である。
私も宮崎駿氏がかかわったアニメは好きだ。
『どうぶつ宝島』も『赤胴鈴之助』も好きだし、バスター・キートンをパクった『ルパン三世』[*1]も好きだ。
もちろん、『太陽の王子 ホルスの大冒険』をはじめ、高畑勲氏の作品も大好きである。
だから、ジブリの作品に好きなものは多いが、それらは宮崎駿作品であったり、高畑勲作品であったりする。
ジブリに限らず、両氏がどこに所属していてもその作品は好きだ。
近藤喜文監督の『耳をすませば』も素晴らしいが、何しろ近藤氏は『赤毛のアン』の作画監督だ。素晴らしいに決まっている。
だから私にとっては、好きなクリエイターがジブリにいるのであって、ジブリというスタジオの作品が好きなわけではない、と思っていた。
もちろん、宮崎監督も高畑監督も一人ではアニメを作れないから、スタジオ全体の総合力あっての作品だろうが、それでも「ジブリが好き」とまでは云えなかった。
しかし今回、米林宏昌氏の監督作品である『借りぐらしのアリエッティ』を観て、ジブリはすごいと痛感した。
本作で、宮崎駿氏は「企画・脚本」とクレジットされている。
企画書を書いて、脚本を書いて、それから鈴木敏夫プロデューサーに請われて次の5つのストーリーボードを描いたそうである[*2]。
・荒れた庭
・小人たちの部屋
・家の外観
・翔君の部屋
・ドールハウス
すなわち、アニメーターとしても演出家としても参画していない。
宮崎駿氏は自作の脚本も手がけているが、いつもは氏の頭の中で演出プランも一体になっての脚本だろう。脚本だけが人手に渡るのは極めて珍しい。
鈴木プロデューサーは『借りぐらしのアリエッティ』の公式サイトで、次のような心配を表明している。
---
制作ですが、いまのところは、順調に推移していますが、心配の種はただひとつ、宮さんのことです。宮さんがいつ何時、この作品に乱入してくるのか。麻呂(引用者註:米林宏昌監督)のことが気になっているに違いないからです。
---
しかし完成作品でも宮崎駿氏のクレジットは「企画・脚本」にとどまった。
「乱入」はなかったようである。
にもかかわらず、本作は長年にわたって宮崎作品に親しんできた人に違和感のない映画になっている。
たとえば、アリエッティがバッグにものを入れるとき、膝を少し曲げてバッグを支える脚の角度。
あるいは、(ジムシーに良く似た)スピラーが弓を引くときに、髪の毛や毛皮が逆立つ感じ。
宮崎駿という超人的なアニメーターがいなくても、これらの動きを見られるとは、観客として幸せである。
本作は、ジブリの人々が先達に学び、すでに高度なレベルにあることを改めて実感させてくれる。
その『借りぐらしのアリエッティ』は、人間の少年・翔と小人の少女アリエッティとの出会いを描いた作品だ。
二人の関係は、いささか歪んだものである。
「君たちは滅びゆく種族なんだ。」
翔は、アリエッティに向かってそう語りながら微笑んでいる。
これに対して、アリエッティは憤慨するのだが、それはもっともだろう。たとえ図星でも、失礼な言い草だ。
しかし翔は、微笑んだまま執拗に種の絶滅について語る。病気を抱えて、死期を予感している翔[*3]は、小人たちを絶滅寸前と決め付けて勝手に共鳴しているのだ。
アリエッティは、そんな翔の言葉を受け入れない。
この場面は米林監督がセリフを書き足したそうである[*2]。
翔とアリエッティ、人間と小人との関係を、端的に示したセリフだろう。
ところで『借りぐらしのアリエッティ』には、制作上の仕掛けがある。
たとえば、食事の場面では、翔が箸でご飯と味噌汁を食べるのに、貞子とハルという二人の老婦人は、ナイフとフォークでステーキを食べている。
料理は全員同じもので、三人の前にはそれぞれ箸とナイフとフォークがあるが、翔は箸、老婦人はナイフとフォークで、食べる動作を分担している。
これは、箸で食事する国の人にも、ナイフとフォークで食事する国の人にも、このシーンに親しみを覚えてもらうためだろう。
そして、家具はアンティークだ。押入れがある家なのに、翔のベッドや調度品は100年前の西洋館のおもむきである。
それもそのはず、本作の屋敷や庭園は、100年前に作られた和洋折衷様式の盛美園を参考にしたそうだ。
このような配慮も、和風とか洋風といった国ごとの様式にとらわれない、無国籍な作品にするためだ。
近年のジブリ作品の例に漏れず、本作の製作委員会にウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパンがかかわっていることから判るように、本作も海外展開を視野に入れている。
そのため、全編にわたって和洋折衷で考えられたのだろう。
これは、たとえば北野武監督の映画が、タイトルを英語にしたり、クレジットに英語を表記しているのと同じ配慮である。
貞子のクルマがベンツなのも、理由は同じだ。
ベンツが出るからといって、ドイツが舞台なわけではない。
ベンツとは、どの国に走っていてもおかしくないクルマなのだ。
アニメ化に当たって、舞台をイギリスから日本に置き換えてもヨーロッパの雰囲気を色濃く残したのは、独特の世界観を作り上げることにも貢献している。
そして、音楽もまた和洋折衷である。
フランス人のセシル・コルベルが、日本語を交えて唄う主題歌は、小人のいる古い家に良く似合う。
彼女の曲はケルト音楽の影響が強いので、エンヤや、上野洋子在籍時のZABADAKの音楽が好きな人ならば、惚れ込むに違いない。
CDに同梱されたミニブックに鈴木プロデューサーが書くところによれば、本作はまずイメージ・アルバムを作ったそうだ。それを聴いて、曲の良し悪し、方向性、あるいは足りない曲を決め、そのあと本番用の映画音楽を作ったという。
「そうすれば、音楽を二度、確認することができる」という、『風の谷のナウシカ』以来の方法だとか。
だからこそ、作品と音楽がマッチして、聴き応えがあるのだろう。
『借りぐらしのアリエッティ』を観た私がまずやったのは、その足でCDを買いに行くことだった。
[*1]『ルパン三世』としては、最初期の大隅正秋監督のものが好きだけれども。
[*2] 読売新聞 2010年7月9日 夕刊
[*3] 本作は翔の回想という形式を取っているので、手術の結果はお判りだろう。
『借りぐらしのアリエッティ』 [か行]
監督/米林宏昌 企画・脚本/宮崎駿 脚本/丹羽圭子
原作/メアリー・ノートン 音楽・主題歌/セシル・コルベル
出演/志田未来 神木隆之介 大竹しのぶ 竹下景子 藤原竜也 三浦友和 樹木希林
日本公開/2010年7月17日
ジャンル/[ドラマ] [ファンタジー]
http://bookmarks.yahoo.co.jp/bookmarklet/showpopup?t='+encodeURIComponent(document.title)+'&u='+encodeURIComponent(location.href)+'&ei=UTF-8','_blank','width=550,height=480,left=100,top=50,scrollbars=1,resizable=1',0);">
ジブリのアニメが好きな人に具体的な作品名を聞くと、『となりのトトロ』や『天空の城ラピュタ』が挙がる。
しかしそれらは宮崎駿監督作品である。
私も宮崎駿氏がかかわったアニメは好きだ。
『どうぶつ宝島』も『赤胴鈴之助』も好きだし、バスター・キートンをパクった『ルパン三世』[*1]も好きだ。
もちろん、『太陽の王子 ホルスの大冒険』をはじめ、高畑勲氏の作品も大好きである。
だから、ジブリの作品に好きなものは多いが、それらは宮崎駿作品であったり、高畑勲作品であったりする。
ジブリに限らず、両氏がどこに所属していてもその作品は好きだ。
近藤喜文監督の『耳をすませば』も素晴らしいが、何しろ近藤氏は『赤毛のアン』の作画監督だ。素晴らしいに決まっている。
だから私にとっては、好きなクリエイターがジブリにいるのであって、ジブリというスタジオの作品が好きなわけではない、と思っていた。
もちろん、宮崎監督も高畑監督も一人ではアニメを作れないから、スタジオ全体の総合力あっての作品だろうが、それでも「ジブリが好き」とまでは云えなかった。
しかし今回、米林宏昌氏の監督作品である『借りぐらしのアリエッティ』を観て、ジブリはすごいと痛感した。
本作で、宮崎駿氏は「企画・脚本」とクレジットされている。
企画書を書いて、脚本を書いて、それから鈴木敏夫プロデューサーに請われて次の5つのストーリーボードを描いたそうである[*2]。
・荒れた庭
・小人たちの部屋
・家の外観
・翔君の部屋
・ドールハウス
すなわち、アニメーターとしても演出家としても参画していない。
宮崎駿氏は自作の脚本も手がけているが、いつもは氏の頭の中で演出プランも一体になっての脚本だろう。脚本だけが人手に渡るのは極めて珍しい。
鈴木プロデューサーは『借りぐらしのアリエッティ』の公式サイトで、次のような心配を表明している。
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制作ですが、いまのところは、順調に推移していますが、心配の種はただひとつ、宮さんのことです。宮さんがいつ何時、この作品に乱入してくるのか。麻呂(引用者註:米林宏昌監督)のことが気になっているに違いないからです。
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しかし完成作品でも宮崎駿氏のクレジットは「企画・脚本」にとどまった。
「乱入」はなかったようである。
にもかかわらず、本作は長年にわたって宮崎作品に親しんできた人に違和感のない映画になっている。
たとえば、アリエッティがバッグにものを入れるとき、膝を少し曲げてバッグを支える脚の角度。
あるいは、(ジムシーに良く似た)スピラーが弓を引くときに、髪の毛や毛皮が逆立つ感じ。
宮崎駿という超人的なアニメーターがいなくても、これらの動きを見られるとは、観客として幸せである。
本作は、ジブリの人々が先達に学び、すでに高度なレベルにあることを改めて実感させてくれる。
その『借りぐらしのアリエッティ』は、人間の少年・翔と小人の少女アリエッティとの出会いを描いた作品だ。
二人の関係は、いささか歪んだものである。
「君たちは滅びゆく種族なんだ。」
翔は、アリエッティに向かってそう語りながら微笑んでいる。
これに対して、アリエッティは憤慨するのだが、それはもっともだろう。たとえ図星でも、失礼な言い草だ。
しかし翔は、微笑んだまま執拗に種の絶滅について語る。病気を抱えて、死期を予感している翔[*3]は、小人たちを絶滅寸前と決め付けて勝手に共鳴しているのだ。
アリエッティは、そんな翔の言葉を受け入れない。
この場面は米林監督がセリフを書き足したそうである[*2]。
翔とアリエッティ、人間と小人との関係を、端的に示したセリフだろう。
ところで『借りぐらしのアリエッティ』には、制作上の仕掛けがある。
たとえば、食事の場面では、翔が箸でご飯と味噌汁を食べるのに、貞子とハルという二人の老婦人は、ナイフとフォークでステーキを食べている。
料理は全員同じもので、三人の前にはそれぞれ箸とナイフとフォークがあるが、翔は箸、老婦人はナイフとフォークで、食べる動作を分担している。
これは、箸で食事する国の人にも、ナイフとフォークで食事する国の人にも、このシーンに親しみを覚えてもらうためだろう。
そして、家具はアンティークだ。押入れがある家なのに、翔のベッドや調度品は100年前の西洋館のおもむきである。
それもそのはず、本作の屋敷や庭園は、100年前に作られた和洋折衷様式の盛美園を参考にしたそうだ。
このような配慮も、和風とか洋風といった国ごとの様式にとらわれない、無国籍な作品にするためだ。
近年のジブリ作品の例に漏れず、本作の製作委員会にウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパンがかかわっていることから判るように、本作も海外展開を視野に入れている。
そのため、全編にわたって和洋折衷で考えられたのだろう。
これは、たとえば北野武監督の映画が、タイトルを英語にしたり、クレジットに英語を表記しているのと同じ配慮である。
貞子のクルマがベンツなのも、理由は同じだ。
ベンツが出るからといって、ドイツが舞台なわけではない。
ベンツとは、どの国に走っていてもおかしくないクルマなのだ。
アニメ化に当たって、舞台をイギリスから日本に置き換えてもヨーロッパの雰囲気を色濃く残したのは、独特の世界観を作り上げることにも貢献している。
そして、音楽もまた和洋折衷である。
フランス人のセシル・コルベルが、日本語を交えて唄う主題歌は、小人のいる古い家に良く似合う。
彼女の曲はケルト音楽の影響が強いので、エンヤや、上野洋子在籍時のZABADAKの音楽が好きな人ならば、惚れ込むに違いない。
CDに同梱されたミニブックに鈴木プロデューサーが書くところによれば、本作はまずイメージ・アルバムを作ったそうだ。それを聴いて、曲の良し悪し、方向性、あるいは足りない曲を決め、そのあと本番用の映画音楽を作ったという。
「そうすれば、音楽を二度、確認することができる」という、『風の谷のナウシカ』以来の方法だとか。
だからこそ、作品と音楽がマッチして、聴き応えがあるのだろう。
『借りぐらしのアリエッティ』を観た私がまずやったのは、その足でCDを買いに行くことだった。
[*1]『ルパン三世』としては、最初期の大隅正秋監督のものが好きだけれども。
[*2] 読売新聞 2010年7月9日 夕刊
[*3] 本作は翔の回想という形式を取っているので、手術の結果はお判りだろう。
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監督/米林宏昌 企画・脚本/宮崎駿 脚本/丹羽圭子
原作/メアリー・ノートン 音楽・主題歌/セシル・コルベル
出演/志田未来 神木隆之介 大竹しのぶ 竹下景子 藤原竜也 三浦友和 樹木希林
日本公開/2010年7月17日
ジャンル/[ドラマ] [ファンタジー]


【theme : 借りぐらしのアリエッティ】
【genre : 映画】