『ペット』も『ルドルフとイッパイアッテナ』も、それはいけない

Secret Life of Pets CD, Import 【ネタバレ注意】

 2016年の夏、ペットにまつわる二本の映画が公開された。ペットにまつわるといっても、二本の映画はそれぞれ様相がかなり異なる。だが、いずれの作品にも気がかりなところがあった。

 奇しくも同時期に公開された二本は、米国の大手映画会社ユニバーサル・スタジオの子会社イルミネーション・エンターテインメントが制作したオリジナルアニメ『ペット』と、日本の児童文学を原作にポケットモンスターシリーズのスタッフらが制作した『ルドルフとイッパイアッテナ』だ。
 『ペット』の原題が「The Secret Life of Pets(ペットたちの秘密の生活)」であるように、また『ルドルフとイッパイアッテナ』の惹句が「人間は、知らない。ボクらのヒミツ。」であるように、どちらも人間が知らないところでの犬や猫の行動が描かれる。

 といっても、その方向性はかなり違う。
 『ペット』は、『ミニオンズ』のイルミネーション・エンターテインメントが制作しただけあって、教訓や感動は二の次のドタバタコメディだ。教訓や感動がないではないが、それ以上にバカバカしい展開とくだらないやりとりが続く愉快で楽しい映画である。
 一方の『ルドルフとイッパイアッテナ』は、迷子になった飼い猫ルドルフが野良猫イッパイアッテナと暮らしながら、勇気と友情と和解と学ぶことの大切さに気づいていく物語。教訓と感動がぎっしり詰まった、ボロ泣き必至の作品だ。
 どちらを観るのがいいか、と考えるのは野暮だ。こういうときは、どちらも観るのが粋ってものだ。

映画「ルドルフとイッパイアッテナ」オリジナル・サウンドトラック Soundtrack ただし、どちらを(どちらも)観るにしろ、考えねばならないことがある。いずれも素晴らしい作品だが、重大な問題をはらんでいるのだ。

 そもそもペットとは何なのかを知っておくべきだろう。ペットの代表格といえば犬と猫だ。映画『ペット』には鳥や爬虫類やウサギ等も登場するが、主人公は犬である。いったい犬はいつから人間の伴侶になったのだろうか?
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最も一般的な仮説は次の通りだ。可愛い生き物に弱い狩猟採集民が、オオカミの子どもを見つけて飼い始めた。飼いならされたオオカミは狩りの能力を発揮するようになり、たき火を囲みながら一緒に暮らしているうちに犬へと進化した。
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 ブライアン・ヘアとヴァネッサ・ウッズはこんな説を紹介しつつ、その反証を挙げている。

・オオカミが家畜化された時代、人類は競合相手の肉食動物にあまり寛容ではなかった。約4万3000年前、現生人類がヨーロッパにわたってから、サーベルタイガーやジャイアント・ハイエナなどの大型肉食動物は皆殺しにされ、氷河期の動物はほとんど絶滅してしまった。

・オオカミを狩りに利用したという部分も説得力がない。人間は自分たちだけでも、どの大型肉食動物より狩りに秀でていた。

・オオカミは大量の肉を消費する。オオカミ十頭には毎日シカ一頭が必要だ。エサを与えるのも、奪い合うのも人間にとって負担だし、逆にオオカミからは期待できない。

The Secret Life of Pets ペット トーキング アクション フィギュア ギジェット たしかに、アフリカで誕生した人類は、犬の助けがなくても地球の各地に広がった。ヤーピン・ジャンとピーター・サボライネンによれば、犬と人間が一緒に暮らしはじめたのはわずか3万3000年前の東アジア南部でのことであり、その1万8000年後からの第二段階で、犬は人間の最良の友として世界中に広まったという。何十万年も繁栄してきた人類にとって、犬との関わりはごく最近のことに過ぎない。

 ブライアン・ヘアとヴァネッサ・ウッズは一般的な仮説の問題点を挙げつつ、こう疑問を呈す。
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人間は歴史的に、オオカミを家畜化するどころか排除してきた。この数世紀、ほぼすべての文化で狩りの対象となり、絶滅に追い込んでいる。

もしこの関係が過去数世紀の真実だとしたら、当初の疑問に戻ることになる。オオカミはどのように人間に受け入れられ、飼い犬に進化したのだろうか?
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 「最も可能性が高いのは」彼らは私たちに認識の転換を迫る。「人間からオオカミにアプローチしたのではなく、オオカミが人間にすり寄ったという説だ。」

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The Secret Life of Pets ペット トーキング アクション フィギュア メル 基本的にわれわれは、進化における適者生存について最も強く優勢な種が生き残り、脆弱な種が滅びると考えがちだ。ところが、ほとんどの犬種はぜい肉を落として競争力をつけたのではなく、人なつこさが決め手になった。
(略)
おそらく、人間の居住地の隅にあるゴミ捨て場をあさることがきっかけになったはずだ。勇敢だが攻撃的なオオカミは人間に殺され、大胆で人懐っこいオオカミだけが受け入れられた。
(略)
つまり、親切な人間がオオカミの子どもを拾ったのではなく、オオカミの方がわれわれを選んだ可能性が高い。
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 そしてほんの二~三万年のあいだに、人間はすっかり犬に飼いならされた。
 かつて犬は狩猟や牧羊の役に立ち、番犬にもなったから、犬と人間はWin-Winの関係だった。しかし現在、多くの家庭でのんびり寝ている犬は狩猟もしなければ牧羊もせず、人間が築いたセキュリティシステムに守られてぬくぬくとしている。
 明らかに彼らは生態ピラミッドの最上位にいる。狩猟や牧羊等に携わる人を除けば、多くの人は犬に食糧や住まいを一方的に提供するために毎日せっせと働いている。犬がオモチャを持ってくればヘトヘトになるまで投げてやり、犬がひっくり返って「お腹を撫でろ」と命じれば嬉々としてなでなでする。
 人類を支配しているのが何者なのか、云うまでもないだろう。

 猫に関しても同様だ。猫はネズミのような(人間にとっての)害獣を獲るから、害獣駆除に役立つという実用的な面もあるが、古代エジプトの時代、すでに猫は家を守る女神バステトとして崇められていた。今でも多くの人が、昼寝ばかりしている猫に奉仕するため、多くの時間を割いている。
 「pet」という単語がペット(愛玩動物)を指す名詞であるでなく、「優しく撫でる。かわいがる。」という意味の動詞でもあるように、犬や猫たちは撫でられ、かわいがられることを武器に人間を手なずけている。


ルドルフとイッパイアッテナ 映画ノベライズ (講談社青い鳥文庫) 人間との出会いから数千年、数万年の時を経て、犬や猫は人間に安全な住みかを提供され、食物を運ばれる存在に昇り詰めたのだ。
 それを思えば、『ルドルフとイッパイアッテナ』のおかしなところに気づくだろう。

 人間の文字を読める不思議な猫イッパイアッテナは、今でこそ野良として暮らしているが元は飼い猫だ。米国へ転居することになった飼い主が、独りでも生きていけるようにと転居までの一年のあいだ文字を教えてくれたのだ。
 だが、これは猫に対する姿勢としておかしい。これまで住みかと食事を人間に確保してもらって過ごしてきたイッパイアッテナを、独りぼっちで放り出してはいけない。飼い主がするべきなのは文字を教えることではなく、転居先に一緒に連れて行くことだ。一緒に暮らせない事情があるなら、新たな飼い主を捜してやるべきだった。転居まで一年もあるというのに、転居後のことを何も手配しないまま、イッパイアッテナを捨てて野良猫にするのは間違っている。

 『ルドルフとイッパイアッテナ』は動物の愛護がテーマではなく、猫に例えて人間の生き方を示した作品だから、一人で生きていくことの厳しさや勉学に励むことの大切さを強調するのは判る。しかし、だからといって飼い主が捨てていくのを是とするわけにはいかないだろう。
 原作が書かれた1986年当時なら、それほど問題視されなかったかもしれない。しかし1990年代以降のペットブーム、さらには2010年代からの猫ブームを経て動物愛護の重要性が認識されてきた2016年現在、飼い主の無責任な行動に疑問を抱かずにはいられない。せっかくの素晴らしい作品なのだから、野良猫の扱いについてもっと配慮が欲しかった。


ルドルフ と イッパイアッテナ でっかい ルドルフぬいぐるみ ルドルフに関するエピソードにも違和感がある。
 迷子になっていたルドルフは、艱難辛苦の末に飼い主リエちゃんの家に帰り着く。しかし、そこに待っていたのは新しい仔猫だった。「猫は一匹しか飼っちゃいけない」というリエちゃんの家の決まりを知ってルドルフはショックを受ける。
 これも1980年代ならではの設定だろう。当時は、猫なんて一匹飼えば充分と思われていたのかもしれない。しかし、2015年現在、猫を飼っている世帯の平均飼育数は1.77匹だ。猫と暮らす人にとって、もはや二匹いるのが普通なのだ。

 リエちゃんの家は共同住宅ではなく一戸建てなのだから、管理規約で飼育数が制限されるわけでもない。「猫は一匹しか飼っちゃいけない」というのは、おそらく猫を欲しがるリエちゃんを諌めるために彼女の親が口にしたものだろう。それだけのことなのだから、ルドルフを野良にするくらいなら二匹飼えばいいのだ。一匹いるだけでも幸せなのだから、二匹いれば幸せも二倍になろう。
 なのに一匹しか飼えないという言葉に悩み苦しむルドルフが、歯痒くってしようがない。こんなことで野良猫を増やしてしまう物語が、悔しくって見てられない。

 しかも『ルドルフとイッパイアッテナ』には、人間に飼われるより野良として生きるほうが自由で尊いような描写もある。知恵と教養を身につけて逞しく生きていくことの素晴らしさを、野良の暮らしに重ねているのだ。
 2015年だけで21,593頭もの犬が、79,745匹もの猫が、引き取り手のないまま殺処分されているというのに、人間に飼われなくていい(飼われないほうがいい)かのような描写がたまらなく悲しかった。


映画『ペット』 英語でしゃべるぬいぐるみ マックス フィクションとはいえあんまりだ、という思いがあったので、『ペット』を観てホッとした。

 『ペット』に登場する動物たちはマンハッタンのアパートで暮らしている。主人公マックスは、捨て犬だからはっきりしないがおそらくジャック・ラッセル・テリアらしき男の子。愛嬌のある顔立ちですばしっこい小型犬のジャック・ラッセル・テリアは、『アーティスト』をはじめ数々の映画でお馴染みの犬種だ。マックスの友だちはパグのメル、ダックスフントのバディ、セキセイインコのスイートピー、トラネコのクロエ、そしてガールフレンドのポメラニアン、ギジェットだ。ポメラニアンは『タイタニック』のヒロインが抱いていた犬である。
 マックスの飼い主ケイティは、道端に捨てられていた彼を拾って愛情たっぷりに育ててきた。物語は、ケイティが保健所から雑種の大型犬デュークを引き取ることからはじまる。彼らの住むアパートに頭数制限なんてない。住人がみずからの責任で、できる範囲で飼えばいいのだ。

 かくあるべきだと思った。引っ越すからと捨ててしまったり、たった一匹しか飼えないと決めて野良暮らしを強いるのに比べて、捨て犬を拾ってきたり、保健所から犬を引き取ってきて、それが特別でもなんでもなく自然なこととして描かれる『ペット』は爽やかだった。
 『ペット』は全編バカバカしいドタバタが続くけれど、その根底には人間とペットの関係がどうあるべきか、深い配慮が働いている。

The Secret Life of Pets ペット トーキング アクション フィギュア スノーボール ただし、残念なことにケイティの飼い方も万全とはいえない。
 高度な社会性を持ち、群れの中の序列を意識する犬にとって、よそからやってきた新しい犬は群れの秩序を脅かす存在だ。まして、仔犬の頃からケイティの愛情を独り占めにしてきたマックスにとって、突然現れたデュークは邪魔者でしかない。
 犬の多頭飼いをするときは、先住犬を優先させるのが鉄則だ。何をするにも先住犬のほうを先にして、一番は自分だと感じさせてあげなければいけない。たとえば、食事をあげるときはまず先住犬に与え、先住犬が安心して食べられるのを見計らってから新しい犬に食事をあげる。こうして先住犬が一番だと実感させるとともに、大事な食事が新しい犬に邪魔されないか見てやるべきだ。それでも先住犬が拗ねてしまい、何年にもわたって機嫌が直らないこともある。先住犬との相性をみるために、試行期間を設ける人も少なくない。

 そんな考慮が必要なのに、ケイティはいきなりデュークを連れてきて、すぐにマックスと対等に扱ってしまう。これではトラブルになるのもとうぜんだ。

 もちろんペットの映画をつくるからには、作り手もそんなことは承知だろう。
 本作は動物たちが繰り広げる愉快で楽しいドタバタコメディだが、騒動のきっかけは常に人間の迂闊さにある。人間が至らないばっかりに、動物たちに無用な争いが起きてしまうのだ。捨てられたペットたちの人間への復讐計画はその最たるものだろう。
 本作のバカバカしい笑いの裏には、人間社会に対する作り手の厳しく辛辣な眼差しがある。

 『ペット』も『ルドルフとイッパイアッテナ』もそれぞれにいいところがあって楽しめる映画だ。
 だが、それだけで終わらせず、鑑賞後に動物と暮らすことについてすこーし考えてみるのはどうだろうか。


UK版ポスター ペット The Secret Life of Petsペット』  [は行]
監督/クリス・ルノー、ヤーロウ・チェイニー
出演/ルイス・C・K エリック・ストーンストリート ケヴィン・ハート ジェニー・スレイト エリー・ケンパー レイク・ベル  スティーヴ・クーガン ダナ・カーヴィ ボビー・モナハン アルバート・ブルックス
日本語吹替版の出演/設楽統 日村勇紀 永作博美 中尾隆聖 山寺宏一 佐藤栞里 沢城みゆき 銀河万丈 宮野真守 梶裕貴
日本公開/2016年8月11日
ジャンル/[コメディ] [ファミリー] [アドベンチャー] [犬]

ルドルフとイッパイアッテナ』  [ら行]
監督/湯山邦彦、榊原幹典
出演/井上真央 鈴木亮平 八嶋智人 古田新太 大塚明夫 水樹奈々 寺崎裕香 佐々木りお 毒蝮三太夫
日本公開/2016年8月6日
ジャンル/[ドラマ] [アドベンチャー] [ファミリー]
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【theme : アニメ
【genre : 映画

tag : クリス・ルノー ヤーロウ・チェイニー 設楽統 日村勇紀 永作博美 湯山邦彦 榊原幹典 井上真央 鈴木亮平 八嶋智人

『シン・ゴジラ』 ゴジラの正体

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ 大型本 【ネタバレ注意】

 前々回前回とガメラについて述べてきたのは、ゴジラを語るためでもあった。東宝のゴジラ映画第29作となる『シン・ゴジラ』が、おそらくゴジラ映画史を覆す傑作だろうと思われたからだ。ガメラシリーズの変遷を振り返ることで、ゴジラシリーズの特徴も浮き彫りになり、その結果『シン・ゴジラ』の位置付けも明らかになると考えたのだ。


■世にも奇妙なゴジラシリーズ 

 私もゴジラシリーズは大好きだ。『キングコング対ゴジラ』の日米頂上決戦に痺れ、『モスラ対ゴジラ』の不良ゴジラに魅了され、『怪獣大戦争』のストーリーテリングの巧みさに唸ったものだ。一般的な評価は高くないかもしれないが、『ゴジラ対メガロ』だってジェットジャガーのかっこよさと相まって私にはストライクだ。21世紀に目を向ければ、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』の面白さに、さすが平成ガメラの金子修介監督だと敬服した。

 だが、どんなにゴジラ映画が作られても、燦然と輝くのは1954年の第一作『ゴジラ』だ。「ゴジラ映画としては」とか「怪獣映画としては」なんて前提をつける必要はない。ジャンルを超えた素晴らしい傑作だ。
 それは東宝も重々承知のことだろう。過去、ゴジラシリーズは何度もリブートされたが、1954年の第一作だけは無視できなかった。平成ゴジラシリーズ(vsシリーズ)もミレニアムシリーズも、第一作の続きという位置付けだった。第一作こそゴジラ映画の原点であり最高傑作であり、その特別なポジションは揺るがなかった。

 先の記事では怪獣映画を次の三つに分類した。

 1. タイトル・ロールの怪獣が中心の映画:『ゴジラ』『キング・コング』『大怪獣ガメラ』等
 2. スター怪獣同士が対戦するもの:『キングコング対ゴジラ』等
 3. スター怪獣が他の怪獣をやっつけるもの:二作目以降の昭和ガメラシリーズやゴジラvsシリーズ等

 (詳しくは「『ガメラ 大怪獣空中決戦』の衝撃とゴジラシリーズ」、「『ガメラ2 レギオン襲来』が最高峰なわけ」を参照)

ゴジラ この三つで考えたとき、一番目に分類されるのは第一作目の『ゴジラ』しかない。第二作『ゴジラの逆襲』から第28作『ゴジラ FINAL WARS』に至るすべての作品は、二番目か三番目に分類される。
 ゴジラシリーズは『ゴジラ』からはじまったのだから当たり前……と思われるだろうか。

 あまりにも『ゴジラ』の存在が大きいので当たり前のように感じてしまうが、他のシリーズに目を向ければ必ずしもそうではない。ゴジラ誕生のヒントとなったキングコングは、南の島で発見されて人間世界に連れてこられ、という同じ話をもう三回もやっている。
 怪獣映画以外にも目を向ければ、第一作に拘泥しない例はさらに多い。ソニーピクチャーズは2002年の『スパイダーマン』にはじまるシリーズが行き詰まると早々にリブートし、2012年の『アメイジング・スパイダーマン』でスパイダーマン誕生ばなしからやり直した。007シリーズもスタートレックシリーズも、ある時点で設定を刷新して新しいシリーズにしている。ウルトラマンや仮面ライダーは云わずもがな、日本一の長寿シリーズ「男はつらいよ」だって、テレビ版から劇場版に発展する際に一から話を説き直した。

 映画各社がシリーズを一からやり直すのは、ことの起こりが一番面白いからだ。ヒーローなりモンスターなりがはじめて世に現れ、世界と交わるときの驚き、ときめき、衝撃に勝る面白さはない。
 『ガメラ 大怪獣空中決戦』が傑作たり得たのも、過去作のしがらみから解放され、設定を一から構築できたからだ。平成ガメラ三部作は、一貫してガメラとは何なのかを解き明かす物語であり、昭和ガメラシリーズに縛られることなく超古代文明だの超自然的な「マナ」だのの設定を盛り込めた。だからこそ、あれほど面白くなったのだ(もちろんリブートしても面白くない映画はあるし、ターミネーターシリーズのように毎回新しいターミネーターがやってくることで陳腐化を防ぐ例もある)。

 だから、ゴジラ映画の中で、1954年の『ゴジラ』が燦然と光り輝くのはとうぜんなのだ。一番面白い、おいしいところを描いた第一作を絶対視し、二作目以降しかリブートしない、正確にはリブートとはいえないことしかしてこなかったのだから。

 本当に面白いゴジラ映画を作ろうと思ったら、第一作をリメイクすることだ。ゴジラがはじめて人間の前に現れ、日本中が人智を超えた存在に恐れおののき絶望の淵に立たされる。ゴジラシリーズを覆うタブーを打ち破り、そういう映画を作るしかないと私は思っていた。
 そして、遂にそれを実現したのが『シン・ゴジラ』だ。第一作が持っていた要素を完全に備え、なおかつ現代風に、2016年に相応しくアレンジされた映画。これが傑作になるのは必然だった。


映画「ゴジラ」(1954)全曲版~ライブ・シネマ形式完全劇伴全曲録音■ゴジラは何を考えているのか?

 ゴジラ映画には60年以上の歴史があるから、接した時期は人それぞれだし、人によって好きなところも違うだろう。誰もが自分なりのゴジラ像を抱いているに違いない。
 劇中でゴジラに関する研究が進み、その細胞が分析・増殖されていることをよしとする人もいるだろうし、ゴジラ対策機関が設置され、ゴジラ災害を防ぐべく官民が努力しているのをよしとする人もいるだろう。対ゴジラ用に開発された超兵器をかっこいいと思う人もいることだろう。
 同時に、ゴジラを鬼神や破壊神のように捉え、愚かな人間に対する怒りや裁きの象徴と見る人もいるだろう。

 しかし、第一作『ゴジラ』にこれらの要素はなかった。
 正体不明のモンスターが現れ、ただ歩き回って海に帰っていく。『ゴジラ』はそういう映画だった。あとは人間が大騒ぎするだけだ。劫火に逃げ惑い、泣き叫び、死んでいく。政府も学者もなすすべもなく、ただ街を破壊されるだけだ。
 大戸島の伝説の怪物になぞらえる老人もいるけれど、その伝説が本当にこの怪物のことかどうかは判らない。水爆実験の影響で出現したと云う学者もいるが、本当のところは判らない。
 人間が歩くときにいちいち蟻をよけたりしないように、蟻はなぜ人間が自分の上を歩いたのか永遠に理解することがないように、ゴジラもただ歩き、足下のものを踏み潰していく。
 『シン・ゴジラ』はこれをそっくり再現した。一つ一つのセリフやエピソードは違っても、描こうとしているのは同じことだ。

 とりわけ忠実に再現されたのがゴジラのデザインだ……などと書くと、過去作のゴジラと似ても似つかないじゃないか、と云われそうだ。
 私は『キングコング対ゴジラ』のデザインがかっこいいと思うけれど、『モスラ対ゴジラ』の不敵な面構えのゴジラも人気があるし、平成以降の怒りを込めた顔つきのゴジラを愛する人もいよう。どのゴジラもそれぞれの良さがあるけれど、いずれもゴジラがキャラクターとして人気を確立した後のものだ。
 初代ゴジラの特徴は、表情のなさだ。とりわけ魚のような、感情のない真ん丸い目が恐ろしい。
 本作のゴジラは無表情な丸い目をきっちりと受け継いでいる。キャラクターデザインの竹谷隆之氏によれば、特に海から上がったばかりの第二形態に関する庵野秀明総監督の要望は「深海魚のラブカみたいに、眼は真ん丸で何も考えていない感じにしたい」というものだった。[*]

シン・ゴジラ音楽集 Soundtrack 劇中の最後の形である第四形態では人間の目を模した。竹谷氏は次のように語る。
 「庵野さんは目にも強いこだわりを持っていて、『人間の眼でいこう』ということになってから白目と黒目の比率をとても慎重に吟味されていました。生き物の中で人の目がいちばん恐いと」
 人間の目といっても、人間らしい眼差しはない。ゴジラには瞼がなく、表情筋もないから無表情だ。醜くゴツゴツした頭に、ただギョロリとした人間の目玉がついているだけ。この不気味さは、まさに初代ゴジラに通じるものだ。
 怖さだけを狙ったのではない。瞼がないのは、完全生物のゴジラは身を守る必要がないからだ、という理由付けがなされている。[*]


 怒ったような表情や、眼を細めて睨みつけるような表情は、実はあまり怖くない。
 怒った顔が怖いのは、人間とか犬とか猿とか、感情豊かな生き物の場合だ。平静な人に比べれば、そりゃあ怒った人は怖い。だが、怒りの表情を見せるのはそれだけ人間的ということだ。いくら怒っても、人間のすることはたかが知れている。表情があるのは、表情によるコミュニケーションを必要とする証拠であり、理解し合ったり共感を覚えたりする余地がある。
 本当に怖いのは感情が読めないもの、感情がない存在だ。怒りがないということは、平静な状態もないのだから、いつ何をされるか判らない。何を考えているか判らない存在ほど怖いものはない。
 だから、これまで私が怖いゴジラは初代のみであり、他のゴジラはかっこいいと思うことはあっても全然怖くなかった。

 実をいえば、『シン・ゴジラ』を見てもいないのに傑作に違いないと確信したのは、『ガメラ2 レギオン襲来』のトークショーのときだった。
 平成ガメラの歴代スーツアクター三人がはじめて揃ったこの日、撮影裏話として『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』でガメラを演じた福沢博文氏が明かしてくれたことがある。
ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒 デジタル・リマスター版 [DVD] 『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』の終盤、前田愛さん演じる少女とガメラが見つめ合う場面がある。このときどのような気持ちで演じたらいいのか、福沢氏は特技監督の樋口真嗣氏に尋ねたという。
 「しょせん人間が勝手に思ってるだけだからね。」樋口監督の答えは意外だった。怪獣が考えてることなんて判らない。人間はガメラが守ってくれたとか思っているけど、それは人間の勝手な想像だという。
 トークショーに同席していた平成ガメラ三部作の特撮助監督神谷誠氏も「怪獣は災害のメタファーなわけで。人間に台風の気持ちは判らないから」と言葉を添えた。

 ガメラが人間の、特に子供の味方であることは、昭和のシリーズから平成シリーズまで一貫した設定だ。まして平成ガメラ第三作は、「THE ABSOLUTE GUARDIAN OF THE UNIVERSE (世界の絶対的な守護者)」と副題がついた作品だ。その終盤で、少女を助けたガメラがじっと少女と見つめ合うクライマックスの場面での、ガメラを演じる役者への指示が慈愛でも博愛でもなく「何を考えているか判らない」というのだから嬉しくなってしまう。

 ガメラですら何を考えているか判らないのだから、まして人間の味方でもなんでもないゴジラに人間らしい怒りなんてあるはずがない。私がゴジラでもっとも重要視している「無感情」という要素を樋口監督も押さえていることが判って、私の『シン・ゴジラ』への期待は高まったのだ。


 残念ながらゴジラが丸い目をして無表情だったのは、これまで『ゴジラ』第一作だけだった。その後のゴジラは昭和後期の善玉時代を経て、怒りに満ちた凶暴そうな表情を特徴とした。
 これは人間のとうぜんの反応だ。人は何にでも因果関係を求める。良くないこと、不幸なことには原因があるはずだと考える。愚かなことをしたからだとか、道理に反することをしたからだとか、人間の行いに原因を求める。それはすなわち、悪い行いをすれば罰が下されると考えることにも繋がる。心理学者ジェシー・ベリングによれば、こうして人間の行いを見ている者――神の概念が生まれたのだという。(「『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ』 幸せを感じる秘密」参照)
 ゴジラが街を壊し、人を踏み潰して暴れるのは、人間の行いに怒っているからだと考えるのは自然なことだ。

 だがそれは、いわば台風の気持ちを読み取るようなものである。東日本大震災が起きたのは天罰だといった政治家と同じだ。原子力発電所の事故は罰が当たったのだという学者と同じである。本能に根差した素朴な反応だが、これらの発言は激しい非難を浴びた。

 『シン・ゴジラ』ではゴジラから一切の表情を排することで、災害のメタファーとしてのゴジラを極限まで突き詰めた。
 私たちは台風に限っていえば発生の可能性や進路を予測できるようになってきたが、地震や噴火等々、発生時刻も場所も規模も判らない災害はまだまだ多い。『ゴジラ』第一作は戦争や原水爆のメタファーであると云われるが、空襲や原爆投下だって爆弾を落とされるほうにしてみればいつどこにどれだけの被害が生じるか判らないのだから天災と変わらない。突如としてやってきて、街を紅蓮の炎で焼き尽くし、どこへともなく去っていくゴジラは、天災そのものだ。
 人間は己の卑小さ、矮小さにおののくばかりだ。

ゴジラ 怪獣王シリーズ ゴジラ2016 『シン・ゴジラ』がとても似ているのが宮崎駿監督の『崖の上のポニョ』だ。
 『崖の上のポニョ』は金魚のような海の生き物が(人間の科学者が開発した高エネルギー物質を摂取して)手や足を生やしながら巨大化し、上陸して大災害を起こす話だ。『シン・ゴジラ』でも、オタマジャクシのような第一形態[*]から深海魚のラブカ(ウナギザメ)のような第二形態、二足歩行の第三形態を経て、手や足を生やしながら巨大化し、上陸して大災害を引き起こす。
 ポニョとゴジラでは外見がまるで異なるが、注目すべきは目の描き方だ。宗介の前では可愛い女の子の姿をしているポニョだが、魔力が弱まると半魚人のようになってしまう。そのときポニョを特徴づけるのが表情のない丸い目だ。人間とは違う世界の生き物を表現するには魚のような丸い目がポイントとなることを、優れたクリエイターは心得ている。


 私はゴジラの本質が無表情で感情がないことだと考えているが、怒り顔のゴジラの映画が何本も作られたのは、ゴジラに怒りや怨念を重ねる人が多いからだろう。
 本作はそれらの人たちも置き去りにはしない。そのための仕掛けが科学者、牧悟郎だ。放射性物質を憎む牧悟郎の恨みつらみを描くことで、本作は観客が怒りや怨念の象徴としてゴジラを見ることを可能にしている。
 しかも、牧悟郎は行方不明になっているので、劇中に登場しない。だから、劇中人物が彼に真相を問い質したり、改心させたりができない。残された人たちは(観客も含めて)牧悟郎の怒りや恨みの大きさを想像し、勝手に共感することができる。
 人間側のドラマを精緻にすることで多様なゴジラ観を可能にするとは、巧い作り方だ。


■選ばれた方式

 本作はゴジラ映画がタブーとしていた第一作のリメイク(第一作からのリブート)に挑戦した映画といえるだろうが、下敷きにしたのはそれだけではない。優れた作品がTTP(徹底的にパクる)によって生まれるように、本作にも数々の手本があろう。
 未曽有の大災害が日本を襲い、甚大な被害が生じる中、政府関係者が各国と連絡を取りながら国を揺るがす危機に対処する――というと1973年公開の『日本沈没』あたりが思い浮かぶが、この映画からの影響は限定的だろう。『日本沈没』は政府首脳よりも庶民に近い潜水艇の操縦士を主人公に、大災害に翻弄される日本人を多面的に描き出した。しかし、樋口監督は2006年に『日本沈没』の再映画化に挑戦し、庶民と災害をたっぷり描写したから、同じことをまたやる気にはならなかったに違いない。

 庵野秀明総監督も樋口真嗣監督も正直なので、特に重要な手本については映画の中でちゃんと明らかにしている。科学者牧悟郎の写真として、亡き岡本喜八監督のご尊顔が映し出されるのだ。岡本喜八監督のお孫さんの前田理沙さんがこう呟いている。
 「岡本喜八を敬愛してくださっている庵野秀明監督、樋口真嗣監督の希望で劇中で写真が使われています。」

日本のいちばん長い日 本作は多くの時間が会議に割かれる。登場するのは政府や軍の中枢ばかりで、現場や市井の人々は断片的にしか映らない。
 国を揺るがす危機にあって政府の中枢でなされた議論を、緊迫感溢れる会議の連続で描いた映画といえば、岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』(1967年)が真っ先に挙がるだろう。
 この映画は、原爆が落とされ、英米のみならずソビエト連邦にも攻撃される中で、なおも戦争を続けようとする陸軍大臣らと戦争を終わらせようとする海軍大臣らのせめぎ合いを、1945年8月15日に至る出来事の積み重ねで描き出した。157分もある映画のほとんどは会議や下工作の繰り返しだが、題材の重さとテンポの良さが相まって抜群に面白い。この映画も現場や市井の人々の描写はほとんどなかった。

 岡本喜八監督が戦争を描いた大作といえばもう一本、1971年の『激動の昭和史 沖縄決戦』も思い出される。こちらは軍上層部や現場や市井の人々をまんべんなく描いて、多くの犠牲者を出した沖縄戦の経緯を解き明かしている。
 こちらも見応えある作品だが、『シン・ゴジラ』の下敷きとしては『日本のいちばん長い日』が相応しい。
 なぜか。

 映画とは、観客が見たこともないものを見せて楽しませるものだからだ。
 『日本のいちばん長い日』が公開された1967年当時、戦争の悲惨さはまだ人々の記憶に残っていただろう。ベトナム戦争特需の好景気に沸いていたとはいえ、戦争中の辛さや戦後の苦しさは誰でも語ることができたはずだ。
 一般の人々が知らなかったのは、あの8月15日正午の玉音放送までに何があったのかということだ。なぜ、他でもない8月15日なのか、と云い換えてもいい。もしも8月15日に放送できなければ、大日本帝国は戦争終結のタイミングを失い、さらに犠牲を出し続けていたかもしれない。その知られざる戦争秘話が明かされるから、『日本のいちばん長い日』は面白いのだ。

激動の昭和史 沖縄決戦 『激動の昭和史 沖縄決戦』も同様だ。
 第二次世界大戦は1945年に終わったけれど、沖縄が米軍に占領されていたこともあり、日本の他の地域では戦争末期に沖縄で何があったのか知られていなかった。多くの民間人にも犠牲を出す悲惨な戦いがあったことが知られるようになったのは、1953年に映画『ひめゆりの塔』が公開されてからだ。この映画の大ヒットにより、壮絶な沖縄戦が広く知られるようになった。
 その後、沖縄住民らの激しい運動や日本政府の交渉を経て、1971年6月17日にようやく日米間で沖縄返還協定が調印される。実際に沖縄が日本に返還されたのは翌年の5月15日のことだ。『激動の昭和史 沖縄決戦』が公開されたのは1971年7月17日。沖縄返還協定が調印されてから返還されるまでのあいだの、これまで"外国"だった沖縄がようやく帰ってくるというタイミングで、沖縄戦の経緯となぜひめゆり学徒隊のような悲劇が起きたのかをつまびらかにしたのがこの映画だった。

 『シン・ゴジラ』も観客が見たことのないものを見せる映画だ。
 作り手は『シン・ゴジラ』を作るに当たって各府省や自衛隊に綿密な調査を行ったという[*]。これを踏まえて、大災害が起きたら政府の各機関がどう動くかをリアルに表現した。


タミヤ 1/48 ミリタリーミニチュアシリーズ No.88 陸上自衛隊 10式戦車 プラモデル 32588 云うまでもなく、日本を襲う未曽有の大災害を描く本作にはモデルとなる大災害がある。2011年3月11日にはじまった東日本大震災だ。大震災についてはほとんどの日本人が何らかの形で当事者であろうが、あのとき政府中枢で何が行われていたのかは必ずしもよく知られているわけではない。本作は、大災害に直面した政府の動きを克明に綴って興味深い。
 もちろん、東日本大震災の再現ドラマではないから、少なからぬ改変が施されている。国家を揺るがす危機が生じた場合は、官邸地下の危機管理センターが情報集約拠点となるが、東日本大震災当時の首相はそこを離れて官邸地下中二階や官邸五階の会議室に移ってしまった。そのため意思決定に必要な情報の不足と偏在が生じたことが問題として指摘されている。官邸危機管理センターでの情報集約そのものも上手くいってなかったことが指摘されているが、本作ではそういった問題は割愛されている。

 東日本大震災以降、3月11日になるとテレビ各局が震災を特集した特別番組を放映している。だが、『シン・ゴジラ』が公開された2016年はそれら特別番組の視聴率が低かった
 その理由は様々だろうが、2011年3月11日の大惨事についてすでに全国民が知っていることも理由の一つだろう。当時の連日にわたる報道、そして毎年繰り返される報道等により、程度の差こそあれ日本人の誰もが大震災のことを知っている。2016年になって新たに報道される事実もあるにはあるが、番組全体としては新たな衝撃や新たな知見がもたらされるわけではない。

 事実を報道するテレビ番組の意義はともかく、娯楽映画、商業映画において、観客が目新しさを感じないものを描くために尺や予算を使うのは得策ではない。終戦から22年経って公開された『日本のいちばん長い日』でさえ、現場や市井の描写を必要としなかった。ましてや東日本大震災から五年足らずで公開された『シン・ゴジラ』に、これ以上の被災する人々の描写が必要とは思えない。
 軍人であると民間人であるとを問わず、多大な犠牲者が出たことを知らしめる『激動の昭和史 沖縄決戦』方式ではなく、会議を重ねる政府中枢に焦点を当てた『日本のいちばん長い日』方式を選ぶのは妥当な判断といえよう。

 それに2016年の今でも、津波の映像が含まれる予告編等には断りのテロップを入れる配慮がなされるくらい、災害の映像に観客は敏感だ。
 本作をご覧になればお判りのように、これは希望と明るさを感じさせる映画だ。大災害を題材としながら明るく感じる映画にするには、繊細な配慮が求められる。具体的には、犠牲者が出るネガティブな描写と困難に立ち向かうポジティブな描写のバランスが重要だ。
 ましてや災害を描くことが東日本大震災の記憶を甦らせ、それによってネガティブな思いを抱かせるおそれがあるなら、その描写にはなおのこと注意が必要だろう。
 この点からも、本作のバランスの取り方は首肯されるところだ。


■ゴジラの正体

 2016年現在の観客にとって、本作は2011年の大地震と大津波、それに伴う大火災や原子力発電所の事故を思い出させる。
 しかし、「災害のメタファー」であるゴジラの上陸が示すのは、すでに起きた災害ばかりではない。首都の壊滅と残された者が奮闘する姿は、いずれ起きる首都直下型地震の暗喩としても見ることができる。近い未来には、本作が首都直下型地震に伴う出来事を予見した映画とみなされているかもしれない。ゴジラが甚大な被害をもたらしながら次の活動までしばらく停止する様子は、本震と余震のようでもある。

 私たち人間は災害を消滅させることはできない。台風の進路は変えられないし、地震を止めることもできない。人間が起こす戦争ですら、完全消滅は難しい。
 だから『シン・ゴジラ』では、人間は完全な勝利は得られない。かろうじて危機を乗り越えるものの、すべての脅威が消えてなくなるわけではない。再び来るであろう危機に備える必要を感じさせるから、本作はより一層現実的だ。

 大災害はいつでもどこでも起こり得る。
 それは同時に、本作が描く希望と明るさが、いつでもどこでも人々を元気づけるということでもある。
 本作はゴジラ映画や怪獣映画といった枠に留まらず、時を超えて誰の心にも響く映画だ。

 この永遠不滅の傑作を観せてくれた庵野秀明総監督、樋口真嗣監督、尾上克郎准監督、そしてすべての関係者の方々に心から感謝したい。


[*] パンフレット記載の PRODUCTION NOTES から

シン・ゴジラ音楽集 Soundtrackシン・ゴジラ』  [さ行]
総監督・脚本・編集・D班監督/庵野秀明  監督・特技監督/樋口真嗣  准監督・特技総括・B班監督/尾上克郎
出演/長谷川博己 竹野内豊 石原さとみ 野村萬斎 高良健吾 松尾諭 市川実日子 余貴美子 國村隼 平泉成 柄本明 大杉漣
日本公開/2016年7月29日
ジャンル/[SF] [特撮] [サスペンス]
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【theme : シン・ゴジラ
【genre : 映画

tag : 庵野秀明 樋口真嗣 長谷川博己 竹野内豊 石原さとみ 野村萬斎 高良健吾 松尾諭 市川実日子

『ガメラ2 レギオン襲来』が最高峰なわけ

(前回「『ガメラ 大怪獣空中決戦』の衝撃とゴジラシリーズ」から読む)

ガメラ2 レギオン襲来 大映特撮 THE BEST [DVD] 2016年7月13日、1996年の『ガメラ2 レギオン襲来』封切からちょうど20年目のこの日に、関係者の方々のお話[*]を伺うとともにこの映画を鑑賞できたのは無上の喜びだ。
 『ガメラ2 レギオン襲来』の完成度の高さといったらない。乏しい映画体験でこんなことを書くのは恐縮だが、これぞ日本SF映画の最高峰、怪獣映画の金字塔だと思う。

 全体的な作りはミステリーに近い。小松左京著『継ぐのは誰か?』やアイザック・アシモフ著『永遠の終わり』を持ち出すまでもなく、ミステリーとSFは相性が良い。だが、ミステリーの枠組みを活かし、なおかつSFで実写映画でとなると、これほど成功した例は珍しいのではないか。

 ここでいうミステリーの枠組みとは、島田荘司氏が提唱したものを指している。
 まず、物語の冒頭で(幻想的な)謎が提示されること。謎は不可解で突拍子もないほど魅力的だ。そして結末において、謎は徹底して合理的、論理的に解決される。
 氏はミステリーをこのようなものと考え、みずからその実践として『奇想、天を動かす』を執筆した。

 この要件はSFに通じるものがある。SFでは、現実の世界ではありえないような事象、現象が提示されて、受け手を魅了する。けれどもそれら事象の背景には(作中世界の)科学的、論理的な説明がある。科学的な説明の程度や濃淡によっては、ファンタジー寄りになったりオカルト寄りになったりするし、そこに明確な線引きがあるわけではないが、不思議な出来事でも合理的に説明し得る(可能性を残す)ところにSFの醍醐味があろう。

 『ガメラ2 レギオン襲来』でも様々な怪現象が発生する。落下したはずなのに消えた隕石、高緯度地帯でもないのに発生する緑のオーロラ、原因不明の通信障害、ビール瓶を食べる怪物等々。

 怪現象の映像で、視覚的に観客を驚かす映画は多い。たいていの場合は、怪物とか異星人のせいにして終わりだ。個々の現象について、その発生メカニズムや必然性が解き明かされ、合理的に説明されることは少ない。
 怪物とか異星人は人類に理解不能なほど異質で深遠なのだ、というのも一つの説明だが、作り手が皆そんな哲学を掘り下げているとも思えない。

 本作が素晴らしいのは、数々の怪現象でただ観客を脅かすだけでなく、その裏にちゃんと理論理屈があって、怪現象に見えたものが何だったのか、その原因は何なのかが、劇中できれいに説明されていくからだ。あたかもパズルのピースがピタリとはまるように、実に気持ちがいい。その爽快な気分は、本格ミステリーの読後感にも等しい。

 敵の正体が判っても、事件が解決しても、なぜ奇怪な現象が起きたのか納得できずにモヤモヤしたまま劇場を去る――そんな経験が多いだけに、本作には感激した。


 本作を傑作SFたらしめているのは、新怪獣レギオンの設定そのものによる。
 本作はガメラとレギオンの戦いを描いているが、映画の大半はレギオンとは何かを解明することに費やされる。レギオンとは一匹の怪獣の名前ではなく、働きバチのような小型レギオンたちと女王バチのような巨大レギオンと彼らが共生関係にある草体(そうたい)をひとくくりにした生態系そのものの呼び名だ。
 宇宙から生態系がまるごと移動してきた怪獣というのは珍しい設定だが、よく考えれば私たち人類も同じようなものかもしれない。一人の宇宙飛行士が異星に降り立ったとしよう。異星生物の目に映る人間は、37兆個もの細胞が寄り集まり、多くのウイルスが遺伝子に入り込み、腸の中や体のあちこちに数百兆の細菌が棲みつき、ミトコンドリアのように体の一部と化してしまった生物も宿す、集合体のような生き物だ。毎日ヨーグルトを食べて、ビフィズス菌の補充に努めている人も多いだろう。私たちが繁殖できるのも、遠い昔に体内に入ったウイルスの力が働いているからだ。
 怪獣映画には珍しい奇妙な生物に見えるレギオンは、人間を含めた生物全般の誇張に過ぎない。

ガメラ2 レギオン襲来 [Blu-ray] 巨大レギオンと小型レギオンは、やや虫に似た形をしている。
 『宇宙の戦士』(映画『スターシップ・トゥルーパーズ』の原作)でも敵は虫型の異星生物だった。意志の疎通ができない虫が相手なら、殲滅戦を繰り広げても良心の呵責を覚えなくていいからだろう。
 しかし、虫と心を通わす姫を主人公にした『風の谷のナウシカ』の登場は、虫だってむやみに殺してはいけないことに気づかせた。それでも殲滅戦を描く映画は、戦争相手のことを殺されても仕方がないほど残酷な者として描写するか、そもそも作り手の思慮が足りないかだ。

 ところが『ガメラ2 レギオン襲来』では、明確な理由の下に殲滅戦が繰り広げられる。その理由こそレギオンの設定でもっとも面白く、強烈な特徴であるところだ。
 レギオンの生態系は、地球の生物と相容れないのだ。レギオンは増殖の過程で大量の酸素を発生させる。そんな高濃度の酸素の中では、人間をはじめ地球上の多くの生物が生きられない。一方、レギオンは酸素を発生させなければ増殖できずに死滅する。
 ここには、良心だの理解し合うだのといった、人間が好きな概念の入る余地はない。生きる上で必要な環境が異なるのだから、共存は不可能なのだ。

 怪獣怪人と戦う映画や特撮ドラマには、ときに「怪獣だって生きているんだ」とか「戦うことしかできないのか」という問いかけが投げかけられる。作品づくりに真摯であれば、どこかでその問いに向き合わざるを得ない。
 しかし本作は、そんな問いかけさえできない世界を描いて衝撃的だ。異種の生態系が出会うとき、一方は滅びざるを得ないのだ。

 地球の歴史で最大級の環境破壊は、27億年前頃からシアノバクテリアがはじめた酸素の生成だ。
 地球に生命が誕生したのは40億年前といわれる。それから長いあいだ、大量の二酸化炭素に包まれた地球で多くの生物が栄えてきた。ところが光合成を行うシアノバクテリアが出現して、大事な二酸化炭素を減少させ、せっせと酸素を吐き出した。
 本作の科学考察を担当した鹿野司氏はパンフレットに次のように書いている。
---
この地球環境の激変は、それ以前に地球で繁栄してきた生物にとっては大打撃となった。それ以前の生物は嫌気性で、酸素は猛毒になる。つまり彼らは、猛毒を巻き散らし環境を破壊する新種の生物によって、10億年の繁栄の歴史の舞台から引きずり降ろされてしまったわけだ。
---

 やがて酸素は大気の約20%を占めるまでに増えてしまった。地球は酸素に汚染されたのである。
 しかも酸素に覆われた地球には、酸素を呼吸する生物なんてものまで誕生した。彼らは今も我が物顔で地球を歩き回っている。

 20億年以上前に酸素に耐え切れず死滅した大量の生物たちには悪いが、人間も酸素呼吸生物の一員だから、酸素のない地球に戻してあげるわけにはいかない。一方で、酸素が増えすぎると人間もその毒に耐えられないから、酸素は大気の20%程度にとどまっていてほしい。
 塩分濃度が3%程度の海に住む生物は濃度が30%の死海では生きられないが、その死海を好んで棲む生物もいる。同様に、酸素の濃度が高まればそれを好む生物が繁栄するだろうが、そのとき私たちは死に絶えている。
 わがままなようだが、20%程度の酸素濃度に最適化してしまった私たちは、融通を利かせられないのだ。

 レギオンとの戦いは、酸素濃度の上昇を食い止めることでもある。前作『ガメラ 大怪獣空中決戦』では森林伐採や二酸化炭素の増加を危惧するセリフがあったけれど、本作では逆に酸素の増加を心配することで、私たちがいかに微妙なバランスの上に生きているかをあぶり出す。
 私が本作を日本SF映画の最高峰だと思うゆえんだ。
 映像技術はこれからも進歩するだろうし、驚くべき映像で観客を沸かせる映画が公開されていくだろう。だが、人類と地球上の生物を、地球外生物と効果的に対比することでキッチリと描き出し、地球の環境についてこれほど深く考えさせる映画はまたとあるまい。


平成ガメラ4Kデジタル復元版Blu-ray BOX また、本作は新怪獣の生態の描写を中心にしたことで、怪獣映画としても特筆すべき作品になった。
 前回も触れたように、私は怪獣映画を次のような分類で考えている。
 1. タイトル・ロールの怪獣が中心の映画:『ゴジラ』『キング・コング』『大怪獣ガメラ』等
 2. スター怪獣同士が対戦するもの:『キングコング対ゴジラ』等
 3. スター怪獣が他の怪獣をやっつけるもの:二作目以降の昭和ガメラシリーズやゴジラvsシリーズ等

 すべての怪獣映画がこの三つに分類できるわけではないし、中間に位置するものもあるが、大雑把にくくればこんなところだと思う。人気シリーズは三番目のパターンになりがちで、敵怪獣に新味を出すことでしかアピールできなくなってしまうことが多い。
 それも仕方がないとは思うけれど、『ガメラ2 レギオン襲来』が凄いのは、一見すると三番目のパターンのようでありながら、実質は一番目のパターンで作られていることだ。
 本作の登場人物たちは、ガメラなんかそっちのけだ。レギオンの正体を暴き、その被害を少なくすることにかかりきりだ。この映画が描くのは異なる生態系のぶつかり合いだから、それはレギオン対地球生物全体の戦いなのだ。自衛隊も民間人もそしてガメラも、レギオンを食い止めようとする一員に過ぎない。

 前作『ガメラ 大怪獣空中決戦』がシリーズ第一作なのに二番目のパターンだったことには驚いたが、その続編となるシリーズ第二作に一番目のパターンを持ってきたのも驚きだ。通常は単発の映画(続編が作られて、結果的にシリーズ第一作になることはある)で行うものだろう。
 こんなことができたのも、レギオンの設定が緻密で、工夫が凝らされていたからだ。単に宇宙から来た怪獣というだけではこうはいかない。その生態や共生関係や、地球に来たら起こるだろう現象の考察と、ストーリーとテーマとがしっかり噛み合い、精緻に構想されたからこそ、この大胆な作劇が可能となったのだ。

 前作はダイナミックな面白さに秀でていたが、本作は完成度の高さで他の追随を許さない。
 封切から20年を経て、その思いをますます強くした。

(つづく)


[*]「平成ガメラ4Kデジタル復元版Blu-ray BOX」の発売を記念して、週替わりで4K版三作の上映とトークショーが行われた。
 登壇者は以下のとおり。文中のトークショーの内容は記憶を頼りに書いているので、思い違いがあったらご容赦願いたい。

 2016年7月6日 主演女優&監督トークショー
  金子修介監督、中山忍さん

 2016年7月13日 スーツアクタートークショー
  第一作ガメラの真鍋尚晃氏、第二作ガメラと第三作イリスの大橋明氏、第三作ガメラの福沢博文氏
  特撮助監督でギニョリストも務めた神谷誠氏

 2016年7月19日 「ガメラ時代と現在~特撮表現の移り変わり~
  撮影の村川聡氏、視覚効果の松本肇氏
  平成ガメラ三部作公開時は中高生だったという田口清隆氏(『ラブ&ピース』特技監督、『劇場版 ウルトラマンX』監督)

平成ガメラ4Kデジタル復元版Blu-ray BOXガメラ2 レギオン襲来』  [か行]
監督/金子修介  脚本/伊藤和典  特撮監督/樋口真嗣
出演/永島敏行 水野美紀 吹越満 石橋保 藤谷文子 川津祐介 沖田浩之 螢雪次朗 長谷川初範 渡辺裕之 ラサール石井 田口トモロヲ 小林昭二
日本公開/1996年7月13日
ジャンル/[SF] [特撮]
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