『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』が失くしたもの

幻の動物とその生息地 ハリー・ポッターシリーズのファンが『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』のファンになるかどうか。世界を共有する姉妹シリーズとはいえ、そこには意外に大きな壁があるように思う。

 ハリー・ポッターシリーズはいわずと知れた人気作だ。原作小説もその映画も世界中で大ヒット。そのシリーズが主人公を変えて続くとなれば、本作を心待ちにする人も多かったに違いない。しかも、ハリー・ポッターシリーズの原作者J・K・ローリングがみずから想を練り、脚本を書き下した作品だから、小説こそ出版されないものの正統な後継作だ。

 作品の舞台が英国に限定されたハリー・ポッターシリーズとはうってかわり、世界中のファンへのサービスなのだろう、本シリーズは世界各国を舞台にする。第一作となる本作は米国のニューヨークが舞台である。2018年公開の次作では英国とパリが舞台になるそうだし、J・K・ローリングによれば少なくとも第五作まで構想がある(しかしハリー・ポッターシリーズより長くはならない)そうだから、いずれファンが多い地域はどこも舞台になるのだろう。

 本作の主人公ニュート・スキャマンダーは、ハリー・ポッターたちが魔法生物を学ぶときの教科書を執筆した魔法動物学者であり、ホグワーツ魔法魔術学校に在学したこともある。もっとも、時代設定は1926年。まだ彼は教科書になる本『幻の動物とその生息地(Fantastic Beasts and Where to Find Them:本作の原題)』を構想している青年だ。
 当時はまだ、『ハリー・ポッターと死の秘宝』に登場した老魔法使いゲラート・グリンデルバルドも改心しておらず、人間(マグル)を支配下に置く野望を抱いて、歴史上もっとも危険な闇の魔法使いとして恐れられていた。後に旧友ダンブルドアとの戦いに敗れて投獄され、「歴史上もっとも危険な闇の魔法使い」の呼び名をヴォルデモート卿に譲る破目になるとは知るよしもない頃だ。

 ハリー・ポッターシリーズの前史となる本作は、かように聞き覚えのある名前や人物を散りばめて、ハリー・ポッターファンを惹きつける。

 ところが、『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』には、ハリー・ポッターシリーズを魅力的なものにしていた重大な要素がない。世界を共有し、設定や人物に共通点が多く、他でもないJ・K・ローリングが紡いだ後継作でありながら、しかも映画化に当たってはシリーズ第五作『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』以降のすべてを手がけたデヴィッド・イェーツ監督が再登板してカラーの継承に努めていながら、ある面でまったく雰囲気が異なっている。
 もちろん、わざと変えたに違いない。そのほうがファンに受けると踏んだのだろう。


『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』魔法映画への旅 ハリー・ポッターシリーズの魅力とは何か。
 とてもひと言では語れないが、このシリーズで私が注目したのは、現実にはできそうもない、子供の夢が描かれている点だった。
 魔法が使えること?
 それもあるが、厳密に云えば魔法は手段に過ぎない。普通は実現できない夢を魔法が叶えてくれるのだ。
 子供が夢見ながら、実現するのはなかなか難しいこと。それは学校の先生をやっつけることだ。

 ハリー・ポッターシリーズの魅力の源泉を考えるとき、私は別のある作品を思い出す。2001年に映画第一作『ハリー・ポッターと賢者の石』が封切られてから、新作が公開されるたびに私は「あの作品に似ている」と感じていた。
 ハリー・ポッターシリーズの原作小説が出版されたのは1997年、J・K・ローリングがその着想を得たのは1990年だそうだが、それよりさらに遡る1976年に、日本でよく似たマンガが発表されている。永井豪氏の『へんちんポコイダー』だ。

 『へんちんポコイダー』――題名だけでもしょうもなさがプンプン臭い、ハリー・ポッターシリーズの『賢者の石』や『炎のゴブレット』といった格調高さからはずいぶん隔たりがある。
 中身はさらにしょうもない。『へんちんポコイダー』の主人公は、チンコロ学園に通う小学生の変 珍太(へん ちんた)だ。珍太が「へーんちーん、ポコイダー」と叫ぶとチンポコがぐるぐる回転して、正義の超人ポコイダーに変身できる。いや、「へんちん」できる。ポコイダーは『人造人間キカイダー』の主題歌「ゴーゴー・キカイダー」の替え歌をうたいながら、悪いヤツらを懲らしめる。
 こうして文章に書いても品がなくてくだらなそうだが、現物を読めばそれはもうとんでもなく品がなくてくだらない。

 だが、重要なのはチンポコがぐるぐる回るとこではなく、作品の構造だ。『へんちんポコイダー』には次のような特徴がある。
 ・珍太は家族からいじめられ、家では気の休まるときがない。
 ・珍太は学業もパッとしない。
 ・珍太はいじめられっ子で、ふだんの珍太はいじめっ子に太刀打ちできない。
 ・珍太は「へんちん」すると無敵の超人になり、いじめっ子を懲らしめることができる。
 ・新任の教師は子供をいたぶる嫌なヤツだが、最後はポコイダーの超人パワーでやっつけられる。
 これらの特徴は、珍太をハリー・ポッターに、超人を魔法使いに置き換えれば、ほとんどそのままハリー・ポッターシリーズにも当てはまるだろう。

 中でも強烈なのは最後の項目だ。
 教師は聖職と云われ、高潔な人格者として敬われてきた。そんな世間のイメージを揺るがしたのが、1968年からはじまった永井豪氏の『ハレンチ学園』だ。永井氏は、教師が女子生徒の体に触るのを目にして、教師の実態を(誇張しながら)マンガにしたという。この作品は大人気を博すとともに、社会問題と化した。

 『へんちんポコイダー』もその延長上にある。このマンガには、スパルタ教育で子供をいびりまくるデビル・スパイダー先生や、普段は温厚な教師の振りをしながら体育のときに子供をいじめて息抜きをする倉久健人(くらく けんと)先生といった、ポコイダーにやっつけられてとうぜんのひどい教師たちが登場する。

 現実の教師にもひどい人間や未熟な人間はいるのだろうし、元はそうでなかったとしても人間は変わるものだ。舞田敏彦氏が毎月整理している教員不祥事報道を見ると、いつもコンスタントに教師の犯罪・不祥事が起きていることが判る。これらは報道されたものだけだから、氷山の一角に過ぎないはずだ。

 もちろん、教師だから不祥事を起こすわけではない。どんな職業であっても不祥事を起こしたり犯罪に走る人間はいる。
 ただ、教師は子供の成長に大きく関わる存在だから、子供を教え導くに相応しい人格者であって欲しいと世間が期待するのだろうし、にもかかわらず教師がただの人間だったら期待ギャップが生じるのだろう。あるいは、子供の成長に大きく関わる存在には厳しい目を向けなければ、という上から目線にさらされたりもするかもしれない。教師の側にだって云い分があるかもしれないし、報道されたことが真実だとは限るまい。

 だが、当の子供たちからすれば、教師の人格はときに死活問題になる。場合によっては教師に恐れや嫌悪、怒りや憎しみを覚えることもあるだろう。それでも児童・生徒には、教師を叱ったり教師を指導したりはできない。
 教師の不祥事には性犯罪が多いから、舞田敏彦氏は環境要因として「若い女子生徒と接する機会が多い、指導も密室というような、独自の就労環境」を挙げている。もちろん被害に遭うのは女子ばかりではない。男子も女子も、教師との力関係においては不利な立場に置かれている。

 それゆえ、嫌な教師をやっつけたり、教師のダメなところを白日の下にさらす『へんちんポコイダー』やハリー・ポッターシリーズは、日頃我慢している子供にとって打ってつけの鬱憤晴らしといえるだろう。

「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」オリジナル・サウンドトラック Soundtrack とりわけハリー・ポッターシリーズは、子供たちの願望を叶えて、不満を解消する仕掛けが幾重にも巡らされている。
 ハリー・ポッターは全寮制のエリート校に進学することで冷たい家族から解放され、身につけた魔法で家族の鼻を明かしてやる。魔法のおかげでいじめっ子のドラコ・マルフォイたちを懲らしめて、そのうえ子供には最大の敵ともいえる先生をやっつけたり学外に放逐したりする。

 毎度々々新任教師が悪者では飽きられてしまうから、『へんちんポコイダー』は乱暴な転校生や用務員のおじさんとも戦った。だが、こうしたブレは、作品の面白さを半減させたように思う。
 それもあってか、『へんちんポコイダー』終了の翌年に仕切り直してはじまった『へんき~んタマイダー』(しょうもな……)では、日本の学校教育を支配する「悶部省」という悪の組織が設定され、「悶部省」から次々送り込まれる「悶もん教師」との戦いが繰り広げられた。

 ハリー・ポッターシリーズも同様に、シリーズ後半には魔法省がヴォルデモート一派に支配されたことにして、ハリーたちと魔法省の戦いに発展する。そして極めつけに嫌な教師だったアンブリッジ先生が「マグル生まれ登録委員会」の委員長に就任したりと、物語は個々の教師との戦いをスケールアップさせた展開になる。

 ホグワーツ魔法魔術学校に押し寄せるヴォルデモートと当局の軍勢にハリーたちが立ち向かう最後の戦いは、まるで1960年代末の学園紛争のようだ。
 『いちご白書』(1970年)が示すように、学生と当局の戦いは学生が敗北して終わるものだ。型破りだった『ハレンチ学園』でさえ、大日本教育センターの軍勢には敵わなかった。
 ところがハリー・ポッターシリーズは、ヴォルデモート=政府を相手にしながらハリーたちが勝利する。魔法大臣の敗北と「マグル生まれ登録委員会」委員長の投獄は、現代日本にたとえれば文部科学大臣と教育委員会の教育長の更迭に匹敵するだろう。嫌な先生だけでなく先生の背後にいる巨大組織までも完膚なきまでに叩きのめすのだから、あたかも学園紛争に逆転勝利したようなもので、子供たちの究極の願望が満たされたといえるだろう。

 しかもハリー・ポッターシリーズは、生徒対教師という対立の構図になっていないところがミソである。
 嫌な教師はやっつけたいが、教師すべてを敵に回すつもりはない。まだ子供だから大人に庇護してもらいたいし、学校を去って外の世界で生きていく気もない。そんな甘えた考えまで、このシリーズはすくい取っている。
 だから寮監のマクゴナガル先生をはじめ多くの教師がハリーたちの味方だし、魔法省の誰をも凌ぐ偉大な魔法使いダンブルドア校長がみんなを見守ってくれている。
 ハリーの家族は彼に冷たかったが、実の親ではないからという理由づけがなされ、死んだ両親なら優しかったはずという願望までが付け加えられる。実の親からいじめられる珍太に比べれば、逃げ道が用意されているほうだろう。

 こうして、優しく理解のある大人たちに守られながら、嫌な先生やいじめっ子だけをとっちめるという、子供にとってたいへん虫のよい、甘美な世界を描いたのがハリー・ポッターシリーズだ。
 これほど魅力的で心地好い作品なら、子供たちや元・子供たちに好評を博すのはとうぜんだろう。


『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』アートワークのすべて にもかかわらず、『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』にはその魅力的な部分がさっぱりない。
 当たり前だ。主人公ニュート・スキャマンダーは大人なのだから。
 彼を庇護してくれる先生や親はいない。学校という小さな世界の中で、同じクラスや同じ寮の友人とばかり親しくしているわけにもいかない。ニュートは自力で見知らぬ土地を歩き回り、見ず知らずの人と信頼関係を構築して、困難を克服しなければならないのだ。
 ハリーの11歳から17歳までの成長を描いたハリー・ポッターシリーズとは異なり、1897年生まれのニュートは本作の時点でもう29歳。ハリー・ポッターシリーズと同じ雰囲気になろうはずがない。

 本作をハリー・ポッターとは異なる大人の物語にしたのは、受け手のことを考えたからだろう。
 シリーズ第一作の『ハリー・ポッターと賢者の石』が出版された1997年にハリーと同じ11歳だった読者なら、本作が公開された2016年には30歳だ。映画第一作が公開された2001年に11歳だった観客なら26歳。これまでハリー・ポッターシリーズを支持してくれた受け手の年齢に合わせれば、どうしたって主人公は20代後半になる。

 従来の読者や観客を切り捨てて、新たな子供向けのシリーズを立ち上げることもできなくはなかったろうが、そこにはすでに『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』等の後発作品がひしめいているし、他ならぬハリー・ポッターシリーズと市場を食い合ってしまう。
 J・K・ローリングとワーナー・ブラザースが考えたのは、ハリー・ポッターシリーズが終わって喪失感を抱いている大人たちと、これからも増えるハリー・ポッターシリーズを読み終えた/観終えた人々に向けて、新たな娯楽を提供することだったに違いない。

 だから主人公ニュートも、元・闇祓いで後にニュートの妻となるティナも、パン屋を夢見るジェイコブも、まるでファンタジーを読み終えて急に現実世界に放り出されたような、ぎこちない生き方をしている。ハリー・ポッターたちがヴォルデモートと魔法省を相手に勝利を収められたのはファンタジーの中の出来事であり、現実の世界はそんな風に上手くいかない――なかなか夢が叶わなかったり、職場では不本意な配置転換をされたりする――ことを、彼らは体現している。

 本作で彼らが対決するのは、嫌な教師やいじめっ子ではない。
 彼らの行く手を阻むのは、融通の利かない官僚主義であったり、教条的な思想だったり差別だったり、経済格差や自然破壊だったりする。これらのものは、ハリー・ポッターシリーズではヴォルデモートの悪行の陰で曖昧模糊としていたが、大人になった受け手たちはいよいよ正面から対峙しなければならない。もはや世の中の不合理や不快なことをヴォルデモートのような特定の悪人だけのせいにもできない。
 本作は、大人になってそんな困難に直面した受け手たちに、ファンタジーの形を借りて再び寄り添う物語なのだ。

 ホグワーツという学校を舞台にしていたハリー・ポッターシリーズは、巻を追うにつれて学校からはみ出していき、最終作『死の秘宝』ではハリーたちが学外を旅する描写が多くを占めた。
 そしてホグワーツを追放された青年を主人公にした本作は、一学校よりもっと大きな「社会」というものを活躍の舞台にしたのである。
 もはやここにはハリー・ポッターシリーズのような虫のよさも心地好さもない。その代わり、要領が悪く生きるのが下手でも懸命にあがくニュートやティナを描くことで、社会の中で日々悪戦苦闘する私たちを励まし、勇気づけてくれる。

 ハリー・ポッターシリーズのあの心地好さを懐かしむ人は、あるいは本作がお気に召さないかもしれない。
 しかし、私は作り手の思いが胸にしみた。このシリーズを今後も観続けようと思う。


魔法への招待:『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』メイキング・ブックファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』  [は行]
監督/デヴィッド・イェーツ  脚本・制作/J・K・ローリング
出演/エディ・レッドメイン キャサリン・ウォーターストン ダン・フォグラー アリソン・スドル コリン・ファレル エズラ・ミラー サマンサ・モートン ジョン・ヴォイト カーメン・イジョゴ
日本公開/2016年11月23日
ジャンル/[ファンタジー] [アドベンチャー]
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【theme : 特撮・SF・ファンタジー映画
【genre : 映画

tag : デヴィッド・イェーツ エディ・レッドメイン キャサリン・ウォーターストン ダン・フォグラー アリソン・スドル コリン・ファレル エズラ・ミラー サマンサ・モートン ジョン・ヴォイト カーメン・イジョゴ

『この世界の片隅に』ウチを見つけてくれてありがとう

劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック 映画がはじまる。能年玲奈さんの声が聞こえる。
 その瞬間、『この世界の片隅に』の素晴らしさに驚いていた。
 ゆっくりとした、温もりのあるモノローグは、『まんが日本昔ばなし』の語りのようだった。

 これは凄いことだ。まだはじまって数秒しか経たないのに、私は圧倒されていた。『まんが日本昔ばなし』の語りといえば市原悦子さんである。20年近くのあいだ、語りに加えてありとあらゆる登場人物を演じ分けた名優だ。芹川有吾監督が『サイボーグ009 怪獣戦争』のヒロイン、二面性を持つヘレナを演じられる人物として起用し、高畑勲監督も『太陽の王子 ホルスの大冒険』の不安定な心を抱えるヒロイン・ヒルダに起用した、難しい役をお願いするならこの人しかいないという大女優だ。
 やや舌足らずな喋り方は、市原悦子さんより可愛らしいが、弱冠23歳の能年玲奈さんがあのベテランを思い起こさせる演技で長編アニメーション映画を引っ張っていくとは、まったく驚くべきことだった。

 能年玲奈さんは2016年11月現在、のんという芸名で活躍している。映画のクレジットものんであるが、ここでは本名の能年玲奈で表記させていただく。

 映画『この世界の片隅に』は昭和8年から昭和21年に至る、広島市と呉市で暮らしたすずの人生を描いている。
 何を食べたとか、服をあつらえたとか、掃除をしたとか絵を描いたとか、日常のことがとても丁寧に描写されている。暮らしの細部が克明に描かれれば描かれるほど、食事を作るのにも掃除をするのにもささやかなドラマがあることに気づかされる。
 本作で印象的なのは、誰もがニコニコしていることだ。失敗もあれば困ったこともある。けれども失敗が笑いを誘い、困ったことに呆れかえり、登場人物たちはいつも笑顔で過ごしている。事件らしい事件がなくても、悲喜こもごもを笑い飛ばす日常の繰り返しから、生きることそのものの楽しさが滲み出ている。
 主人公すずを演じた能年玲奈さんも「ごはんを作ったり、お洗濯をする楽しさがわかってきて、生活をするのが楽しくなりました!」と述べるほどだ。

 日常がじっくり描かれているだけに、日常と戦火が交わるときは衝撃的だ。
 晴れ渡った気持ちの良い青空を戦闘機が飛び、のどかな畑の上を爆音が轟き、対空砲火の煙の下をちょうちょが舞う。まるで観客も呉の住人になったかのようにすっかり慣れ親しんでいた風景が、突然の戦闘で引き裂かれる。
 そして、生きること、楽しいことが、前触れもなく断絶する。その辛さ、悲しさ。

 しかし、私は日常と戦争を対比して語ってはいけないと思う。平和な日常が続く時期と、悲惨な戦争が続いた時期に分けて考えるのは、ちょっと違うと思うからだ。
 たまたま日本は70年以上にわたって戦争をしないできたが、これはとても珍しいことだろう。米国は第二次世界大戦後も間断なく戦争をし続けている。今も米兵は世界各地に展開している。そのあいだも米国では人々が楽しい日常を送り、ディズニーパークで遊んだり映画鑑賞に興じたりしている。
 日本も20世紀の前半まではひっきりなしに戦争していた。本作冒頭の昭和8年は日本が国際連盟を脱退した年であり、少女すずが波のうさぎの絵を描いていたときも大陸では大日本帝国と中華民国の戦いが続いていた。

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス) すずの夫は海軍で働き、舅は戦闘機を開発する技師だ。すずの生活は、戦争があって軍需産業が栄えるから成り立っている。戦争は日常の一部であり、目を向けさえすればいつでもそこにある。
 片渕須直監督は、まだ平和にどっぷりひたっていたすずがのんびり眺めていたのはマリアナ沖海戦で負けて帰ってきた艦隊であると解説して、こう述べている。「彼らは片隅にいて世界が見えていないんだけど、その向こうには大戦争をしている本物の世界があって、それをあの段々畑から眺めているという風に描こうと思ったんです。」

 この映画は2010年に企画がはじまり、2016年の劇場公開まで六年かかっている。
 先ほど日本は70年以上にわたって戦争をしていないと書いたが、本作の制作と並行するように、我が国は2011年から南スーダンに自衛隊を派遣し、2016年の今も内戦状態の彼の国に自衛隊員を留めている
 私たちの日常はいつだって戦場と地続きなのだ。
 観る者がそのことを実感するのは、本作が丁寧な日常の描写から語り起こしているからだ。
 空襲に怯えて防空壕に隠れる日々も、原爆に焼けただれて体が腐っていくときも、これまでの日常とどこかで繋がっている。

 恐ろしいことが起きたのに、暮らしがめちゃくちゃに破壊されたのに、"良かったこと"を見つけ出してニコニコしている家族たち。
 日常の裏にある"まやかし"にもすずは気がついてしまう。

 それでも、だ。
 それでも生きていこうと思えるのは、日常の楽しさが――生きることの楽しさが描かれていたからだ。
 まやかしがあると知ってもなお、自分と家族で築いていくこの上なく大切な日々。

 観客の誰もが泣いていた。場内のあちこちからすすり泣きが聞こえてきた。
 上映が終わると、拍手が自然に湧き起こった。場内に広がる拍手。拍手。

 はじめて観た映画なのに、私はずっと昔からこの作品に出会うのを待っていたような気がする。
 これからずっと大切にするものに、ようやく出会えたような気がする。


この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブックこの世界の片隅に』  [か行]
監督・脚本/片渕須直  原作/こうの史代
出演/能年玲奈(芸名のん) 細谷佳正 尾身美詞 稲葉菜月 牛山茂 新谷真弓 小野大輔 潘めぐみ 岩井七世 小山剛志 津田真澄 京田尚子
日本公開/2016年11月12日
ジャンル/[ドラマ] [戦争]
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【theme : アニメ
【genre : 映画

tag : 片渕須直 能年玲奈 のん 細谷佳正 尾身美詞 稲葉菜月 牛山茂 新谷真弓 小野大輔 潘めぐみ

『闇金ウシジマくん ザ・ファイナル』 復活の予告

Good-bye 【ネタバレ注意】

 『闇金ウシジマくん』シリーズを貫くテーマの一つは「信用」だ。テレビドラマのSeason1とSeason2、そして映画のPart1とPart2のいずれも、お金のやりとりを通して目には見えない「信用」を描いていた(詳しくは「『闇金ウシジマくん』は現代の仕事人だ!」「『闇金ウシジマくん Part2』 正義とは悪だった!」参照)。

 2016年の『闇金ウシジマくん』シリーズの連打は、それを一層強調するものだ。
 2016年7月17日からはじまったテレビドラマのSeason3は、他人を信用したばっかりに家族ぐるみで洗脳され、殺人までさせられる人々を描いた。原作者の真鍋昌平氏さえも「テレビドラマでやるんですか?」と尋ねるほどハードな展開だった(それでも現実に起きた北九州・連続監禁殺人事件に比べれば、かなり抑えた描写ではある)。
 2016年9月22日公開の映画Part3では、情報商材という中身のないものを売るビジネスを題材に、人は信用すれば何にでも金を出すこと、けれども中身がなければ信用は維持できないことを描いた。

 闇金融を営むウシジマくんは信用の権化である。どこまで信用できるか相手を値踏みし、信用に応じて金を渡す。債務者が約束どおり金を返せばよし、もしも返せなければどこまでも追いかけて鉄の制裁を加える。信用に応えたかどうかだけで判断するウシジマくんにブレはない。
 闇金を利用する人間も、金を借りることで「自分の信用はゼロじゃない、社会と繋がっている」と感じるのだろう。ウシジマくんのモデルになった闇金業経験者トキタセイジ氏(偽名)は、闇金利用者をこう評している。
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今回の本(引用者註「『闇金ウシジマくん』モデルが語る 路地裏拝金エレジー」)では、客のことをクズだなんだとあえて辛辣(しんらつ)に書いているけど、彼らは別に落ちた存在じゃない。彼らなりに精いっぱい生きている。だから、"こんな自分にもまだ金を貸してくれるところがある"という、安心感を覚えて帰るヤツが多いよね。
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 ところが2016年10月22日に公開された『ザ・ファイナル』では、ウシジマくんの前に信用とは別の概念が立ちはだかった。「善意」である。善意の塊の幼馴染・竹本が登場し、ウシジマくんに信用だけで判断することの是非を問うのだ。
 竹本は他人の幸福を願っており、そのために自分が犠牲になることを厭わない。そんな竹本から見れば、貧困のどん底にある人から容赦なく金を取り立てるウシジマくんは強欲な存在だ。
 竹本とウシジマくんの考えは天と地とも離れている。だが、実はウシジマくんとて、そんな竹本がいてくれたから救われた過去がある。

 幼馴染というより、因縁の対決をするのが鰐戸(がくと)三兄弟だ。
 竹本と同じくウシジマくんの中学時代からの知り合いだが、彼らは竹本とは反対に人間の悪意を象徴している。他人を支配し、搾取するのが彼らのやり方であり、そのために誰をどれだけ傷つけようが気にしない。
 『ザ・ファイナル』は、竹本と鰐戸三兄弟という究極の善意と悪意を登場させて、彼らとウシジマくんを対決させることで、ウシジマくんが象徴する「信用」の意味を問う映画なのだ。


闇金ウシジマくん Season3 Blu-ray BOX これまで『闇金ウシジマくん』シリーズの記事を通じて、私は信用について書いてきた。
 一般的に、「信用」は「善」に近いところで語られることが多いと思う。しかし、ウシジマくんの商売は違法であり、そのむごい取り立てや債務者の人生を破壊する行為は善からはほど遠く感じる。
 そこで本作は、極め付けの善と対比することで信用の何たるかを浮き彫りにする。同時に、徹底した悪との比較によって、ウシジマくんの行為がどれほど悪いか/悪くないかを明らかにする。
 そして人の世に必要なのは善なのか信用なのか、私たちはどうあるべきかを問いかける。シリーズの掉尾を飾るに相応しい重厚なテーマである。

 善意だけで行動する竹本は素晴らしい人間だ。彼は困った人を放っておけない。他人の暮らしを良くするために、誰もが恐れる鰐戸やウシジマくんを相手に臆することなく真摯に掛け合う。
 ところが彼には、他人に与えるものが何もない。惜しみなく施しを与えようとする竹本だが、彼自身は無一文であり、金を持ってる鰐戸三兄弟に他者への便宜を図るよう頼み込むことしかできない。

 鰐戸三兄弟は、暴力の恐怖と甘い誘惑で人々を隷属させている。他人の痛みも苦しみも意に介さない邪悪な連中だが、注目すべきは彼らが大勢の人間を食わせていることだ。
 宿泊施設「誠愛の家」を運営する彼らは、そこに何十人も住まわせ、違法な労働に従事させてその上がりをせしめている。貧困者を利用する卑劣な行為だが、社会に居場所がない人間はそこにいればまがりなりにも寝床と食事にありつける。正論を吐く竹本には誰も味方しないのに、鰐戸三兄弟の命令にはみんな黙って従っている。

 ここに善意の限界と、悪を排除できないジレンマがある。
 いや、美しい正論を口にしながら何も与えられない竹本は、本当に善なのか。
 恐怖と誘惑で支配しつつ、衣食住を確保してやれる鰐戸三兄弟は、本当に悪なのか。
 善と悪とを隔てるものが本当にあるのだろうか。

ファースト・フルアルバム 「未知標」(読み:ミチシルベ) パスカルは云った。「力なき正義は無能であり、正義なき力は圧制である。」と。
 力とは暴力ばかりではない。中国の古典に「経世済民」という言葉がある。世を治め、民を救済することを意味し、略して経済という。民を救済する力とは、すなわち経済力であろう。

 竹本はウシジマくんを強欲と非難し、考えを改めるように説得を試みる。金を豊富に持つウシジマくんに、貧しい人に少し与えてやれと云う。
 だが、ウシジマくんが取り立ての手綱を緩めたり、金をくれてやったりしたらどうなるだろうか。ウシジマくん一人の金で世界中の人を豊かにすることはできない。ウシジマくんの資金は雲散霧消し、早晩ウシジマくんは一文なしになるだろう。
 劇中に説明はなくても、竹本がホームレスに転落し、「誠愛の家」に身を寄せる破目になったのは、彼が持てるすべてを他者に与えてしまったからであることは容易に察せられる。「誠愛の家」で働かされる彼はあまりにも無力だ。

 実際には、ウシジマくんとて債務者の一人に過ぎない。
 ウシジマくんに金があるように見えるのは、彼が金主から高利で借りているからだ。ウシジマくんは金の一部を他者に貸し、発生した利息を回収する。そこからさらに金主へ多額の利息を返済する。ウシジマくんは金が循環するルートの結節点の一つなのだ。金はいったんそこに集まるが、すぐにまた流れ出ていく。止まらずに流れ続けるからこそ、流れを分岐させて困窮する人に金を渡すこともできる(ウシジマくんと金主の関係については、テレビドラマのSeason1で描かれている)。

 だから、ウシジマくんは金の循環を止められない。流れが止まったら、生態系の生物は死に絶える。金を与えるのは一方向に金を動かすだけで循環にならないから、やがて上流も下流も食い詰める。竹本がホームレスにならざるを得なかったように。
 無慈悲に取り立てるウシジマくんを非難する竹本に、ウシジマくんの返す言葉が問題の難しさを表している。
 「お前は金を借りる側だからそう云うんだ。金を貸すほうになってみろ。」

 本作は第一級のエンターテイメントであり、金を巡る対立や三つ巴、四つ巴の戦い等々、見どころにはこと欠かない。カタルシスも存分に味わわせてくれる。
 だが、安易な結論は示さない。

               

【チラシ付映画パンフレット】 『闇金ウシジマくん ザ・ファイナル』 とりわけ、善意の塊である竹本が「誠愛の家」で働く仲間たちに見捨てられ、もっと過酷な労働施設に送られて、もう社会に復帰できないであろう顛末は、この映画に勧善懲悪を期待しない観客にさえやりきれなさを残すだろう。ましてウシジマくんが社会から葬る相手が鰐戸三兄弟ではなく、たった一人の味方だった竹本であることは、不条理にすら思えよう。

 しかし、ここにこそ本作の真髄がある。
 金の循環を通して、社会の信用を維持するウシジマくんは、金の流れを寸断し、混沌とさせる竹本の善意を容認できない。《力=経済力》の裏打ちのない善意の持ち主は、一介の債務者でしかない。
 だが、竹本は労働仲間全員分の借金を一人で背負いながらも、いずれ社会に戻ってくることを予告する。誰も竹本を助けないというのに。生きては出られないという施設に送られてしまうのに。
 これはまさにイエス・キリストの生涯と同じである。

 イエスは人々に悔い改めること、他者を愛することを説いた。けれども弟子の一人に裏切られ、イエスの教えに耳を貸さない連中に引き渡される。弟子たちはイエスを見放し、逃げ出してしまう。誰も庇ってくれない中、イエスはすべての人の罪を背負って十字架にかけられ、処刑される。だが、イエスは自分の死と復活を予告していた。その言葉どおり、墓に埋葬されたイエスは三日後に復活し、弟子たちの前に現れる。逃げていた弟子たちは心打たれ、イエスの教えを広めるために奔走するようになる。
 労働施設行きを前にしても、やがて社会に舞い戻ると力強く予告する竹本の姿は、引き渡し直前のイエス・キリストに重なって見える。

 竹本がイエスだとすれば、かけがえのない友人を労働施設送りにするウシジマくんは、弟子たちの中で会計を担当し、金と引き換えにイエスを売ったユダに相当しよう。
 イスカリオテのユダは裏切り者だが、イエスはユダが裏切ることも予告していた。イエスの予告どおりユダが裏切ったからこそ、イエスの死と復活が生じ、人々の中でイエスへの信仰が高まった。彼の裏切りは避けて通れないプロセスだったに違いない。
 だから竹本とウシジマくんも、今はこうなるしかないのかもしれない。信用を「金」という形で実体化させ、それを循環させることで維持された社会では、こうせざるを得なかったのかもしれない。

 しかし、いつか竹本が再び姿を現すとき、何かが変わるかもしれない。
 逃げ出した労働者仲間の心に、何かが生じるかもしれない。
 そこから、世界は変わっていくかもしれない。
 余韻に満ちた本作のラストは、そんな思いを抱かせる。


Good-bye闇金ウシジマくん ザ・ファイナル』  [や行]
監督・企画・プロデュース・脚本/山口雅俊  脚本/福間正浩
出演/山田孝之 綾野剛 永山絢斗 崎本大海 やべきょうすけ 安藤政信 間宮祥太朗 八嶋智人 真野恵里菜 太賀 モロ師岡 真飛聖 高橋メアリージュン マキタスポーツ 最上もが 狩野見恭兵 玉城ティナ YOUNG DAIS
日本公開/2016年10月22日
ジャンル/[ドラマ]
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【theme : 闇金ウシジマくん
【genre : 映画

tag : 山口雅俊 山田孝之 綾野剛 永山絢斗 崎本大海 やべきょうすけ 安藤政信 間宮祥太朗 八嶋智人 真野恵里菜

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